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あまりにも清潔に白く、どこか閉鎖的な感じさえ与える病室のドアが音もなく開いた。開け放たれた窓から流れ込む空気が薄い色のカーテンを気まぐれに遊ばせる。個室にしてはやけに広い病室は、階のことも考えると特別な一室ということなのかもしれない。ベッドには体格のいい男が体を起こして座っている。
男はただ不思議そうな顔をして開いたドアのほうを向いている。そこにはわずかに疲労の色が滲んだ顔の女性が立っていた。女性は男の顔を見て安心したのか、ほうっと息を吐く。次いで表情をやわらか過ぎない程度のものに調節した。
「このたびはずいぶんなお怪我を負われたようで。お見舞い申し上げます」
「……銃創っていうのかね、こういうの。ま、ロクでもないケガさ」
二人のあいだに殺気立ったものはないが、だからといって安穏としたものでもない。空気の中に緊張感が混ぜ込まれているのは確かなことだった。種類と濃度こそわからないが。
「……脅しのつもりであれば意味はありませんのでお構いなく」
「じゃあ聞こうか、アンタはいったい誰だ……?」
女性は部屋に置かれてあった丸椅子をひとつとってベッドからすこしだけ距離を取った位置に座る。先ほど言い放った言葉に加えて体格のよさ、長い髪を後ろで一本に縛っている男の姿は、どれだけひいき目に見たところで会社勤めのサラリーマンがたまたま大けがをして入院してしまったというふうには見えない。それを相手に落ち着き払っている彼女には肝が据わっているという評価を与えることができそうだ。
質問を振られたはずの女性はただ簡単に首を横に振って答えなかった。
「まだ自己紹介をするつもりはありません。ですが、あなたに用があります」
「オレに用? 見たらわかるだろう、オレにはなんにもないよ、ただの入院患者さ」
「冗談は苦手なようですね、まあそれは構いませんけど」
まいったね、と呟きながら男は頭に手をやる。入院してしばらく経っているのだろうか、余裕のある様子といえばいいのか男には焦りが見えない。二人の表情は二人のやり取りが含んでいるほど剣呑なものではない。しかし空気はすこしずつ方向性を持って前に進んでいる。
室内で動くのは風に揺られてはためくカーテンだけで他に一切の動きはない。互いに座ったままなにかを探るように視線を合わせて黙りこくっている。
「つまり、アンタはオレを知っているってことでいいのかな」
「森田鉄雄。両親とは死別、兄弟もなし。ここにいる理由は岐阜のある事件に巻き込まれたから」
女性はレシートを読み上げるように事務的に男の情報をおぼしき事柄を並べる。口調からはその情報がすべて事実であるという前提が窺えた。森田鉄雄と呼ばれた男は眉ひとつ動かさずに余裕のある表情を保っている。
ここで女性はひとつ息を吸った。
「驚きましたよ、すこし前から
「銀王? ……フフ、何を言いたいのかわからないぜ」
つまらない冗談を聞き流すように、森田鉄雄と呼ばれた男の言葉を女性は無視する。
「聞けば誠京グループを沈めて与党の喉元にまで食らいついた勝負のキーになったのがあなただと言うじゃありませんか。そんな人材を遊ばせておく手がありますか」
「それ以上はやめなよ、すでにアンタは越えちゃいけないラインを一歩踏み越えてるぜ」
男の雰囲気から穏やかさのようなものが途端に霧散する。表情こそ変容を見せていないが、さっきまではゆっくりとした進行だったはずの “何か” が加速している。もうほとんど攻撃性を帯びていると言っても問題ないほどの空気が室内を支配している。もし病室に他の入院患者がいたなら体調の不良を訴えるだろう。その空間で動揺することなく話ができるのはいくつかの修羅場を潜り抜けてきた人間だけだ。すこし強めの風がまたカーテンを揺らす。
明らかに凄まれたはずの女性はそれに気が付きもしないようにベッドの上の男に視線を送り続けている。それどころか先ほどまでよりも表情にいくぶんかの楽しさが混じっているように見受けられる。どこにそういった要素があるのかは、おそらく彼女本人にしかわからないのだろう。
一拍置いて女性がふたたび口を開く。
「むろんこちらとしてもブローカー風情と事を構えるつもりはありませんよ。刺激しないように調査するのもなかなか骨の折れる仕事でしたし」
「無茶を言ってるってことがわかってるのかい? オレを飼ったところで金にはならないよ」
「ところが我々はそう考えてはいないんです。あなたは我々に飼われますし、そしてそのことで我々に利益をもたらします」
「筋が通ってないね。オレはアンタらのために働く気はないぜ」
「ま、それについては話をするよりはこれを見てもらったほうが早いですね」
そう言うと女性は小脇に抱えていたバッグから一葉の写真を取り出した。とくに急ぎもしない。それはちょうど知り合いに写真を見せるのと変わりのない仕草だった。本来ならあって然るべきはずのその場に対する緊張感のようなものはどこからも感じ取れない。
写真はごく普通のもので、一見して特殊な加工も何もないように思える。座っていた彼女が腰を上げて渡してきたそれを、森田鉄雄と呼ばれた男はされるがままに受け取った。後から振り返るのなら、引き返すタイミングと呼べるものはここにしかなかったと言うべきだろう。しかしそれもそこに何が映っているかをあらかじめ知っていなければ避けようのないことで、最終的な結論としては彼がそれから逃れることは不可能でしかないとするしかなかった。
その写真に写っていたのは金髪碧眼でカフェオレ色の肌をした少女が、明らかに東京都内と思われるビル街をバックにピースサインをしているものだった。そしてそれを見るや、男はぴしりと固まった。
「……おい、本当にこいつは東京にいるのか」
「ああ、その反応ならわかってもらえたということですね。さすがあの銀王の右腕、話が早いのはとてもいいことです。もちろんその写真は本物ですし加工もしていませんよ」
女性はこれで自分の言いたいことが理解できるだろうとでも思ったのか、それだけ言ってしまうと視線を男に合わせて口を閉じた。まるでこうしていれば望んだ方向に話が進むと知っているかのように。
森田鉄雄は確認したはずの写真にもういちどじっくりと目をやり、そこに映っている人物が本当に自分の頭のデータベースにある人物と一致するかを確かめる。結果は変わらないようで、事態が彼にとって面白くない方向に進んでいくだろうと予感していることが、動かない表情からわずかに滲んだ。
「何番目かは知らないが、こいつはドバイの王子、マクトゥール・アル・マクトゥール殿下の娘だ」
「答え合わせですか? その通りですよ。名前はライラちゃんです。ちょっとワケあって我々のところに身を寄せてまして」
男の視線が未だ名前すらわからない女性へと戻る。疑わしげではあるが、物的証拠を前にしてそれはどこか弱々しい印象を残す。だいいち彼に対してなにかを吹っ掛けるというアクション、それに用いた手段、その他諸々を鑑みて、これが冗談だとはとても思えない。どこまでを信じるかはまだ彼の手の中の権利ではあるが、状況そのものを否定することはどうやら難しそうだった。
また沈黙が病室を満たした。経った時間が問題なのではなく、沈黙が生まれたことそのものが意味を持っていた。
「ではそろそろ我々のことについてお話しましょうか。我々は346プロダクション、いわゆる芸能プロダクションのひとつです。美城グループの傘下にありますが、まあいまはそのことはいいでしょう。重要なのは私たちがライラちゃんを手に入れたいということです」
「…………は……?」
「ライラちゃん、かわいいですよね。テレビで見てみたいと、そう思いませんか?」
「そんな理由で王族からそいつをひっぺがすってのか……?」
「まさか! そんな乱暴な期待なんてしませんよ、私たちとしてはご家族の方々にライラちゃんのアイドル活動を前向きに応援してほしいだけなんです。森田さんが仰るのはその過程で産まれ得るいくつもの可能性のなかの最悪のひとつでしかありません」
音が聞こえるほどに笑みを深くして、彼女は森田鉄雄の疑問に迷いなく答える。淀みもなくすらすらと言葉を紡ぐ様は、取り入る隙が見られないという意味で完璧という印象を残した。しかしどうにもその印象はこの病室にはそぐわない。いまここで達成されなければならないのは、対等な対話であり交渉であるはずだからだ。だというのに森田鉄雄と比べて、一度も、一瞬も彼女からは余裕が損なわれていない。
彼は話を聞いているうちにとある前提が成立したものとして進行していることに気が付いて、ほんの短いあいだ眉根を寄せた。この食えない感覚はどうにもこれまで暮らしていた世界を思い起こさせる。つまり、森田鉄雄の目の前にいる女性は少なくとも悪党としての資質を備えているということだ。
「なあ、どうしてオレがその話を受けると思ってるんだい」
「さあどうしてでしょうね、でもわかるんですよ」
「いまひとつ気に食わないな……、主導権を握っていると確信しているその態度が」
「そんなことより後は本人から話を聞いてみてください。私はもう席を外しますので」
「おい」
言うだけ言ってしまうと彼女は本当に椅子から立ち上がり、もう一顧だにすることなく扉を開けて出て行った。後に残された森田にできることはせいぜいその本人を待つことだけなのだが、いつ来るのかすら言わないままにあの女性は立ち去った。ただそもそも彼は入院患者であってまだ退院の許可は下りていないのだから、もし本当に当の人物が来るのだとすれば普段通りここでじっとしていればいいのだが。
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「あー、えっと、ここがヒーローさんのお部屋でございますですか?」
奇妙な、しかし意味や意図は明確にわかる日本語とともに手渡された写真の少女が入ってきた。写真の通りにどこかの学校の制服に身を包んでいる。写真と違うのは彼女に動きがあることだ。それにしたがってさらさらと金色の細い髪が揺れる。この日本という国では完全に異国の出で立ちをしている。肌の色はまだしも、瞳の色があまりにも青く澄みすぎている。なにか触れてはいけない宝石のような印象をさえ与える。実際に立場としては王族の娘なのだから宝石に近いどころかそれを上回っているというほうが正しいだろう。
病室に入ると少女はきょろきょろと室内を見渡した。室内にとくに珍しいものはないはずだと森田は記憶していたが、もちろんアラブ人の感覚など彼にはわからないから、少女にとっての珍しいものがあったとしても彼はそれに気付けない。
「ニッポンでこれだけ人がすくないところ、初めてですねー」
「なあ嬢ちゃん、ここは病室だぜ。いったい何しに来たんだい」
「あー、ごめんなさいですねー。ライラさん、いろいろ順番を間違えてしまいましたでございますよ」
独特の穏やかな雰囲気を微塵も失わないままに少女は言葉を繋いでいく。
「ライラさんはライラさんといいましてー、ちひろさんからここにライラさんを助けてくれる方がいると聞いたので会いに来たのでございますよ」
「助けてくれる、ってどういうことかな」
「あー、ライラさんアラブから来たのですが、ちょっと前からパパが結婚のお話ばかりするようになったのがイヤになって逃げてきたのですよ。いまでもパパはお付きの人を通して同じ話ばかりをするのでございます」
自己紹介をあっさり済ませたライラの表情はほとんど変化を見せなかったが、しかし声色からは落胆の色がにじみ出ていた。森田はこれまでの経験からこういった声に人より多く出会っている。それもはるかに多く。だから彼にはライラが相当に疲れていることが手に取るようにわかった。追い詰められていると言い換えても間違いにはならないほどだ。
しばらく止んでいた風がまた吹いた。
「そしてニッポンで生活するのはお金がかかりますですね、そろそろピンチで暮らせなくなるので困っていた時にお仕事のお話をいただきましたですよー。でもパパはいいから帰ってこいとしか言わないのでございます。ライラさん、ニッポンがいいです。ライラさん、アイドルをやってお金を稼いでちゃんと生活したいです。お金がないとなんにもできないでございますからね」
たどたどしいライラの日本語を、森田は一言も挟まずに聞いていた。部分によっては息を呑みさえしていた。同情ではない。助けたいという気持ちが湧いたわけでもない。それらとはまたひとつ別のものだ。論理的に説明はできそうな感情ではあるが、言葉にすると大事な核のようなものが壊れそうなものでもあった。その感情のせいで、彼はもうライラに協力する気持ちをほとんど固めていた。
おそらく森田が尊敬するひとりの男に話せば猛反対するだろう。勝ち目のない戦はただの無謀であって、命を投げ捨てる行為と差がないと諭すはずだ。何かひとつ見誤ればそれでアウトだと何度も言い聞かされてきた。そして今回のこれは挑むこと自体が見誤っていると言える。それは紛れもない真実だ。しかしそれでも。
「そんなライラさんを助けてくれるのがあなただとちひろさんから聞きましたです。だから、あなたはライラさんのヒーローさんですね」
「そのヒーローさん、ってのはやめてくれ、オレは森田鉄雄。何者でもないんだ」
森田は首を横に振って自分の名前を口にした。それはひとつの決定を意味した。
勝ち筋がないなら作ればいい。むかし聞いた真実なら新しく間違っていると証明し直せばいい。森田鉄雄は自分自身のためにも、過去を過去のものにしなければならなかった。
ライラ編の後には、ヘレン編、佐久間まゆ編と続きます。(大嘘)