音ノ木坂学院からにこの足でも二十分と掛からない場所にUTX高校は存在する。家からはUTXの方が近く、何より秋葉原周辺を見下ろせるような長い階段が不要なのが羨ましい限り。ただ、今日に限っては三十分以上の時間が必要だった。
逃げ出したいと思う弱さを、スクールアイドルを広めたいと想う強さで塗り替え、幾度となく明日にしようという誘惑に負けそうになりながらの道すがら。それでもにこはUTXの前まで無事に辿り着いた。
だけどここはゴールなんかじゃない。スタート地点が遠くに見えている位置に過ぎない。ここに通う生徒にスクールアイドルを理解してもらい、活動を始めてもらう。
それで漸くUTXでのスタートを切ると言える。だから気を抜くな。自身に活を入れて右足を踏み出す。ここまでとはまた違う覚悟のいる始める為の一歩。ふと、副会長である零華の言葉が脳裏を過ぎる。
『優れている人間はどこかに歪みがある』『UTX高校の生徒に制服を嘲笑された』
音ノ木坂の古いデザインとは正反対にお洒落な制服を着こなす生徒達。内心では場違いなにこを嘲笑っているのかもしれない。そんな筈はないと念じながらも、踏み出した右足が軸にしていた左足より後ろに着地した。
目的地を目前にしながら勇気を出せないなんて言うのは、スクールアイドルがライブを目前に逃げ出すのと同じ事。そんな事はあってはならない。プロでないからこそ自由がある。でも、あくまで部活動。
ロボット部の話を思い出す。毎回書類審査で落とされても先輩から後輩へ受け継がれている意志は強く、廃校へのカウントダウンが始まってもその意志は薄れない。何よりも運動部のような大会と違って出展は義務ではないのに、だ。
まだ音ノ木坂に入学して日は浅い。でも、そういう先輩達の強さを学んで自らを高める。パパやママの娘なんだって胸を張れる自分でありたい。思わず引いてしまった右足を再び前に出す。
『スクールアイドル? ふぅん、がんばってね』『アイドルなりたきゃUTX行けばよかったじゃん』
音ノ木坂での勧誘した時の生徒の言葉が強制的に頭の中で流れた。左足を踏み出そうとする意思とは逆に、右足が再び後方へと逃げる。仮初の勇気では安易に前に進めない。絶対の覚悟がないと踏み込めない。まるで自分が自分に試されているかのような錯覚。
幼い頃にテレビで見たアイドルに心奪われ、アイドルになりたいと憧れた。だけどそんな想いは成長と共に置き去りにされていった。若干コンプレックスな自らの声。今はそこまででもないけれど、音痴だった。
今はというのは願望込みということではなく、小学三年生から小学校を卒業するまで音楽教室に通わせてもらっていたから。お陰で歌うことの多い音楽の時間も今では嫌いじゃない。というか、音痴だった頃だって歌うのは大好きだった。
アイドルは全てが優れてないと目指せない。なんて大げさに言うつもりはないけど、優れている箇所が多くなければなれたとしても直ぐに消える運命。アイドルブームの現在、数多くの魅力溢れるアイドルが存在している。
同じ年頃の少女達がテレビの向こう側で光輝き、ファンの人達を魅了し、元気を与えてる。その場所はにこにとっては辿り着けない。だけど、だからこそ思いついたのがスクールアイドル。にこが初めて好きになったアイドルの一番印象に残ってる言葉が始まり。
『アイドルに憧れる子は多いけど、その門は狭く険しい。もっと違うアイドルの形があれば素敵なんですけどね』
それは丁度目の前にあるUTX高校が完成した日。憧れのアイドルの卒業と同時に始まった場所。
「…………」
両手で強くグーを作る。中学生の三年間ずっと尊敬するアイドルの言葉の答えを探してきた。その答えこそが、スクールアイドル。だから恐れる必要はない。例え間違っていても正解だと信じぬく想いは過去の自分が培ってきた。
芸能コースを除いても音ノ木坂よりも生徒数はずっと多い。誰か一人でも興味を示してくれれば、スクールアイドルを広めるという夢は芽吹く。音ノ木坂と同じように生徒全員に当たればきっといる!
心決めたにこの踏み出した本当の一歩。今度は弱さに負けたりはしない。例え全生徒に否定されても都内に高校はまだ沢山ある。有名な高校で広めるのはあくまで近道に過ぎない。だから嘲笑されようと、鼻で笑われようと、冷たい言葉を投げかけられようと逃げ出したりしない。最後の一人まで希望を捨てたりしない。
深く考え過ぎたのがいけないのか、気付けばまた右足は左足より後ろに下がっていた。しかも先ほどよりも更に後ろに。どれだけ覚悟を決めたフリをしようとも、弱さは隠せない。理解者を得ていない現段階で本物の強さを得ることは出来ていなかった。
握っていた筈の手も力なく開いていた。お世話になってる先輩達の前だから格好良く明日にでも行って来ると言えたけど、心が震える。音ノ木坂で全滅するとは当初思っていなかったから。誰か一人くらい同じ想いの子を得られると思っていた。
そうでなければあんな風に勧誘を続けられなかった。現実は物語とは違う。矢澤にこが主人公であったなら友好的な生徒、もしくは敵対的な生徒がいて紆余曲折部員になってくれただろう。現実はそうはならない。理解ある先輩達のお陰で部になれただけ。
顔を何度か横に振り、弱気に支配されそうな自分を振り払う。首の後ろで二つに分けている黒くて長い髪が力なく揺れた。ここまで来て帰ったらもう二度とここへはこれない気がする。それは夢を諦めるというのと同じ。
スクールアイドルはにこの幼き頃の夢の生まれ変わり。今のにこの夢。それを弱さで諦めるなんてしてはいけない。テレビの前でアイドルの真似をしてぴょこぴょこ踊っていた過去の自分。アイドルになりたかった想い。
今はその過去を武器として、音楽教室で練習した日々を刃に変えて、今しか持てないこの夢を盾にして、絶対なる想いで一歩を踏み出す。それは今日一番の踏み込み。ダンッと思った以上の音が立って、驚いて踏み出した一歩を後ろに戻してしまった。
せっかく奮い立たせた覚悟が水の泡。これぞ正に泡沫の夢。思わずぐにゃ~っとなってしまう。心の中で己を罵倒しながら若干涙目。手の甲で目をこすってビルのような校舎を仰ぎ見る。綺麗な青空を反射する幾つもの窓。ここで夢を現実にしようと努力してる子達が沢山居る。その子達の勇気を貰おう。
もはや精神的他力本願。真っ直ぐ立っていた当初より逃げ腰な姿勢。それでも逃げるという選択肢はない。背水の陣であることを自覚してしまったから。無理やりに頭を働かせて考える。UTXの一般に通う生徒はどういう子が多いのか。
やはり芸能コースに入りたかったけど諦めた。にこはそんな子が多いと勝手に思い込んだ。つまりそこに隙がある。スクールアイドルという話は諦めた夢を別物ながら叶える未曾有のチャンス。乗ってこない筈がない!
心の隙間に漬け込もうとする悪魔に成り下がっているが本人は救世主だと信じて疑わない。完全に混乱していた。それでも構わないのだ。要は逃げ出さずにUTXに入ってしまえばいい。そうすれば本当に排水の陣となり前に進むしかなくなる。
少し息を整えてから先ほどと同じ鉄を踏まない様にと静かなる一歩。もう何も恐れることなんてない。左足を前に出してしまえば進んでいける。が、駄目。にこの視界には下校を始める生徒の群れ。その誰もが輝いて見えた。
そこに差し込めるような隙間なんてない。創立一桁で立地も設備も全てが優れているこの学校に入学できる時点で隙はない。左足を前に踏み出して進むどころか、思わず三歩四歩と後ろへ後退。
しかも自分が先程考えていたことに対して冷静になってしまい、自己嫌悪という追撃。にこの希望はもうゼロとなっていた。自分の意志で前に出そうとしていた右足を後方へ、つまりは逃げようとした。
『部活としてスクールアイドルを広めていきたいです!』
希望なんてなくても諦める訳にはいかない。其れは過去の自分の全否定に繋がるから。生きるということは過去を誇れることでなきゃいけない。人生六十年、五十九年の恥を知る。そんな言葉を耳にしたことがあった。
でも、それっていけないことなのだろうか? 恥を知るから、失敗を積んでいるから、だからこそ前に進める。それが人生だと思う。にこは二度頬を叩き弱気な自分を追い出す。そもそもスクールアイドルは逃げだして諦めたことで生まれた夢なのだ。
後ろ向きだけど全力で前向き。そんな夢に共感を持ってくれる人なんていないかもしれない。一人よがりであの人の言葉を履き間違えたのかもしれない。だけど自信を持て、矢澤にこ。恥じた思い出は喜びや感動よりずっと心に残る。其れを糧として成長していくんだ。
不器用だからこそ、弱いからこそ、誰よりも前に進めるようになるって信じて。
一歩 二歩 三歩 四歩
今度は簡単に四歩目まで踏み出せた。フッと一人だというのにドヤ顔を浮かべてしまう。そこで気付いた。あれ? ここは最初の場所であり、実質まだ一歩も前進していないことに。さっき下がった分だけ戻っただけだった。勘違いを悟り頭を抱えて羞恥に身を震わせる。そして、運命が声を掛けた……。