帝国海軍少尉、大神一郎
懐かしい匂いがする。
つんと鼻につく、それでいて爽やかな──潮風が運んでくる海の匂いだ。つい先日まで籍を置いていた江田島の士官学校では寝ても覚めてもこの匂いが付きまとい、うんざりすることもあったが、それでも海軍軍人の自分にとって特別馴染みのあるものだと断言できる。
しかし、どうして俺はそれを懐かしいと感じたのだろう。
その理由を探そうとしたところ、ふいに身体が揺さぶられて意識が浮上した。長旅の疲れもあって、つい眠ってしまったらしい。そろそろ上野駅に着く頃だろうか。配属先の上官に失礼があってはならない。俺は頭を振って眠気を飛ばす。そして列車を降りようと立ち上がり、
「……海?」
目の前の景色に対し、何の捻りもない感想を漏らした。
おかしいな。俺は賢人機関の花小路伯爵より、帝国華撃団なる組織の隊長就任の命を受け、機関車で上野駅へ向かっていたはずだ。しかし現実はどうだろう。眼前の柵から身を乗り出してみれば、ずいぶんと下の方に海が広がっている。波の動きから察するに、動いているのはこちら側だ。そうなると、今俺が立っているのが島や岬ではなく、巨大な船か何かの上だと推測できる。そしてここはその甲板で、椅子の配置などから展望台のような役割を担っているのだろう。それ以外に……わかることはなさそうだ。
手元にある情報から自分の置かれた状況を模索し、早々に匙を投げる。さっぱりわからない。まるで公式を知らない問題を解かされている気分だ。
敵兵の姿はないし、とりあえず何者かに拉致されてここへ来たわけではないのだろう。もっとも、士官学校を出たての新兵を捕らえる理由などありはしないのだけど、他に思いつかなかったので悪しからず。
思考に区切りを付け、今一度椅子に腰を下ろす。懐中時計を確認すると、時刻は14時を回っていた。帝国華撃団からの使者とは、10時に上野公園で待ち合わせの予定だったから、大幅な遅刻である。しかも座標が不明なので、いつ
未知の場所とはいえ船の上、艦橋まで辿り着ければ誰かいるに違いない。目先の目標を定めたところで再び立ち上がる。鞄を手にし、この場から去ろうとしたところで、微かに人の声が聞こえた。
「うーん……どこいっちゃったんだろう」
何かの助けになるかも知れないと思い声の方へ向かうと、遊歩道の脇に植えられた芝生を掻き分けるようにしゃがみ込む茶髪の少女を見つけた。見たことのない服を着ているし、ともすれば外国人だろうか。
「何か困っているようだね」
日本語が通じるか不安だったが、放っておくこともできなかったので声を掛ける。これで駄目なら士官学校で習った英語を使うしかないと思いながら反応を待つ。
よほど集中していたのだろう、俺の声を聞いた途端に少女はびくりと身を震わせた。恐る恐るといった様子でこちらへ振り返る。そして俺の顔を見て──信じられないものを見たとでも言いたげに絶句した。
「俺の顔に何か?」
「あ、いえ、その……なんでもありません」
少女は控えめに首を振る。いかにも隠し事をしていそうだが、しかし無用な詮索はすべきではない。それより声を掛けた理由を説明しなければ、わけもなく女性に話し掛ける軟派者だと勘違いされてしまう。
「ところで君はここで何をしていたんだい? 見たところ探し物をしていたようだけど」
「えっと……」
彼女は視線を泳がせたのち、小さく息をついた。
「この辺りで家の鍵を落としてしまって」
「それは大変だ。もし良ければ俺も探すのを手伝うよ」
「そ、そんな、悪いですよ」
「遠慮はいらないさ。こう見えても俺は帝国軍人だからね、困っている人を放ってはおけない
「帝国軍人……」と呟き、少女はこちらに目を向けた。あまりに真剣な眼差しに、女性に縁のない生活を送ってきた俺は緊張してしまうが、それを悟られては格好が付かないので必死に表情を繕う。
やがて、彼女はふにゃりと頰を緩めて頷いた。
「それじゃあ、すみませんがお願いできますか」
「ああ。任せてくれ」
俺は軍服を脱ぎ、簡単に畳んで鞄の上に置く。それから服の袖をまくり、彼女に倣って近くの茂みを調べてみることにした。
失くした直前の行動を踏襲し、少しずつ範囲を変えながら探すこと四半刻、遊歩道から死角になっているところで鍵を発見する。
「探し物が見つかって良かったね」
「はい! これで大家さんに怒られずに済みます。ありがとうございます」
「ははは、今度から気を付けるんだよ」
言って、俺は軍服に袖を通す。目の前の仕事につい夢中になってしまったが、こちらにもやるべきことがあるのを忘れてはいけない。少なくはない時間を使ってしまったことだし、早く目的地へ行かねば。
「──あ、あのっ!」
別れの挨拶を口にするのに先んじて、少女が声を上げる。
「何かお礼をさせてください」
「人として当然のことをしただけだから、気にすることはないさ」
「いいえ。受けた恩は必ず返しなさい、って教わりましたから」
今までの不安そうな雰囲気は霧散し、逆に彼女の表情からは不退転の決意が感じられた。先ほど俺も似たようなことをした手前、断りにくいというのが本音である。
「立派な考えをしたご両親をお持ちのようだね」
〝ご両親〟という単語に彼女は過敏に反応し、俺の視線から逃れるように俯いてしまう。もしかして、触れてはいけない部分だったか? いずれにせよ、これ以上踏み込むことは避けて然るべきだ。
「君に頼みたいことがあるんだけど、聞いて貰えるかな」
俺の言葉を受け、少女は顔を持ち上げる。どうも本調子とはいかないみたいだが、それでも頰の強張りが幾らか和らいでいた。
「実は俺、本当は上野へ行くはずだったんだけど、気付いたらこの船の上にいてさ。とりあえず、ここがどこなのか教えて欲しい」
「ええっ? 上野って、東京の上野ですよね」
「ああ。その上野だよ」
少女は眉をひそめ、かわいらしく唸ってみせた。
「まずここは、茨城の大洗港を母港とする大洗女子学園の学園艦です」
「学園艦?」
鸚鵡返しに尋ねる俺に首肯を返し、彼女は続ける。
「わたしも詳しい座標はわかりませんが、次の寄港は明後日のはずですし、少なくともそれまでは陸には上がれないと思います」
「いいっ!? それじゃあ、今日中に上野へ行くのは……」
少女は顔を背けることで否定を示した。
下半身の力が抜け、俺は膝から崩れ落ちる。初日から大遅刻をした挙句に、数日は帝都へ行けないとなれば、これは任官を拒否したとみなされても仕方がない。人のためになる仕事がしたいと軍人を志して十余年、猛勉強の末に士官学校まで出たというのに、これでは軍人として職務を全うする前に首が飛びかねないではないか。
「いや、せめて連絡だけでもしておくべきか」
まだ除隊になると決まったわけではない。俺の意思でここへ来たわけではないのだから、事情を説明すればきっとわかって貰える。たとえ藁のように細くとも、そこに希望があるなら縋らない手はない。
心が折れてしまわぬよう、空元気でもって自らを鼓舞する。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったね。俺は大神一郎。帝国海軍の少尉で、本日付で任務に就く予定だ」
「大神一郎……やっぱり他人の空似、だよね?」
「おや? 俺のことを知っているのかい?」
「い、いいえ、別に」
音が聞こえそうなほど勢い良く首を振る。彼女の必死さがこちらまで伝わってきたため、俺は追求の手を緩めて受け流すことにした。
「あの、西住みほです。大洗女子の、新2年生になる予定です」
よし、お互い自己紹介は済んだな。時間が惜しい、彼女も協力的なことだし、早速本題に入ろう。
「では西住さん。俺をこの船の責任者のところへ案内してくれないか」