ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~ 作:裏腹
01.小さき大火
テルス山――――ラフエル大陸の中心にそびえ立つ、山岳地帯のこと。
山々が連なって出来る所謂山脈というもので、町『レニアシティ』が存在する最高峰にして、標高二二八〇メートル程度の規模となる。
又、ラフエル英雄譚の終章の物語が刻まれた場所でもあるのだとか。なんでも彼は、ここで最後の偉業を成し遂げ、幾久しい眠りについたそう。
詳しいことはレニアに住まうと云われている英雄の民が教えてくれるので、彼の歴史に興味があるのならば、そちらへ赴くのが手っ取り早いだろう。麓の町、サンビエタウンから出ている直通のケーブルカーを使えば、数時間もあれば到着する。
「……ひい……、ひい」
尤も『それが十全に機能していれば』の話だが。
息を切らしながら、亀が如き速度で登山道を歩む若い女性が、一人。マウンテンジャケットにリュック、トレッキングポールという登山に於ける手本のような出で立ちは、一見様にこそなっているのだが、どうにも山腹時点のばてばてな姿で、慣れていない事実が丸出しになっている。というか心底苦悶に歪んだ顔に、そう書いてある。
『次はレニアまで取材ね。先日起こった『テルスの主暴走事件』について、訊いて回ってほしい』
『え? ですが今、レニアまでのケーブルカーはメンテナンスで休止中では……』
『だったら登ればいいでしょうに。メディア関係者たるもの、情報ってのはいつでも足で取りに行くの。わかる?』
『し、正気ですか!? あそこの標高はおいそれと登れる高さでは……!』
『シャーラップ! キャスターは適性がない、リポートも向いてない、というかそもそも口下手な君が出来ることはなんなの! 見聞きした情報を記事にまとめること! 違う!? 少しは根性を見せなさいよ! まったく最近の若いものはすぐに弱音を吐く! 僕らが現場だった頃はね、そりゃあもう大変な――』
――彼女、ジャーナリスト『エルメス』は、あまりに不幸だった。
先日ラジエスシティにて起こったリングマ暴走の真相究明を命じられたまでは、いい。問題は有力な情報を得るまでの道のりが、荊のように困難なものしかなかったということだ。
どうしてこのタイミングでレニア行きのケーブルカーが止まっているのか。どうして自分がこんな一度きりのために高い金を自腹ではたいて登山道具一式を揃えなければならなかったのか。どうして終わりの見えない地獄のような斜面をひたすらに歩いていかなければならないのか。どうして私はやまおとこならぬやまおんなになっているのか。
「――ちくしょーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
仕事のストレス、登山の過酷さ、恋愛トラブル、エトセトラ。諸々の苛立ちがやまびことなって虚しく響く。
「……はあ」立ち止まって、一息。サンビエで配られているテルス山内の地図を覗けど、まだまだ道は遠い。だからこそ休憩しよう、エルメスは内心で唱えた。
振り返れば四時間歩きっぱなしで、足も張りに張ってぱんぱんだ。途中の怪我が何よりも恐るべきことだと、付け焼刃程度ながら登山の指南書にも書いてあったし。
見回すと、地表から出張った手ごろな岩肌を発見する。少しルートから外れた位置だが、座るのにはちょうどいいと、杖に体重をかけながらそこへ歩み寄る。その時だ。
「へ……!? わ、ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
がくん、と見える景色が上がった。重力という手で、山中に埋められるような感覚。正解であった。
ポケモンの掘り跡か、はたまた土の軟化か――緩んでいた地面がエルメスの足踏みによって崩落、そのまま自然の落とし穴となって彼女を引きずり込んだのだ。
エルメスは魂でも抜けていきそうなほどの勢いを前にして、さらに大きく叫ぶ。
ずるずる、ずるずる。望んでもいないのに、彼女をどんどん深みへと連れていく体重。
ある程度まで滑落し、上がる事はおろか発見すら絶望的かと思い始めた頃。前進を擦るような感覚が止まった。
「あっ、わあ!!」
かと思えば、今度は冷感に包まれる。同時に閉塞感。不快。どぼん、と聞こえた。
「え、おっ、溺れる!」正体は水たまりであった。
パニック状態で両手足をばたつかせていたが、冷静に体勢を正してみればなんのことはない、足が付くばかりか子供用プール程度の深さしかなくて。
ゆっくりと立ち上がり、暗闇の空間を認識する。
「……もしかして、洞窟?」
『テルス山の内部は、生息するポケモン達が掘ったために洞窟になっている』――ラフエルに住むなら誰でも見聞きした話だ。
「っもう、なんなのよー!」落とし穴の先が水たまりで、命を拾えたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。しかしそれだけで喜ぶのは、些か課題が散らばっていて。不安と不満が思わず声に出て、八つ当たりに水面を叩く。そしてその声ははねっ返ることなく無限数の闇に飲まれていった。……少なくとも、狭くはない洞窟だという事だ。嫌なおまけに気付いてしまった。
びしょ濡れのまま水面から上がり、自分を放り出した縦穴を見上げるエルメス。深さは最低でも五メートルはある。どう考えても人間が上がれる高さではない。
そこに追い打ちをかける曇天――どうあっても登山日和とは言い難い。ともすれば人が通りかかる可能性だって低い。し、今日は実際に人にも会っていない。そればかりかポケモン一匹も見ていないときている。
思考の切れ間に『遭難』という言葉が、過った。
親への感謝を述べようか、それとも自らが生涯で積み重ねた業への懺悔を記すか。なんて、覗き込む鉛の空に目を合わせて、ぼやり考える。
そんな所で起きる更なる場面転換に、果たしてエルメスは驚かずにいられるだろうか。
「あ、あ、あ、わわわ! わあああーーーーーーーーーーーっ!!?」
答えはノーだ。
まるでリプレイ映像を観賞しているようであった。差し込む薄明かりが途切れたと思ったら、声が近づいてくるではないか。それも実に若く高い、しかし女性とも違う、寧ろ声変わりしていない少年の声。
「わっ、おぼ、おぼれる! おぼれる!」
「落ち着いて、底は浅いわ!」
「あ、ほんとだ」
人影は自分と同じようにひとしきり転げて回ると、自分と同じように水面に飲まれ、自分と同じように無駄に溺れた。
パニックから脱すると打って変わってけろりとして、「ひゃー、やっちまった」と陸に上がる。
正体は、十代になるかならないかぐらいの子供だった。褐色の肌に、ぽさぽさと伸びた赤髪を携え、右頬に小さな傷一つ。だがなによりどれよりエルメスの目を引いたのは、およそ山登りと呼ぶには足らなさすぎる服装。腰巻きが付いたボロボロな裾のズボン――それだけだ。
軽装を通り越しもはや半裸なその姿から、外部から来た者でなく、この山に暮らしている者だと察することが出来た。
「君……」
「ん、声、聞こえてな。だからきたんだー。落っこちちゃったけど……」
「ああ、いや、そうじゃなくて。ここの人?」
「うん、そうだよ! レニアシティ!」
エルメスが話しかけると、彼は人懐こい太陽にも似た笑顔を浮かべ、はきはきとした発話でそう返す。人見知りするような子ではないらしい。
「レニアからこんな場所まで!? かなりの距離があるはずだけれど」
「んーんー、いつもの修行コースだともっともっと遠いとこまでいくからなー、全然きつくないよ」
純粋に、疑問だった。レニアとここを結ぶ距離は、大人が歩くにしてもひどく骨が折れる。いくら地元とはいえそんな規模の移動を、こんな子供が出来るのだろうか。ただの、子供が。
「……君、名前は?」
探る物の性か――只者ではないと直感が告げた。まるで獣のように全身をふるふる振るわせて体中の水滴を飛ばす少年へ、今度は正体を問う。
「えっとな、カエン! おれは英雄の民、カエン!」
次に聞いた存在を、彼女は知っていた。
いや、ポケモンに触れている人間ならば、知らない者を探す方がずっとずっと難しいのかもしれない。
それほどまでに、世に名を轟かせている人物であった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……テルス山が、変?」
『レニアシティジムリーダー』と『ラフエルの末裔』。
二つのワードは少ないながら、カエンという人物を表すには十分すぎるものだ。
ゆえに彼が今語るのは、ここにいる理由。
「うん。ポケモンもみかけないし、なんだかなー、変なにおいもする」
「匂いって……」
曰く、今朝からずっとテルス山の様子がおかしい、とか。それで居ても立ってもいられずレニアを飛び出し、山中を見回りしている折に彼女の悲鳴を聞き、すっ飛んできたのだ、とか。……尤も足を踏み外すのは想定外だったようだが。
消えかかる焚き火に、木をくべる。途中の飲食を見越しての業務用割り箸だったが、思わぬところで役に立った。
ゆらりうねる炎に照らされたカエンの表情は真剣そのものだったが、エルメスはというと話半分、というのが正直なところ。
「あー、もしかしてねーちゃん、うたがってるな!」
「疑っている、というわけではないのだけれど……こんな天気なわけだし、ポケモンが身を隠す事だって、別にありえないことじゃないんじゃないかって思……って、」
突かれた図星を誤魔化すまでは予想通りの展開だった。だがしかし、まさかカエンが立ち上がって自身に顔を近づけるなどとは思わなんだ。
「な、なに……?」
「……んー」
「も、もしもーし?!」
前に後ろに、下から上に。向きと位置を変えながら、エルメスの体中のあちこちをまるでスキャンするように見回すカエン。意図もわからぬ突如の奇行に身を竦めるエルメスだったが、しばらくすると彼は適正な距離まで離れて、
「ねーちゃん、水でちょっと薄いけど……車のもくもくのにおいがする。あとはたくさんの食べ物のにおいもする。ひとのにおいもすごくぐちゃぐちゃだ。ラジエスのひとだな?」
にっかり笑ってそう言った。
「もしかして、私の匂いを嗅いでいたの……?」
「うんー、ほんとは女の人にそういうことしちゃダメってかーちゃんに言われてるんだけどなー、ねーちゃんがうたがってくるから、ちゃんとほんとのことだって教えたかった」
意味を知れてほっとしたものの、内心それで納得していいのか、とも自問したり。まあ、このレニアのジムリーダーはまだ十歳と聞くし、“そういったこと”にも疎いのだろうと落とし込む。
「んーで、あたりか? はずれか?」忘れていたカエンの質問に、返答した。
「……正解よ。私はラジエスシティで仕事して、生活してる。エルメスっていうの」
「エルメスねーちゃんか! よろしくな!」
「よろしくね。でも凄いわね、本当に鼻がきくなんて」
「だろ? おれのすごいところのひとつ!」
「自分で言っちゃうのね……」
無邪気なピースサインが自慢を伝える。本当に笑顔が絶えない子供ではあるが、この嗅覚の鋭さは超越的で、むしろ人というよりポケモンのよう。勘が示す通りに只者ではなかった。
英雄神ラフエルはいつもポケモンと共に在ったと云われているが、彼もまたポケモンのような形質を持ち合わせていたのだろうか? ――折角過った疑問だが、どう考えてもすぐの解決は難しそうなので、見過ごすことにする。そんなことよりも、とエルメスは切り替えた。
「温まって呑気に話すには、少し苦しいものがあるわね」
「あ~……そうだったぁ……」
遭難という事実が大前提に存在している現状を、再認識。カエンは忘れても、エルメスは忘れない。いくら彼がジムリーダーで英雄の民といっても、比べれば大人と子供。責任ある立場がどちらなのかは明白だろう。
やがて割り箸も尽きるし、洞窟内に燃焼物もない。何より食料だって有限で。いくらポケモンを見かけないとは言え、こんなお先真っ暗で広大な穴ぐらの中、女子供で一夜を過ごすのも危険が過ぎる。であるならば、一刻も早く出なければならない。
幸いその認識は共通だったようで、二人してぽっかり開いた空間を見上げる。
「カエンくん、空を飛べるポケモンはいる? その子に引き上げてもらうのが、手っ取り早い手段なのだけれど」
「そ、それが」
いないことはない、という表情。からの、苦虫を噛み潰したような面持ち。
「よ、ようすが変って話をきいた勢いで飛び出してきたから、ポケモンみんな、わ、わすれちゃって……」
「Oh……」
くしくしと、自らの後ろ髪を撫でる苦笑が希望を突き放す。そもそも出来ればとっくにやっている。考えればわかる。それでも眉間をおさえて悔やんでしまった。
しかし思考を放棄することは許されないぞと、顎に添える手。
となればどうするか――この洞窟をひたすらに辿って出口を目指すか、人の往来に賭けてこの場で助けを呼び続けるか。
『だめよ、全然だめ』独白が胸中を突き刺した。
前者はより発見を困難にするだろうし、まず無事に出られる保証がない。し、後者は野生のポケモンを呼び寄せてしまうリスクがある。自分もポケモンは所持していなくもないが……トレーナーを本業としない以上、バトルの腕などたかが知れている。
八方塞がりな状況で、エルメスは酷く懊悩した。生来の後ろ向きな性質が悪い形で働いたか。
「ポケモンさえいればなー、なんとかなりそうなんだけど」
「ええと、どういうこと?」
「おれな、ポケモンと話せる。野生とも話せるから、そいつらにおねがいして助けてもらえりゃ、一発なのになーって」
「もはや野生児……」
曰く、カエンはポケモンと言葉でコミュニケーションを取れる能力を持つ。これは英雄の民の誰もがそうという訳ではなく、現在のところカエンにのみ発現が確認されている体質だそう。そしてそれこそ彼が『ラフエルの生まれ変わり』と謳われ続ける所以なのだとか。
エルメスもこの期で疑うことはなかった。逆に打開策が見え始め、思考がポジティブな方にシフトしている部分すらあった。
信じるならば、あとはポケモンが訪れるのを願うだけ。
「まって」
そんな好機は、予想よりもはるかに早く巡ってくることになる。
ゴロリ。踏み転がされた石ころの音が鳴る数メートル先を、反射的に見ていた。焚き火の輝きを浴びる正体を確認し、歓喜を飲み込むエルメス。誠に信じられない好都合だが――二人の視線の先に現れたのは、岩石ポケモン『ゴローン』であった。
洞窟の中といえば必ずと言っていいほど遭遇し、古今東西津々浦々でその姿が確認されている、広い生息分布を敷く種だ。
しかしエルメスはこれを必然などと思い上がったりはしない。救世主たるその存在を愚弄することにも繋がるから。ゴローンへ感謝の眼差しを数秒送った後、カエンへと向き直った。
「……カエン、くん?」
明らかに様子がおかしかった。少年は先程の柔和さを一瞬にしてしまいこんで、あまつさえ口を噤み、その険しさを横顔に浮かべていた。
その様相は、有り体に表現するならば『警戒』を意味する。
「どうしたの? 会話、しないの?」エルメスが訝る。それこそ必然だろう。
「あのな、変、だ」
「……?」
だが彼も、いや彼こそが、彼女よりも早くに彼女と同じ心情になったことは、言われてようやく気付く話で。
それが少しでも遅れていたならば、どうなっていたか。
「ねーちゃんあぶない!!」
「っ!?」
彼女は数秒してから身をもって知ることになる。
唐突にカエンに突き放された。バランスを崩したまま尻もちつくのを待つだけの刹那で――岩石の刃が眼に映った。
どん。腰が落ちるのと時を同じくし、それは“かつて彼女のあった場所”を強く穿った。
「へ……へ……?」
「ねーちゃん……やっぱテルス山な、おかしくなっちゃってるみたいだ」
衝撃で焚き火が一瞬にして潰える。包んだ暗闇が嘲笑う。「何が救世主か」と。
技名“ストーンエッジ”。岩タイプの高威力技は、明確な敵意の表われであった。
当惑に飲まれる思考を即座に整理する。野生のポケモンならば、人間へ攻撃を加えるのはそう珍しい事ではない。寧ろ当然かもしれない。
しかしされど募る焦燥は、きっとその“野生ポケモンと友好的な関係を築ける者”さえも、今まさに目の前で攻撃を受けているからだろう。
もう一度の攻撃を横っとびで回避するカエン。そして目を赤紫で充たしたゴローンへと、いつものように言葉を投げかける。
「どうした! なんでこんなことする? おれたち、おまえの敵じゃない!」
だがなんと無情か、一言一句、何一つとして通じなかった。代わりに返るのは聞き知ったポケモンの言葉ではなく、巨大な石刃。
「っ……シママ!」
まずい、と上げたエルメスの声に呼応して、モンスターボールより彼女の手持ち『シママ』が出現。四本の速足が隙だらけのカエンをその場から攫い、間一髪で救い出す。
「なんで……なんでだ!? ことばが通じない……どうして話せない……!?!」
「わからない! でも、今は――これしかない!」
「シママ、“ニトロチャージ”!」続けてエルメスが指差しで答えを出した。指示に肯う
見事に技が決まるも、相性の悪さが祟ってダメージは雀の涙以下。少々のノックバックのみで平然としている光景が、そう告げている。だがそれでいい。
「今よ、走って!」
何故なら戦闘の意図がないから。
ニトロチャージによって起きた肉体の
己の手持ちが猛烈な速度で少年ごと離脱したのを確認すると、エルメスも身を翻し一目散に突っ走る。
合間にゴローンの状態を確認する余裕はとてもとてもなかったが――少なくとも、彼が追ってくることはなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あれから、どれぐらい走っただろうか。何度も躓きかけ、暗黒の中で岩壁にぶつかりかけたりもしたが、なんとか無事に逃げ遂せた事実だけで、今は喜べるだろう。
「ありがとなー、ちゃんと出られたらお礼になにかあげるからなー」自ら体力を消耗しなかったカエンは、シママを撫でて気遣う余裕があった。
対するエルメスはというと、皆まで言う必要もない。切れ切れの息をどうにか整えんと、壁面に沿って腰を下ろす。
「エルメスねーちゃん、だいじょうぶ?」
「だい……はぁ……大丈夫、はぁ……ではない、わね」
「え!? どこかいたいのか! それともくるしいか?」
「そう、じゃあなくてね……」
エルメスの言葉から、意味にはっ、と気づくカエン。
大丈夫じゃないのはエルメスの方ではなく、この状況で。シママのたてがみの輝きを頼りに来た道を振り返って、思い出す。幾度と分かれ道を通過したことに。
そして来た道を失念する。最悪の状況であった。こうするしかなかったとはいえ、彼らはより事を絶望に近づけたのだ。
景色に目印もなければ、変化もない。似たような道がずっとずっと続き、時に分岐して迷路のように広がっている。変わり映えしない道――迷うための最たる要素。
「携帯電話も通じない。方位磁針だって狂ってる……ああ、もう、終わりよ……」
エルメスはそうぼやき、いよいよ空になった頭を抱える。大人が子供に見せる態度として適当でないことはよく理解しているが、生憎知識もない、技術もない、そんな中で専門的なトラブルに当たってしまえば、誰だってまともなままでいられなくなるのも道理だろう。
「だいじょーぶだいじょーぶ! 入ることもできたんだから、出ることだってできるって!」
不安に飲まれない強さか、それとも空元気かはわからないが、カエンの前向きな言は却ってエルメスの耳には酷く痛いものであった。
思考がぐちゃぐちゃに乱れてしまった。精神がくたくたに萎びてしまった。少し休ませてくれと、ぐったり三角座りして項垂れるエルメス。
そんな彼女の様子を何となしに眺めているうち、
「エルメスねーちゃん」
カエンは開口した。
「今度は何? もう走るのはい」
強引に遮られるエルメスの返答。右手がむんず、と頬を抑え、左の人差し指が口を施錠したのだ。
突然のことで吃驚を隠せなかったが、少年の小声が耳朶を打つ。
『こえがきこえる』
と。
そこからは簡単だった。彼と一緒に、耳を澄ますだけ。
それで、澄ますだけ澄まして、十秒ほど無音を味わった頃だろうか。表情に乗っかっていた不信感が消え去った。
「だーかーら、しつけえな。あんたの案には乗らねえって言ってるんだ」
人の声が、本当に聞こえたから。
「(お、男の、声……?)」
認識はカエンよりも遥かに遅いタイミングではあったが――今ははっきりと、遠くで低い声が捉えられている。
「だけど、道もわからないなら、ひたすら歩いて外を目指すのが一番だ。野生のポケモンを捕まえて“あなをほる”を使うにも、あんな凶暴さでは」
「そいつが一番手っ取り早いだろうが。わかったらとっとと消えな、あんたは口うるさくてたまらねえ」
「ダメだ。今は単独行動よりも、お互い助け合って行動するべきだ」
「しつけえなあ、学級委員長かよ」
どんどん近づく、男二人の話し声。なんだか小競り合いにも思えてくるそれの輪郭が、少しずつ明白になっていく時。そのやりとりが自分たちの目鼻の先にまで迫った時。
カエンとエルメスは、彼らと向き合った。
「……お?」
いや――『鉢合った』、という言い回しが適当だろうか。
「そんな、まさか……本当に?」
愕然。こんな場所に人などいる訳がないと、常識ならば思う。
だが、今、闇から顔を出したつば広帽子とロングコートの男も。フェドーラ帽とレザージャケットの男も。
追い込まれた故に姿を現す幻想などでは、決してない。
本当に、ちゃんと生きている人間で。
「――人だあ!!」
冒険する考古学者『ジェリオ』と、トレジャーハンター『テソロ』――二人の求める者達との邂逅は、目が覚めてしまう程に現実であった。