ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~   作:裏腹

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05.Freeze

 見知った施設の、見知った通路。それだけで男が思うことも、言うことも、なくなってしまう。

 道に転がる空の消火器を乱暴に蹴飛ばした。劣化が激しいプラスチックの使い捨てカップを踏んづけた。

 枯れ朽ちた観葉植物を尚も飾る哀れな植木鉢の前を横切り、ところどころが欠け落ちたパズルのようなタイル床の上を歩く。

 薄汚い――ゴトーが何度第一研究所(ここ)に来ても最初に思うことが、これだ。

 落ちている血の滴のみを頼りに、吹き抜けのエントランスを越える。

『BIOHAZARD』蝕まれた箇所を三方に向け背中合わせとなった三日月が、バックにリングを携えて、標識越しにそう警告している。

 貼られている扉には、“サンプル室”と記してあった。

 入れば、小型の瓶から、中ぐらいのボトル、果ては巨大な器。様々のサイズのガラスが、謎の液体と一緒に禍々しく変容したポケモンのような何かや、その一部を閉じ込めている。

 ぼんやり室内を照らすレッドライトは、これ以上の立ち入りを制止する赤信号のようにも思えて。

 道標の途切れ目は、ここであった。改めて拳銃を握り直し、研ぎ澄ます感覚。

 

「おっと」

 

 しかし、それは必要はなかったようだ。弾が飛んでくる前に、荒い呼吸が聞こえてしまったから。

 倒れるように弾丸を避け、ついでのように銃声で返事をする。

 小型サンプルが並ぶシェルフの向こうからの一発だったようだ。ユキナリとゴトーは、歪んだガラス越しの世界で目が合った。

 

「くそッ、ダメか……!」

「おうおう、頑張るねェ」

 

 パン、パン、パンと、三発。逃げるユキナリへ弾道を貼り付けるように発射するも失敗、既に死んだ生物たちしか穿てなかった。派手にはじけ飛んだ透明の破片を踏み付け、一足早く退室した彼を追いかける。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

『お父さんは、いつ名前を教えてくれるの?』

『お前がその呼び方を改めないうちは、一生知ることもないだろう』

 

 冷静になってみれば、おかしな関係性だったと思う。

 それはそうだ。名前も知らない男を父と呼び、慕っていたのだから。

 

『改めたいから、名前を訊いてる』

『口だけ達者になっていくな。どこの誰から教わっているかは知らんが』

 

 でも、この人は行き場のなくなった私を拾って、養ってくれた。

 色々な事も教えてくれた。食事にありつく方法とか、悪人の倒し方とか、ポケモンとの付き合い方だとか。

 守られるだけじゃない、守れる私を確かに育ててくれた。

 

『大体、もう出会って一か月になるよ。そろそろ教えてくれたっていいはず』

『一年経つころにでも教えてやる』

 

 彼はいつも「ごっこ遊び」と言っていたけれど――あの時の私たちは本当に、何一つ偽りのない、家族だったと思う。

 だから彼の事を知ろうとした。知りたかった。一生懸命だった。

 

『どうして一年なの?』

『特に意味はない』

『またそうやってはぐらかすのね』

『冗談のつもりでいる』

 

 でも、今思えば。

 

『――――お前が(これ)を握らない日が来た時に、教えてやるよ』

 

 何も知らず、わからずな、守られる者でいたからこそ。

 私はあの人と、一緒にいられたのかもしれない。

 

 

 

「!」

 

 アルマはぱちり、と目を開けた。そこで、己が意識を手放していたことに気付く。

 どうやら柔らかいものの上で仰向けになっているようだ。見える天井が誰かの家だということを教えてくれた。

 ぐったり寝せた頭の上に、乗せる腕。妙な夢を見ていた――脈絡のない記憶のフラッシュバックに、どこか辟易しているようで。

 我に返ると、視界いっぱいに包帯が入った。そこから芋づる式にここまでの流れを想起する。

 そもそも、そもそもだ。テンヨウに負けた自分が、こうやって今なお呼吸できていること自体が既に不可思議なのである。

 何が起きて、どうなったんだ。まず、ここはどこだ。遅ればせながら真っ当な疑問を抱くアルマ。

 

「あ……目、覚めた?」

 

 そんな彼女の前に、全てではないが、答え合わせをしてくれる者が現れた。

 その顔は見覚えがあり、おまけに記憶にも新しい。具体的には、ついさっきの。

 雑貨売りの少女が、アルマの枕元に、彼女が身に着けていた衣服を置く。綺麗に畳まれていて、血や土汚れも可能な限り落とされた痕跡があった。

 

「あなたは、……つっ」

「無理しないで。応急手当しか出来てない、から」

 

 起き上がる。痛みで必然的に垂れた首が、隅々に渡る手当ての形跡も教えてくれた。

「ごめんね、勝手な事しちゃったけど」インナーウェアから露出した素肌を瞥見して、少女が言った。

 

「なん、で……ここに」

「なんで、って……うちの前で倒れていたの。それも、こんなに血だらけになって……びっくりした。覚えがないの?」

 

 自分が倒れたのは、ここからは大分離れた廃工場だったはずだが……実際にこうして彼女の家にいるのだから、疑っても仕方がないのだろう、と自分を納得させる。

 何よりも命を拾えたことに喜ぶべきか。そんな風に思考を切り替え、時計を見る。針はとっくに約束のタイミングを過ぎていた。

 

「……ありがとう。このお礼はいつか必ず」

 

『考えている場合じゃない』内心の声が、未だ覚めきらぬ肉体を駆り立てる。

 アルマはそれに逆らうことなくベッドから足を降ろし、少女を尻目に衣服を着用していく。手早い動作を以て次々と元の姿に戻っていく過程で、所持品をチェックした。

 

「……?」

 

 そして、訝る。いつも肌身離さず持っている物がなくなっているのだから、無理もない。優先度が低い物ならいざ知らず、それは紛失しようものなら社会的な立場すら失われかねないものであった。

 ないのだ。PG手帳が。

 戦闘中に落としたか? それとも倒れている間に誰かから抜き取られたか? 単純に歩いている間に落としたというのは、最も笑えないことだが――。

 

「ごめん、私の服のポケットに、何か入ってなか――」

「ねえ、お姉さん」

 

 どうにもならなくなって、だめもとで少女に訊ねた、その折だ。

 彼女の探し物が、見つかった。

 

「……お姉さんは、どうしてここに来たの?」

「……!」

 

 但し少女の、手の中で。

 質問に、質問で返される。それは先程も成された問いかけのはずなのに、アルマの胸に酷く重くのしかかった。

 何故か、どうしてか。

 

「どうしてお姉さんは、顔を隠していた(・・)の?」

 

 それはきっと。

 あの日守れなかった人と、あの日守れなかった時の姿で、向き合ってしまったからなのだろう、と。

 そんな風に思う。

 さしもの鉄仮面も、崩れて変わった。アルマは自らの顔に触れて初めて知る。変装用のマスクが剥がされていることを。

 

「――――!」

「――答えて」

 

 俯く細面が上を向く時、拳銃というもう一つの探し物が見つかった。

 それもやはり、その傷だらけの手の中で。

 今にも落涙しそうな瞳が狙いを定める先で――彼女は、何を語るのか。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「頼む、“ユキメノコ”!」

「やっちまえ“バンギラス”ぁ!」

 

 足止めのために出したユキメノコが、バンギラスと対峙した。くすんだ景色での追跡は、未だ続く。

 

「ッハ、もう満足に狙えてすらいねぇじゃねェか」

 

 ばら撒くように放たれたユキナリの銃弾がひとりでに足元で跳ねるのを確認すると、ゴトーは嘲笑を込めて言った。

 しかし、されど逃げ足は先を進む。グレーのぼろくずだらけの螺旋階段を上り、二階へと移るフロア。

 絵画が久々の来客に心底珍しそうな視線を送った。転がるソファは中綿散らかして邪魔をして、こぼれた天井の残骸は先刻から靴を叩いてはしゃいでいる。苛立つものだから、外れたドアを蹴り壊した。

 戦場は実験室へと移る。広々とした空間に足を踏み入れるやいなや、先客のユキナリが不意討ちの発砲で出迎えた。

 慣れた一本調子だ、と身を忍ばせる壁。しかしせっかく守ってくれたそれを、バンギラスは盛大に破壊した。

 

「あーあァ」

「ぐ……お、ッ!」

「ノックの力加減間違えちまったな」

 

 具体的には、ユキメノコを引っ掴んだ、その手で。

 だがそれでいい。彼はこの隔たりが消えてどちらが困るかを――よく、知っているから。

 瓦礫が爆ぜ散った。一方は自分を守ってくれる盾を、もう一方は障害物を失い、居合わせる者たちの表情が明暗でくっきりと分かれる。

 投げ飛ばされたユキメノコが苦しみを堪えて起き上がった。バンギラスは闘争心を剥き出しにして叫んだ。そうして響くは、第二ラウンドのゴング。

 用途こそわからぬが、少なくとも場を凌ぐものとしては役立つだろう。そう踏んで、大きな装置まで鉄火を散らしながら後退すると、隠れる格好で何度目かもわからぬ盾を作った。そんなユキナリを見て、ゴトーは言う。

 

「いい加減、諦めてくたばっちゃくれねェかい。ここまで入り込んできちまった事に関しては、運がなかったと思ってよォ」

 

 ピンポイントの強烈な力で装置が歪む衝撃を、背中越しで感じた。

 

「ま、それがなくても俺ァおまわりさんってのが大嫌いでなァ。とりわけ無駄なことをせこせことやって、さも『世の中のために生きてますー』って清々しいツラしてるところがよ、どうにも気に入らねんだわ」

「PGのことを語るのか、犯罪者であるお前が!」

「そういう器の小せえ物言いすんなよなァ、らしさが無くなっちまうぜ?」

 

「清く正しく美しい、世間様の法を守るおまわりさんらしさってやつがよォ!」「ほざけ!」

 言葉と弾丸が交錯する。双方は跳弾を合図に、再び身を隠した。

 

「法が守られなければどうなるかを、お前は知っているはずだ! 暗躍街(ここ)を統治する、お前なら!」

「そうかもしれねェなァ! だが俺様は、法に守られなかった奴の結末も知ってるぜ!」

 

 乾いた床に古いマガジンが一つ、カランと落ちる。そんな味気ない音しか返してやれなかった。

 巻き戻される記憶の映像が、その登場人物が、もう喋るなと言った気がしたから。

 ここに居た彼よりも数段劣る言葉の重みを誤魔化すように、ここに来た彼はリロードした弾薬を使い込む。

 

「法律が時代を守る? 社会を助ける? 人に味方する? ちゃんちゃらおかしいぜ! じゃあなんで日も当たらねえこんな場所に人がいる!? 今なお流れ着く!!?」

「ッ!」

「黙ってねェで答えてみろよォ!」

 

 隠れては、撃つ。ターン制じみた応酬が繰り広げられる人間の戦いとは裏腹に、ポケモンバトルの展開はトレーナーの意気が反映するように傾いていく。

 “れいとうビーム”での一撃でまとわりついた氷を一瞬で砕くバンギラスが、ユキメノコを尻尾で殴り飛ばした。

 

「違う、違うんだよなァ! ルールってのは言葉を知っている奴の味方しかしねえ! 字を読める奴の肩しか持たねえ! それを何の苦もなく知り、勝手に埒内に適用され、当たり前のように行使することが出来る、ハナっから恵まれた奴(・・・・・)しか助けちゃくれねえ!」

「だが! 僕ら個人個人の正義は、そういった人たち以外さえ救う力も、意志もある!」

「嘘だなァ! テメェら警察は守られるべくして生まれた人間だけ守って、ありがたがられて得意になってるだけだ! ハハハ、随分と浅い底の正義だなァ!」

 

「気付けよ! テメェらおまわりさんは今までもこれからも、何一つ救えねェんだ!」

 ユキナリは形相のままに乱射する。耳朶に入り込んでくる一言一句の全てを、銃声でかき消すように。

 だって。何故なら。そうでもしないと、

 

「何故か!? 本当に助けてほしい奴ァ、『助けてくれ』の一言すらいえねェでくたばっていくからさ!」

 

 自分が誰かの手さえ、握れなくなってしまうかもしれないから。

 

「それを生み出した奴は誰だと思う! なんだと思う!? テメェらで取り決めた、テメェらだけがおいしい(ルール)がうじゃうじゃ蔓延る地上(うえ)の世界だろうがァ!」

 

『知ったような口を』――それ以上に知ったような口が、言いかけて止まった。

 

「知恵ある奴ァ世界が受け容れられる幸福の総量に限界があると知りながら、独占を働く! そうして次々と野垂れ死んだことにすら気付かれねェ虚しい奴らが増えていく!」

「くっ……!」

「俺達が闇だァ? どの口が喚いてやがんだ、このおたんこなすがァ!」

 

 渦巻く呪いが肌を焼く。滲む辛みが胸を突き刺す。怨嗟は喉から手を伸ばし、ぎりぎりと首を絞める。

 捲し立てに震える手が、俯いた額を伝う血と汗の混じった体液を拭う。もう、軋んだ心臓が張り裂けそうだった。

 

「より良くするために! 暮らしやすくするために!」

 

 弾倉を再び装填する最中、ガササ、と部屋中に散らばる紙が激しい悲鳴を上げた。ユキナリが障害物の向こうから状況を確認した時、事は手遅れで。

 ゴトーは既に、彼の間近にまで迫っていた。

 向けて発砲しようとしても、不可能。必定だろう、あらかじめ残弾を計算した上での、タイミングなのだから。まさしく生まれた一瞬の隙を、鮮やかなまでに狩り取られる。

 声帯が潰れてしまいそうな力で首を掴まれると、ユキナリはその勢いのまま壁に叩き付けられた。

 

「――そんなおためごかしを散々吐いて、弱者から全部を奪い取ってきたのはどこのどいつだァ!!」

「っ――!!」

 

 ぎょっと開いた眼光が、相手の視覚の向こう側にありったけの憎悪を流し込む。

 砲声が木霊した。ユキナリの顔面よりも、離れた方で。

「チッ!」それは、決死と呼ぶにふさわしい。ユキメノコがバンギラスの一撃を顧みず、横からゴトーへと“シャドーボール”を放ったのだ。弾道どころか重心がぶれ、崩れたバランスは転倒という現象を呼び込んだ。

 “ストーンエッジ”に従って倒れたユキメノコだが、彼女の置き土産はまだ終わらない。突如として伸びた彼女の影に侵され、バンギラスもまた瀕死となって倒れ込む。

 誰よりも早くにその意味を察したユキナリが、彼女をボールに戻しまたも逃走した。

 

「クソッタレがああああああ!!」

 

 “みちづれ”――自死と共に相手を無力化する、ある種の呪いのような技。

 いよいよゴトーの堪忍袋の緒が切れる。悪漢は憤怒任せに部屋中に弾丸をひとしきりぶちまけた後「ブッ殺してやる」と黒い火傷に誓い立て、実験室を後にする。

 終わりが、音を立てて近付いてきた。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 もし、自分だったなら。さっきから、ずっとそんなことを考えている。

 もし自分を救ってくれるはずだった人が、無力だったなら。

 もし、その無力のせいで、地獄のような人生を強いられてしまったのなら。

 

「もう一回だけ、聞く。お姉さんはどうしてここに来たの」

 

 自分は、その人を許すことが出来るだろうか。

 流し台に置かれたカセットコンロの上で、ケトルが甲高く鳴いている。彼女に「やめろ」とでも、言っているのだろうか。

 寒さで曇る窓は、外の景色どころか、今の自分がどんな顔をしているかすら教えてくれない。

 救われなかった者と、救えなかった者。明確な対峙が、両者の封じ込めていた様々な感情を呼び起こす。

 

「……咎は、受ける」

 

 アルマは許せなかった。間違っても。だから彼女の震える銃口を逸らそうとはしなかったし、その権利はないとすら考えた。

 

「でも、今はまだ、倒れてあげられない」

 

 さりとて、だ。

 

「身勝手なのはわかってる。それでも、私はまだあなた達を救いたいと思っている。救えるとも、思っている」

 

 たとえ犠牲者から罪科を問われようとも。地獄に堕ち果てようとも。憎まれ、忌まれようとも。彼女はまだ、成さねばならぬことがある。闇の底に沈んでしまった人を、救い出す使命がある。

 それは決して、罪滅ぼしなどという安い行為ではない。ただ己が進む過程で、やるべきと思ったこと。死へと至るまでに踏む必要がある、重要な過程。

 だから。

 

「ので、私は」

「――そうじゃない、よ」

 

 意外な遮りだったと、思う。吃驚するアルマに向け、少女の言葉が続いた。

 

「確かに辛くて、苦しいけれど……、あなた達には感謝してる」

「え……?」

「本当は死ぬはずだった私が、ちゃんと生活できているのも。今、こうして暗闇の中で頑張れているのも。全部あなた達のお蔭だから」

 

 恨んでなんかないよ。実際に弾は出ていないのに、頭を撃ち抜かれた気分であった。さらなる少女の発話に、アルマはより目を大きくする。

 

「『生きる』って……約束、したんだ。サンドパンを連れた、門番のおまわりさんと」

 

 口にされる特徴に、酷く思い当たる節。浮かぶのは、今まさに助けに行こうとしている人の顔。十字架を背負って、昨日の中で氷漬けになったままでいる、彼の姿。

 

「言われたんだ……『どんなになっても、生きててくれ』って」

 

『そしたら、僕がいつか君の明日を取り返すから』って。

 全てを失ったろうに。死にたくなることもあったろうに。彼女の魂とて、未だあの日に閉じ込められているだろうに。

 平和な昨日に帰れない、希望が光る明日にも行けない。だからって幸せな今に立ち止まっていることも、出来なくて。

 閉鎖された夢の屍だらけの空の下、ただその日の安寧さえ約束されない中を、死んだように生きている。

 だったらば。それならば。恨んだっていいだろう。憎んだっていいだろう。行き場のない怒りを、理不尽に縛り付けられる悲しみを、ぶつけたっていいだろう。

 アルマはそんな風に思っていたし、誰もがそうするものだと、信じていた。

 なればこそ、出会った少女の言霊に宿る優しさというものに違和感を覚えたし、その正体がずっとずっと気になっていた。

 

「でも……お姉さんたちがここで今何かしたら、私の生活は、また無くなっちゃうかもしれない」

 

 だがその疑問も、たった今をもってようやっと解消された。

 それは、悉くを手放す諦観ではない。無論、自棄を起こした果ての気の狂いでも、決してない。

 

「それは嫌……、私は死にたくない」

 

 ただ、生真面目で。

 

「生きて、いたいの」

 

 誰よりも誠実で。

 

「生き延びて、ここを出たいの」

 

 常に一生懸命で。

 

「そして、また……っ、また! 太陽を見たいの!」

 

 人一倍、責任感が強くって。

 

あの場所(ネイヴュ)に帰ってきて、おまわりさんに『ありがとう』って、言いたいの!」

 

 そんなどこぞの警官から、願いと一緒に受け継いだ“温かさ”で。

 どうして気付かなかったのだろう。よく拝んでみれば、こんなにもそっくりじゃないか。

 彼女は、死地の中でも前を向いて歩いてる。どこにいられなくとも、いてもいいどこかを探し続けてる。

 こうして少しばかり無茶をしてしまうのが、珠に瑕ではあるが――これもまた彼の面影だと思って、ご愛嬌。

 

「こ、来ないで!」

 

 アルマはそれ以上、立ち尽くすことはなかった。

 

「私は!」

 

 もう迷わない。やるべきことがわかったから。

 

「私、は……っ!」

 

 望まれない黒鉄を掴んで、ゆっくりと下へ降ろす。

 

「……大丈夫」

 

 傷だらけで見すぼらしいなんて、とんでもない。

 

「大丈夫だから」

 

 誰よりも綺麗な、その白魚のような手が汚れてしまっては、いけないから。

 こんなものを握らなくてもいい明日を、彼女と約束するから。

『ありがとう』――その言葉で自分が救われたように、必ず彼女を救うと誓うから。

 揺らぐ声と一緒に、少女を抱き締めた。抑えていた感情が、涙の堤防と共に爆発する。

 

「う、わあああああああああん! わあああああああああんっ! わあああああああああああああああああっ!」

 

 喚いて、叫んで。少女は吐き出す。小童みたいに泣きじゃくって。堪えていた心の丈を。目一杯。

 

「わたし、がんばってる、よ」

「うん」

「まい、にちっ、いたくて、こわい、けどっ……がんばってる、よ」

「……うん」

「ちゃんと、いきてるんだよお……きづいて、よお……っ」

「知ってるよ……えらい、ね」

 

 叶うのならば、氷が解けますように。そう願いながら体温を運んで、指で柔らかな髪を梳った。

 ただ、ただ遠くで寝そべる雲を見上げて。流れる世界の下にいるだけ。

 何も、特別な事は求めていなかった。誰も、悪くなかった。それだけを頭に描いて、望んでいた。

 

「そして、一生――忘れないよ」

 

 きっと夜の向こうを見据えて、生きていた。

 心臓の残された鼓動数に、刻み込む誓い言。彼へ伝えに行こう。届けに行こう。どこか遠くへ、行ってしまう前に。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 カン、カン。金属の足場を、弱々しい刻み足が辿る。それは研究所の五階から続く一本道で、一度外へと運ばれる。そして先にある塔上の建造物を、繋ぎ止めていた。

 橋、というものになるのだが、面のところどころが劣化によって抜け落ちており、手すりも枝のような鉄の棒きれをいい加減に組み立てただけの構造で、本当にそう呼んでいいのかは疑問符が付く。

 しかして、ユキナリは通るしかない。満身創痍の身が思うままに赴いた結果だから、仕方がない。

 頑強そうな扉を開けた。忽ち猛烈な熱気に全身を当てられるが、燃え尽きてしまうレベルではなかった。しかし長居は、間違いなく出来なくて。

 上から見た建物断面の径を細めるよう、(ふち)に配置された円状の足場から、炎上する光景が見える。

 真ん中の大穴を眼下にすれば、

 

「……なんだ、これは……!?」

 

 遥か深くで、溶岩(マグマ)がこぽこぽと煙と泡を吹いていた。

 

「焼却炉みてェなモンさな。ここよりもさらに地底から引っ張り出してる」

 

 熱波の正体を丁寧に解説する声に振り向き、身構える。もはやここまで来れば、気配の主が誰なのかなど嫌でもわかる。

 

「ここは生物研究所でな。実験やら何やらで、色んな廃棄物(ゴミ)が出る。それをまとめて燃やしてんのさ」

「……さしずめ、地獄の釜だな」

「ま何も、人間が入ったことがねえとは言わねェし、お前が初めてとも言わねェ。老若男女も人畜生も不問だからよォ、安心して後悔と共に沈んでくれや」

 

 どこぞへ抜けていく、焦げの臭い。それを背にする戦士が闇の王と改めて対峙した時、両者の注意を引くように、焼却炉の壁を突き破った物がいた。

 

「……ようやく見つけたぞ」

「しぶてェなァ、お坊ちゃんもよォ」

 

 乱入者は、グライドであった。総力を挙げて襲い来る街の者たちを退けここまで至るのは、さすがのゴトーにしても想定外だったようで、少々の困惑を顔に出す。

 

「当然だ。我々は貴様らに幾久しい終焉を与えるために訪れている」

「ったく……まとめて相手にするしか、ねェか」

 

 ぼりぼりと面倒そうに頭を掻いて、ゴトーは最後の一匹のポケモン“ダイノーズ”を出す。

 それに反応を示し、武人然とした佇まいでグライドの前に出るのは、装甲ポケモン“グソクムシャ”。彼をここまで運んできてくれた、これもまた最後の一匹で。

 そしてユキナリも必然的な空気に促され、実質(・・)最後の一匹の“トドゼルガ”を出した。

 静寂の中で手招きする死の空洞を囲んで向き合う、三者と三体。

 

「バラルも、PGも。テメェらの時代は間もなく終わりを迎える。いずれ天と地はひっくり返って、俺達が地上の支配者になるだろう」

 

 先に果てた者から、落ちていく。

 

「下らんな、勝手にやっていろ。我々は必要としていないのだ……その何もかもを」

 

 地の底の獄炎が、三つ巴に近づく壮絶な結末をまだかまだかと待ちわびている。

 

「――“ぜったいれいど”」

 

 男はそれを笑った――――残念だったな、と。

 

「!?」

 

 出し抜けで消え入りそうなユキナリの指示の直後、トドゼルガはその場に氷を殺到させた。

 すると壁面が。足場が。天井が。開いた穴と、扉が。そして仕上げに、溶岩が。周囲のありとあらゆるものが、何もかもをゼロに還さんとする白に染め上げられていく。

 一瞬の下に熱さえ殺す氷獄の凍気は、逃げ場と成り得る穴さえ氷柱で塞いで「逃げるな」と言うのだ。

 全てが凍結し、密閉状態の巨大な冷凍庫へと変わり果てた頃。ポケモンの技で事なきを得た各々が、僅かな呆然の後に口を開く。

 

「……何のつもりだ」

「ハハハ! オイオイ、追い込まれ過ぎてとうとう頭がイッちまったか!?」

 

 彼らの言葉の意味はもっともであった。温度がマイナスの空気で満たされた出口のない箱の中で、どうして生きられようか。子供でもわかる、単純明快な話。

 仮に他者を殺すつもりであったとしても。正常な判断力が働くのなら、己とて凍えてしまうのは理解が及ぶはずで。

 ユキナリが冗談めかした問いかけを無視しながら視線を落とすのは、トドゼルガの方。

 

「ありがとう」

 

 多くは語らない。ただ優しく微笑みながら撫でた頭に、短くそう残した。

 そうしてゆっくりと向き直る背中を、仲間は直視できなかった。険しいままに目を伏せることしか、できなかった。

 

「……明日の若者を思い、戦士を志した時から、ずっと考えていた」

 

 彼は知っていた。いや、知らずにいられるわけがなかった。

 

「僕は未来に、何かを残せているのだろうか、と」

 

 長い時というのは、言の葉を介さずして心を繋ぐ故に、残酷なもので。

 

「でも“あの日”を経て、渦巻く絶望を見て、その答えは得た」

 

 だからその眼を一度見れば、すぐにわかった。

 

「――何一つ、自分の証すら残せていなかった、と」

 

 直面する最期を受け容れる、そんな覚悟ぐらい。

 

「だから、今ここで。僕は身命を賭して、僕の全てを残していく」

 

 主の命の灯火の、最初で最後の煌めきぐらい。

「サンドパン」握り拳で、深く息を吐いた。別れは考えないでおこう――自分は、立ち会うことがないから。厳格さを湛えた声音が、相棒を呼ぶ。

 

「もたせられるか?」

 

 彼が最後に承る注文は、二つ。いずれもサンドパンにしてみれば朝飯前で。

 一つ目、ただでさえ人体の表面が痛みを訴えるこの環境下で、ひたすらに時間を稼ぐこと。

 そして。

 

「あと、彼女たちも――頼む」

 

 事が終わった後。それを同志たちに伝え、脱出の際の力になること。

 サンドパンは静かに頷いて、トドゼルガと一緒に前へ出た。目蓋一つ動かない表情を見送り「そういえばこいつは、出会ったころから職人みたいな奴だったな」なんて、場違いなことを思い出して。

 

「貴様……まさか我々と共倒れしようとでも言うのか」

「そのまさかさ。大規模テロリストのナンバー2と、犯罪組織のトップ――僕の散り際を飾ってくれるには、申し分のない役者だ」

「悲劇のヒーロー気取って名誉の殉職ってか? かーっ、冷めるねェ。今時ドラマでも笑えねェ流れだ」

「お前たちが面白くない顔をするのなら、それは僕にとって最高に好ましい……土産話にでもすれば、向こう(・・・)の人達も少しは浮かばれるだろうね」

 

「持っていかせてもらうよ。お前たちの首もろとも」誰も救われず、報われず。笑わず、泣かず。悲しみも楽しみも、散らばせた悉くを未精算のままに閉幕を迫るデウス・エクス・マキナのようなクライマックス。

 そうして彼の物語は終わっていくのだろう。実質的な未完だろう。けれどもそれで、いいのだろう。

 今日がダメでも、明日ならきっと――続きへの布石は打った。次に繋がる最低限は果たした。そうやって、未来へ託す選択を取った。だから彼はバトンを手放し、礎になりて、思い描く彼だけの明日を一足早くに迎えよう。

 

「ちっ、グソクムシャ」

「行けよ、ダイノーズ!」

 

 心中など冗談ではないと言わんばかりに、ゴトーもグライドも狙いを一人に絞る。

「“であいがしら”」「“パワージェム”だァ!」刹那を駆ける辻斬りじみた一撃と、殺意を持った石の輝きが、ユキナリを襲った。

 先がないと知りながらも庇うのは、やはり捨てることの出来ない絆なのだろう。トドゼルガは身を挺して彼を守り、倒れてしまう。

 

「くっ……!」

 

 一気に傾く、一対二の状況。

 しかしサンドパンは負けるか、と意気を咆哮に乗せて吐き、彼の願いを叶えるために爪を尖らせた。

 その時だ。

 冷たく閉ざされた鉄の扉が、何者かに打ち破られる。

 それはある者にとっては邪魔をしに来た敵と予想されたろうし、またある者にとっては助け舟に乗った味方と予想できたろう。

 多様な想像の余地が大いに残されているこの混沌の中で、終局の場へと遅れて参戦したのは。

 

「……探しました、特務」

 

 邪魔をしに来た、味方であった。

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