ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~ 作:裏腹
「ん、起きたかい」
覚めた目が最初に捉えたのは、覗き込む知人の顔であった。
心配と温情のこもった、優しくも侘しいヘーゼルカラーの瞳に向かって、頷く。
「私は……」
「大丈夫? 無理しない方がいいよ」
イリスが顔をどけると、ステラは未だ続く背中の痛みを堪えて、静かに起き上がる。
白のシーツに、青の病衣。そもそも香ってくれない清潔な匂いの下で並ぶ、幾らかのベッド。自分の物を除けばいずれも空だが、なんとなくに理解する。どうやらここはラジエスの病院らしい。
延いては、自分が意識を失っていた――という事実にも、認識が及ぶ。
「あの子、は……ミミッキュは……!」
続けて至る思考に、肉体が先走る。
「待って、こっち」ハッとしてベッドから足を下ろすステラへ、手招き。
イリスに誘われるまま窓際に立ち、五階からラジエスの町並みを確認すると、言葉を失った。
「……なんですか」
その時のラジエスは、もう雨がやんでいた。色鮮やかな夕空に、彩られていた。
鈍の記憶として残る雨雲の欠片が、却って風情を醸し出す。
綺麗な雨上がりだろう。素敵な景色だろう。空だけならば。
「これは」
――ポケモンにも似た黒い物体が跳梁跋扈する、地上を見なければ。
混沌、だった。
街を埋め尽くし、各所で当てもなく銘々に蠢くそれは、見る者の恐怖心をこれでもかと扇ぎ立てる。ステラとて例外ではない。
寧ろビジュアルというよりかは、滲む雰囲気のようなものに気圧されているのかもしれない。
憎しみや怒り、恨み悲しみとは違う、でもマイナスの記号を抱えたこの感情は何だろう。
「うわああああああっ!!?」
「いけない!」
「たす、助けてええええええ、ええええ!! ああああああああッ!!」
「……っ」
叫んだ時には、もう遅い。その存在が、目下で戦闘するPGを打ち負かし、飲み込んだ。形を変えたそれはやがて行き場を失くしたポケモンにも覆いかぶさって、その存在意義にゼロを与えていく。
破壊や殺害なんてものとは、まったく性質が違う。まるで生命を消し去って初めから無かったことのようにしてしまうこの力は、さしずめ『否定』によく似ていて。
『居ない方がよかった』と。
『生まれてこなければよかった』と。
聖女から見た無数の“影”は、譫言みたいにそんなことを呟いていた。
「目覚めたか」
背に当たるアシュリーの声に、振り向く。
「寝起きのところで悪いが――お前が伸びている数時間に、色々なことがありすぎた」
そう言うと隣に立って手だけを差し出し、その上で転がす携帯端末から、ラジオの音声を垂れ流しにした。
『――未だ全域で謎の影による侵略行為が繰り返されているラジエスシティですが、依然として住民の避難は完了していません。それどころか、一部では孤立状態に陥り、救助の目処が立っていない区域もあるとのことです。状況を重く見たラフエル政府は非常事態宣言を発令し、犠牲者が一〇〇名を超えたつい先ほどの段階で、ネイヴュ含むPG支部全てに救援要請を送りました。現在、街では機動部隊と本部の隊員が対応に当たっておりますが、規模が足りず被害の食い止めが精一杯で――』
連なる大仰なワードに、戦慄する。
『まだラジエス内にいる住民の方々は決して一人で行動せず、PGやポケモンレンジャーの指示に従い、落ち着いて避難にあたってください。繰り返します――』
機械の音声から引き継ぎで説明する肉声が、そんなステラを我に返す。
「信じられるか? ――ポケモン一匹の暴走で、ここまでになった、と」
落ち着き払った手が指し示す先は、遠い北区の電波塔『ラジエスタワー』。
……厳密には、“だった何か”。
数多の帯状の影が絡みつき、枝を作って背を伸ばす。まるで枯れ木のような風体をしたそれは、果実よろしく獣型の影を一つ実らせ、またも世界に生み堕とした。
「恐らくあの巨大樹が、この惨状の大元だ」
そして、恐らくあの巨大樹こそが。
「――ミミッキュ、なのですね」
アシュリーが皆まで言う必要はなかった。ドクンドクンと脈打つ挙動から、絶望の波導を知る。天を望む背丈から、希死念慮の意思を覚える。それだけで彼女を感じるには十分だ。
あれからミミッキュは不定形を維持したまま巨大化し、街中を這いずり回って通行人を次々と飲み込んで、最後にはあの場に訪れタワーと一体化。
「このまま増え続ければ、やがてラジエスにも収まりきらなくなり、ラフエル中がこいつに侵食されてしまうだろう」
そうして忽ちポケモンと酷似した“飲み込む影”を生み出すようになり、爆発的な勢いでそれをラジエス内にばら撒いた。伴ってパニックに陥る街を防衛するため、PGが駆り出された――というのが、ここまでのあらまし。
だがステラが遠くを見据えながら訊ねるのは、ここまでではなく、これからのこと。
「私は、どうなりますか」
「……ここにいろ。どこへ行こうが“影”だらけだ……この
「では――、あの子は、どうなりますか」
押し黙って、目を合わせなかった。わざとらしいとさえ思えるほどに神妙な横顔は、惨憺たるセーブデータの『続きから』が、わからないのではない。
「……アレを、壊せば」
「はい」
「アレを壊せば。このバケモノ共は消える」
「はい」
「同時に、増殖も止まる。――――政府は、そう考えている」
「……はい」
言えないのだ。怯えているのだ。
ひとたびデータロードが始まってしまえば、再び涙が流れるから。悲劇が悲劇のまま終わってしまうから。
積み重ねた喜びも。手に入れた楽しみも。思い知った嬉しさも。何もかもが、これからやってくる時間の波に、浚われてしまうから。
「私はあなたを救えない」――誰がこんなことを言えるのか。こんなものが認められるのか。
今だって、伝えられそうもない。だから爪痕作った掌を、ずっと丸めて立っている。
「わかりました」
それだけ言い残し、踵を返すステラ。
「待て。もうお前が出たところで、どうこうなる問題では――」
振り返った表情に、アシュリーは思わず言葉を止めてしまった。
その相貌は、未だ輝きに満ちていた。夕焼けさえ一蹴してしまう程の眩しさを湛え、強く、逞しく煌めいていた。
昨日と何も変わっちゃいない――信じて祈る者の瞳だ。
「……どうして」
湛える碧色の中で、小さな悪戯っ子が変わらず手を振っている。
「どうしてお前はそんなにも、立っていられる?」
撫でた手を抱き締めて、ずっとにこにこと笑っている。
「倒れず、前を向き続けていられる?」
願望の反射による幻影だろうか。或いは、待っている本当の明日なのだろうか。
「決まっているではありませんか」
そんなこと、わからないが。
「信じているから、です」
――それでも聖女は、今でも夢見る少女のように、優しい明日を見ていた。
笑ってしまうほどに平和な未来を、望んでいた。
今日がだめなら、明日。明日がだめなら、明後日。明後日がだめなら一週間で、一週間でだめなら一か月。それでもだめなら一年、十年、何十年――――どんなに悲しみに打たれようと。どれだけ苦難に喘ごうと。明日はきっといいことあるさと、唱え続ける。
無責任に感じられるだろう。他力本願と責め立てるだろう。
「……祈り信じるだけでは、世界は変わらない」
「ええ、仰る通りです」
一丁前な詐欺師が吐く、体のいい方便のように聞く者だって、いるかもしれない。
しかし、そうであっても。
「でも、祈って信じなければ変わらなかったことだって、沢山あります」
誰かが、明日を見られるのならば。誰かを、勇気づけられるのならば。自分がまた、立ち上がれるのならば。そして。
「誰かが、救われるのならば――それでいいではありませんか」
私は、そんな風に思うのです。
肩越しに溢された笑みのせいで、少しだけ視界が明るくなってしまった。
眼を丸めると靄が消えていき、呆れ果てた胸はとうとう刺さっていた棘を自ずからひり出して。こいつはきっと明日に世界が滅ぶとしても、こんな面して祈り続けるのだろう。使命という牢に押し込めた傍観者の彼女は、そんなモノローグを綴るのだ。
ステラは廊下に出て、歩いていく。行き先など言うまでもない。
アシュリーはそれを知るからこそ、病室を出ていく。何をするかは聞くまでもない。
ただ一人憂いている旅人が、諍いを恐れてその後を追った。
「お――……」
彼女が目の当たりにした二つの背中は、並んで前へ進んでいた。
「アシュリー……、さん?」
「お前は、一般市民だ。そしてミミッキュは、その一般市民のポケモンだ。私にはそれらを守る義務がある……というだけだ」
「――!」
目は合わなくとも隣の肩が、話す。
希望に懸けてみよう、と。
「それとも、何か。怪我も気にしないで、力ずくで押さえ込んででも止めた方が良かったか?」
「……ありがとうございます」
「怪我人を怪獣映画顔負けの大パニックに送り込む方が、私はよっぽど危ないと思うけどねえ」
「うふふ、違いありません」
一緒に混じる赤い背中も、語る。
救われることを共に祈ってみよう、と。
「政府側は、まだ作戦が決定していない。なんせ首都の命運を左右する状況だからな……慎重なんだろう」
「そうこうしている内に陥落しちゃえば、元も子もないのにね。政治家さんってのはよくわかんないや」
「だからこそ、チャンスだ。連中がアレの破壊を選ぶより先に、私達がミミッキュを救出しつつアレを取り払う選択肢を上に提案する」
「そんな手、あるのですか? というか……通るのですか?」
間を置いても、心配は要らない。大きく息を吸って、吐いた。そうやって臨む姿勢に乱れもない。
「――あるさ。そして、必ず通してみせる」
何故ならこれは、未来を掴む戦いだから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
淡いオレンジ色が、今にも人々の営みを見捨てていこうとしていた。
『――以上が、作戦の全容となる』
寿命僅かな残光を眺めてたそがれることさえ、空に散らばる黒鳥は許してくれなくて。焦がれたところで、焦げた匂いしか与えてくれないものだから、まったく参るし厭になる。
『あとはこれを遂行し、成功まで導くのみだ』
点々とするビルの谷間から伸びる、煙の手。戦火にせき立てられるそれは、天に縋っているようにも見えた。
悲鳴と指示とちょっとの轟音が、意識の昂りを手伝って、皆のやるべきことを改めて思い出させる。
『見ての通り不確定要素ばかりだが――上手くいけば、この悪夢のような光景をすぐに終わらせられる』
人々を守って、戦うこと。
『故に。希望を持て。必ず成功すると、信じろ』
百人力を背負って、準備を整えること。
「ん~~~~~~……っ」
明日を掴み取ること。
イリスは混迷にまみれる町並みをよそに、病院の屋上でストレッチしていた。ポニーテールがなだらかな風に揺れるのと同時にそれを終わらせ、続けて出したモンスターボール。
二つの燐光はロイヤルポケモン“ジャローダ”と皇帝ポケモン“エンペルト”を形作り、近衛兵よろしく腕組む彼女の両隣を埋めた。
「やっちゃいますか――“ハードプラント”!」
ジャローダが気品を損なわないままに叫びを上げると、病院を囲う四方の地面からべきべきと木が顔を出す。それらは自由に、身勝手に形を変えて建物に巻き付き、やがて伸びきって至る頂点で、結び付く。
その姿は、木だ――――生者の声が聞こえない死の街で、緑色した命の象徴が完成する。
彼方で絶望の種を撒き散らす、真っ黒な巨大樹と対を成すように生まれたそれは、静謐の中からじっと死を睨んだ。
「それじゃ、よろしく」
エンペルトは振り向いて立てた主の親指を肯ってから水を噴射、抱えたジャローダもろとも“アクアジェット”で木の最高点まで駆け上がった。
「……ふう」見上げる頭を再び戻し、黒に侵されたラジエスへ向き直ると、
「あー、あー、こちらかわいいかわいいイリスちゃん。準備完了しました、どうぞ」
装着したインカムへ語り掛ける。跳ね返る『了解』という味気ない返答に少しの不満を覚えつつも、駐車場からのエンジン音に耳を欹てた。
『では――――状況を開始する』
始まる。一台の警察車両が、二頭の“ウインディ”を伴って走り出す。
『これは壊す悲劇ではない。壊される茶番でも、勿論ない』
止まらない。確認した旅人が球体一個を空へと放り投げ、百人力を背負ったまま駆け出した。
『ただ、明日を掴み取る――戦いだ!!』
そして両手足を広げ、闇に染まりかかる空へ飛び出した。
支えるものが、なくなった。重力と空気が肉体を挟み込む瞬間、獲物を見つけた鳥型の“影”は一斉に襲いかかる。
不自由な自由落下。乱暴に撫でる大気。そうして眼前に迫った黒鳥。
「――ボルテッカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
抗わない、心配無用だ。打つ手はもう動いている。
青天に降臨したその霹靂は、イリスに集る影を一瞬のうちに焼き消した。
落雷よろしく黄色の閃光と化して下ってきたピカチュウが、俯せて未だ地を遠くするイリスの手を握る。
「いくよ、空のやつを一掃する!!」
イリスはその言葉と共に、自身ごと掴んだピカチュウを回した。煽られる髪も、膨らむジャージも、天地が覆っていく世界も。全ては構わない。
「“かみなり”!」
あの日彼女らと眺めた夕空を、取り戻すためならば。
「いぃっ――」
「ピィィカ――!」
「けえええええええええええええええええええええっ!!」
「ヂュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!!」
ラジエス上空を覆っていた空飛ぶ影が、暴れて回る稲妻の前に次々と焦げていく。一つが二つに飛び散り、二つが四つに伝播し、矢継ぎ早に感電を起こしてその叫びをクリアなものに変えていく。
唸り声と共に都市を包み込む電光は、まるで雷神の怒りであった。
完全なる空の奪還を確認し、抱きかかえるピカチュウ。まだ落ちている最中だし、依然地上は黒く塗り潰されている。見なくても知っているので、背中を向けて差し迫った。
何もしなくていい。何も言わなくていい。
『ッジャアアアアアアアアアアアアア!!』
ただポケットから落としたモンスターボールさえ、あれば。
歓迎するように落下地点に集い、イリスの捕食を待ち受けていた。そんな化物共を、傍観者の憂い事もろとも焼き払うのは、バシャーモの仕事だろう。
あらかじめ落とした球体の中身は一足先に解放され、隕石よろしく大爆発を起こしながら飛来。盛大に足の踏み場を作った。
「へへ、さすが私の王子様だ」
そして落ちてきた主を所謂お姫様抱っこで受け止め、相変わらずの冗談に「フン」と短く笑声を上げる。
だが、まだ終わらない。寧ろ始まったばかり。ピカチュウはイリスの腕から解放されるやいなや、わらわらと自分たちを包囲する“影”に構えた。
『ピカ!』「うん、そっちは任せた……無事でね!」背中越しのコミュニケーションの後に発した“10まんボルト”でこじ開けた道を、“しんそく”で駆ける。
そうやって相棒が見えなくなったのを合図に、バシャーモも火を纏わせたままの脚部で飛翔。建物を跳び継ぎ、ある場所を目指す。
「がんばれ。そっちにいくまで、持ち応えてくれよ……!」
抱えられながら走る宙空。見下ろす小さなパトカーに、ささやかな願いを込めた。
ランプの灯らない白黒が、閑散とした道路を走っている。飛んでくる影に侵されかけながら。
またも立ち起こる迎撃の音と輝きに、助手席のステラは思わず目を閉じた。
「すごい……もう、空の敵が消えてる……」
「あまりしゃべるなよ、自分の舌を食いたくないのならな」
運転席でやむなく法定速度を無視するアシュリーは、ひたすらに前を――北区の巨大樹を見ていた。
『――斥候が言うには、あの巨大樹の足元には大きな
先行した同志が、仲間を失いながらも手に入れてくれた情報だった。
『内部がどうなっているかはわからんが……ミミッキュの本体、のようなものは、恐らくその先にあると踏む。全くもって確証など、存在しないが――何であっても試す他にない』
信じるということは、きっとこういうことだろう。
『そこで、私とステラは車で木の内部に突入、そこから彼女を引きずり出して連れ帰る。そうすれば根の腐った木が枯れるように、本体を失った影は破壊せずして消滅するだろう』
ミミッキュと話せるのは、彼女しかいない。そして危険に晒される彼女を守るのもまた、言い出しっぺである自分しかいない。
『つまり我々は木を目指すということになるのだが、となればあの町中を覆いつくす影が邪魔だ。しかしいちいち相手にしている暇はない』
そこで頼るのは、百人力。
『翻って、ルートをあらかじめ一本に絞り、立ちはだかる障害を一息に破壊していく。火力を集中させた一点突破を強行する』
六地方の殿堂入りを百戦錬磨で欲しいままにした、ただ一人の軍勢。
『イリス、お前に頼みたい』
PGが街の防衛にも戦力を割ける、最強の切り札。
無意識で尖る防衛本能なのだろうか、木へと近づくたび、その道程で躍り出る影が増えていっている気がした。
「ホプキンス警部!」
流れていく風景に、目を向けた。新たに追加された護衛――もう二頭のウインディに跨る機動部隊員が、己の名を呼んだから。
示し合わせの通り、北区に入るタイミングで合流した彼と話すため、アシュリーは窓を開ける。
「ルートは問題なさそうか?」
「はい。付近でうろつく影も、街中に伸びたジャローダの“ハードプラント”がきっちり押さえ込んでいます」
「そうか……ではこのまま作戦通り、大通りから一気に突入する」
「了解」
並走したまま距離が取られたのを確認した、その瞬間だった。
「前方、影が急速接近!」
「!!?」
「反撃間に合いません!」
「なっ……!」
アシュリーは酷く驚いた。揺らめいて這うだけだったその存在が、急激にスピードを上げて襲ってくるのだから。
「っ、おおおおおおお!!」
「!? ダルクス!」
正面からぶつかるように飛んできたそれを庇った。
「あとは、任せます……ッ!!」隊員はうねる黒に纏わりつかれながらもウインディと走り、最後の言葉を紡いで地に転げた。
「ダルクスーーーーっ!!」
「……っ」
影は、ステラが悲しむのも許さない。真正面から群れを続々と殺到させて、そう示している。
「そんな……! 今まで、あんな緩慢だったのに……」
「くっ……!!」
――やはり、あの木は狙われていることを知っている。来る者を拒んでいる。
アシュリーは歯噛みし、確信する。これは世界を拒絶した結果だと。だから消しているのだ、と。
しかし悔し気にしたところで、もう遅い。漆黒の津波は、もう彼女たちの先で口を開けて待っている。手招きして笑ってる。
表情に絶望の芽が出た。護衛班も、同じく。
言葉を失くした。思考が止まった。万事休す――。
『ヂュウゥーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!』
まだだ。まだ下を向くな。神速の雷光が迸って、そう言った。
「ピカチュウ……!」
「間に合ったか……!」
駆け付けた切り札は、想定よりも遥かに多かった進路上の敵を一発で蹴散らし、挨拶。
そのまま“しんそく”で追いついた警察車両の上に飛び乗った。もはや敵などない、最強の装甲車の完成だ。
前だろうが、後ろだろうが、左右だろうが。大きくても小さくても関係ない。この雷神が、何が来ようとも逃さず吹き飛ばすから。
黒を押し退け、閃光を潜り抜けていくうちに、巨大樹はフロントガラスでは収まりきらない程に大きくなっていた。
それは何よりも、誰よりも近づいた証拠。
「……いける、いけるぞ!」
「各員、パトカーを死守せよ! 絶対にだッ!」
雷と炎で切り拓いた道が、いよいよ最後の曲がり角を通す。
ハンドル切った――大通りに出た。ロータリーの中心に座した影の木の根元は、大量の絶命の果実に隠され、その姿を不明瞭にして。
びっしりとそれが敷き詰められた風景は、地獄とも見紛う程の漆黒をしていた。
厚くて大きい闇色の障壁は、一歩先の視界すら阻んでくるというのだから、残忍を極める話。さしものピカチュウでも、少々の怯みを見せる。
しかしアシュリーのアクセルに迷いはない。怖じもなければ、考えもない。選択肢にあるのはただ踏み切る、フルスロットル。シートに磔にされても、突っ切るのみ。
「ぶっ、ぶつかります!」
「構うか……突っ込むぞ! 信じろ、私を!」
だが、それでいい。それが正解だ。
「私達の――、仲間を!」
後はたった一人の軍勢が、片を付けてくれるから。
「――――“ヌメルゴン”」
影の群れの視線を、上に引き付ける者があった。
夕明かりを背に受ける赤い勇姿は、業炎の軍鶏と共に鮮やかに降り立ち、淡い
「“だくりゅう”!」
雨天を司る
だばあ、と立ち上がって広がるそれは、影の奔流など意にも介さず一思いに飲み込んでいく。
自然が激情を振り回すように。異物を洗い流すように。ただ一撃の洪水で、悉くを浄化する。
「今だ、ピカチュウ!」
カッ。ピカチュウが空へと流した一筋の“10まんボルト”を、木の上のエンペルトは見逃さなかった。
「光の合図を目掛けて撃て」と言われて以降、エネルギーチャージしていた“れいとうビーム”を、満を持して解放。蒼白の砲撃は通りすがる空気を次々に凍らせ、霜だけを残し真っ直ぐ飛んでいく。
「きゃ……っ!!」
彼方の天が、眩しく光った。忽ちパトカーの横をすり抜けた輝きは、“だくりゅう”でかき消しきれなかった影達の時間を止めていく。
「ばっちり決めるよ“エーフィ”!」
仕上げと繰り出した大取が、“かみなり”と“だいもんじ”と“りゅうのはどう”を“てだすけ”する時。
「やっちゃえーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
明日へと繋がる三色の道標は全ての氷像を打ち砕き、完成の瞬間を迎える。
「掴まれ、押し通る!!」
「後は頼んだよ! 二人と一匹で、ちゃんと帰ってきてくれ! 私との約束だ!」
「ありがとう、絶対に皆で戻ります! そちらもご武運を!」
過りがけに重なる視線。窓から乗り出して、誓い立て。
アシュリーとステラは、未来への水先案内人の声を確かに聞いた。背中で受け止め、胸に抱えた。掌で握って、明日に照らす。
そうして突き出す拳に託された彼女の祈りも一緒にして、聳え立つ枯れ木へと飲み込まれていった。
「……なんか、お祈りってのもさぁ」
「けっこう悪くないね」聖女と戦士を見送った旅人が、仲間達と共に再び戦地へと向き直る。
――日没まで、数十分。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『――こいつ、まともに技遺伝してないから要らないわ』
踏み砕かれた球体が、毀れて散った。
『明日、あなたを売るわね。なんだか、飽きちゃったから』
離れていく温もりが、時を凍らせていく。
『まーた色違いじゃないよ。捨ててこようっと』
遠ざかる背中は、二度と会いに来てくれなかった。
『ろくなステータスじゃないし、ろくに技も使えない。そんなお前でも、食物連鎖に組み込まれれば自然の役には立つだろうよ』
突き放さないでほしい。拒まないでほしい。傷つけないでほしい。
もし、生命に価値が存在するのなら。格という概念が、あるのなら。
生まれることは、無意味なんだろうか。生きることは、無駄なんだろうか。
もし、素晴らしく輝くことが、認められた一生だというのなら。
私たちは。僕たちは。
――ここにいては、いけないのだろうか。
「おい!」
「――!」
悪い夢を、見ていた。
ごくごく短い時間だったような覚えもあるが、気が遠くなるほどに永い時間だったような感じもする。
まあ、どちらにせよ、だ。どうやら気絶していたらしい。
ステラは、運転席から伸びるアシュリーの手に揺すられて起きた。
木に突入し、暗黒に包まれたまでは良かったのだが――そこで意識がどこかへ飛んでいってしまったようで。結果的にどこに辿り着いたかも、未だわからず仕舞い。
だが入った事実さえ覚えていれば、それでいい。今、眼前に広がる風景が、勝手に答え合わせしてくれる。
「――へ?」
この、ラジエスシティの町並みが。
シートベルトを外し、ドアを開けて降りると、先ほど居た場所と同じ風景が広がっていた。
「待て」呆然とするステラへ、認知の誤りを正す発話が起きる。
「“影”がいない。というか――――私達以外に、誰もいない」
先程までの激闘を忘れさせる、不気味なまでの無音と、横に割れてしまった遠くの空を認識して、我に返った。
そして知る。ここは夕暮れのラジエスシティによく似ただけの『別のどこか』なのだと。
人がなく、風もなく、雲も動かず。まるで何もかもがすり抜けていくような寂しさと、認められようのない自由だけが寝そべる物悲しさは、なんだか孤立した感覚に陥ってしまう。
アシュリーが指さした先は、東側。
「テルス山が、ない……」
「ああ、真っ白だ。恐らく途切れているのだろうな」
閉ざされた街――否、空間。
誰にも侵されやしないが、誰にも触れられない。そんな作り物みたいな場所。
ここより外がないのは、きっと知らないから。ここに人がいないのは、きっと拒んでいるから。
にわかに信じがたい話だが、聖女も戦士も、認める他なかった。
「ここは――――ミミッキュの、心象風景だ」
何にもなれない存在が作り出した、どこでもないイメージの箱庭の中にいるのだ、と。
腑に落ちた瞬間、ステラの頬にしめやかな温もりが伝った。脳が全く意識していなかったものだから、大層驚いたに違いない。
「あ、れ……私、どうして……」
アシュリーは、震える声を咎めなかった。
「……やはりお前も、
何故ならば、彼女もまたそれを覗いたからだ。聖女がさめざめと涙する原因と、同じものを。
ミミッキュが人に牙を剥いていた、理由を。
「多分、彼女の正体は」
「誕生を望まれぬままにこの世を去ってしまったポケモンたちの、魂の、集合体――――」
瞳から流れる雫が止まったのを確認すると、アシュリーは静かに繋げた。
「弱さを。醜さを。足らなさを。不完全を。色々な人々から拒絶されて、消えてしまったのだろう」
「だから人に、優れていることを証明しようとした。トレーナーたちに勝って強さを見せつけ、認めさせようとした」
「侵すでもなく、壊すでもなく……ただそこに居ようとしていたんだ」
「生きていたい一心で。いてもいいよと、言われたい一心で」
一生懸命、戦っていたんだ。もがいていたんだ。足掻いていたんだ。
『生まれてこなければ良かった』なんて、聞きたくなかったから。
ただ、その温かい手で、撫でてほしかったから。優しく抱き締めてほしかったから。
ステラは、痛いほどに締め付けられた胸へ、手を当てた。
彼女を想う。そして決意を言い聞かせる。連れ戻さねばならない、と。
「何も悪くなんて、なかった。ただ辛くて、悲しかっただけだ」
「故に……だから、引っ張り出してあげましょう」
いてもいい場所へ。外の世界へ。
「そして伝えてあげましょう。苦しいことばかりではない、と」
「ああ……きっと誰だって、生まれたことを祝福されてもいい。そんな風に思うんだ」
耳をすませば、彼女の泣いている声が聞こえる。
どれだけ拒んで嫌がっても、繋がっていたいと言っている。助けてくれと叫んでる。
「……急ぎましょう」
車を置き去りに、昨日の風景へと駆け出した。
その時、彼女たちの視界に入ってその足を止める、第三の人物。
「貴様……!」
「……トゥワイス、さん」
それは、真っ先に闇に飲まれて死んだはずの男で。
幽霊か、なんて面白おかしく冗談めかしてみてもいいが、生憎彼の所業はステラにとってもアシュリーにとっても、それが叶うほど許されるものではなかった。
トゥワイスはジャケットの裾一つ揺らさず、そしてアシュリーとステラの構えにも動じず、開口する。
「……驚いたな、ここまで止めに来るとは。執念というやつか」
「貴様のお蔭で、大変なことになっていてな。来ざるを得なくなった」
「まったく……楽しいかくれんぼも、これで終わりか。残念でならん」
「……あなたは、こんな状況でもまだ……!」
「どんな状況でも、強さは私を救ってくれる」
相対する歪んだ眼差しが、未だにミミッキュを探していた。倒せば強さになると信じ込んで、あちらこちらと漂わせていた。
『正常に狂っている』という表現に些かの矛盾は感じないでもないが、トゥワイスの相好はまさしくそういう状態にあるそれであった。
目交いの怒号に返す言葉はやっぱり正当性が無くて、徒に酸素を消費し二酸化炭素を増やすばかり。
「それは溺れていることと、何も変わりませんでしょう……!?」
「動きもしない偶像に縋って救いを求めるのは、神に溺れていることとは違うのか?」
「願う者には、律することの出来る自分がいます。悲痛に泣かず、不条理に怒らず、ただ黙して救いを待てる気高き御心があります」
「力に犯されてしまえば全てが終わるだろう。貴様は身を以て知ったはずだがな」
「くっ……!!」
平行線をずっとずっとなぞり続け、誰も取らぬと知りながら、ただ言葉を投げ散らかしている。
認めたくないが、解り合えない者もいる。致し方なしとステラがモンスターボールを取り出した折のこと。
「“エンペルト”」
「アシュリーさん……!?」
正義の味方はそんな彼女の前に出て、一足先に相棒――雪国の皇帝を召喚する。
その対峙が意味することなど、考えるまでもない。
「お前は救いに行くのだろう? ここは私に預けろ」
「で、ですが!」
「言ったろう、市民を守るのが私の務めだと。お前にだって同様に果たさねばならないことがあるはずだ」
「……!」
「他でもない、ミミッキュはお前を待っている。お前の手を、昨日という時間で待ち続けている」
己がここに来た理由を、アシュリーはよく知っていた。
反応するように鉄爪が顕現しても、恐れず立ちはだかる。最大級の邪魔をして、彼女の道を作ってやる。
そしてただ、打ち砕く。この世界の悪意を。
これこそ、何よりも此度の彼女が為すべきと判断したこと。誰かの幸福を守るPGとしての、元来の使命。
「だから、行け。行って街をあんなにしたじゃじゃ馬を、もう一回叱ってこい」
「……恩に、着ます」
「どうか、ご無事で!」「お前も!」
もう、隠すのはやめよう。誤魔化すのはやめよう。今度こそ、彼女の幸せを願って信じよう。
アシュリーは重ねた声に乗せた祈りを、聖女の背中にそっと託した。走って縮んでいく後ろ姿を肩越しに一瞥した後、微笑を不敵なものに変えて睥睨へと向き直る。
「そういうことだ、トゥワイス。貴様の相手は私がする」
「要らん邪魔を……」
「そうつれないことを言うな。汚い手をした奴の相手には、同じく汚れた手を持つ奴がお誂え向きだとは思わないか? ……例えば、貴様達にヘドが出るほど触れたばかりに汚れが移ってしまった、私とかな」
その表情は、時間稼ぎだなどと生ぬるいことは宣わない。
「まあそれがなくとも、貴様は気に食わん。故に――――PGではなくアシュリーとして、地獄に送ってやろう」
今すぐ澱んだ心根ごと、貴様を凍らせてやる――聖戦に臨む絶氷鬼姫は、そう言っていた。