ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~ 作:裏腹
白昼のというのは、どうしてこんなに眠いんだろう。
一点の曇りもない上機嫌な青空を眺めながら、思う。
杉の床の上に敷かれた座布団を、より強く歪ませた。開いた障子から通る風を受けながら、机上の頬杖を立て直す。
「リク、それじゃああんたに答えてもらおうかな」
「へ?」
黒板へ白墨打ち付けるのをやめて、広間に響かせる声。宛てられた少年の帳面は白紙だった。
ネリネは知ってか知らずか、座学であるのに集中を遠くへ追いやっていたリクに、口頭での復習を促した。
「メガシンカは、人とポケモンがどうなることによって起こるんだっけ?」
「……繋、がる」
「じゃあ、その繋がるってのは、具体的にどういう状態の事を指すんだっけ?」
「ひ、人とポケモンがそれぞれ発する心の信号が、お互いの間を行き来するようになった状態」
質問内容は、メガシンカについて。初歩の初歩の話であるからして、間違える訳がない。
のだが、板書をろくに記録していない手元のせいで、内心をそわそわと急かされてしまった。
露骨にまずい顔をしている。仕方ないだろう、まさか振られるだなんて思っていなかったんだから。
二度はあくびを噛み殺しているそんなリクの相好を見破り、ネリネは意地悪くさらなる問いで追いかけた。
「はて……あたしはそれを支えるモノを、なんて呼んでいたかねえ?」
「うっ……!」
リクは、嘘を付けない。
わかりやすく目を泳がせる様を見て、周りの同輩がくすくすと笑った。
「決まりだね、今日の掃除当番はお前だ」「うぅ……」溜息を鼻から流した後に、言う。
続けてイツの名を呼んだのは、彼に抜け落ちた回答の埋め合わせを任せたから。
「『道』。人の思いの力を通すものであり、ポケモンの心を流すもの――わかり合う個と個の懸け橋となる、絆の結晶です」
うん、上出来だ。腕を組んだまま、頷いた。
通路一本を挟んだ長机の、一番手前。真っ直ぐ伸びた背筋と、乱れのない折りたたまれた足格好。筆片手に教科書を見つめる厳しい横顔は真面目そのものであり、すっかり見慣れたもので。
一時はこの姿を望みながら、追い抜くことを夢見たりもしたっけ――なんて、昔話を想起する。
「はい、それじゃあ続きからまたやっていくよ! 道を通っていくものを具体化して分けると、人からポケモンの場合では主に――」
今よりもうんと輝いていた、もう戻れない昔の話を。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『先生に勝ちたい』
イツとリクがそう願うようになったのは、ネリネに拾われて半年が経つ――七つの頃だった。
別に、決まった時間に寝て起きる軍隊のような生活が嫌になったわけではない。まして、日に日にあざが増えていく厳しい手習いが苦になったわけでもないし、念仏じみた学問用語が唱えられる中で知りもしない字の読み書きを教えられるのに飽きたわけでも、当然ない。
むしろ、逆だ。日々の生活に充実を感じていた。頑張れば褒め言葉と一緒に頭を撫でられ、わからないと言えばわかるまで語って聞かせて教えてくれる。何より自分たちに意味なく手を上げない大人というだけで、彼らにとって幸せを覚えるには十分で。
だからこそ、早く一人前になりたいと思った。さっさと師を超えて、安心させてやりたかった。幼い男子二人には、少なくともそれが先生にしてやれる一番の恩返しだと思えていたのだ。
『まずは先生の弱点を調べよう』
思い立ったイツが、リクに提案した。
勝つにはまず、相手を知ることから。リクは少しだけずるい気もしたが、真正面から食って掛かっても歯が立たない事実は嫌というほど頭で解っていたので、渋々ながら賛成した。
そして日々に目を光らせ、数日の調査を経た結果、とある発見に辿り着く。
『先生は俺達が寝静まった後に、夜な夜などこかに出かけている』
宵闇と無意識に閉ざされる寝ぼけ眼のせいで、確信には三日もかかってしまったが、イツが仕入れた確かな情報だった。
どこへ行って、何をしているのだろうか。それを知ることが出来れば、あのポケモンならぬバケモンを攻略するヒントが見えてくるのだろうか。いや、見えるだろう。そうに違いない。
イツとリクはようやっと掴んだ糸に、縋り付いた。
「リク。起きろ、リク。おい」
そうと決まれば、あとは簡単だった。
「んんぅー……あと十分……」
「馬鹿、十分も待ってみろ、見失うぞ」
ネリネが門から出る様子を寝室の襖から確認したイツが、リクを揺り起こす。
夜の一時は、依然闇が強い。月光も頼りにならないものだから、目覚めに多くの時間を使って、そのうちイツを怒らせて。
「ッあい、だぁぁ」
悲鳴の続きは、もごもごと塞がれた口の中。見事なまでに額の真ん中を仕留めたでこぴんは、リクにとって最高の眠気覚ましになったに違いない。しびれたように震える瞳が不機嫌なイツを映すと、ようやく目的を思い出す。
「着替えろ、早くいくぞ。ポケモンも忘れるなよ」
小声に従って、枕元のモンスターボールを取った。
小さな二人による密偵調査は、そうやって始まる。
取り囲む岩肌に、とても息苦しさを感じている。悪すぎる風通しに乗る土の匂いも、遠くで落ち延びる水の香りも、お世辞にも心地いいものとは言えない。
人の長居に適した場所ではないと表現してしまえば、それまでだが。
所々の地面から突き出た薄明も綺麗ではあるのだが、目直しと呼ぶには些か及ばない。
シャラシティを南下した先にある巨大な横穴――『映し身の洞窟』にて、未だ尾行は続く。
「ね、ねえ。思ったより遠いところだよ……町を出ちゃったし……」
「だったらなんだ? こわいならお前だけ引き返せばいい」
壁面いっぱいにめぐらされた豊富な水晶は、鉱石系ポケモンの捕食や体表の研磨により削られて自然な鏡面となり、歪みなくコピーした景色を作り出す。
リクは物珍しいそれを一瞥してから、再び岩陰から遠いネリネの背中を覗き込んだ。
すぐ下にはイツが屈んでいる。頭頂部に話しかけたところで、返る答えは素気がない。
「薄暗いし、迷っちゃうかもしれないよ」
「うるさいやつ。ばれずに先生をつけきれば、塾には帰れるんだよ。見失わない努力でもしてろ」
「そうは言っても、集中できないよ……」
「何がいるか、わからないし……」不穏な発話の途端に、確かに身を固めるイツ。
暗さに恐れて、なんとなく言った。意地悪をしたという事ではない。不思議そうにするリクの表情が、その証明。
ただ言葉のせいで、気付いてはいたけれど気にしないでいた謎の足音が、気にかかってしまっただけだ。
それはどんくさいリクの耳では察しきれなくて、ともすればたった一人で不気味になって。
「……イツ、どうかした?」
「な、なんでもない! ほっとけよ!」
無の一点を見つめた後に、パチンと両手で自分の頬を叩いた。
挙動不審? 気のせいだ。そうだ、何もない。怖くないし、おばけなんてものは存在していない。だってそうだろう、考えにくい話だもの。
「ほんと? 少し、震えてるけど……」
「は、はぁ? お前が震えてるから、そう見えてるだけだろ……! 意味わからないこと言ってないで、ちゃんと先生見ておけって!」
とんとん。イツの肩を叩く。
「……おい! ふざけてるのか!」
「こっ、声が大きいよ……! やっぱり変だ、どうしたの……?」
「どうしたもこうしたもあるか! 悪ふざけしやが」
『って』と言い切ってしまう前に、気付いてしまう。
自身の注意を引く手が、目交いの相手ではなく、誰もいないはずの背後から伸びていることを。
ぞくりと背筋が震え上がった。首を冗長なぐらいゆっくりと回し、恐る恐る振り返った先は――。
『バリ』
「――――ああああッ!」
何のことはない野生の“バリヤード”だったのだが、残念ながら恐怖で余裕のない精神状態では、彼さえパニックの種となり得る。
リクは混乱で大声引き出されるイツの口を、大慌てで塞ぎ込んだ。
「大丈夫だって! ただのバリヤードだから、落ち着いてってば!」
「ん゛ーーーっ! ん゛むぅーーーーーっ!!」
「気付かれるよ!? ほんと、ねえ、気付かれちゃうって……!!」
白目をむいてじたばたする姿を、必死に押さえる。
結果、図らずも先程の仕返しに見える様相が形作られたが、ここは偶然ということで一つ。
「(野生の喧嘩かねえ……?)」歩きながら離れた音を気にするネリネは、独白を練り上げているうちに洞窟を抜けた。
11番道路に出た。
『ミロワール通り』と呼ばれるここは、大きなアップダウンを強いられる起伏の激しい道として、通行人を苦しめることで定評がある。
実の成る木がいくつか立っていたり、花が咲いていたりと自然豊かな地形ではあるのだが、二人とも数えるぐらいしか来たことがないものだから、まじまじとその風景を目の当たりにするのは初めてに等しかった。
夕方は綺麗かもしれないな。真っ暗な中に空想のオレンジ色を持ってきて、独白。
そのまま西側へと歩いていけば石の町『セキタイタウン』へと至れるのだが、どうやらネリネには無用らしい。道中で揺れていた花を一礼の後に手折り、そのまま南下して道を外れた。地続きで踏み入るは舗装の行き届いていない樹林帯。
「もう、騒がないでよ……」
「うるさいな、ほっとけ……!」
躊躇なく入っていく後ろ姿を忍び足で追いかける。名も知らぬ一輪の花が、指し示す通りに。
ただでさえ心許ない明かりが、木々に遮られてさらに弱々しくなった。イツにしろリクにしろ、もはやネリネの姿など見えていないようなものだが、それでも耳朶をくすぐる葉掠れを頼りに、ぎりぎりの追跡を続ける。戻りようもないここまで来てしまえば、もう意地一つで踏ん張るしかなかった。
リクにせよ、中途半端を避けるためならもうなんでもいいとすら考えていて。
歩みどころか吐息にまで気を配って進んでいると、ネリネは光差す場所に出た。
辺りが暗闇なので、限られた月明かりでも照らされる者の鮮やかさは損なわない。
「石……?」
「これは、もしかして……」
まるで何かを記すように立てられた一つの灰色の四角形は、なんだか墓に見えてきて。
でも口には出さなかった。そこに花のピンクを添える先生の横顔が、寂しそうに笑っていたから。
距離のせいでよくは、聞こえないけれど。触れた石に優しく何かを語り掛けるネリネを、ひたすらに見つめていた。
初めて見る先生の顔を――ずっと、眺めていた。
ネリネは『誰か』との会話を終えて尚、森林の奥へと飲まれていく。
もう一時間は歩いているというのに、歩幅も速度も全く衰えがないのは、さすがと言わざるを得ない。
その体力は一体何歳のものなのかは気になるけれど、彼女は年齢の話をするとオニゴーリのような顔をして怒る。一部の大人からはバケモンと呼ばれているので、そこから推測するしかない。
尤も、今はやらないが。
「のど、かわいた……」
「情けないこと言うな、弱点を調べるんだろ」
寧ろ疲れているのは、イツとリクの方であった。
だらんと肩を下ろして上向くリクを鼓舞するイツであるが、その言葉には微塵も説得力がない。何故なら彼も息が上がっているからだ。
まったく行き先の想像がつかず、徒に足跡作っている間に『どこに繋がっているんだ』から『本当に終わりがあるのか』へ、思考はシフトする。
出口のない迷路をぐるぐると回っている錯覚に襲われた。体内時計は眠気を以て生活の狂いを咎めているし、疲労は思考の余地を無遠慮に埋め立てていく。
よくない傾向と理解しつつも上を見ながら行っているのは、早く終わりたいという心情の表われに他ならない。
集中が切れたのだろう。有り体に言えば。
「イツ、ねえイツ」
袖を引っ張って呼ぶリクが指さすのは、ようやっと見えた出口。
ネリネの歩みが明らかに遅くなるのを確認して、少年二人は喜んだ。ようやっと目的を果たせるぞと期待して、通過口の役割を果たす最前列の樹木から、向こう側を覗き込む。
そこは、広く開けていた。刻んできた道程と違い、差し込む
イツとリクがその双眸に捉えたのは、一本の木だけが佇む、小高い丘の上。
そこは静かで、温かくて――幼心の表現力ではとても追い付かなかったが、とにかく「地図に載っていないことが勿体無く思えてしまう」と云えるぐらいには、趣がある場所で。
「こういうのは……綺麗、で、いいのかな……」
深緑の髪を風にばさばさ煽られながら、リクは思わず独り言を漏らす。
「静かに、何か始めるぞ」観察の退屈をいよいよ破るネリネ。すぐ前にモンスターボールを投げ込んで、ガルーラを呼び出した。
「それじゃ、いつも通り頼むよ」
『グァル』
ネリネは息を大きく吸い込んだかと思えば、そのガルーラとスパーリングを始めた。
目尻を尖らせ、激しく打ち込み、声に覇気を入れる。練習と呼ぶにはあまりに熱があったし、殺気すら見え隠れしているではないか。
「いつも、ああして鍛えているのか……」
「先生のあんな顔……怒られた時でも、見たことない」
少なくとも子供たちからはそう思えたし、僅かばかりの畏怖すら覚えた。
だが同時に、達人の強さの秘訣とは、これほどまでに険しさを極めるものなのだと理解して。
裏でここまでの努力。勝てない訳だ――――口には出さずとも、一緒にそんなことを考える。
『追い越すのは、もう少し先だな』内心に言葉を溶かして立ち去ろうとした、その時だった。
「――リクっ!!」
「へ?」
イツにどん、と突き飛ばされる。リクは何が起こったかまるでわからなかったが、体勢を崩しながら彼と離れていくうちに、だんだんとその行動のわけが浮き彫りになっていった。
視界に入る毒々しい紫の拳が、自分の残像を打ち壊す様を視認できた。
「な――!?」
「くそ、ついてないな……!」
発声が追い付く頃には、しりもち。その姿は七歳が見上げるには大きすぎるし、立ち向かうには強すぎる。
眠りを妨げられて、ひどく激昂した野生の“ニドキング”が、リクの眼前で咆哮を上げた。
「ひ……!」「っ、ココドラ!」そこからのイツは、早い。爛々と輝かせた目で弟弟子を睨みつける背中へモンスターボールをぶつけ、
「こっち向けよ……、デカブツ!」
注意を己へと引く。ささくれ立っている気には覿面に効いた。じだんだ踏むようにその場で暴れた後に“つのでつく”で突っ込む巨躯。
汗を拭い、相殺狙いでココドラへ“ずつき”の指示を送るも、生憎レベルが違い過ぎた。最終進化ポケモンとたねポケモンの差では、打ち消しどころか小傷一つ残せなくて。
いや、それ以前の問題だ。こうも体格が異なれば、そもそも勝負にすらならない。
「ココドラーーーっ!!」
三輪車がトレーラーにぶつかった。いまひとつの効き目とは思えないほどの衝撃がそのままダメージに結び付き、木へと叩き付けられる。
ニドキングは敵を一撃で片付けたのを確認すると、今度は近くにいたリクへと向いて、その角を鋭く光らせて。
「は、は……わ……!」
「リク、コイキングを出せ! 早く!」
役立つかどうかは、関係ない。ただ丸腰でいるよりも、うんとましには違いない。
そんな意図を伝えるものの、恐怖でそれどころではない。抜けた腰と震える肩がそれをよく伝えている。
ただ眼光に痺れて、襲われるのを待つばかり。だが無理もないし、責められないだろう。バトルの経験が浅い子供には、到底重荷な相手なのだから。
そんな事情も知らないで突っ込んでくるのだから、世界というものは残酷だ。
「――“おんがえし”!」
リク。イツが名を叫んだ刹那のこと。
側面から突進する我が身を、文字通り横槍にしてニドキングへくらわせた。
『ガルァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!』
紫を上回る茶の巨体――ガルーラは敵を弾き飛ばした後に、森を揺らすほどの大声で吠えた。
驚く鳥ポケモンが木の隙間から逃げていき、陸上のポケモンたちは地響きに慄いて巣穴深くへこもった。ニドキングとて例外ではなく、尻尾を巻いたかと思えば、大慌てでどこぞへと駆けていった。
ひらり、と一枚の木の葉が落ちて、頭に乗る。二人して急すぎる沈黙に戸惑っていると、音がようやく聞こえてきた。
「……まったく、困ったがきんちょ共だよ」
足音からの、呆れ声。
どちらもネリネのものであったことは、言うまでもない。
指一本でたんこぶを作れるのは、世界広しといえどこの人ぐらいだろうと思う。今後とも推していきたい言説。
痛む頭頂部から吹く煙は、夜に出歩いたことに対する折檻なのか、こそこそとつけ回したことに対する折檻なのか、それとも危険を冒したことに対する折檻なのか……まるで教えてくれない。
豪華なアイスクリームよろしく三段重ねになっているので、もしかしたらその全部なのかもしれない。尤も得な話と喜べないのに、違いはないが。
「こんなことを教えた覚えはないんだけどねえ、あたしは」
「先生に、早く追い付きたくて……そのために、その……秘密を探って……」
「生意気言うんじゃないよ。たかが半年そこらで弟子に越えられるなんて、たまったもんじゃないさね」
悩め、もう少し。ネリネはそう言って、に、と僅かに歯を覗かせてから、見晴らしのいい目先を望む。
唯一の木の下から見えるカロスの首都『ミアレシティ』の夜景は、少年らが目を覚ますのに十分な眩さだった。果てしなく遠いのに、輝くシンボル『プリズムタワー』もしっかりと把握できる。
「すごい……」
「気に入ったかい? あたしの秘密の修行場所」
「……はい」
「そりゃよかった。せっかくだ、もう少し見ていこっか」
鈴虫がのんびりと唄ってる。居合わせた蛍は穏やかな宵闇に流れるそのメロディに合わせ、涼しげに舞って踊った。
あぐらと、三角座り。先生を挟んで座って、明日の修行のことについて話してみたり、この頃思っていることを語らってみたり、あそこはどうだとか、あれはどうだとか、彼方の光一つ一つに指をさしながら、その正体を当てる遊びをしてみたり。
また初めて見る顔。楽しそうな顔。子供と一緒になって、目を糸みたいにして頬を綻ばせる、そんな顔。
隣り合う純粋で可愛らしい笑みは、長らく空いていた胸の隙間を、埋めてくれた気がした。
「そういえば――先生は、どうして俺達に『イツ』と『リク』という名前を付けたんですか?」
近況、世間、子弟の出会いと乱雑に転がってきた話題は、やがて弟子たちの名に触れた。
イツもリクも、ネリネの背におぶさった時には、名無しの子だった。
一人は望んで捨て去り、一人はそもそも付けられなかったという。どちらもそうなるまでにはとても深淵な経緯が控えているのだが、
「ああ、ありゃ名付けじゃないよ」
当の彼女が初めて彼らを呼んだ時の心境は、浅いばかりか単純明快そのものなようで。
「五番目に拾った名前のない子供だから
「……もしや、イチやフタも」
「そうさ、同じ由来」
「まるで番号……」
「わかりやすくていいだろう? あたしは物覚えが悪いんだ、勘弁しとくれよ」
「歳だから、ですか」
リクのたんこぶが四段になった。いよいよ意識が飛んでいきそうになる。
きちんと呼吸が出来ているあたり、どうも謝罪は間に合ったようだ。
いざ聞いてみれば「何かあるのかな」なんて気にしていたのが馬鹿みたいに思えたけど、同時に彼女らしいな、とも思ったり。
「……何より、あたしは誰かに真っ当な名を背負わせてやれるほど、出来た人間でもないのさ」
ぽそりと漏らした小さな独り言を確かに聞いたが、リクは考えないことにした。きっと今はまだ、それに思いを巡らす必要がないだろうから。
なんとなく横顔を見つめていると、その瞳が大きくなったのがわかった。何かを見た際の明確なリアクションに釣られて、同じ方へと顔向ける。
「流星群だ!」
上、空だった。敷かれた濃紺いっぱいに広がる星たちが鮮明にまたたいて、三つの吃驚を連れて天駆けていく。
欠片だらけの海が放つ根源の煌めきは、望遠鏡なんかなくたって壮大で、美麗で、少年たちの水晶を磨き上げるには十分どころか十二分で。言葉にならないまま連れ出される感動の声が、その証拠。
不意に色めくありふれた日常を、閉口も忘れて味わった。
無駄なものがないからより素敵に映るし、知らなかったからより有り難く思える。そして愛しい誰かが一緒だから――、
「ふふっ」
「せ、先生!?」
「わっ……!」
きっと楽しく、幸せに感じられる。そういうものなんだろう。
ネリネはきゅっと二人を抱いて、緑の布団の上に仰向けで寝転がった。
「流れ星って言ったら、願い事だろう? ほら、終わっちゃう前に願いなよ!」
柔らかな腕枕に、包まれる頭。イツもリクも、心底愉快そうな大の字に抗うことはしなかった。
それは淡く香る優しい匂いのせいかもしれないし、前へ前へと無邪気に弾んでいく言葉のせいかもしれない。
「願い事は秘密、口に出しちゃ叶わなくなるかもしれないからね。ついでにここでの事も、みんなには内緒だよ」
どちらにせよ。
「それじゃ、約束だ」
心地いいことには変わりなかったので、今はただ、この温もりに溺れておくことにした。
小指を結び付けた後に、親指も共に合わせる。そんな指切り。
「不思議な形だ」と宣ってみたら、これがネリネ流だよ、と滅茶苦茶な理屈で突き返されたのは、強く印象に残る記憶の一ページとなった。
これからの一生、死ぬまで残り続けるのだろう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
イツは、先生は、あの時星空に何を願ったのか。
あれからこのことについては話していないから、今や知る由もない。ひょっとしたら覚えてすらいないのかもしれない。
でも彼は、リクだけは違う。
幼い自分の願い事をはっきりと覚えているし、忘れようがない。前へと進めない現状を作る理由を簡単に失念できるわけがないし、考えた途端に立ち止まってしまった原因を容易に放棄出来るはずもない。
世界から無意味と唾棄されたこの命を、なおも繋ぎ止めてくれる生き甲斐を――捨てられる道理なぞ、ない。
「だからこの問題は――――ってことになる。いいね?」
どんなに同門が、瞳いっぱいに希望を満たして夢を語ったとしても。皆に認められて笑顔で巣立っていったとしても。
自分には、何の感慨も沸いてこない。祝えることだなんて、思えないから。
成長したくないし、先へと行きたくない。どんなに怒られ小馬鹿にされようが、自分は今に縋ってる。縋ってたい。
皆が前を向く中で――自分だけは、ずっと横を向いている。昔から変わらず隣で歩く、彼女を見ている。
「で、あるからして――」
だって、僕は。
「ってリク、あんた! 今度はちゃんと聞いてるのかい? ご希望ならメシの当番もやってもらっていいんだけど!?」
ずっとこの人の傍にいたいと、思ってしまったから。
「ち、ちゃんと聞いてます! 大丈夫です!」
嗚呼、そうだ。
僕はこの人に――――焦がれている。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「だー! かー! ら! いくら名のある石職人だろうとねえ! メガストーンは作り出せないって言ってるじゃないか!」
「いや、形にはなっているんだ! 試すだけでいい! 純粋なメガシンカの使い手による品質試験さえ通れば、より良いものが出来るはずなんだ! 人助けと思って、お願いだ!」
「ダメだ! 神仏の奇跡にも等しい力を人工的に増やそうだなんて、罰当たりにもほどがあるさね! 帰んな!」
屋敷の玄関で固まる同門らが気になって、リクも人だかりの一部になった。
「どうしたの? 午前からすごい騒がしいけど……」
「まーたあの石職人だよ」
「ああ……、手作りしたメガストーンを勧めてくる人」
掃除の最中だったが、今ならば手を止めてもネリネに叱られないと確信が持てる。だって来客を捌いている最中だから。
彼女が向き合って激しく言葉をぶつける相手は、ここ数週間、ずっと自作したメガストーンを「性能を知るため使ってほしい」と頼み込んでくる石職人の男。
なんでもこの超常的な力の量産を目論んでいるそうで、最終的には売り物にしようとしているらしい。
「懲りないよなぁ……メガストーンは地球に存在しない解明不能な物質で構成されてるってのにさ」
「偉い学者ですらわからないものを、造れるわけないのにね……」
「もう言葉は要らないよ、出てってもらおうか!」「あいだだだだ!」男は耳を掴まれ、ネリネに額面通りつまみ出される。何度追い返しても来るから、今回だって手放しに喜べないが。
必死なのに加え、子供にすら『経営の建て直し』という魂胆が見透かされているのだから、哀れでならない。
「くう、痛いッ…………この……、このッ! 若作り暴力ババアがァーーーーーーーーッ!」
「もっかい言ってみろコラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」
捨て台詞を吐いて逃げる男を、追いかけていった。
「あー、ついに言っちゃったよ……」
「ありゃいよいよだぜ、明日からはもう顔を見ることもねえや」
「送別会でついでに祝っとくか、ハハハ」
思い思いの言葉で会話しながら去っていくのを見送って、自分も掃除に戻ろう――そんな風に思った時だった。
「――
それが自分を呼ぶ声だと認識したのは、本能で。
返事よりも先に、振り向いていた。
「……
「(青毛……イツのことか……?)」
開けっ放しになった玄関口の縁に寄りかかり、腕を組んで佇む派手な旗服姿。
『澄んだ沼』――――初対面で感じたその女を一言で表すならば、こうだ。
穢れをまるで感じず、見通しが良くて純度が高いはずなのに――まるで底が捉えられない。
今話しているこの瞬間でさえ、出てくる言葉が。見える面向きが。発される風情が。何もかもが
「となればあとは光だが……さて、主はどちらの輝きに咲くか」
ふんわり漂う花の色香は気を抜けば絆されてしまいそうになるが、鼻先に残る師の匂いを懐かしんで、踏みとどまって。
「……ああ、決めた。決めたぞ。どちらも咲かせよう」
毒々しくも華麗で、棘が無くとも命を傷付ける。
「そしてどちらの
「……あなたは、誰ですか」
リクは掴めぬ実態が抱えるただならぬ気配に背筋から怯えながら、口を開いた。
「石職人の、関係者ですか」すかさず追及を続けるが、答えずに向けられた背中。
それに納得がいかなくて、少しだけ語調を険しくする。
「ちょっと」
「それでいい。今はな」
去り際でようやっとこぎ着けた会話だったが、何一つ情報を引き出せなくて。
「ではな童。近々、また会うことになろう」
肩越しに一方的な約束だけ取り付けられて、その邂逅は終わりを迎える。
上手には言えないけれど、嫌な感じがした。リクはそんな感想を飲み込んで、閉じていた拳を警戒と一緒に緩めた。