ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~   作:裏腹

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03.決戦前夜

 継承式に向かって、それぞれの時間が過ぎていく。

 誰が何をして、どう思って、どんなことを言って、泣いても、笑っても。時計の針は否応なしに約束の日に迫って、人々を急き立てる。

 そんな中、忙しくも充たされた残り少ない日常を生きるうち、少年たちはとうとう継承式を翌日に控える“送別会”の日を迎えることになった。

 送別会もまた継承式同様、心道塾が開催する恒例行事である。

 文字通り惜別を断って、継承式に出る二人を笑顔で送り出すための祝いの会合だ。この日ばかりはネリネも自給自足一辺倒になることをやめ、町中からかき集めた上等な馳走で、夜遅くまで騒いで踊る。

 塾生らは催される都度、皆を楽しませるための余興を発表せねばならないという決まりが設けられており、それもあってか会は毎度のように盛り上がる。延いては誰もが今日を楽しみにするし、実際に皆機嫌がいい。

 

「きのみ、籠一杯になったよ」

「勝手に戻ればいいだろう。いちいち報告するな、鬱陶しい」

「ミカヤは『二人で持ってこい』って言ってた」

「段取りがスムーズになるほど、準備も早く済むだろうが。少しは自分で判断して行動しろ、愚図」

 

 勿論例によって、イツとリクは除くのだが。

 パーティーの主役であっても、働くことは変わらない。掃除や洗濯に流した汗を拭って迎えた午後、イツとリクはいつものように夕餉へ向け、樹林できのみを拾い集めていた。他の塾生も野草やきのこ、魚を探して山中を散り散りに巡って、少しでも送別会を豪華なものにしようとしている。

 彼らの好意には感謝するが、わざわざ不仲な二人を一緒にするなんて、何を考えているんだ。リクは肺から溜めた息を抜きながら、内心で唱える。

 そう信じないとやっていられない訳ではないが、何か特別な意味があるのだろう、と思うことにした。

 別に、出まかせの心情を転がしているのではない。今まで一度もそんな真似をされたことがない、過去の覚えに頼るだけだ。

 

「ねえ、イツ」

「今度はなんだ」

 

 だから、と言うことはないけれど。

 

「僕らが先生と一緒に、願い事した日のことを――――覚えてる?」

 

 リクは最後と思って、喉につかえていたイツへの言葉を吐き出した。

 鳥ポケモンの囀りをかき分けて耳朶を打つ問いは、一瞬だが確かにイツの手を止める。目が合わない背中越しでも、その様子を確かに捉えた。

 明日の継承式が終われば、残ろうが去ろうが、どのみち彼と自分は別れてしまう。未来ある十歳の子供にすれば、些か大袈裟な話かもしれない。それでもリクにとっては、大切な思い出を共有した大事な仲間で。たった一日違いでネリネ一門に入り、苦楽を共にしてきた家族で。

 それはどれだけきつく当たられ、口汚く罵られようと変わらない。されど絆だと――そう信じて疑わない。

 

「ああ……そんなこともあったな。それが?」

「僕は、知りたいんだ。あの日、あの時、君が先生の隣で何を願ったのかを」

「下らんな。今話すことか?」

「今だから、だよ」

「何?」

 

「だって僕らは……明日きり、じゃないか」離れ離れになる前に。傍からいなくなってしまう前に。心残りを取り除く。納得してさよならを言う。

 だからリクは、数か月ぶりにイツと視線を重ね合わせた。洗い浚い打ち明けられる、思いの丈を求めて。

 

「ますます下らん。俺は何も思い残していない。故に、通り過ぎた時間にしがみつく真似もしない」

 

「お前と違ってな」響く付け足しの発話は、リクの鼓膜を穿って頭の奥深くに突き刺さった。

 目を見開いたのは、振り向いた少年の目尻が尖っていたからではない。思い通りの答えが返ってこなかったからでも、ない。

 

「――……へ?」

「俺が何も見ていないと。他人の気持ちなど知りはしまいと。自分だけが周囲のことを考えていると」

 

 一度も自分の喉から出していないはずの、自分の言葉が。

 

「そう思っていたのか?」

 

 他人の口から出てきたからだ。

 曇天の色が濃くなる。日輪が付け入る切れ間さえ、許さぬほどに。

 

「な……に、を」

「この際だ、教えてやるよ。俺がお前を見限ったのは、お前が継承者候補に選ばれたからでも、お前が出来ない奴だからでもない」

 

 バランス取ることもままならなくなって、小突かれたみたいに一歩後退った。嗤いながら落ちるのは、知らず知らずに取った傷んだ果実。

 どうして自分が透けているのか、わからない。なんで腹の底まで手を突っ込まれて自己が引きずり出されているのか、理解できない。

 

「――あの日のお前が、何も願わなかったと知ったからだ」

 

 一生懸命偽ったものが、がらがらと音を立て崩れていく。

「作ろう」って繕って、「黙れ」と脅して無理矢理騙した生まれない卵の殻が、べりべりと剥がされていく。

 

「お前は今いる場所が幸せで、心地良くて、離れたくない。優れなければ、成長しなければ、変わらなければ、認められなければ永遠に“そこ”にいられると思っている。そうなんだろう?」

「ち、違う」

「だから味のなくなった退屈を噛み締め続けて、とっくに色が抜けた毎日を平凡に這ってなんとなく生きてる」

「違う! 僕は――!」

「たとえ先生がそれを望んでいないと知っていても、だ」

 

 継承式なんざ、ほんとはどうでもいいんだろ? 何がどう違うんだ?

 突き刺されて立ち尽くす。イツの言葉に繋がる口は消えてしまった。

 そうやって散々嘯いていた心の現在地は、自分よりもずっと自分を見ていた友に、呆気なく開示される。

 空虚に押し潰されてしまいそうな自分を、高い月明かりに隠したのに。星の海に流したのに。奇跡に涙する感動を演じて、装って、泣きそうな顔をぼやけさせたのに。

 

「この恩知らずが。弱虫、腰抜け、臆病者」

 

 どうして、追いかけてくるんだろう。叩きのめしにくるんだろう。

 既に叶っている事を願うなんて卑怯だと、咎めてくるんだろう。

 わざと取り残されるなんて最低だと、責めてくるんだろう。

 

「負け犬が」

「――わああああああッ!!」

 

 そんなもの。そんなこと。自分が一番わかってる。

 瞳が水分でいっぱいになる前に、リクはイツへと殴り掛かっていた。

 誤魔化したかった。

 見失ってほしかった。

 忘れてほしかった。

 

 ――情けないままで、いたかった。

 

 どこっ。リクの腕は伸びきることなく、イツの拳とすれ違った瞬間に止まった。

 冗談じゃないほどに鈍い音が響くのは、返す側も本気の証。

 強さの格差が生み出す予定調和に従って、一発腹に捻じ込まれる。

 

「いっ……!」

「図星か。いいんだな、それで」

「う、う~~~~~~っ!!」

 

 唾液よりも先に、涙がぽたりと土に零れた。

 うずくまりかけた肉体を強引に御し、上げ直した泣きっ面で睨んだ無表情へ、今一度握り手を振りかざす。

 

「ぶぅっ」

 

 至らなかった。すり抜ける眼光が近づいたかと思えば、今度は顔面にげんこつ。イツが振り抜いた腕はそのままリクを張り倒し、背負っていた籠を中身ごと吹き飛ばす。忽ちきのみが八方に転がった。鼻血がたらりと垂れてきた。

 どしゃ、とあえなく柔い地面に仰向く友へ、

 

「……お前は、生みの親に拘束され、三日三晩殴られ続けたことはあるか?」

 

 そう問いかけて、マウントポジションを取った。

 

「とても痛かったよ。いっそくたばってしまった方がマシと思えるほどにな」

 

 そのまま息を抜く暇すら与えず、一、二、三、四、五発。

 口も切れてしまったらしい。内部から血が流れている。

 

「でかい図体に圧し掛かられて、手籠めにされたことはあるか?」

 

 視界が痛みと雫で無茶苦茶になっても、彼の言葉は止まなくて。次いで出る額に、額を打たれた。

 

「心底苦しかったよ。脳みそが弾け飛んじまいそうだった」

 

 襟を持ち上げられ、図らずも肉迫した少年の眼。それは禍々しい憎悪に歪んでいた。

 汚れた鏡に映って、リクは思い知る。自分が、本当は何一つ知らなかったことを。

 

「一度しか言わないから、よく聞け。俺があの日願ったのはな、“強さ”だ」

 

 友から見える世界も。

 

「この世はどうやら、親ってものが子を踏みにじるのが正しいらしくてな。思ったよりも意味がないらしい」

 

 同門が思っていたことも。

 

「だから俺は復讐する。このクソみたいな世界に抗う。ここで強さを手に入れてな」

 

 仲間が目指していた、場所も。

 

 

「なあ、わかるか? 俺には背負うものがあるんだよ。目を向けることすら放棄した奴が――、うろつくな」

 

 

 ――全部全部、知った気になっていただけだ。

 

『馬鹿みたいだ』

 

 リクはただ濡れる目を腕で覆って、一人息を殺して泣いていた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ジョウト地方の風情溢れる床材『畳』と、装飾品『屏風』。長らく使っていなかったが、電灯はまだまだ元気なようだ。発光が金に反射される様子を見て、確信する。

 お屋敷は久方ぶりの封印解除。

「イツとリクの門出を祝って、乾杯!」ネリネの一声が威勢よく跳ねると、グラスとグラスが鳴り響いた。

 沢山の皿を乗せたテーブル複数と、それを囲う人々で、その賑わいは保証されている。

 西の果てに日が消えるのとほぼ同時で、心道塾送別会は座敷にて始まった。

「イツ、リク、おめでとう!」「ま、どっちかはただただうめえ飯を食うだけだけどな!」「経験者は言うことが違うね……」

 残留する塾生らに思い思いの言葉をかけられ、候補生二人はそれぞれの反応を返していく。

 

「しかし、最後の最後までお前らってば仲悪いのな」

「ほんとだよ~、主役とは思えない顔してる」

「だから、僕は転んで怪我しただけだって……」

「あっちは、そうは言ってなかったけどね」

 

 周りに手当ての跡を笑われてから、遠い斜め向かいを眺めるリク。詳細こそわからないが、イツは素っ気なくも仲間たちの労いに「ああ」や「おう」と返事していた。

 

「派手にやり合うのは控えろよ~? 明日まで取っとけよな」

「うん、大丈夫……わかってる」

 

 視線が合う前に、そっと目を背ける。

 

「何より楽しい席なんだからさ、パーッとやろ! ほらリクも笑って笑って!」

 

 無理難題だなあ。余計に内心がこんがらがってしまった先刻を想起しながら、ジュースごと独白を飲んだ。

 

 

 

 談笑が幾つも重なる。伴う笑声は連なって、部屋いっぱいに満ち満ちた。

 普段の節制もあってか、豪華な料理の減りは早い。美食に舌鼓を打ちながらも、子供たちが食べかす一つ残さず皿を空けていく様子を見れば、師の教育の質というものが窺える。

 徐々につつくものが減っていき、やがて半分になった頃。待ちに待った余興の開幕が告げられた。

 キルリアを用いたマジックショーや、エイパムと共に行う軽業、コロトックの鳴き声を伴奏にした歌唱など、創意工夫が凝らされた芸の数々は、祝いの席に華を添える。

 

「黙ってろ、ドベ」

『ドウシテソンナコトヲイウンダ!』

「弱虫コイキングが。いっそむしタイプにでもなった方がいいんじゃないのか?」

『コイキングハヨワムシジャナイ! バカニスルナ! バカニスルナ!』

 

 中でも、

 

「だはははははは!! すっげえ似てるわ!!」

「ひい、ひい……もう、ほんと上手……いひっ、あはははは!!」

「せ、先生まで……! おいお前ら、笑うな! 俺はこんなに気取った喋り方はしないッ!!」

「えー、続きまして『イツとリクが絶対言わないこと』」

『サキニシャワーアビテコイヨ! サキニシャワーアビテコイヨ!』

「あははははは!」

「おい、やめろ! おいッ!!」

 

 調教が行き届いたペラップの“おしゃべり”を活用したイツとリクの物真似は大変に受け、ここ一番の盛り上がりを見せた。

 送別会は、そうして終盤へと向かっていく。

 夜もいい具合に更けて、ポチエナが遠吠えを初めても不思議ではなくなる時間。酒を飲んでいるわけでもないのに、まるで酔っぱらったようにテーブルの端で眠りこける塾生も出てきて、ようやく会場にも落ち着きが見え始める。

 こじ開けられた静寂をより広げるために、リクはトイレへ行くと嘘を言って“いつもの中庭”へと訪れていた。

 とてもじゃないが、思考の整理がついていなかったから。

 こんなにも取っ散らかった頭蓋の中で、継承式なんて出来るわけがない。皆と素直に、面白おかしく飲み続けられるはずがない。だから逃げるように一人になった。

「おいで」なったらなったで寂しかったから、池にボールを投げ込んで、コイキングを放す。

 記憶に刻まれ続けたお決まりの動作ゆえに、造作もない。

 

「……なあ、君は離れたい?」

 

 心の準備は出来ているかい? ぶら下げた意図を、気付いてくれそうにない。ただ顔出して見つめるばかりで、鳴き声一つ発さない。

 

「僕は……どうしたら、いいんだろうね」

 

 こうやって、幾つもの松に見守られるのも。ぼんやり光る灯篭の熱を感じるのも。鹿威しに耳澄まして、すいすいと泳ぐ相棒をじっと眺めるのも。

 終わりたくない。終わらせたくない。

 瞼の裏には、まだあの人がいる。

 怒っていようが、笑おうが、泣こうが、喜ぼうとも。脳裏にあの人が焼き付いている。いつでも顔を思い出せる。握った温もりが残ってる。

 背負われたまま通った落ち葉の絨毯も、その先にある(ちがや)の一本道だって、そうだ。あの風景、匂い、肌触り――空気の味さえ、片時も忘れたことなどない。だって、その日から自分の帰路になったのだから。

 先生は自分の生きる意味なのだ。命を回してくれる、原動力なのだ。

 

『たとえ先生がそれを望んでいないと知っていても、だ』

 

 たやすく手放せる筈など、ないのだ。

 

「……憎しみを持ったまま旅立つことだって、先生は望んでないに決まってるじゃないかぁ……」

 

 ――だから見当違いの苦しい反論を、居もしない相手に投げつけるのだ。

 リクは結局、いつも通りに泣いてしまう。ぼろぼろと大きい涙を溢し、息を詰まらせて。

 師を思うことが最善と知りつつ、それでも駄々っ子みたいに「嫌だ」と漏らす。そうして“出来ない人”に成りすましただけの“やらない人”は、逃げ場を失った。

「どうすれば、いいのさ……」分かり切っている利己を御しきれないのは、こんなにも罪でもどかしいのかと、初めて水面の自分と向き合って、考える。

 

「リク」

 

 なればこそ、すぐ後ろに近付くまで、彼は師の存在に気付けなかった。

 

「まったく、しょうがない子だね」

 

 振り返った先のネリネはため息を微笑に混ぜて、つむじに掌を置いた。

 

 

 

 縁側から、二人で満月を望んでいる。

 涙は止まっても、まだ湿り気が多分に残る瞳には光が溜まって、ゆらゆらと揺らぐ。

 

「どうして泣いてたんだい?」

「……泣いていません」

「寂しいから?」

「……はい」

 

 問い質されても「誰と離れて寂しいのか」までは言わずに、あくまでも相手を「皆」とぼかした。少しずるいけれど、彼女を悲しませたくないから。

 ぐすん、と垂れそうな鼻水をすすっていると、

 

「わかるよ。あたしだってそうだものね」

 

 静かに同意を示すネリネ。

 その横顔は、ひどく意外に映った。

「送り出す度に、悲しいよ。いつまで経っても慣れやしない」情けない態度を咎められることも覚悟していた身には、特に。

 

「そりゃあ、出来る事ならずっと傍に置いておきたいさね。それでも仕方ない。あたしは誰かの傍で一生を約束してやれるだけ、立派じゃないからさ」

「そんなことない。先生は素敵な人です」

「おや、口説いているのかい? ありがたい話だね」

「なっ、そ、そんなつもりは……っ!」

 

 ありがとう。くすりとしながら頬に添えた手の親指で、雫の残りを拭ってやった。それからのネリネが始めるのは、愛弟子が今まで聞きたくても聞けなかった、昔話。

 

「――あたしにはね、子供がいたんだ」

 

 彼女が先生と呼ばれるまでに歩んできた、道程の記憶。

 

「お母さん、だったんですか」

「うん。って言っても、生まれる前に居なくなっちゃったんだけど」

 

 不幸な事故だった。ケンタロスが引く牛車に、己が轢かれてしまったばかりに。

 

「誰も悪くなかったはずなんだけれどもね――行き場のない理不尽に対する怒りってのは、どうやっても募ってくばかりでさ。あたしはそれがポケモンに向いてしまった」

 

 何日も何日も、虚ろだけが残る腹を押さえて、泣いて喚いた。

 

「いっぱい恨んだよ。何もしていないのに、ただ生きているだけなのに、あたしには酷く憎たらしく見えた」

 

 何度も何度も、出会う度に傷付けて、踏みにじろうと思った。

 

「そのうち旦那がくたばって、一人になって――考え事をする時間が増えて。漠然とだけど『このままじゃいけないな』って思ったのさ」

 

 だから、ポケモンを持った。

 子を想う親の心を、思い出そうとした。

 

「彼らと解り合って、そして許そうとした。その心を鍛えようとした」

 

 進みたかったんだ。

 

「あんた達はね、あたしが一人で頑張れそうになかったから、身勝手で拾ってきたに過ぎないんだ」

 

 ざらついた手のまま、我が子を抱いていたくなかったから。

 

「その笑顔と一緒に歩いてりゃ、乗り越えられる気がした。成長していく姿を見れば、前を向ける気がした」

 

 青空の向こうで見ているあの子に、目を背けていたくなかったから。

 

「そしてそれは、間違いじゃなかった」

 

 共に過ごすうちに、愛しくなった。ごっこ遊びだったとしても、親というものを体験できた。

 桜花舞う春も、蝉時雨賑わう夏も、紅葉包む秋も、白雪積もる冬も――――日に日に笑うことが楽しくなった。

 暁色に昨日を振り返って、橙色に今日を惜しんで、紺碧色には明日が待ちきれなくなって。この腕で彼らを包み込むことが幸せで、しょうがなくて。

 

「あたしは――与えたつもりが、与えられていたんだ」

 

 救ったつもりが、救われていたんだ。

「あの日の事、覚えているかい?」押し寄せる情動の波の中、流れてきた問いを聞き逃さないで、リクは「はい」と小さく頷いた。

 今更どの日か、なんて迷ったりはしない。自分を自分にする、ただ一つの思い出ゆえに。

 

「『一人前になって、子供たちに胸張って名を付けられますように』……それが、あたしの願いなんだ」

「……言ったら、叶わなくなります」

「いいさね。もう、叶った」

「……!」

 

 その言葉の意味で、ただでさえ混濁していたリクの胸中は、余計にかき混ぜられた。

 

「ようやっと前を向けたからさ。手始めとして明日の継承者に、それを贈る。わかりやすさなんかくそくらえな、ネリネの子第一号の名前をね」

 

 それでも、ぐちゃぐちゃの撹拌が続くうちに――己という器の底に眠っていた真意が、少しずつ浮いて上がってきた。

 

「んぁあ、だからって頑張れとは言わないよ。辛いだろうから。でもねリク、これだけは伝えさせておくれ」

 

 自分さえまだ一度も手に出来ていない、形も感触もわからない自分が。

 

「――――ありがとう、ね」

 

 抱き締められて、顕になった。

 その時、彼は、どんな顔をしていただろうか。それはきっと彼にしかわからない。

 

「……はい」

 

 先生にも見せず、ただ強く抱き返して、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 送別会は、終わりを迎えた。だがそればかりではない。今日という日も過ぎ去りかけていて。

 三年間の積み重ねを、捨て去ろうとは考えない。彼にだって思い返すことはあるから。

 イツは最後の一日の最後の一時間を、庭園で過ごしていた。物思いにふけっているのだ。

 生ぬるい夜風が寝間着の隙間に入り込んでも、構いはしない。敬愛する恩師との決別にも、全てを分かち合った友とのさよならにも、必要のないものだから。

 決意を胸に入れ込んで、瞑想じみた閉目を終わらせる。

 

「念入りなことだ。よほどの腹積もりと見える」

「……貴様」

 

 そうして面を上げた時、最初に見えたのは謎の女の姿であった。

 やたらと花に絡めた言い回しをしてくる、ドレスの女。イツは彼女を、石職人の仲間として覚えていた。

「どこから入って来た」「そんなもの、些末事よな」問いかけを無碍にして、真正面から歩み寄ってくるそんな相手へお見舞いする、正拳突き。

 ばしん、と快音こそ響いたものの、踏み込んだ一発は開いた扇子で容易に止められる。

 

「な、に……っ!?」

「止せ。手折るにはまだ早かろうて。妾はこのような不毛を成すために現れたのではないぞ」

「だったら、何を……ぐっ!」

 

 何度力を入れても進んでいかない手を弾かれ、無理矢理会話の機会を作られた。

 

「受け取れ。明日にでも、すぐに主を助けてくれようて」

「これは……」

 

 差し出された『メガストーン』と『メガリング』を見て、愕然とする。

 同時に腑に落ちて、不敵に笑って。

 

「……そうか。先生を通さずして、力を必要としているであろう俺にこの紛い物を直接渡しに来たということか」

 

 だがイツは返事を待たずして、それの受け取りを拒んだ。

 

「しかし、侮りすぎだ。俺は与えられただけの力など使わない。己の強さには結びつかんからな」

「……、ふっ、はっはっは!」

「何がおかしい」

 

 忽ち上がる嘲りにも似た笑声に疑問をぶつけると、女は仕返しよろしくにまりと歯を覗かせた。

 

「誇り高さで以て美とするやいい。が、それはいずれ首を絞めることになるぞ?」

「……なんだと?」

「“この力”は、まだ制御もままなっておらぬ。それを手懐け支配することこそ、主が唱える『己の強さ』とやらの証明になるのではないか?」

 

「なあ……、童よ?」抱き込む少年の耳元で、艶やかな形を成した甘い息がふう、とかかる。

 畳んだ扇子をしまい、持ち上げた掌に力を渡して見せる様は、まるで悪魔が人に知恵を授けているようで。

 闇の盟約に、一瞬だけ。イツの意識は唆されてしまった。手中の極彩色に、魅入ってしまった。

 ずっと欲しがっていたものだから。望んでいたもの、だから。

 またも意趣返しか、少年が答えを出すよりも先に、さっさと歩いていく女。

 

「待て!」

 

 それを引きとめ、訊ねたいこと。何故継承式のことを知っているのか。どうして力を授けようとするのか。そしてなんでそれが自分なのか――色々あるけれど。

 

「貴様は、何者だ……!?」

 

 まず只者と呼ぶには無理が過ぎた、悪魔さえ凌駕するその気配の正体を、探ろうとした。

 

「ふむ。すぐに忘れようが……教えてやろう」

 

 どこからか桃の花びらが発され、舞う。塵も埃も蔑ろにし、周囲を華々しく輝かせるそれに包まれながら、

 

「『イーノ』――――美しきを愛でる者。故に努めよ、童」

 

 女は振り向きざまに自らの名だけを置いて、どこぞへと消えた。

『花咲く明日を、楽しみにしておるぞ』

 

「フン……言われるまでもない」

 

 メガストーンごと残されたイーノの言葉を拳に握り、歩いていく。向かう先は、当然――明日。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 言いたいこと全て、言い合って。

 考えていたこと全て、答え合わせて。

 陽はまた昇って、新たな日の誕生を祝福する。

 前向きであれ、後ろ向きであれ、見合う二人に迷いはなく、後悔もない。

 ただ同輩と師が見守る中で、導き出した“心”を求め、己の“道”をひたすら進むだけ。

 

 

「――これより、第五回『心道塾』継承式を開始する!」

 

 

「両者、前へ!」まだ見ぬ第五継承者を占う決戦の日は、晴れ晴れとしていた。

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