ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~ 作:裏腹
二人と二匹が、睨み合っていた。
唸り声が水面を不穏に揺らす。悪意が怪しげな風を呼び出して、陽を翳らせる。
子供が放つ岩陰からの視線を一手に受けながら交錯する言葉は、今なお積み重なっていく。
「イツ、もう一回だけ訊くよ。あんたはそんな紛い物で満足する気かい?」
「紛い物が本物を打倒する……これ以上に力を示せる場面がありますか?」
「ちゃんと本物だって、認めてくれてるんだね。嬉しいよ」
「だからこそ、あなたの考えには落胆した……嘆かわしいし、とても残念だ!」
言い切りの語調を強めて、左手首のリングを右手で包み込んだ。
「我が矛となりて、悉くを打ち砕け――メガシンカ!!」
すると、指の隙間から漏れ出る輝き。それは浴びた者の目を覚まし、繭を作って、その存在を輪郭ごと閉じ込めた。
そうして完成した虹色の卵は、敵意を明確に映し出す工程を経て孵る。
眩さで目を覆うと同時に、弾け飛んだ殻。重く響く産声が、立ち会う人々の耳を劈いた。
空気が巻き上がる。
『ドルァアアアアアアアアアアアアッ!!!!』
終いに鋼の上から着込む
「おお……!!」
頭上に浮かんで消える二重螺旋の模様は、紛う事なきメガシンカ成功の証左。それを確認し、石職人は興奮で声を大にする。
「成功だ……やはり奇跡の模倣は、可能だったのだ! 素晴らしい!」そんな喧しさを尻目に、イーノは眉一つ動かすことなく、静かにそれを見ていた。
「(種を撒き、水もやった。十分な光もある。さて……ここからだ。主は何を見せてくれる?)」
どんな色の、香りの花を咲かせる? 内心で唱える。
「最初で最後の反抗期、か」
相対するネリネもまた、虹色の光を開放した。
二つの髪留めから伸びる、絆を表すかのような極彩色の糸が、先ほどと同じようにポケモンを包んで繭を編み込む。
「おしおきだね」木霊する瞬間の発散、覚醒。
「いいよ。あたしは親として初めての、あんたは子として終わりの。そんな親子喧嘩を始めようじゃないか」
袋から出てきた子供が成長すると、ガルーラという名は大小二体の勇姿を指すものへと早変わり。
「俺に親なんて要りませんよ、先生。一人で生きていけるから」
睨み合いも、ほどほどに。
「そのために――俺はずっと、ここで鍛えてきたんだ!!」
そう言わんばかりに吠え立て、地を殴った。
ばふん。砂煙が舞う。叩き起こされて火急的に顔出した地盤を持ち上げ、叫ぶボスゴドラ。それは投擲の予備動作で。
「“シャドーボール”!」
飛んでくる出鱈目なサイズの土塊を、親子して放つ影の砲弾にて破壊する。
『グラアアアアアアアアアアアッ!!』『ゴオオオオオオオオオオオオオッ!!』
砕け散って次々と降ってくる攻撃の残骸も厭わず、両者は前進、勢いのままに組み合った。
ぎりぎりと緊張を固めていく競り合い。最中に親ガルーラは片目の開きを甘くし、引き替えに歯を食い縛った。
ぐらつく片足でわかる、力負け。メガシンカでより質量を増したボスゴドラ相手に、真正面からの力押しは苦しいものがあった。
「行きな!」状態を知ったネリネが爪先で足場を叩くと、子ガルーラが親の背中目掛けて猛ダッシュ。親の尻尾というジャンプ台に高く打ち上げられると、鮮やかにボスゴドラの上を取った。
「“グロウパンチ”!」
仰ぐ視線と下る視線が重なった瞬間、ボスゴドラの頭に凄まじい衝撃が走る。
はがねタイプにとっては文字通りの大打撃となる、かくとうタイプの技が炸裂――。
「な……!」
したはずなのだが、ボスゴドラはびくともしなかった。
ばかりか、親を変わらぬ力で黙らせたまま、すぐ傍で着地した子ガルーラへ尻尾の反撃を浴びせて見せた。
『がるるーっ!』野太い一発に殴られ、吹き飛ぶ。
「こいつの“フィルター”という特性を知ってますか、先生」
イツは起き上がる子ガルーラへの目くばせを、束の間のものにした。
「不利な相性の技をくらった際、そのダメージを軽減する……原種では『バリヤード』系列のポケモン、つまり二種しか保有していない稀少な特性です」
「だからか……」
素での耐久値に加えて、装甲に成されたその仕掛け。要塞の堅牢さをも凌ぐ圧倒的な防御力は、彼を構成するその何もかもが、ただそれだけのためにあるからに他ならない。
さしずめ最強の盾。メガボスゴドラは、守ることに力の全てを回したのだ。
「でも、こっちは負けてやる気が毛ほどもなくてね!」
しかし、ネリネは怯まない。腐らぬ表情が指示するは、シャドーボール。
至近の口元でチャージが始まる闇色のエネルギーは、
「“10まんボルト”!」
ボスゴドラからも次の行動を引き出して。
巨大化した二本角に、苛烈な電気が溜まる。ビリビリと黄色く爆ぜるそれは、今にも獲物を焼き切りそう。
だが、それは叶わない。
『いけ!!』
何故ならば、相殺の意図が込められているから。
二つの声が同時に上がってから放たれる、それぞれの技。両者はごくごく短い時間ながら濃密に絡み合って、双方を食い潰し合った。
寂しく残る爆音と煙だけが、二体を次なる展開へと連れていく。
ふりだしという、展開へ。
「メガシンカしても、対等か……」
「言っとくけど、あたしに勝てる日はまだまだ先さね。ちょっぴり気が早かったね」
「ああ、さすが先生だ」
奔る衝撃に引き剥がされ、戻ってくる反目。
「俺は、今でもあなたを尊敬している。いや……その強さに憧れなかった日など、ない」
「そうかい、そりゃどうも」
「だが強さは時として周りを見えなくする。間違いを起こさせる」
「今の、あなたのように!」付け足す言葉が、それに伴う手が、今一度ボスゴドラを奔らせた。どうにも休憩に甘えるつもりはないらしい。
「故に俺は弟子として、あなたの過ちを正します」
「どうも、あんたは人の台詞を取るのが好きらしいね」
爪先で二度地を打つのは、親への指示。
肯う親が子を掴んで構えると、その場で一歩踏み込んだ。どしん、と音立てる足はそのまま着いた地面を抉って、腕の力を強める手伝いをする。
そのまま雄叫びと共に上げた肩を思いきりスイング、そうして子供がぶん投げられた。
幾層もの空気の膜をぶち破って飛んでいく先は、真正面の鎧の怪獣だ。
「かかったな!」
急制動からの“ステルスロック”は、子ガルーラの先行を呼んでの事。
目の前に散らした装甲の欠片は、一度通るだけで肉を削り落とす鑢の壁へと変容し、突っ込んでくる餌に向かって待ち遠しそうに口を開ける。
「“ふぶき”!」
そんなこと、親が許さない。後方からの援護射撃が絶大な効果を発揮するのは、イツにしても予想外で。
そもそも子供への命中を巧みに避けてその雪風を通すなど、まったく想像だにしていなくて。
びゅおお、と鳴る音が続けざまに連れてくるのは、金属片がびきびきと悲鳴を上げながら凍結していく光景。子が至った頃には、薄氷みたいに砕け散った。
ステルスロックの果てで振るうグロウパンチは、ボスゴドラのどてっぱらへ一直線。
「やるかよ!!」
いくら運動エネルギーを味方に付けていると言っても、まだ力関係は覆らない。ボスゴドラは当てがう拳で子供を弾き飛ばして、事実を知らしめる。
再び開いた距離。体勢を崩したところで10まんボルトを――。
「っ!!?」
イツの独白を瞬時に吹き飛ばすものが、そこにはあった。
地面にぶつかる予定だった子を、滑り込みでがしりと受け止める影があった。
「あたしの教えってのは、こういうもんだよ」
「馬鹿な……!?」
ネリネだった。
一瞬でもタイミングを見誤れば、ボスゴドラの雷に焼かれる。そんな危険を冒して行う懐へのスライディング――。
あまりにも奇特な奇襲に、目を見開いて呆然とした。
「次は、どうだろうねえ!」見上げる師が不敵に笑って、子ガルーラをボールよろしく投げ上げた。
取り直す意識。まずい、防御を。ダメだ。間に合わな
「――“グロウパンチ”!!」
い。
真下からの、突き抜けるような特攻。二つの段階を経て上昇した攻撃力は、未だ押し合いを制するには足らないが、大半の生物に共通する急所『喉』を脅かすには十二分な強さで。
かち上げる拳が、悲鳴を引きずり出した。
「こんな、こんなふざけた真似が……ッ!!」
「おふざけじゃない!」
「!!」
今だけは、震える声を否定する。心を鬼にする。許せとは言わない。
子が道を逸れていく前に、本来の教えを説いてやらねばならないから。導いてやらねばならないから。
「これが、ネリネ流さね!!」
――それが、親の責任だから。
身を起こした師の頭上を、飛び越えていく巨体。メガガルーラの親の方。
彼女は道の先から送られてくる、そんな母の思いを乗せ、ありったけの力で「目を覚ませ」とボスゴドラを殴った。
オーラを纏った拳が、アッパーでひっくり返りかけの巨躯をさらにふっ飛ばす。すると砂の道に深い一本線が引かれて、続く茶の煙が惜しげもなくそれをなぞった。
そうやってある程度の距離を転げた後、怪獣は白目を剥いて起き上がらなくなった。
「ボスゴドラ!」
「イツ、もういいだろう。あんたの負けだよ」
「ぐっ……!」
どんなに愚かしい真似をしても、眼前に広がる現状が何を意味しているのか、それを理解出来ないほど馬鹿にはなれなかった。
尻についた汚れを払い、イツを見据えるネリネ。でも発した言葉は、耳まで届いていないように思えた。
何故なら当の少年は真横で伸びる相棒へ呼びかけ、
「おい、起きろ! お前はこんなもんじゃないだろ!? 負け続けて終わるような、そんな奴じゃないだろ!?」
今なお戦わせようとしているのだから。
端的に言えば、諦めが悪い。されど咎めず待つのは、彼女なりの温情か。
けれども現実は酷なもので、何度発破をかけても、叩いても揺すっても、立てないものは立てなくて。
「クソ! なんで……なんでだよ……ッ…………、俺の方が正しいのに……!」
であっても、並べられる負け惜しみ。振り向く彼の瞳には、悔し涙が滲んでいた。
「……帰るよ。そのにせもんを渡しな」
「俺はっ――、メガシンカを、扱えた。完璧に使いこなしてた」
震える声が遮って、ぶつ切りの言葉が遠ざける。
「力が……継承者としての資格が、あるんですよ!」
ネリネはとうとう不動でいることをやめた。決して弟子の言い訳が見苦しくなったのではない。
寧ろ逆で、彼の名誉を損なってやりたくなかったから。聞き分けのない子供が如き惨めさを、これ以上曝させたくなかったから。
「だってそうでしょう? 俺は強いんだ……この力で、俺を否定した奴ら全部、全部ぶち壊してやるんだ」
だから。
「だから、さぁ」
歩み寄った。
「こんなところで立ち止まる訳には――いかないんだよォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
「!?」足が止まったのは、その叫びが上がった瞬間のこと。
異常――僅かな時間で判断するには、それ以外の表現が思いつかなかった。
距離を取り、全貌を知る。イツのメガリングから、ねばつく泥のような、どす黒い波導が放たれたのだ。
触れる者を侵して壊してしまいそうな、そんな身の毛もよだつ嫌な『気』を携えたそれは忽ちに広がって、ボスゴドラを飲み込んだ。
浴びれば悪寒が走り、鳥肌さえ立つ風。漆黒の余波が場にいる人々の心情を不穏で埋め尽くす。
一人見上げるネリネはこれが何かを知っていた。希望と紙一重にある絶望の奇跡を、わかっていた。
イツを継承者に選ばなかった最大の理由であり、最も恐れていたこと。
「だからあたしは、あんたを継承者にしなかったんだよ」
暴走だ。
師の呟きも虚しく、弟子の従者は変質を始める。
めきめき。およそ生体から出ない異質な音を立てながら、歪んでいく輪郭。呻きが痛々しくなると、二本だった角が四本に増える。さらに巨大化する体は立ち上がり、背面から化物のような棘を幾つも生やしてやった後、いよいよ持ち主の理性を喰い殺した。
『ラ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!』
メガボスゴドラ第二形態の声は、濁っていた。
雨が降る――――空の鈍色が、摂理に抗って叫ぶ赤目の怪物の禍々しさに慄き、涙を流す。
「止めるよ、ガルーラ!」
『ガァルァァァァァァァァァァッ!!』『がるがるがああああう!!』
体格が倍以上にもなろうと怯まない。いや、きっと怯んではいけない。
ネリネが強い意志を宿して手を前に出すと、揃って猛進していく大小の獣。
まだ勝算は組み立てられる。グロウパンチで上げた“こうげき”の貯金は、未だ活きている。
「“10まんボルト”」
一瞬の一言は、詠唱になった。
「……――っ!!」
親子を瀕死にする魔法の、詠唱に。
一度の放電で、あらゆる状況を鑑みた勝利への算段を瓦解させる様は、まるで赤子の手を捻るようで。
悪意ある落雷によりガルーラが停止、伴う立場の逆転。主が駆け寄った先で、相棒はただ意識を失っていた。
「あんた……!」
「……ふふ、へへへっ。ははは! はははははは!!」
それを視認するため上がったイツの面は、口辺に大きな三日月を形作っていた。
交わって望む見開いた双眸が、すっかりぎらつく憎悪に歪む。
この期に及んで、少年は誰かを傷付けようとしていた。その怨嗟を、解き放っていた。両手を開いて、取り違えた力を嬉々として誇示していた。
「どうですか、先生! これが俺の積み重ねの結果ですよ! 心道塾で鍛え続けた――世界を焼き払う最強の力だ!」
「イツ、いい加減にしなよ……それ以上間違えると、あんたは帰ってこれなくなる!」
「構うものかよ。俺は今までずっと、このために生きていたんだ。この時のために、このどうしようもない命を取っておいたんだ!」
「俺は復讐のために! この地獄を耐えてきたんだッ!」絶叫にも似た咆哮と共に上がる、少年の呪詛。
それは先生の教えも。皆と過ごした時間も。命という言葉の意味でさえ、真黒くぐちゃぐちゃに塗り潰す。
「何もかも、悉く、森羅万象を、全てバラバラにしてやる! 滅茶苦茶にしてやる! 叩いて! 壊して! 踏んで潰して引き千切って――火を付けて! 跡形もなくなるほどに消し去ってやる!!」
これが、イツの腹の底。でろでろと吐き出された、誰も触れざるおぞましい本音。
いくら天からの雫が滂沱として降り注いでも、洗い流せそうにない。ただ淡々と、人の熱を奪い去っていくだけだ。
何度優しく語り掛けたって――彼は、変われなかった。
「イツ、止まれ。見るに堪えん……もう十分だろう」
「そうだよ、やめよう。こんなの何の意味もないよ……!」
「ああ? なんだ、お前ら。まさかこの俺とやる気か?」
雨音が激化する頃、見兼ねた弟子らも加わった。
「ばか、危険だから隠れてろって言ったろう!」
「ごめんなさい先生。でも私たちもほっとけないよ。だって……一緒に育ってきた、家族だから」
次々とネリネの前に、ボールから解放されたポケモンが立ち上がっていく。
「家族だ、仲間だ、友だ……どいつもこいつも、そればっかりだな。仲良しこよしのぬるま湯に浸かって、この残酷な世界から受けた仕打ちすら忘れちまった甘ったれの雑魚共が。……いいよ、ぶっ潰してやるよ。何もかも」
イツは、情緒を失っていた。
前に立つものは何もかもが障害で、討つべき敵で。壊してやらねば気が済まないし、踏み潰さなければ心が晴れない。そうすることでしか、自分を保てない。
人である事実の、形骸化。破壊衝動に身を任せる、本当の怪物。
「やれ、ボスゴドラ」
だからだろう。それ故だろう。
「いわなだ――」
彼が主へと、岩を投げたのは。
「――……は?」
自然の砲弾が、自分の真横の地面を穿った。イツが状況を認知できたのは、実に事が起こってから数秒後のことで。
衝撃に揺らいで、呆然とする。それほどまでに想定外だったから。
「……おい……何、してる……?」
振り向くボスゴドラの紅蓮の瞳は、同じ色の惨状を求めていた。
そこに誰がどうなるかなんて、そんな意識は介在していない。たとえ、主人であろうとも。
唸られて、イツはようやく気付く。
自分の傍に、ポケモンなどいなかったと。絆などなかったと。
「あ…………」
あったのは――ただ主のあり余る凄まじい憎しみを肩代わりし、見える全てを滅ぼさんと暴れ狂うだけの、復讐鬼だったと。
「っ、
「あんたたち、急いで離れな!」ネリネが至急の大声で避難を促しても、時すでに遅し。
完全に人の声を遮断したボスゴドラは勝手に動き出し、手当たり次第に向き直った景色の破壊を始めた。
「きゃああああああっ!」
「フウカ!!」
勢いよく散らした、手始めのステルスロック。それは逃げるために背を向けた塾生の一人を、ボロボロになるまで傷付ける。
「マスタータワーに避難するよ!」
その娘を抱き抱えて、門弟らと共に走るネリネ。
肩越しに見上げた空に、雨粒よりもうんと大きな岩石が沢山飛んでいた。ボスゴドラが力任せに投げ放つ、引きずり出した地盤であった。
それを悟ると、立ち止まる。
「先生?」
「ゴウ、フウカを頼めるかい。リクはマスタータワーの中にある“げんきのかけら”を取ってきておくれ」
「先生は、何を……!」
「あいつの注意を引く。こんなのがシャラの町中に出てごらんね……一大事だよ」
「無茶です! あんなのを一人で止めるなんて!」
「大丈夫だよ。ガルーラが回復すれば、まだ戦えるさね」
それに、と付け加えてから、
「まだ、イツが逃げられてないだろ!」
ただ一人、地響き止まぬ地獄絵図へと向かって走り出した。
「先生ダメだ、待って!!」
石職人は、戸惑っていた。この惨状の何一つとして、計算になかったからだ。
彼は純粋だった。ただ廃れ気味だった己の工房を立て直そうと、客から提案された新たな試みを行っただけ。
それなのに。ただそれだけ、なのに。
「何故だ…………どうして……こんな……」
立ち尽くすのは、彼もまた一緒であった。
「狂い咲きよな。ふむ……、ほんに好い眺めじゃ」
「貴様……ッ! こうなることを知っていたのか!? 知った上で、私にッ、このようなことを!!」
たまらず八つ当たるようにして、イーノに詰め寄る男。
物凄い形相だったが、イーノは上目でそれを嘲って、涼し気に言葉を返した。
「何故、支配できると思った?」
「なんだと……!!?」
「“これ”は人には過ぎたる力よ――――先人共が永い歴史の中で何度も、何度も究め、手中にせんと迫ってはしくじってきたもの。だのに、どうして何でもない一介の職人風情が、完全にモノに出来ると思った?」
「……ならば、お前は……、最初から……」
「少しその頭を回せば、判ろうになぁ」
そうやって露になる、心の底から愉悦を享受する笑みは、これまでに見せていた薄ら笑いの比ではなかった。
相好に乗る魔物のような本性、文字通りの“魔性”は、人のものであるかすら怪しくて。
やがてそれに夢をへし折られた男は、放心状態のままどこぞへと消えていく。
「邪魔が消えた。さあ、どうなることやら」独り言を連なる轟音に紛れさせ望むは、肩を落として失意に暮れる少年。
「おい……、止まれよ……」
ぽっかりと虚無だけが残る瞳は、瞬きの仕方さえ忘れてしまった。
「……なんで……言うこと、聞けよ……」
自分は、こんな怪物を生み出したかったのではない。
こんな、自分ですら御しきれない空っぽな存在を、育てていたのではない。
「俺は……」
ただ、強くなりたくて――。
次々に落ちてくる岩。歩くための道も、繋がるための道も、とっくに形を成していなかった。
穿たれて荒れる湖上で、ポケモンが力無く浮いていた。足跡だけが残って、何もかもが蹂躙されていく。
されどイツはひたすら無力に、相棒だった何かの背を仰ぐことしか出来なくて。
「俺、は……」
凶獣が、かつて主だった者の譫言へと、振り返った。
狂気に取って食われた自我に、苦楽と感情を共にした同胞を知る術はない。
ただ一つ覚えに大岩を構えて、投げることしか出来ない。
「……お前の……」
迸る敵愾心は、最終的に“いわなだれ”という形で放たれた。
避けなきゃ。理屈ではいくら分かっていても、絶望に蝕まれた体は指一本も動かなくて。
見上げるうちに、立ち尽くす間に、全身から力が抜けていく。
迫る灰の塊。言語力が霧散していく。意識がぼやけていく。視界が遠のいていく。
俺は。
オレは。
おれは。
「――――――――っ!!!!」
「へ……?」
温かい掌が、刹那の中で少年を突き飛ばした。
広くなる視野は、我に返る明確な証。時の流れが遅くなって、景色の変化をよりよく認識させてくれる。
その手の熱は、自分が今までに感じてきたもの。
今、目の前にいるその人の微笑みは――自分が今までに、知らず知らずで癒されてきたもの。
「――せん」
ズドン。咄嗟の発声を、衝撃の波がかき消した。
追いかけてきたリクが足を止める時。即ち、塵煙が晴れる時。
「先生ぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
――ネリネは俯せで、岩に押し潰されていた。
平常心を司る思考が焼き切れ、言葉を失ったまま駆け寄るリク。
腹から下がその鉱物に覆い隠され、全く見えない。
「あ、あ、ああ! ああああ!! うあああああああっ!!」
声が裏返った。隙間からべっとりとした赤黒の体液が広がると、リクはショックでかきむしった頭を抱える。流れる涙に気を配る余裕さえなくして。
だんだんと呼吸すらおぼつかなくなる少年の傍らで、しりもち付いたまま絶句する、庇われたもう一人の少年。
ぴくりとも動かない姿と、一言も発されない口を確かめるごとに、脳みそがパニックに満たされていく。
冷静さなど、とうに無くなっていた。そんなことも知らないで、ボスゴドラは次の一撃を三人目掛けて投げ撃った。
「“ぼうふう”!」
突如現れたピジョットが巨大な弾丸の軌道を逸らす。駆け付けた兄弟子のものであった。
「……!!」
「イツ、リク! 一旦避難しろ、先生をマスタータワーまで運ぶ!」
「ここは俺達でなんとかするから、手当てだ! 早くしろ!」
他の兄弟子らも駆けつけ、それぞれのポケモンでボスゴドラを相手取る。うち一匹のルカリオが大岩をどかすとネリネは解放、その勢いのまま見るに堪えない彼女の肉体を担ぎ上げ、マスタータワーへと走った。
伴う少年二人の表情は、死人のそれであった。
――骨が粉々に砕けて、内臓が潰れて。腹部より下が、丸ごと損傷していた。
医者は歩いて一時間の場所にあって、治癒を得意とするポケモンは周りに一体たりともいない。
「……血が、止まらないよぉ……」
そんな応急処置に、何の意味があるのだろうか。誰一人として答えられなかった。
門弟の一人が、涙声で言う。
いくら、止血を試みても。
どれだけ、包帯を巻いても。
何人の弟子が、瞳を濡らしても。
万一を考えて、マスタータワーの最上階まで運び込んでも。
「先生は――――もう――」
ネリネは仰向けのまま、動いてくれなくて。どんどん冷たくなっていくばかりで。
「――うわあああああああああああああああっ!!!!」
そんな言葉、嘘でも絶対に聞きたくなかった。
だから耳に入れなければ。大声で上書きしてしまえば。元凶を責め立てれば。
血潮が収まると思った。
「なんで、なんでだよ!?」
日に照らされる、柔らかくて白い浮雲のような頬をくしゃっと綻ばせて、また笑いかけてくれるんじゃないかと思った。
リクはイツの襟に掴みかかり、慟哭のままに糾弾する。
「そんな場合じゃない」なんて、ありきたりな咎めは受け付けない。そんなものは自分が一番知っているから。
「違う……俺は…………俺は、ただ……」
怒り任せで、放心状態の彼に叫んだって。
額を押し付けた先の空の瞳を睨みつけたって。
血が出るほどに歯を食い縛ったって、唇を震えさせたって。
わかってる、わかってるんだ。
「なんでなんだよおおおおおおおおおッ!!?」
あの日々にはもう、戻れないなんてこと。
されど、言葉にならない言葉を徒に吐き出すことがやめられない。
一度でも冷静さが返却されてしまえば、この身がずたずたに引き裂かれてしまいそうで。
「リ、ク」
薄い息に混じった儚い言霊が、力一杯に振りかざした拳を既のところで止めた。
「先生……!?」ネリネだった。
何かを言いたげな薄目と、微かに動く口。それを知るやいなや、リクは大急ぎで傍らの彼女に顔を近づける。
「お前は、優しい子だ……。そんなに怖い顔して、人に手を挙げちゃあ、いけないよ」
「は、……?」
「――許せ。あたしが
「……そんなこと……、今言うことじゃないでしょ……っ!?」
「イツ」続けて、まだ少しだけ言いなりになる首を、リクの隣へと傾けた。
「お前は……もう少し、周りを見ろ。お前が思うよりも……、世の中ってのはずっと生きやすくて、あったかいもんさね」
「先生、っごめんなさい……!」
「確かに、一瞬一瞬で……辛いことは、くる。それでも必ずいいことが、あるから。もっと世界に、目を向けとくれよ」
「俺……、俺はぁ……っ!!」
喀血が会話を遮る。ごぽ、と取り返しがつかない量の赤色が掌を汚すと、弟子たちはとうとう零れそうな涙を堪えきれなくなった。
というのにどこまでも穏やかで、清々しい表情でいる当人。その内心は、最早口にするまでもない。
「おまえたちは、あたしの誇りだ」
「……もう」
「自慢の、弟子だ」
「何も喋らなくて、いいですから……」
「何処へ行っても、きっと上手にやっていけるさね」
なんて顔してるんだい。消え入りそうな声で触れる泣き顔と、その指を包む小さな手。
「お願いだから、別れの話ばかりを、しないで下さい……」
「どっちみち、くたばるのを待つだけだったところで、あんたたちに出会えた。そして看取られるんだ……こんな幸せが、あるかい」
流れる雫は、頬を撫でる手を洗い流してやれない。
汚れた手は、頬を伝い流れる雫を拭ってやれない。
「僕は、あなたが全てだったんだ……」
死ぬはずだったということは、要らなかったということで。
「あなたがいたから、僕は生きていられたんだ」
そんな命に意味を与えてくれたのは、他でもないあなたでした。
「あなたが笑ってくれるから、僕は頑張れたんだ」
紆余曲折はあったけれど。あなたが手を握ってくれたから、ここまで歩いてこれた。
「あなたがいない明日を、僕は一体どうやって生きていけばいいんですか……」
世界の色に気付いて、それを愛せた。
「行かないでよぉ、先生ぇ……」
『灰色の明日を生きていけない』と、弱々しく言った。
『まだ傍にいてくれ』と、さめざめと泣きながらそう言った。
握った手を、頬からずっと離さない。されど沈黙の中で、魂と魂の隔たりは開いていく。
「……ったく、困った子だ」
もう、喋らないつもりだったのだけれど。
「――リク。よく、聞きな」
ネリネは最後の力を振り絞って、舌を動かし、声帯を振わす。
「最後の、教えだ」
視線をしっかり重ねた。頭を抱き寄せた。そうやって、言葉を紡ぐ。
「……――――――」
彼がこの先も、迷わないように。
一人で立って、歩けるように。
決して道を誤らないように。
前へ進んでいけるように。
自分が消えた世界でも、ちゃんと幸福でいられるように。
溢れ出す思いを願い事にして、彼へと伝えた。授けた。託した。
「――――ありがとう」
耳元でそう締めくくられたそれは、彼を今一度、静かに立ち上がらせた。
今聞いたことは、きっとすぐになんて飲み込めない。もしかすると一生かかっても無理なのかもしれない。
でも、往かねばいけないと思った。あるものを受け取ってしまったから。それをしっかりと背負ってしまったから。
「先生――」
故にリクは、再び走り出す。外へと向けて、飛び出していく。
「行ってきます」笑って目を閉じる師へ、そっと別れを告げて。
『こんにちは・さようなら・ありがとう・ごめんなさい・いただきます・ごちそうさまを、しっかり言うこと。言葉はいつでも他者との繋がりの基本になる。一時も欠かしちゃいけないよ』
螺旋階段を、一段、一段と駆け降りる。
『あんたは優しいけれど、怒ると手が付けられなくなる。少し立ち止まって、一呼吸置いてごらん。言われたこと、されたことを一回、ちゃんと整理するんだ。冷静さはきっと、この先のあんたをずっと助けてくれるはずだ』
保管室に入った。メガストーンを手に取る。
『あとね、したいこととか、してほしいことは、はっきりと言いな。人付き合いではとっても大事なことさね。詰まらずに言葉を紡げるようになったら、上出来だ』
そして、扉を開けた。外へ出た。門を潜った。
『これは、おまけだけど……飯はもっといっぱい食べるんだよ。大きくなれないし、何よりあたしは逞しい男が好きだからね』
雨にぬかるんだ大地でも、構わず踏みしめ、走っていく。
『最後に、渡すものがある――』
見えたボスゴドラは、変わらずに暴れ続けていた。
遠い光へと向かって、モンスターボールを全力で投げる。
「……リク!?」
「処置が済んだのか……!」
出現する
まずは、止める。そうしなければ何も始まらない。ちゃんと終わることすら叶わない。
だから彼は、友と並んで向き合った。怖くとも。どうにか出来る確証が無くとも。
「……僕に、出来るのか……」
まだ、吼えている。睨んでいる。憎んでいる。滅茶苦茶にしている。
地面が揺れて蠢くたびに、足が竦む。手が震えて、逃げ出したくなる。
固唾を飲んだ。そうして胸に抱くは――――ネリネの二つある
一つ目の、贈り物。
「メガシンカか!? 無茶だ!」
「練習もなしにやれば、イツのようになるぞ!!」
「わかってる。でも、やるしかない。止めるには……これしかないんだ!」
手中から発された極彩色の光が、ギャラドスの口内で転がるメガストーン“ギャラドスナイト”の輝きを呼び覚ます。
「ッ――!!」ばたばたと風に煽られる、濡れた髪。尋常じゃないエネルギーの奔流であった。少しでも気を抜けば、全身がバラバラに弾き飛んでしまいそう。
強烈な規模のそれは御しきれなくって、ともすれば使用者を弱気にして。
「僕は…………やっぱり……!!」
噛み締める歯が緩み、瞳を閉じかけた。
『――お前がお前であることを証す、たった一つのモノをやる』
その時だ。手の甲に、よく知る温もりを覚えたのは。
「! ……せん、せ……」
だが呼びかけて、気付く。
今、後ろから抱き締めるようにして自分の手を手で包む師は、きっと此処に在るものじゃない、と。
無音。無色。居ながらにして、触れられない――そういう存在である、と。
悟った少年は、はっとして息を詰まらせ、俯いた。
『ずっとずっと、我が子にくれてやりたかったものなんだ』
「……わかってる。大丈夫だよ――――大丈夫」
『あたしの大好きな、花の名前さね』
少しずつ背中が温かくなっていく。一度の吸気を通すごとに、幸せな思い出が遠ざかっていく。
面向いて覗いた先の優しい顔がにっこりと笑って、彼にしか聞こえない声で「またね」と発した。
「だから」
『気に入るかはわからないけれど……受け取ってくれると、嬉しいな』
その花言葉は“困難に打ち勝つ”或いは“ひたむきさ”――生涯をかけ試練と向き合い続けた彼女が、ずっとずっと胸の中で、大事に温めていたもの。
そしていつか我が子が出来た時に与えたかった、限りない感謝を示す第二の贈り物。
「どうか見届けて下さい、先生」
己を抱擁していた愛が、光の粒になって解けて、天へと昇っていく――。
戻らない昨日に「さようなら」と言って、落涙させて、微笑んで。
「取り合う手と手で、道行き照らせ――」
そうやって少年は前を向いて、受け継いで、また進んでいく。
『メガシンカ』静寂に響き渡って、煌めきが爆ぜた。
胴が逞しくなり、ヒレが翼のように肥大化。伸びた髭は、よりその姿を伝承の生き物に近付けた。
光の繭を突き破って出現したギャラドスは“メガギャラドス”となって、雄叫びを上げる。
「ネリネ一門継承者、サザンカ――――参ります」
降りしきる雨に打たれても。流れる世界に拒まれても。
僕は、生きていく――――“リク”改め“サザンカ”は、背負ったその名に誓い立てた。