ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~ 作:裏腹
湯気が立ち込める。
水流の音が鳴る。
熱が命の芯を、柔らかくしていく。
「……ふう」
広い世界の一部には、大きな器に溜めた湯に浸かる『入浴』という文化がある。
入浴のために使われる湯を“風呂”と呼び、入浴する行為を「風呂に入る」なんて言い換えをすることもある。
そしてその風呂に使用される湯が自然由来――つまり熱水泉のものであった場合、人々はそれを“温泉”と呼ぶ。
清潔を保つ行為として“シャワー”が定着しているラフエルに於いて、温泉は貴重なリフレッシュ手段であり、それを楽しめる場も大きく限られている。
シャルムシティの旅館『
『日照りで水不足に陥った際、大地から湧き出る温水を風呂として利用した』というホウエン地方の伝承がルーツになっているそうで、ホウエン人が流れてきたのと同時に、ラフエルにも伝わったと云われている。
コマーシャルでの“源泉掛け流し”の売り文句に誘われた人々が、本日も大浴場に押し掛ける。夏休みとあればさらに客は多くて、混んでいて。風苑亭は繁盛していた。
「少々騒がしいが……まあ、休暇とあらばこんなものか……」
様々な効能を持つ、数多の命の泉。刺激ある炭酸の内湯で血色を良くしながら、独り言を極めて小さく響かせる。
「それよりも――奴との話も終わったし、アレの受け渡しも済んだ。くくっ、無知というのはつくづく恐ろしいものだ」
小太りの男は、一人浴槽のふちに両肘を乗せながら、続けて呟いた。
名を『ハロルド』。ラフエルでも有数の富豪であり、たった一代にして同地方の不動産王にまで昇り詰めた『商いの天才』と目される男だ。他にも飲食や運送といった、生活に必要な事業にも抜け目なく手を付けており、人々の暮らしの中で彼が関わっている物事は決して少なくない。
それほどまでの男が、何故ここにいるのか。
「長い取引だった。後は機が熟すのを待つだけだ」
曰く、商売の完了。その祝い。そういう意図があるらしい。
だから先刻からこんなにも上機嫌だし、嫌な笑みを湛えている。
「せいぜい残り少ない時を楽しむがいい、選ばれなかった愚民共よ」
「フッ……ハハハ。ハハハハハハハハハハハハ!!」故に人目も憚らないで、高笑いを漏らしてしまう。
ハロルドは、とても悪い人の顔をしていた。
「だーーーーいぶッ!!!!」
「ハハハハババババボボボボボボ!!!!」
そしてとてつもない災難に、見舞われた。
突如として少年が眼前に飛び込んできたのだ。
津波のような飛沫に飲み込まれたハロルドは口と鼻に大ダメージを受け、げほげほとたまらず噎せた。
「っ、おい小僧! 何をする!!」
水面に顔を出したところを叱ってやると、
「うー、ごめんなさい……マーライオンだと思っちゃった……」
反省の弁はさておき、赤髪の少年はすぐに頭を下げた。
「それ見たことか。だから大人しくしろと言ったんだ」
「そうですね。そして今の言い訳もいけませんよ、カエンくん。マーライオンの失礼になってしまいます」
「いや失礼なのお前だよ」
続けてぞろぞろと炭酸の湯舟に入ってくる、男達。
午後五時――ハロルドが温泉で癒えるのと同じタイミングで、ジムリーダー達も大浴場に訪れていた。
ちゃぷん、という音が止むと、カイドウ、サザンカ、カエン、ランタナ、ユキナリは、一様に肩まで浸かる。
「ふうー……」思わず表情筋を緩ませて、声を漏らした。それだけ疲労が蓄積していた証明だろう。
頭に乗せた浴用タオルのずれを直すのも忘れ、心地を良くする一行。
暫しの静寂の中で湯煙を味わうと、深緑の長髪を女性よろしくタオルで包んだ男、サザンカは、一人仏頂面をするハロルドへと話しかけた。
「マーライオンさんも、休暇でこちらにいらっしゃったのでしょうか」
「いや言ってんじゃねえか。ハロルドだよ」
「はて……ハロルド?」
「フフ、よくぞ訊いてくれたな私の正体を」
「訊いておりませんが、聞きましょう。まったく訊いておりませんが」
小首を傾げるサザンカに名を呼ばれてスイッチが入ったか、ハロルドは得意になって己の事を話し始める。
「ラフエルの人々の衣食住を助け、ラジエスの新観光スポット『ハロルドタワー』を打ち立て、生きとし生ける者全ての未来を照らす、真に選ばれし資産家――――それがこの私、ハロルドだ。お前たちは運がいい、何せ今日ここで私と出会えたのだからな。この縁から知った名前、今後覚えておいて損はないぞ」
男の語り口は尊大で、ひどく偉ぶっていた。
高慢ちきと捉えられても仕方がないそれは、聞き手次第ではあまりに耳当たりが悪く、不快を催すもので。
「金持ちは優雅で上品だ」などという、庶民の先入観を一笑に付さんとするばかりの態度に、人々は開いた口が塞がらないものだ。
さりとて当人が辞めようとしないのは、何かと優位になりたがる、その気位の低さの所為なのかもしれない。
「なるほど……ところでマーライオンさん、ここへはどれくらいのペースで」
「人の話聞いてた??」
尤も彼らには意図から言葉、何から何まで伝わっていないようだが。
「せんせー! 人のなまえを間違えるのはしつれいなんだよ! ハローワールドさんにごめんなさいしないと!」
「ハロルドだ」
「お前達、うるさいぞ。ピロリだかポロリだか知らんが、無駄話もほどほどにしろ。今はゴロリくんなんてどうでもいい、限りある時間だ、疲労の回復に専念しろ」
「ハロルドね」
「ばっかお前、何回間違えてんだよ! すげえ人なんだから、そろそろ覚えろ! アーモンドさんキレるぞ!」
「ハロルドな。お前一番腹立つわ」
「すみません、悪気はないんです。単にこういう人らでして……僕が代わりにお詫びします、マーロルドさん」
「混ぜたね、すっごいマーライオンと混ぜたね」
立て続けに名を間違えられるうち、ハロルドは考えるのをやめた。
ボディタオルで体を洗う。手で髪の毛を洗う。鏡の前でそれぞれ綺麗な状態、文字通り生まれたままの姿に立ち戻っていく。
「ずっと気になっていたがお前達、もしやジムリーダーか?」
「そうなるな。まぁ慰安旅行ってとこだ」
「というか今更か。いちいち訊かれるのも面倒だ、ちゃんと覚えておけ」
「人の名前覚えない奴に言われたくねえんだよなあ」
各々風呂椅子に腰かけて鏡と向き合いながらも、言葉はちゃんと横並びする人間に届けている。
ハロルドはぼんやりとした既視感からなる疑念を、質問によって解消した。
そして少々の昂りを覚える内心。理由は簡単。
「……コスモスさんも、来ているのか?」
ラフエル地方の八人目は、卑しいお眼鏡のお気に入りだ。
彼が何に惹かれているのか。一切の他者を寄せ付けぬ強さか。それとも人形のようだと評される見目麗しさか。純潔さが滲む乙女じみた佇まいか。高貴な者の振る舞いか。ステータスか。
何一つわからないが、少なくとも彼が彼女に清々しい感情を抱いていないことは、確かなもので。
男でもなんとなくわかる。少なくとも、ランタナには。ハロルドという人間が、彼女の苦手とする格を持っているのだと、わかる。
「……来ているだろうなあ。そして、ステラさんもいるのではないか? いい、いい。一番高い酒を注文してやろう。お前たちにもだ」
好きなことになるとご機嫌になって、話を勝手に進めていく。とんでもなくわかりやすい男。
参ったなあ――どんな風に誤魔化せばいいんだ。ランタナは押し黙りながら、そんなことを考えている。
「フフ……たのしぐがぼぼぼばぼぼぼおぼろぼぼ!!!??!?!?」
「!!?」
その時。
ハロルドが洗顔の泡を流さんと、己の面へと向けたシャワーから、ハイドロカノンのような放水。
発言どころか呼吸すらままならない水圧は本人も想定外だったのだろう、目を回してひたすらに泡立った白水を吐き出した。陸にいながらに溺れる。
「ランタナにーちゃーん、全然シャワー出てこないよー! どうなってんのー!!」
元凶はカエンだった。シャンプーまみれの閉目状態で捻った蛇口が、隣――ハロルドのものだったのだ。
きゅっきゅっと尚も回り続けるハンドルは、際限なく水流を強め、ハロルドの顔面の穴という穴を侵略していく。
「カエン止めろ、それお前のじゃねえ!」
「ほら、沢山の水を吐いて……やっぱりマーライオンではありませんか。ふふ、合っていましたね、私」
「『ふふ』じゃねーんだよ! なんでちょっと嬉しそうなんだよ!!」
「まろやかさん!! 今助けます!!!」
「べっぶぉぶ、ばばべば、ばびばべぶぼば……」
ユキナリが急いで止めるも、気絶は免れなかった。
余談だが意識を手放す直前の彼が「結局、名前は、間違えるのか……」と言っていたと知る者は、どこにもいない。
小さな滝のように、伝う湯が流れてくる。
薄暮で灯った柔らかな照明は、見ているだけで落ち着く。ちゃぷん、という水の音と混じって、風情があると思う。しっとりした時が流れる女湯は、男湯と比べ物にならないほど静かであった。
「ふぁっくしゅ!」露天風呂にてくしゃみをするステラ。
「……大丈夫か? 肩まで浸かった方がいいぞ」
「そうですね、誰か噂でもしているのでしょうか……」
アサツキの促しを肯い、三角座りになってより縮こまった。
湯気越しに望むテルス山も、乙なものだと考える。コスモスは景色を頭の中に焼き付けながら、二人の方に向き直って、両手で湯を掬って。
「こういう白濁した温泉は、美肌効果があるんだそうですよ」
「なるほど」
看板に記された効能の欄を読んだだけの付け焼き刃な知識ではあるが、一生かけて美を求め続ける女性にとって、その言葉はさぞ魅力的なものだろう。
「滅多に体験できることではありませんから、なるべく長く浸かっていたいところですね」
「同意を示します」
「湯上がりには念を入れて写真を撮っておこうかしら。効果を実感したいわ」「そちらも、同意です」
彼女たちは、激務の日々と肩書きのせいで時折霞んでしまうが――年少で一七、年長でも二四の、うら若い乙女なのだ。
「そういや、さ。……風呂上がりに自撮りしたこと、あるか?」
「正直、あります」
「なんだかいけそうな雰囲気が出ますよね、まったく不思議なのですが」
「そうそう、それそれ! あれなんなんだろうな」
「で、いざ後から見返してみると大したことがない、的な」
「わかるわー、オレなんていっつもそれ」
人並みには可愛いを追いかけたいし、整った美しさが羨ましくなることもある。
「上がったら食事まで時間がありますし、ポケモンも交えて撮りあいっこなんていかがです?」
「っや、やる!」
「私も異論はありません。アサツキさんも思いの外、乗り気なようですし」
「っ! ほ、ほっとけ……!」
仲間内で集まって、何となしに話して、遊びたい時だって。
それが楽しくなってはしゃぐ時だって。当たり前に、ある。
「……と、友達みたいで……ちょっと嬉しくなったんだよ」
彼女たちもまた、ラフエルの未来を生きる若者であるが故に。
「――では明日は、お祭りで着用する浴衣を合わせに行くことを、提案します」
「うふふ、賛成です。勿論、
「……おう」
口元が隠れるほど浸かったアサツキは、くすくすと笑い合う二人の提案に照れながら頷いた。
温泉といえば卓球。誰が言ったか、今や当然になった組み合わせ。
卓球台の上、縦横無尽に駆け回るピンポン玉を見ていた。
休憩所で飲む湯上がりのモーモーミルクには、思わず喉が鳴ってしまう。
「ぶはーーーーー!!」
旅館浴衣の隙間から入り込む風も手伝い、極楽であったことに違いない。
「良い飲みっぷりですね。こちらもいかがですか?」
カラン、コロンと弾む音が止んだ。そうしてラケットを見せて誘ってくるサザンカとカエンだったが、
「いや、俺は見るだけにしとくよ。もう汗はかきたくないんでな」
返事の通りなので、ランタナは断ることに。
「そうですか。では楽しめる試合をお見せするため、頑張らなくてはいけませんね。カエンくん」
「よしゃ! 本気でいくぞ、せんせー!」
その言葉の後、ピンポン玉の存在が音でしか認識できなくなったのは、要らぬ余談だ。
「よっこらせ」相変わらずだな、と小上がりでごろ寝すると、すぐ傍のマッサージチェアから声が上がった。
「ところで、三人娘は何をしてるんだい?」
「男子禁制の秘密のお遊びだとよ」
「なんでしょうね、利きタピオカとかでしょうか」
「いい加減タピオカから離れろ」
そして卓球台から目を逸らす。
「若いってのは、いいもんだな」
「まるで、オッサンみたいな言い回しだね」
「な、なッ」
そこから図らずも意識を向ける先は、機械に体をほぐされながら、天井を仰いでいるユキナリ。
「あ、あんたにゃ言われたくねぇな!」
「あ~」なんて言って口を半開きにしながら、ツボ押しに委ねる様を見れば、余計にそう思ってしまうだろう。露骨な焦りを湛えて返すランタナだったが、対するユキナリはゆとりがあり余っていて。
「……なんて、それぐらいの歳では言いたくなるよね。僕もそうだった」
「うっ」
「でも今、君は寝そべる時に『よっこらせ』って言っていた」
「ぐう……!?」
「そして横向きに寝ながら尻をかいている。進行形でね」
「がはっ!」
反論すればするほど内容が悪あがきに聞こえてきて、なんだか首が締まっている気がしてきた。ので静かに突っ伏し、それ以上言葉を紡ぐことをやめた。
ぐうの音も出ない状態というのは、こういった過程を経て成り立っていくのだろう、などと妙な納得をする。
「ま、僕も通ってきた道だ。同じオッサン同士、仲良くしよう」
「腑に落ちねえし、認めたくねえなぁ……なんか」
ハハハ。ウェットかつ元気な笑い声。
ランタナは彼の余裕が欠片も解せなかったが、これもまた歳を重ねなければ得られないものと思うことにした。オッサンはオッサンで手に入るものがあると、言い聞かせることにした。
「……zzz」
『オッサンじゃん……』
ユキナリと隣り合うマッサージチェアから聞こえる一五歳のいびきは、彼ら以上の哀愁が漂っていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
食事は一流の料理人が作るものだった。
朝食がカロスやイッシュの料理『洋食』であるのに対し、今回頂く夕食はカントー、ジョウト、ホウエン文化を織り交ぜた料理『割烹』である。
見た目と味の調和に重きを置いた品が多いために和食とも呼ばれ、昨今の若者が追い求める要素、SNS映えにもきちんとしたアンサーを出しているのも特徴だ。
味付けは薄くこそれあれ、ベースを尊重した結果であり、最終的には活きた素材の旨みが「美味」と言わしめてくれるだろう。
彼らとてそれは例外ではなく、存分に飲んで食べて、大変良質な一時を過ごした。
腹が満足した後は男女で別々に取られた部屋に戻り、
「カエンお前、破産だな」
「えええええええ!? おれ、家まであったのにー!!?」
「よりにもよって将来有望な最年少がその言葉を聞くなんて……」
「何が起こるかわからない、これまた人生也……」
「ふん、身の丈に合わん豪邸を無理に買うからだ。こういうゲームはローリスクに立ち回るのが……」
「『通りすがったオカマにラリアットでぶっ倒される。気絶中にキャッシュカードを抜き取られ、持ち金の全額を失う』……だってよ、カイドウ」
「メーカーの電話番号を教えろッ!!」
ボードゲームで盛り上がるなり、トランプで駆け引きを行うなりして時間を使う。
無を入れたジュース缶と、中途半端に空いた菓子袋でテーブルが埋め尽くされた頃だろうか。あくび以外にすることがなくなって、男たちはようやく寝る準備を始めた。
散乱した荷物の中身を壁に寄せ、着替えも畳まない。遊んだボードゲームはとりあえずテーブルの下の隙間に捻じ込んだ。見ての通り本当は片付けが未完なのだが、男子は押しなべて活動限界までの行動配分が下手なものだから、仕方がないのかもしれない。
さっさと歯を磨いて布団に入って、電灯のスイッチを切った。
一方の女子たちはというと、消灯こそ早かったものの、未だ眠っていなかった。
「……ということで私の初恋の人は、語学教室の先生でした。八歳の頃だから歳も離れているし、転勤してしまったから叶っていないし、そもそも現実的ではないですが……」
「いいえ、かわいらしいと思います。私は好きです、そういう話」
並ぶ三つの布団で、動く川の字。美容に悪いと知りながらも、夜を更かして行う水入らずのガールズトークはやめられない。
トークテーマは『初恋』。彼女達の女子としての起源を知る、貴重な機会だろう。
一番槍のステラの相手は、十も離れた語学教室の講師だった。いつも穏やかで優しく、目線を合わせて丁寧な言葉遣いで話してくれる紳士的な男性だったという。
どれだけ体調を悪くしてスクールを休んでも、彼と会うために語学教室だけは一日たりとも欠かさず出席するほど、ステラ少女は熱を上げていたとか。
日々ラブレターを書いては消してを繰り返すうち、転勤してしまったらしい。実に淡い恋であった。
「次は、アサツキさんですね」
「……お、オレか……」
「どうかしましたか、とても言い辛そうな顔をして」コスモスだけの認識ではなかった。
とてもわかりやすい苦虫を噛み潰したような――いや、実際に噛み潰したのではないか、という程真に迫った表情。
アサツキは両脇の二人にそれを見られるのを嫌がって、仰向けになった。
「い、いやぁ、その、なんだ……」
「この期に及んで言わないなんて、なしですよ。私もちょっと恥ずかしかったんですから」
「し、喋るけどよぉ……」
とうとうステラに根負けし、話し始める。
「確か、六歳の時だ――」
鉄工所という必然的に男が溢れる環境は、幼い頃から彼女へ強い影響を与えていた。
「だ」「だろ」「じゃねえ」――時と場によっては失礼にあたる、俗にいう野郎言葉が周囲で日常的なコミュニケーションツールとして使われるうちに、彼女の言語野も図らずも乱暴なものとなってしまった。
加えて、当時から軽くありつつも簡単な力仕事を行っていたので、腕っぷしも強くて、逞しくて。
そんな自分の性質が“男勝り”だと気付いた頃には、彼女はもうほとんどの人から普通の女の子として扱われなくなっていた。
それが認められなかったアサツキ少女は深く傷付いたが、そんな中でも自分に優しくしてくれる人がいた。
何のことはない、同い年の近所の男の子。快活が形を為したような人で、明るく良識があり、誰にでも分け隔てなく接する人物だったそう。
「そいつは、いつでもオレを女扱いしてくれた」
魔法少女のキャラクターを好きだと打ち明けたら「かわいい」と言ってくれたし、ヘアピンやヘアゴムで髪型を決めた日は「似合ってる」と褒めてくれた。部屋に招いた際、女ものの服を見ても驚かず「着てほしい」と人の趣味を受け容れてくれた。
本当に人間が出来ていた子だったと、未だ思う。
彼と会う日があれば、前の夜は着ていく服で何時間と悩んだし、楽しみで眠ることさえ叶わなかったこともある。
手を繋げば鼓動は倍速になったし、顔も赤くなって、熱くなった。
その体験を通して恋を知ったし、誰かを好きになる、ということも学んだ。
彼が女の子でいる事の楽しさを教えてくれたと表現しても、過言ではなくて。
「そしたら『結婚しよう』ってさ」
そしてやがて、告白を受けた。あまりに飛躍したアプローチだったと、大人になってみれば思う。
それでも子供にとっては、必死に未熟な語彙を練り上げて、気持ちを伝えようとした結果で。
だから幼かった彼女もとにかく嬉しかったし、心の底から喜んだ。
「……そ、それで! どうなったんですか!」
「告白の、返事は?」
「こ……断ったよ」
「えええええええええ!?」
ステラは思わず上がった声を、コスモスの「しーっ」というジェスチャーで急いで引っ込めた。
「ど、どうして……? その流れは『うん』というところのはず……今でも続いていたかもしれませんのに……」
「い、いやあ、それ、なんだけどさ」
頬をかき、視線を漂わせ、言い淀む。
アサツキとて、そこで頷きたかった。OKと言っておけばまた違った現在があったのかもしれない。
だが、ちゃんと理由がある。断った、否、断らざるを得なかった確たる理由が。
それこそが話す事に乗り気になれない最大の原因であり、この渋々とした行き場ない面持ちの意味でもある。
「……そいつ、実は女の子だったんだ」
『ええええええええええ!?』
次という次は、さすがのコスモスも声が出た。
凄まじいオチだった。大どんでん返しだった。意地悪い考えだが、笑い話のネタにさえなるほどの着地点だ。
彼は彼女で、男だと思われた子は、男の恰好と女の子が好きな、女の子だった――という複雑怪奇な話。
「告白された時に初めて聞かされて……オレも、性別は気にしなかったぜ? 趣味だって、素直にいいなって思ったよ。実際に好きではあったけど……でも恋愛ってなっちまうと、話も変わってくるって」
「そう、そうですね……デリケートな問題ですものね……まして、幼心には衝撃でしょうし……」
「だから、その……ひ、人としては大好きだって言って……そのまま」
「聞いておいてなんですが、とても切ない気持ちになりますね。加えてどのような顔をしたらいいものか……」
「だから話すの迷ったんだよなぁ……」
そう呟いて枕元のヘルメットを抱き寄せ、ぐったりと伏せるアサツキ。失恋トークの後としては、満点の動作と言えよう。尤も誰も悪くなく、何も責めようがない悲しみに溢れたこの話を、失恋の二文字だけで片付けるべきかどうかは、一考の余地があるが。
ひとまず置いておいて、最後に話すはコスモス。とは言うものの、
「ごめんなさい、今のところ恋というものが抽象的にしかわからないので、私は忘れているか、まだ早いのだと思うわ」
記憶の中にそれらしいものはなかった。
引っ張っておいて申し訳ないと思いつつ、正直に言うしかない。
「本当ですか? 特定の殿方といると心が躍るとか、楽しいとか……」
「いるような、いないような……」
「ガキの頃、手を繋ぎたいと思った男子とかさ」
「……父、でしょうか」
歯切れの悪い問答が続く。
「そうですね……何か贈り物をしたいとか、そう思える相手はおりませんでしたか?」
「……あ」
「もしや?」
「いいえ、自分がそういった意図で贈り物をしたことはないのですが、幼少の頃にやたらと男子から花束をプレゼントされていたな……と」
「……ん?」
「あと『あなたといるとドキドキします』と周囲の殿方にひたすら言われていた時期もありました。自分が何か悪い感染症でもばら撒いているのかと不安になり、ドクターに診て頂いたことがあります」
「んん!?」
「しきりに握手を求められたこともあるわ……あれは恋だったのね。ずっと疑問だったので、理解出来て良かったです」
『モテモテじゃん……』
コスモスは恋する方でなく、される方。
また一つ、友人の新たな面を知った夜なのであった。