ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~   作:裏腹

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Episode Rainbow
∞.Raphel Octet


 日々が戻っていく。転んだ痛みに鈍くなって、擦りむいた悲しみも忘れて。

 まだ見ぬ明日に根拠のない期待を寄せて。これまで通り、これからを見据えて。

 太陽と月から、交互に見守られながら。

 今日も地球(ほし)は回っていく。

 

「やあお早う、天才殿。レポートをまとめている最中で誠に申し訳なく心苦しくてこの身が張り裂けそうだが、本日も元気に来客の対応をして頂こうか」

「政府とメディア関係者は断れと言ったはずだが。記憶すら出来なくなったか」

「ではないから言っているんだろうがッ! いいのか貴様、俺の一存で追い返すことなど容易なのだぞ!? おい! おいッ!」

 

 超常現象研究機関『CeReS』は今日も慌ただしい。

 ラボにて研究成果をまとめる三徹目のカイドウだが、振る舞いは驚くほどに変わらない。嫌味な同僚『ドルク』の相手であっても、それは例外ではなくて。

 

「大体な、世界を救っただかなんだか知らんが! 直接やったのはレニアとルシエのジムリーダーだそうではないか! お前は露払いをしていただけに過ぎん! 貢献しただけだ! いい気になっているようだが我々の本分は研究であってだな――」

 

 眼鏡を上にずらし、微睡む目を指で擦った。

 ドルクの捲し立てをよそに、いくらばかりかクリアーになった視界でラボのドアの方を見てみれば、見覚えしかない銀髪の少女。

 来客――シエルはひょっこりと顔だけ出して、少年を物言いたげに見つめていた。

 

 

 

「……これは?」

「ブリーのみジャムマーガリンサンド。朝ごはん、まだかと思って。ドルクって人が『これを渡しとけば間違いない』って言うから」

「そうか……、頂こう」

 

『……ワンパターンか』ドルクへのぼやきをシエルに吐いても仕方がないので、内心にとどめる。

 CeReSの庭のベンチに座りながら聞く用件は、何のことはない、彼女から彼へ向けた心配で。

 つい昨日には同じ理由でアルバという約半年ぶりの顔も拝んだ。

 カイドウは此度の戦闘の演算で脳に負担こそかけたが、二四時間のノンストップ睡眠のみで回復に成功しているからして「大丈夫だ」という返事で済ませる。

 しかしそれだけでは味気が無い、と話題に出したのは、

 

「……アレ(・・)、結局なんだったの?」

 

 数日前の、破滅の光についてのこと。

 彼女も避難の最中、この青空が黒に隠されているのを見た。身の毛がよだつ感触を視神経越しに覚えた。

 アレ、という抽象的な表現をしながらも、質問者が年齢不相応に賢いことを踏まえて『破滅の光の正体を問うている』と敏く捉え、カイドウは口内の食物を飲み込んでから開口する。

 

「……十中八九“Reオーラ”だ」

「Reオーラって……ラフエル地方の地底で流れてるっていう、虹色の光のこと……?」

 

 それは、彼女が目の当りにしたことがあるものと同列の力である、と言った。

 しかし彼女は腑に落ちない、何故なら、

 

「でも、あれは黒色の光だった。虹なんて綺麗さはなかった」

 

 奇跡にしては、色が全く異なっていた。かつてのアルバが見せたあの輝きとは、似ても似つかない。

 

「だろうな。が、今回の騒動で明らかになったことは多数あった。謎が明かされる都度、情報は形を変える」

 

 俺達は、一般の認識以上のモノを得られた――カイドウはまた朝食を一口運び、お供として購入したカフェオレで流し込んでから、続ける。

 

「Reオーラの正体は『波導』だ」

「……波導? ……ルカリオとかリオルが扱う、あの……?」

「そうだ。今回見られた様々なファクターを、これまでのReオーラについての検証結果と照らし合わせてみて、確定した……――アレは波導のそれと、まったく同質だった」

「……じゃあ、波導って何?」

 

 頷く。それについても回答を用意している証だ。

 

「波導とは、全ての生体が発する不定形にして不可視のエネルギーだ。少々オカルティックな言い回しになるが……ある時は『魂』と呼ばれ、ある者は『心』と表す。もっと俗に近づければ『雰囲気』や『気配』と云われることもある」

「それじゃあ、初対面の人に理由もなく『こわい』って思ったり、あまり知らない人になんとなく『優しそうだな』って感じたりするのも、私たちがその人の波導を読み取っているから……?」

「そういうことだ。特定の誰かといて活力が溢れたり、逆に悲観的な感情になったり……俺たちの心理的な働きの殆どは、この波導によるところが大きい」

 

 ずずず、と出し抜けにストローが音を出した。どうやら紙パックが空になったらしい。

 

「その他にも、生物非生物問わず損傷を回復させられるし、何かを動かすといった物理的干渉を行うことも出来る。さらに視覚を用いずに他者を視認することが出来たり、言語を超えた先でのコミュニケーションを取ることも可能だ。終いには空間を無視した長距離移動や、時の狭間を思いのままに行き来する……などという出鱈目な芸当も為せてしまう」

 

 尤も最後の二つは、まだ「らしい」止まりだがな。科学者としての、呆れ気味な注釈。

 

「ただ、様々な作用が存在するのは確かだ。不可視ではあるがちゃんと色があるし、不定形ではあるが一瞬一瞬で何かしらの形質を取る。それを思い通りに扱って、前述の現象を任意で発生させられるところまで、研究は至っていないが……観測だけは十分にされ、サンプルも大量にある」

 

 命を命たらしめんとするもの。生体の概念を“肉の塊”だけで終わらせぬ奇跡。生物の証明書。

 カイドウは一区切りつけた後、“波導”をこのように喩えた。

 されどシエルの疑問は、止まらない。己の「わからない」を消さんとして前のめりに聞きこんでいくあたり、ひょっとすると研究者気質なのかも。

 

「じゃあReオーラも、誰かの波導、ってこと……?」

「……それは俺が言わずとも、解るはずだ」

「ラフエル……?」

「間違いない」

 

 この地で暮らすならば、ヒントを出すまでもなくて。

 

「本来、生体が生物学的な死を迎えれば、波導も同様に失われるはずなのだがな……どうもラフエルのそれだけは、特別だったらしい。死して肉体が土に還ると、まるで器から溢した液体のように、その大地の隅々にまで流れて染み込んだ……」

 

 何がそうさせたのかは、わからない。

 ただ、古代人が持っていたという異能“奇跡”と関連があるのではないか、とCeReSの所長はあたりを付けている。現に今日もこの後、古代人についての資料を持った歴史学者が来訪するそう。

 

「その虹色の波導は、この土地に立つ誰かの波導と結び合って、無限に性質を変えていく。“キセキシンカ”は、そのうちの一つに過ぎない。虹とはいわば」

「……定まらない色」

「ああ。数学的アプローチで表現するならば『(エックス)』……どんな色にでもなり得る。目に優しい青にも、全てを塗り潰す黒にも」

「虹を黒に変えてしまう人も……世界を愛せない人も、いるんだね」

「当然だ。誰にとっても優しい世界なんてものは、存在しない」

 

 世界を愛せない人――その言葉で想起する存在は、きっとカイドウもシエルも一致している。

 生まれ落ちた場所の許容量がたまたま狭かったばかりに、優しさという舟から弾き出されてしまった彼。

 泳ぎ方を覚える前から波に浚われてしまって、光も届かぬ深い深い海の底で、泡を吐きながら溺れるしかなかった彼。

 忘れるはずがない、己の裏返しを。見失うはずがない、己の可能性を。

 何も初めから悪意を持っていた訳ではない。ただ、環境が脆くした。その脆さが罅を作った。そこから漏れてしまう闇だって、きっと少なくなくて。

 誰も、何も悪くない、不条理な不幸せ。

 これがあるから、未だに彼は世界を愛せない。人を愛してやれない。

 

「それでもカイドウくんは、ヒーローになってくれた」

「!」

「……悲しいこと、いっぱい知ってるのに」

 

 ――それでも。

 

「世界を見捨てないでくれて――――守ってくれて、ありがとう」

 

 少女は、青空を見ながら言った。

 呪わなかった彼に、感謝を告げた。

 強い友達を讃えて、横顔を綻ばせて、静かに讃えた。

 きっと大仰なのは嫌いだから。面と向かわれると、上手に物を言えない不器用だから。

 

「……消し去るしかなかったあいつの世界を、続けている。その責任があるだけだ」

 

 暫く目を伏してから、シエルと同じ景色を眺める。

 

「それに――――放り捨てるには、色んなものを持ちすぎた」

 

 海の青は、見飽きてる。

 だから空の青が、悪くない――そんな事をガラス越しで思いながら、カイドウは自由な浮き雲に言霊を隠した。

 友が消し去らなくてもいいと思えるような世界を、僅かばかりの夢にして。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「――で、結局俺らはお咎めなし、ってことか」

「正式な通達はまだだけれど、ステラが言うには『曲がりなりにも世界を救った英雄たちだから、贈るべきは叱責でなく賞賛だ』と、チャンピオンが上に陳情したらしいよ」

「噛み付いたってのに、口添えしてくれるなんてなぁ。坊ちゃんの懐の深さには感謝しかないね……足向けて寝らんねえや」

「ははは、失業がこわいなら途中でやめておけばよかったのに」

「一回啖呵切っといて引っ込むなんて、んなだせー真似ができるかよ……」

 

 シャルムジムの応接室に、ユキナリはいた。

 事件以降、連日政府関係者からの取り調べを受けているのだが、ネイヴュまで出向くには距離がありすぎるという理由で、直近の町であるシャルムシティでの滞在を命じられている。

 ランタナのついで、という形なのだろう。

 取り調べまでの暇を持て余した彼は、ランタナと一緒にテーブルを挟みチェスに興じる。

 窓からの光が指す盤上で、思い思いに動いて回る駒の軍隊。

 

「街の被害はどんな感じだい?」

 

 ポーンを一歩前に出す。

 

「こうやってジムリーダーが呑気に遊んでられる程度にゃ、元気してるよ」

 

 強気にナイトを高跳びさせた。

 

「まさか、PGを押さえるために全ての町に下っ端を投入してくるなんて、思っていなかった」

 

 そんな得意げな馬面をビショップで奪い取る。

 

「あーっ、待った!」

「残念。四回目だからね」

 

「っくしょ~、やっちまった……」通らぬ願いに渋い表情を見せながら、思考を再開した。

 

「……けどまぁ、どこも初動からの警戒があったから、被害はそこまで酷くなかったって話だ。何人かのトレーナーは有志で戦ってくれたらしいし、な」

 

 討ち取ったルークの底面をコトコトとテーブルに打ち付けるのは、きっと無意味な手癖。

 

「陽動目的だったのもあるんだろうけど……立て直しが早いのは、幸いなことだ」

 

 苦肉の策で逃がしたキングを、追い回し始める。

 

「しかしネイヴュの完全復興は、延期――時期未定ときたか」

「ああ……やってくれるよ、本当に」

 

 ばれない程度に混ぜたため息も、駒を動かす手の意気が死んでいれば、何の意味もなくて。

 いくら少ない被害といっても、地方規模で考えれば見て見ぬふりは通じない。十ある町で一ずつの被害に抑えられたとしても、結局直すべき箇所と、それに割く労力は十になる。

 ネイヴュでの復興作業にも遅延が出る結果と相成った。

 

「やることがいっぱいだ……」

 

 低い声音から滲む苦々しさが、物語る。復興祭で花火を上げられるのは、まだまだ先になりそうだ。

 使命があり、約束が待ち、奪還を掲げ、なおも駆けねばならない多難な前途。

 

「ま、手伝ってやるよ」

 

 自由な翼は、そんな氷獄の番人の重い宿命に薄々と気付きつつも、結局やっぱり面倒なので、

 

「気が向いたらな」

 

 頬杖ついた適度な構えで「適度にやれよ」とだけ伝えて、やんわり笑んだ。

 

「ああ……ありがとう」

 

 良くも悪くも、旅は続く。

 

「ところで、チェックメイト」

「……おお!? いつの間に!!?」

「ダメだよ、ちゃんと集中しないと」

「ま、待った!」

「待たないよ」

「くっそ、じゃもう一回! もう一回だ!」

「僕もそうしたいところだが、生憎そろそろ政府が来る」

「ちくしょう!!」

 

 彼らは終わりが来る日に、笑えるだろうか。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――――封印されしラフエル地方の歴史、即ちエイレム家が持つ“原典”は、世に出回ることはなかった。

 政府要人やポケモンリーグ、並びに一部ジムリーダー、そしてエイレムとセラビムの末裔を交えた会議で取り決められた事だ。

 引き続き外典を“陽の書”として語り継ぎ、“陰の書”たる原典をエイレムに任せる、という選択に落ち着く。

 偏に民の混乱を避けるためであり、復活の英雄が消え去った今、彼の者の影響でぶれかけた世界を元鞘に戻そうとしているのだと思う。聞こえは良くとも最終的には事なかれ主義。しかし最優でなくとも、最善ではあったと考える。

 

「続けて、被害者ですが……総じて五四名ほどが軽傷。死者はいませんでした」

「……そうか」

 

 少なくとも、同席したステラは。

 ラジエスの行きつけのカフェにて後の事をアサツキに説明しながら、コーヒーをちびりちびりと飲み進める。

 お堅い場所では喋りづらいかと思って回した気だったが、そもそも喋る質の人ではなかったと思い出しながら、報告書と睨めっこする。

 続くのは、バラル団についてのこと。

 

「PGが撤退する最中に数十人は逮捕したそうですが、全員下っ端。幹部はおろか班長すら捕らえられず、です」

「……けど、カエンのヤツが一番つえー幹部をやっつけたって言ってなかったか? 確か……」

「グライド、ですね。ですが逮捕には至らず、イズロードの気転によって逃げられました」

「……ふーん……」

 

 テーブルへの眼差しを遠くしながらホットミルクを一口含むと、ステラが俯いて総括する。

 

「……結局、何も変わりませんでした。世界を救えたこと、現在を英雄に認められたことは、確かに喜ぶべきことではあります。でも……」

 

 何も、変わっていない。ここに帰結する。

 バラル団という今を震わせる脅威は依然健在だし、人的被害は及ばないにしろ『雪解けの日』レベルの大事件を起こした。

 一過性かもしれないが、実際に直後である世間は恐慌に陥っている。これによって発生した事件や事故も既に数件ある。

 おまけにメディアも『世界を滅亡寸前にまで追い込んだ組織』と煽り立て、てんやわんや……といった状況。

 勝利と呼ぶには、成果が足りなさ過ぎた。

 

「彼らは、頭目を抜きにしてあれほどのことが出来てしまいます。崩壊する一歩手前まで、世界を追い込むことが出来ます」

 

 ステラとて言いたくはないし、考えたくもない。

 しかし日々増していく闇の強大さを改めて肌で感じた時、

 

「次に事が起こった時、私たちは……」

 

 ほんの少しだけ、揺らいでしまった。

「……ごめんなさい」柄にもなく弱気になる。

 当然、力を尽くすつもりではいる。されど、はたと、思ってしまったのだ。

 彼らが悉くを捨て去るほどの覚悟で、全てを懸けてぶつかってきた時――自分たちは皆を守れるのだろうか? と。

 簡単に出るはずがない結論だ。まず、これからというタイミングでこんなことは話すべきじゃない。

 両膝の上で拳を握って「失言でした」と撤回しようとした。

 

「……やるっきゃねぇだろ」

 

 そんな聖女をはっと見向かせる、琥珀色。

 答えは全部そこにあった。

 職人は多くの御託をがたがたと達者に抜かせないので、口よりも“こっち”で言った方が早い。

「嘘がつけない」と目に見える、純鉄みたいに光る双眸で語った方が、ずっと伝わりやすい。

 

「だって、やらないと終わらねぇんだから」

 

 一丁前な威勢で飾り付けた、内心を誤魔化す暗示よりも。耳だけが気持ちよくなる、刹那的な綺麗事よりも。

 まるでストレートパンチのようにシンプルで愚直な一言は、先細っていくステラの心を覚ました。

 どんな相手でも関係ない。

 倒れようが何度だってぶつかっていく。転んだ分にプラス一回で立ち上がる。

 明日に夢を描かない。昨日の傷に悲しまない。常に訪れる今日へひたむきに、真っ直ぐ前見て打ち込んでいく。

 行き止まりはこじ開けて往けばいい。ぬかるむ道は踏み続けていれば固まるし、明日は明日の風が吹く。

 

「……勝てねぇぞ。戦わねぇと、さ」

 

 誰に(うつ)けと嗤われようが、アサツキはいつでも変わらない。

 ドリンクを飲み干した。そうして空になったカップを重りに代金を置き、去っていく。

 別れ際でにっと歯を覗かせるのは、ぶっきらぼうなりの「一緒に頑張ろう」という激励か。

「ふふ……」笑みを溢して見送る背中。

 

「ええ、そうですね。あなたたちの輝きはこんなにも頼もしく、力強い……」

 

 そこには確かに、希望が見えた。

 

「だから――、きっと」

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 クシェルジムの道場では、相も変わらず修練が行われている。

 母屋では素手と素手の撃ち合う音が、それを囲う湖上では火と水の爆ぜ散る音が幾度と鳴り響く。

「休憩にしましょう」丸ごと一時間の組み手を終えたサザンカは、弟子のカエンやポケモン達と昼食を共にしていた。

「いただきます!」パン、と元気に両手を合わせてから頂く、串に刺さった焼き魚。

 ジム前の焚き火の傍らで、感謝しながら。おいしいと連呼しながら。笑顔で、口いっぱいに熱々を頬張る。

 夢を叶えても、世界を救っても、彼はいつも通りの振る舞いで、いつも通りの光景に生きている。

 

「英雄になったというのに、君は相変わらずですね」

「んー? どういうことだ?」

「ふふ……いいえ、なんでもありませんよ」

 

 何のことはない、自分だけが知る懐かしさに、少しだけ誇らしくなっただけ。

 サザンカはとある眼鏡のジャーナリストが置いて行った新聞の一面『華々しき英雄の再臨』を密かに眺めながら、ほんのり笑んだ。

 そうして喜ぶ。師に誇れる師になれたことを。誰にも誇れる弟子を持てたことを。

 

「……これからさ」

「?」

 

 されど、まだゴールではない。

 

「せんせーの言うとおり、おれ、ちゃんと英雄になった。でもまだ、これからなんだ」

 

 寧ろ彼にとっては、ここからがスタート。

 

「今度はみんながずっと、ずーっと笑える世界をつくる。カエン地方をつくる」

 

 憧れるスピードで追い抜く蜃気楼は、通過点でしかなくて。

 

「――あいつとした、約束だから」

 

 虹に煌めく足跡はこれからも続いていくし、鮮やかな新章の筆が止まることはない。

 勢いよく含んで、噛んで、飲み込んで。太陽に拳掲げて、輝く瞳で立ち上がる。

 

「待ってろよーっ! ぜったい叶えてやるからなー!」

 

 まだ見ぬ世界へ踏み出そう。新たな夢を語り合おう。築いた楽園でまた会おう。

 向かい風さえ巻き込んで――カエンはまだまだ、命を燃やす旅の途中。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「ごめんなさいねぇ、うちのコスモスちゃん、ちょっと今手が離せないみたいで……」

 

 銀の結い髪の女性が淑やかにそう言うと、スーツ姿の男たちは身を翻して去っていった。

 忙しない世情にあっても、エイレム邸は穏やかに、和やかに時間を刻んでいく。

 この優雅さは、きっと騒動を聞き付け一時的に帰ってきた先代当主――即ちコスモスの母『ヒメヨ』のお蔭なのであろう。

 

「奥様、お飲み物でございます」

「ありがと、ブロンソ」

 

 テーブルに置かれた紅茶に反射する顔は、娘は勿論、此度の英雄にもよく似ている。

 

「まったく……政府もしつこいわよね、ほんとに。私ですら未だ顔を合わせられていないコスモスちゃんに、どうして会えると思ったのかしら。ぷんすか!」

「奥様、最後のそれは口に出すものではないように思います」

「細かいことはいいの! 問題はコスモスちゃんがアトリエごもりしてること!」

「どうやら行き詰まっていた作品に、進捗の兆しが見えられたようでして……」

「それはわかってるけれど……久々の帰宅なんですもの。はやく抱き締めて、くんかくんかしたいわ……」

「奥様、言い回しが変質者のそれでございます」

 

 しかし生来の天真爛漫ぶりは、歴代の誰とも似つかないようで。

 肩を竦め、嘆息を吐いてから開く口は、執事越しに聞き知ったあれからの事。

 

「でも、びっくりしたわ……まさか、原典を焼却しちゃうなんて。思いもしなかった」

 

 アリエラが去った後、コスモスは彼女が記した正史の記憶を世界から抹消した。

 祖先の復活でさえ信じがたいというのに、加えてこんな真似をされたものだから、ヒメヨを含めたエイレム家の人々はひどく混乱に陥った。

 代々引き継がれてきたものが一瞬にして灰になるなんて、そんな想像を働かせられる方が奇特だ。無理もないだろう。

 勿論、周囲からの反動が無かったわけではない。

 

「他人事ですな、本当の歴史が葬られたといいますのに」

「当然よ、今の当主はコスモスちゃんだもの。私がどうこう言う話ではありません」

 

 されど、ヒメヨは信じた。

 世界と一族を八千年の呪いから解き放つ、その選択を。

 真のものになった優しい夢物語が、紡いでいく明日を。

 もう、戒めなくたっていい。ただ、願い続ければいい。

 何でもない彼女へ、野に咲く花のような幸福を。何でもない彼へ、路傍の石ころみたいな日常を。

 願え、望め、祈れ。

 

「……答えを出した英雄が、昔みたいに誰かのために何かを選んだ。いいんじゃない? それで」

 

 大地に、民草に――プラスアルファで、英傑たち。

 全てに笑顔を届けて、コスモスの戦いはようやく終わりを迎えた。

 

 

 

 何も考えない。言わず、悩まず、迷わず、止めることなく滑らせる。

 あの日、あの時見た彩りを目蓋の裏に映写して、思いのままに手を走らせる。

 水を溢して。絵の具を散らして。パレットがとうに定員オーバーと嘆いてる。くそくらえ、くそくらえ。

 高鳴る胸に従って、ただただ描く未来予想図。

 滲む遠くを愛してる。綺麗な七色を想ってる。

 

「……うん」

 

 ――明日も皆が、大好きだ。

 宝石を散りばめたような星空に、透き通る雲が浮いている。

 見惚れるほどの極彩色は手前から奥へと伸び続け、遥か彼方へ繋がった。

 カラフルな花畑でそれを見上げる女性が誰かなど、きっと言うまでもないのだろう。

 

 コスモスは汚れた頬を拭いながら虹を眺めると、満足げに絵筆を置いた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 誰もいないし届かない、遠くの遠くの、時空を超えた名も無きどこか。

 色とりどりの花々が、どこ吹く風に揺れている。

 青紫のグラデーションカラーに、終わりの見えないアーチが架かった。

 

「――――また、いつか」

 

 鳥たちが月の向こうへ飛んでいく。

 そんな満天の希望を静かに仰ぎながら、アリエラは今日も笑ってる。


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