ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト   作:hirotani

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第6話

   1

 

 静かに波音を立てる内浦湾から吹く潮風が、長く伸ばしたダイヤの髪を揺らす。ダイヤちゃん、と同年代の子から最後に呼ばれたのはいつだったか。遠くない記憶のはずなのに既に忘れかけている。もしダイヤ“ちゃん”としてやり直せるのなら、それはいつのタイミングだったのか。無駄と分かっても考えずにいられない。

 水族館から目と鼻の先にある三津海水浴場へ無意識に視線が向く。あの小さな浜辺で2年前に記憶を失った青年が発見された。地方集落において噂はすぐ広まるもので、ダイヤもそのニュースは知っていた。津上翔一と名乗るその青年の鷹揚さは、記憶を失ったことで得られたものなのだろうか。ダイヤも記憶を失いまっさらになったら、彼のように屈託なく笑えて他人に接することができるだろうか。

 馬鹿げた考えを振り払うように、ひとりかぶりを振る。羨望なんて翔一に失礼だ。彼にだって思うことはあるのに。大体、一時全てを思い出した頃もいつもの翔一だった、と千歌が言っていた。彼の人好しな性分は元からだったということ。同じ境遇に置かれたところで、ダイヤもきっと今のままだ。

 はあ、とついた溜め息すらも、潮風が彼方へと流してしまう。さざ波の音が賑やかな声色に掻き消された。

 振り返ると、屋外エリアのあちこちに園児たちが駆け回っている。「こら、待ちなさい!」と保育士が声を張り上げているが、はしゃいでいる園児たちの耳には届いていない。もうすぐショーの開幕時刻だから、観客席の近くで集まっていたのだろう。でも、水族館という楽しみが詰まった場所で園児たちの遊戯への欲求を抑えられるわけがない。待ちわびた園児たちは自分たちで遊びを見つけ、思い立ったら即行動してしまう。

「もうみんな、ちゃんとしてよ!」

 保育士の横で、ひとりだけ遊びに加わらず声を張っている園児がいた。保育士の声すらも届かないのだから、少女の言葉なんて誰も聞き入れていない。小さなプールで服が濡れるのも構わず飛沫を散らし、くつろいでいるアシカへ大声をかけて振り向く反応を楽しんでいる。

 騒ぎを聞きつけたAqoursの面々も園児たちを集合させようと声をかけるが、全くと言っていいほど効果はない。堕天使の羽を引っ張った園児を善子が「こら!」と叱るのだが、驚いた園児が泣き出して狼狽を誘う。「泣ーかした泣ーかした」とおちょくる花丸の横で、園児に釣られてかルビィまで泣いている。いやルビィ、あなたはもう高校生でしょう、と姉として呆れずにいられない。

 ダイヤは視線を少女へと戻した。園児たちを追ってか保育士は離れていて、完全にひとり取り残された彼女は目尻に浮かぶ涙を堪えながら声を絞り出している。

「ちゃんとしてよ………」

 まるで幼い頃の自分自身を見ているようだった。幼稚園の頃、課外に出掛けた際に騒ぐ他の園児たちをダイヤも叱り飛ばして大人しくさせた事がある。彼女も同じだ。他の園児から一目置かれて、手が掛からないから保育士からも頼られて。望まれるままに振る舞わなければならない、と自身に枷を掛けている。

 まだ幼い少女にとっては不要な我慢なのに。本当は、裡の底では皆と一緒に遊びたいはずなのに。

 急いでスタジアムのステージに上がると、ダイヤは笛を吹いた。館内に響いた音で一気に静寂が訪れ、園児たちも駆けていた足を止める。

「さあ皆、スタジアムに集まれ!」

 次の楽しいことを子供ならではの嗅覚で嗅ぎ取ったのか、園児たちはぞろぞろ、とスタジアムに集合してくる。

「園児の皆、走ったり大声を出すのは他の人に迷惑になるからブッブーですわ。皆、ちゃんとしましょうね」

 「はーい」と園児たちは素直に応えてくれる。その素直さへのご褒美として、ダイヤはステージで舞踊を披露する。幼い頃に習っていた日本舞踊がまさかこんなところで役に立つとは思わなかったが、ショーが始まる前の前座として丁度良いだろう。

 音楽も扇子も無いからどうにも味気ないが、園児たちはダイヤに視線を集めてくれる。その中で、半ば呆けた様子の少女にウィンクを飛ばす。

 

 ――せっかくの水族館です。あなたも楽しんで――

 

 メッセージが届いたのだろうか。少女も他の園児たちと同じように無垢な笑顔を広げた。

 

 

   2

 

 予想外のアクシデントはあったものの、1日の業務を終えたダイヤたちは無事日当を受け取ることができた。これで活動費は確保。明日から再び練習に専念できる、と気分が昂ぶる。でも労働の疲労は練習とはまた違ったもので、今日のところは家に帰ってゆっくり休みたい。

 閉館してお客がひとりもいなくなったロビーで、互いに労いながら談笑している輪からダイヤは悟られないようひとり外へ出て行く。既に陽は暮れかかった空は群青色に染まっていて、水族館から漏れた照明が地面にダイヤの影を濃く映している。

 今日1日、自分は一体何をしていたのだろう。

 目的は達成できたのに、虚しさだけが募る。後輩たちとの仲なんて深まらず、話しかけたところで振る舞いはいつものダイヤ“さん”のまま。意識を変えたところで、身の回りは何も変わっていないじゃないか。

「結局、わたくしはわたくしでしかないのですね………」

 何だか全て馬鹿馬鹿しく思えてきた。今更何も変えられる余地なんてない。これまでもそうだったように、自分は周りに厳しく口うるさい黒澤ダイヤとして過ごすしかない。

「それで良いと思います」

 その声に振り向くと、他のメンバー達も外に出ていた。先頭に立つ千歌は続ける。

「わたし、ダイヤさんはダイヤさんでいて欲しいと思います。確かに、果南ちゃんや鞠莉ちゃんと違って、ふざけたり冗談言ったりできないな、て思う事もあるけど」

 どうしてそんなことを、と思うと同時に悟る。果南と鞠莉が言ったのだろう。理解したところで怒る気にもなれないが。それどころか、後輩たちにさえ見透かされた自分が情けない。

「でも、ダイヤさんはいざとなったとき頼りになって、わたし達がだらけている時は叱ってくれる。ちゃんとしてるんです」

 ちゃんとしてる。その言葉が、あの少女の声と重なる。皆がちゃんとしていないから、自分がしっかりしなければ。そう自身に言い聞かせながら過ごしてきたこれまでを、そしてあの少女のこれからを、まるで肯定してくれたかのような錯覚を覚える。いや、錯覚じゃない。千歌は肯定してくれた。こんな、口うるさく距離を置かなければ他人を接することのできないダイヤを。

「だから皆安心できるし、そんなダイヤさんが大好きです」

 「ね?」と千歌が後ろにいる面々に訊くと、皆は優しい笑みを返した。

「だからこれからもずっと、ダイヤさんでいてください。よろしくお願いします」

 その気持ちは嬉しい。嘘偽りなく。でも、皆のほうへ顔を向けて答えることができなかった。今振り向けば、目尻に涙を溜めたみっともない姿を晒してしまう。その姿は千歌が求めてくれる自分じゃない。

 だから、涙が乾くまでしばしの時間を要してやっと振り向くことができた。

「わたくしはどっちでも良いのですわよ、別に」

 そう応えると、果南と鞠莉が笑い出した。また無意識に口元のほくろに触れていたことに気付き、急いで指を引っ込める。

「せーの」

 千歌の掛け声の後に、皆が口を揃えて呼んでくれる。いざ呼ばれると気恥ずかしいものだけど、やっぱり嬉しいものは隠せずダイヤは照れ笑いした。

「ダイヤ“ちゃん”!」

 

 

   3

 

「じゃあね」

「Ciao」

 淡島に上陸すると、果南と短い挨拶で別れ帰路につく。ちらり、と船着き場を一瞥すると普段は停まっていない小舟が目に付いた。それが薫に貸した船だと気付き、鞠莉は家路を急ぐ。

 真っ直ぐ薫に用意したスイートルームへと向かうと、ドアに薫が背を預け頭を垂れている。

「薫!」

 ドアがオートロックで、カードキーを持っていなかったから入れなかったのだろう。粗い呼吸を繰り返す彼の様子から、フロントへ鍵を受け取りに行く体力も残っていなかったらしい。

 鞠莉はポーチをまさぐって取り出したカードキーでドアを開けると、薫の肩を背負って部屋に入る。成人男性の体はとても重く、普段からトレーニングを積んでいる鞠莉でもベッドまで運ぶのに時間を要した。

 

 ――肉体がアギトであることに適応するまで、一定の苦痛が伴うんだ――

 

 薫はそう言っていた。その苦痛を経てアギトになったはずなのに、まだ終わらないのか。

雅人(まさと)……」

 ベッドで横たわる薫が呟く。「薫?」と呼びかけてみるが、呻き声しか返ってこない。額から伝った汗が目尻を経由して、まるで涙を流しているように見える。ひとまず汗を拭かなければ。湿った薫の服を脱がせた体は、余計な脂肪が付いていない戦士と呼ぶべき肉体で見ていて惚れ惚れしてしまう。

 タオルで彼の汗を拭いていると、右腕に目が付いた。上腕の途中で、ぐるりと1周するように縫合痕が刻まれている。跡といっても薄く浮き出ているだけで、遠目では分からないだろう。現代の医療技術は鞠莉が思っているよりも進んでいるらしい。他者の腕でも、彼自身の腕のように見せてしまうのだから。

 汗が伝う右腕に、鞠莉はそう、と触れてみる。その瞬間、頭に電流を流されたかのような衝撃が走り目眩がした。脳裏に映像のようなものが流れ始める。目を閉じて視界を遮断すると、その像は鮮明度を増していった。

 脳裏に浮かぶ像に映るのは、暗闇のなかに舞う粉雪。上下左右構わず拭き乱れ、手に持った懐中電灯で照らしても一寸先しか見えないほどに視界を覆い尽くしている。

 視界が激しく揺らいだ。地面を覆う雪の上で、防寒着に身を固めた若い男性が倒れる。起き上がる力もないのか、ぐったりと四肢を投げ出すその人物は頬を叩かれてもされるがまま。閉じ切っていない目蓋は震えていて、瞬く間に雪がまつ毛に積もっていく。

「雅人! しっかりしろ雅人!」

 それは薫の声だった。鞠莉は悟る。これは薫の記憶。薫の見たものを自分は見ている。視界だけじゃない。吹き荒れる吹雪の音も、風の冷たさも。

「兄さん………」

 か細い声を絞り出す唇は血色を失い青くなっていて、その青さも積もる雪によって白くなっていく。

「た、助けて………」

 その声が、吹雪によって吹き飛ばされるように消えていく。目蓋の震えが止まっても、薫は「雅人!」と懸命に呼び続ける。そんな薫自身の声も、次第に弱くなっていく。強烈な眠気が襲ってきた。ここで眠っては凍死してしまう。理解していても、生理現象に抗うことのできるほど、薫は強くはなかった。

「雅人………」

 声に出せなくても、薫は名前を呼び続ける。雅人の体に覆い被さり、その意識が途絶えようとする瞬間も。

 雅人、俺たちは子供の頃からずっと一緒だった。俺はいつだってお前を護り救ってきた。

 これからもそれは変わらない。

 お前が助けを求めれば、俺は必ず救ってやる。

 だから安心しろ雅人。

 お前には俺がいる。

 

 連絡船から降りてすぐ、できれば遭遇したくなかった相手と視線が合ってしまう。きっと家の船を手入れしていたのだろう。相手も反応に困っているようで、前のようにあからさまに拒絶してこそいないが、喜んでもなく気まずそうに視線を泳がせた後にようやく口を開く。

「今日はもう閉店だよ」

「別にダイビングしに来たわけじゃない」

 ぶっきらぼうに言って涼は目的地へと歩き出す。

「そっち、鞠莉の家だけど」

「ああ、ちょっと用があってな」

 小走りで隣に着いてくる果南を見下ろす。

「何でお前着いてくるんだ?」

「涼こそ鞠莉に何の用があるの?」

 何で少し怒り口調なんだ、と彼女の態度に苛立ってしまう。

「鞠莉に用があるんじゃない。鞠莉のホテルにいる木野に用があるんだ」

「鞠莉、て呼んでるんだ………」

「は?」

「別に」

 と口を尖らせてそっぽを向かれてしまう。だがすぐに果南は涼へ向き直り、

「木野、て誰?」

「あかつき号の乗客だ。お前知らないのか?」

「知らないよ。わたしあかつき号のことなんて覚えてないし、鞠莉にいくら訊いたって教えてくれないし………」

 確か友人の黒澤ダイヤも、あかつき号に乗っていたはず。彼女も船のことは覚えていないのだろうか。だとしたら何故、ふたりは忘れ鞠莉だけが覚えているのだろう。

「じゃあ、わたしもその木野さんに会いに行く」

 取って付けたような事を言いながら果南は歩調を速める。「ほら早く」と涼を促しながら、

「涼だってあかつき号のこと訊きたいんでしょ?」

 何故だろう。たった数ヶ月会っていなかっただけなのに、急に果南のことが分からなくなる。年下の少女に振り回される事にも慣れてしまい、溜め息をつきながら涼は果南の後を追っていく。

 

 次に浮かぶのは、青白い光。まるで太陽が至近距離にまで迫ってきたかのような明るさに、薫は目を閉じ、再びゆっくりと開けていく。2度目でようやく、それがいつも見慣れている光であることに気付く。同業の現場だからか、意識はまだ朧気でも置かれている状況はすぐに把握できた。

 助かった、のか。

 雅人は。雅人は無事なのか。

 重い頭を動かし、顔を横へと向ける。血色の失せた雅人の顔に白い布が被せられ、医師たちが手を合わせている。雅人を覆う布からは右腕だけがはみ出していた。

「弟のほうは助からなかった。兄のほうは右腕に重度の凍傷。弟の腕を移植する」

 浮かびかけた意識が、再び沈もうとしている。口に当てられたマスクから麻酔が投与されているのが分かった。

 何故こんなことに――

 目を閉じた薫の脳裏に浮かんだのは、問いと後悔だった。雪山に登ろう、だなんて俺が言わなければ、こんなことにはならなかったのに。いざ登る前に雅人と交わした会話がよぎる。

 

 ――もし危なくなっても、兄さんがいれば安心だね。ドクターなんだし――

 

 ――ああ、任せておけ――

 

 あんな大口を叩いておいて、自分だけのうのうと生き残った。懺悔の意識は麻酔で一旦遮られても、次に目覚めたときにまた浮上し裡に沈殿し続ける。

 血縁者ということもあって、雅人の右腕は免疫による拒絶反応もなく薫の体によく馴染んだ。リハビリを経てどんどん自分のものになっていく雅人の腕を見る度に、薫の裡にある懺悔は癌細胞のように裡の1点から全体へ転移・伝播していき蝕み続けた。

 自分の分も生きてもらえることを弟さんも望んでいますよ、と担当医師は言っていた。そんなものが詭弁だと薫は知っている。薫は今際に雅人が求めていた救いを聞いている。雅人が本当に求めていたのは救いだ。弟は生きることを望んでいた。俺が生きることじゃない。

 腕の縫合跡を完全に消すことも可能だが、薫はそれを拒否した。跡は罪の烙印として残しておかなければならない。俺の命は、雅人を犠牲にして成り立っているのだから。

 そんな意識だったからだろうか、復帰した職場で身に覚えのないミスを擦り付けられ、医師免許を剥奪されても抗議する気になんてならなかった。弟を救えなかった自分に、人の命を救うドクターなんて気取る資格なんて不要だった。

 でも俺はこれからも人を救い続ける。何十、何百という命を。世間からの称賛なんて要らない。ただひとりから赦しを与えられればそれでいい。

 雅人、赦してくれ。

 お前を救えなかった俺を赦してくれ。

 

 か、と見開かれた目に驚き、鞠莉は右腕に触れていた手を引っ込める。状態を起こした薫は鞠莉へと目を向け、

「鞠莉………」

「ごめんなさい薫。でも、覗くつもりじゃ………」

 薫は右腕をさする。そばに無造作に置いてある服を着ながら尋ねてくる。

「俺の記憶を視たのか?」

 鞠莉は無言で頷く。何故か、薫の顔を直視することができない。彼から感じるものが視線を背けてしまう。

「そうか、お前もアギトになるんだったな」

 不意に、鞠莉は首を掴まれた。喉元を握られたせいで呼吸ができず、声も出せない。見上げた薫の顔を見て、鞠莉は悲鳴も上げられず行き場を失った恐怖を飲み込む。

 眼球が零れそうなほどに目は見開かれ、剥き出した歯はまるで獣のように喉元を噛み千切ってしまいそう。

「アギトはこの世で俺だけでいい。お前の力では、雅人を助けることはできない」

 助ける、て。でも弟さんはもう――

 喉から出ない言葉が、薫に届くはずもない。いや、声が出たとしても今の彼にはどんな言葉も届かない。

 首に込められた力が緩くなった。開放かれた気管に空気をめいっぱい吸い込むと、唾液が入ったのか咳き込んでしまう。

「鞠莉⁉ 大丈夫? 鞠莉!」

 優しく肩を抱いて呼びかけてくれた親友の顔を見ると、安堵からか涙が零れる。

「果南………」

 視線を横へ流すと、壁際に倒れる薫と、彼を見下ろす涼が仁王立ちしている。きっと、異変に気付いた涼が薫を突き飛ばしたのだろう。

 薫は涼へ憎悪のこもった視線を向けながら、ゆっくりと立ち上がる。

「お前たちも、邪魔者のひとりだ。俺以外のアギトが存在する必要はない」

「あんた、何を言ってるんだ?」

 戸惑いながらも、涼は鞠莉と果南の前に立つ。果南に肩を借りて、鞠莉もようやく立つことができた。

「俺はもっと強くならなければならない。雅人を救うために、お前を倒し最強のアギトとなる」

 距離を詰めてくる薫に、涼が組みつきながら「逃げろ!」と声を飛ばす。部屋の中で暴れ回っているせいでスタンドライトや備品の数々がなぎ倒され、陶器やガラスの破片を床に撒き散らしている。「鞠莉、早く!」と果南に肩を借りて、突進したのか蝶番の外れたドアから部屋を出ていく。

 騒ぎを聞きつけた従業員たちが、急いでスイートルームのフロアへ向かっていく。途中何度か呼び止められたが果南が追い払ってくれて、ようやく外に出られた。

「果南! 鞠莉!」

 涼が走ってきた。結構手ひどくやられたみたいで、切れた唇から血が滲んでいる。でも鞠莉は安心できた。無事ということは、従業員たちが薫を取り押さえてくれたのだろう。

 そんな淡い希望はすぐに消えてしまう。

「すぐに船を出せ! 奴が来るぞ!」

 ホテルの入口から、誰かが来るのが見えた。暗闇のせいで顔は見えないが、禍々しい気配を鞠莉の裡で目覚めつつある力が感じ取る。

「走れ!」

 涼の声で我に返り、全速力で船着き場へ走った。小型ボートに鞠莉と涼が飛び乗ると、船のエンジンを果南が駆動させ岸に繋ぐ鎖を外す。

「果南、あなたも――」

「いいから! 涼、鞠莉をお願い」

 早口に言って、果南は桟橋から走り去っていった。

 ボートは瞬く間に岸から離れていく。小回りの利く小型だから連絡船よりも速く、1分程度の航行で本土の船着き場へ到着した。エンジンを止めないまま涼に手を引かれ、駐車場に停めてあった彼のバイクへと走る。

「待って、果南が――」

「奴が狙ってるのはお前だ!」

 有無を言わさずヘルメットを被せられる。ふたつも持って来ていないらしく、涼はノーヘルメットでシートに跨りエンジンを掛けた。

「乗れ!」

 逡巡なんてしている暇はなかった。リアシートに跨ってすぐ、涼はバイクを走らせる。夜の沿道をヘッドライトで照らしながら、どこへ行けば良いのかも分からずひたすらにスピードを上げていく。

 背に鳥肌が立つほどの冷たさを覚えた。振り向くと、恐怖が盛大なトルク音を鳴らして迫ってくる。涼も気付いたのか、更にスピードを上げた。こんな曲がりくねった沿道では危険な速度だが、追手も見事なライディングテクニックで食らいついてくる。

 追手の体が眩い光を放った。夜の街を照らす光はすぐに弱まり、収束させた追手の肉体をアギトへと変貌させる。光の恩恵か、バイクも姿を変えていた。駆動音がまるで獣の咆哮に聞こえる。早く鞠莉たちを喰らいたい、と狩りでもしているように。

 獣になったマシンを駆り、アナザーアギトは執拗に獲物を追い続ける。

 

 






次章 犬を拾う。 / 暗黒の戦士
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