ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト 作:hirotani
第1話
1
沿岸道を駆け抜け、狩野川放水路のトンネルを抜けて獅子浜へと出る。変身の影響で性能が上がったのか追手のバイクは距離をすぐに詰めてきて、涼のバイクの隣につく。
涼はハンドルを傾け離れようとしたのだが、変身した薫の足は逃すことなくバイクのタンクに蹴りを入れる。2輪だからバランスはすぐに崩れ、それでも涼は転倒すまいと懸命にハンドルを操り体勢を立て直そうとする。大幅に道から逸れたバイクは水産加工場の立ち並ぶ埠頭に侵入し、積み上げられたドラム缶に正面衝突して乗っていたふたりは揃ってシートから投げ出される。スピードが緩んでいたお陰か、あまり痛みはなく鞠莉はすぐに立ち上がることができた。バイクを起こそうにも、薫は自分のマシンをターンさせこちらへ疾走してくる。
「来い!」
涼に手を引かれ、鞠莉は工場の敷地へと走る。でも今日の業務を終えた工場のシャッターは閉ざされていて、中へ逃れることはできない。追ってきた薫はこちらが袋小路に入ったと見たのか、マシンから降りてゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。大きな赤い双眼が、宵闇のなかで鞠莉と涼をしっかりと捉えていた。
同じだ。赤い目も、金色の角も。何もかもが翔一の変身するアギトと同じはず。なのに何故、薫のアナザーアギトはこんなにも恐ろしくおぞましいのか。
「あんた、何のつもりだ! 悪い冗談てわけじゃなさそうだな」
「薫、どうしちゃったの? 薫!」
涼と鞠莉がいくら呼びかけようと構わず、薫の歩みは止まらない。こんな恐怖しか感じられないなんて、アンノウンと変わらない。
「あんた、人間を護るために戦うんじゃなかったのか!」
涼の言葉で薫はようやく歩みを止め、
「その通り。だが、アギトは俺ひとりでいい。俺は俺の手で人間を護る。俺のこの手で」
薫は右の拳を握る。死んだ弟の手。自分が救えなかった者の手を。
「お前は邪魔だ」
「逃げろ!」と涼に突き飛ばされる。人間を護る、と告げた薫の右手が涼の首にかけられ、先ほど鞠莉にしたように喉を潰しにかかる。でも、涼は鞠莉と違って反撃の余地があった。既に力に目覚めた彼は、潰れかけた喉から声を絞り出す。
「変身!」
ギルスへと姿を変えた涼は、剛腕で首に掛けられた手を振り払う。だがすぐ腹に重い拳を打たれ、前のめりになったところで襟首を掴まれ投げ飛ばされる。シャッターを突き破った涼の体が工場の中へ放り込まれた。
「薫……」
外に放置されていたドラム缶の陰に隠れながら、鞠莉は変貌した薫を凝視する。脳裏にはただ問いだけが渦巻いている。
どうして、何で彼があんなことを。
彼はいつだって正しく優しかった。だから他のあかつき号の面々も彼を指導者として信頼していたし、鞠莉も頼り甲斐のある兄のような存在として見ていたのに。
鞠莉が海外留学を迷っていたとき、彼は言ってくれた。
――何があっても俺は鞠莉の味方だ。大丈夫、君の友達は俺が必ず護る――
あの言葉は嘘だったの?
いや違う、と気付いてしまう。彼はあの時と変わらず、人を護るという信念の下に戦っている。変わってしまったのは鞠莉のほうだ。彼の護るべき「人」ではなく、アギトという存在に。
「ウオオオオアアアアアアアアアアアッ‼」
工場の奥から、涼の雄叫びが聞こえてくる。シャッターの穴から飛び出した涼は跳躍し、踵から生えたヒールクロウを振り翳す。鋭い刃が到達しようとしたとき、薫は脚を振り上げ、涼の降ろされた脚を受け止める。
一瞬の硬直の後、涼の顔面に裏拳が打ち込まれた。
今日も1日、木野薫はアパートに現れなかった。最悪の事態を想定して行方不明者捜索へ切り替えたほうが良いのかもしれない。
「そういえば北條さん、いかがですがその後?」
車の助手席で共に張り込んでいた北條に尋ねる。
「確か、高海伸幸殺害事件を追っているとのことでしたが」
「ええ、私の推理が正しければ、高海伸幸氏は超能力によって殺害された。そしてあかつき号の人々も超能力と無関係ではないようだ。両者の間には何らかの因果関係がある。そう私は思っていますが」
核心には近付いているが、あとひとつ足りない。両者の因果関係を決定づける何かが。そのひとつが見つかれば、全ては繋がるのだろうか。誠には分からない。高海伸幸が殺害されたのはあかつき号の1年前だ。一応調べ直してはみたのだが、高海伸幸とあかつき号の乗客たちとは何の接点もない。
ふたつの事件がどう繋がるというのだろう。一介の大学教授の怪死からフェリーの海難事故へ。そして現在起こっているアンノウンによる事件へと繋げているものが、誠には全く見えてこない。
通知音が鳴った。続けて車内電話が小沢の声を飛ばす。
『氷川君、一般市民からの通報よ。アギトと思われる者が江浦埠頭で交戦中』
「分かりました、現場で合流しましょう」
北條は素早く車を降りた。彼も自分の車で現場へ向かうつもりだろう。パトランプを出し、サイレンを鳴らしながら誠は車を発進させる。
夜の沼津市は車の通りなど殆どなく、何の妨害も受けずに現場の埠頭へ到着することができた。本来なら静まり返っているはずの工場から物音が聞こえる。機械の駆動音でないことはすぐに分かった。
工場のコンクリート壁が突き破られ、粉塵に塗れた人影が転がり出てくる。それは緑色の生物だった。生物を追うようにして壁の穴から出てきた者の姿が、月明りに照らされて露になる。誠は車を停め、窓からその姿を捉えた。
金色の角に赤い双眼。
「アギト……」
アギトが牙を剥くと、足元に額の角と似た紋章が浮かび上がる。紋章の光を収束させた足で、アギトは緑の生物へ跳躍しキックを見舞った。もはや避ける体力もないほどに疲弊した様子の緑の生物は、真正面から胸にキックを受けて突き飛ばされる。
地面を転がった生物の筋肉が萎縮し始めた。皮膚は肌色になり、以前も見た青年の姿へと戻っていく。蹴られた胸を抑えながら呻く青年のもとへ、1台のバイクが走ってきた。オフロードヘルメットで顔は見えないが、体躯から見たところ運転しているのは女性だろう。リアシートに青年を乗せると、運転手はアクセルを捻りバイクを走らせる。すぐに埠頭から走り去っていくのだが、運転手がふたり乗りに慣れていないのか少しばかりふらついていた。
立ったままふたりを見送ったアギトの体が、宵闇の中で輝く太陽のような光を放ち、すぐに収束させる。人間の姿になったその顔。ちらつく残滓に照らされた男の顔を見て、誠は目を剥き車から飛び出す。
「待って! 待ってください!」
大声で呼び止められた男は、訝し気に誠を見返す。近くで見て間違いない、と確信できる。
「あなたは、確かあかつき号の………」
2
「翔一くん、お風呂空いたよ」
縁側のガラス戸を開けて言うと、耕した畑に種を蒔きながら翔一は「ああ、うん」と千歌のほうへ振り向く。
「ごめんごめん。もうすぐ終わるからさ」
トマトを収穫し終えるとすぐに苗を撤収させ、今日は1日中畑を耕していた、と志満から聞いている。それでいてしっかりと掃除もこなし、千歌たちの夕飯も作っているのだから恐れ入る。
「もう夜なんだし、明日やったら?」
「うん。そのつもりだったんだけど、思ったより畑耕すの早く終わってさ。どうせなら種蒔きまでやっちゃおう、て思って」
サンダルを履いて畑に踏み入ると、土の柔らかさを足裏で感じ取れる。小さな種を数粒ずつ、一定の距離で蒔く翔一の隣にしゃがんで千歌は尋ねた。
「今度は何育てるの?」
「次はカブなんだ」
翔一は嬉しそうに、スーパーで買ってきたのだろう種の袋を見せてくれる。
「俺の作るカブはそこらのとは違うからさ、楽しみにしててよ」
指先に土を付けながら、翔一は本当に楽しそうだった。芽吹く前なのに、今から既にカブ料理を頭の中で構想しているのかもしれない。
「翔一くん新しい野菜作るときって、何か凄い嬉しそうだよね」
「そりゃあさ、良いと思わない? だんだん野菜が育つの、て。何て言うか世の中色々あるけど野菜は育つ、ていうか」
自分の手で何かを作る。最初は小さな苗がどんどん逞しく育っていって実を付ける。曲作りと似てるな、と千歌は思った。ただの言葉でしかない詞がメロディに乗せて口ずさむと歌になる。千歌が作詞に励んでいるときも、今の翔一みたいな顔をしているのだろうか。
「何となく、分かる気がするな」
「だろ? 俺思うんだよね」
翔一は他にも育てている野菜たちを見渡し、
「ここの野菜が育っているうちには世の中捨てたもんじゃない、て」
枝豆に唐辛子。ピーマンにオクラ。それらを我が子みたいな慈しみを持った瞳で見つめながら、翔一は言う。
「だからさ、俺にもしものことがあっても、こいつらの面倒は見て欲しいんだ」
「もしも、て……。どういう意味?」
まるで遺言めいた言い方に、千歌の不安が募る。普段アンノウンと戦っているだけに、縁起でもない。
「別に大した意味はないけど。もしもの話だって」
そう言って翔一は種蒔きを再開する。畑と向き合う彼の背中を見つめながら、千歌は祈る。
翔一くんの居場所はここだよ。
だからここでずっと、わたしの家族でいて。
もう、わたしを置いて行かないで。
「木野薫さん、ですよね。あかつき号で1度お会いしたことがある」
喧騒の過ぎ去った埠頭で、月明りの下に誠は「アギト」と向き合う。アギトが人間だったことの立証にも驚きなのだが、それ以上にその正体が自分の知る人物だという事実によって上乗せされる。
あかつき号の乗員乗客の顔ぶれは殆ど覚えていない。暴風雨のせいで視界は暗くひとりひとりの顔なんてはっきりと見えなかった。でも彼のことはよく覚えている。泣き叫ぶなり怯えるなり放心するなりする者たちの中で、唯一彼だけは冷静に誠の救助活動に協力してくれた。あかつき号の乗員乗客は誠ひとりで救助された、なんて触れ込みが出回っているが、彼の協力がなければ全員救出は叶わなかった。
「私が今ここでこうしていられるのも、あなたのお陰だ」
ひと回りほど年齢が違うというのに、木野の口調は誠を小僧扱いしない敬意を感じられる。
「それは僕の台詞ですよ。何度アギトに――。いえ、あなたに助けてもらったことか」
「私があなたを?」
木野は眉を潜めるも、得心したように微笑しながら「なるほど」と呟く。誠を助けるために戦ってきたわけじゃない、ということか。アンノウンと戦ってきた歴戦の彼にとっては、誠を助けることなんて片手間に過ぎなかったのだろう。
「でも、何故あなたはアギトになったんですか?」
「私にも詳しいことは分かりません。ただ、この世に神の意志というものがあるならば、私はそれによってアギトになった。そして神の意志があるならば、邪悪なる者の意志も存在する」
「邪悪なる者………。アンノウンの事ですか?」
答えを聞く前に、着信音で遮られる。誠の端末じゃない。「失礼」と木野はスマートフォンをポケットから出して「はい」と応答する。
「……………分かりました、すぐに伺います」
端末をポケットに仕舞うと、木野は誠へと向き直り、
「緊急の
「オペ? ドクターなんですか?」
バイクへと歩く木野を追いかけながら尋ねる。
「ええ。人の命を脅かすのは、アンノウンだけではありませんよ。病気や事故と戦うのも、私の使命なんです」
手にグローブをはめる目の前の男に、誠はただ感服するばかりだった。この人はアギトであろうがなかろうが関係なく、命を救っている。
「お会いできて良かった。アギトが人間ならどんな人だろう、とずっと思っていましたが、想像通りの、いや――想像以上の人だった」
興奮するあまりに口を動かす誠を尻目に、木野はヘルメットを被りシートに跨っている。そうだ、危うく忘れるところだった。彼はこれから手術を、人の命を救わなければならない。
「行きましょう。病院まで僕に先導させてください」
玄関から聞こえたインターホンの音に、鞠莉はびくり、と肩を震わせる。
「鞠莉? わたしだけど」
続けてドア越しに聞こえる声に安堵すると、鞠莉はドアの鍵を開けて果南を迎え入れると同時に強く抱擁を交わす。
「果南、怪我してない?」
「全然、あの人すぐに鞠莉たち追いかけて行ったから」
ぽんぽん、と背中を優しく叩かれる。体を離して向き合うと、果南は逃さないとばかりに鞠莉の目を見据える。
「ねえ、あの人は何なの? どうして鞠莉を」
「薫は………」
言おうとして口をつぐむ。実は果南も、それにダイヤも薫に会ったことがある、と言うべきか迷う。ふたりがあの日のことを忘れていて本当に良かった、と思った。変貌ぶりを知れば、鞠莉と似たショックを受けることは違いない。
それに今は、目下の問題もある。
「それよりも――」
と果南を部屋の奥へ通した。ベッドの上で苦痛に悶え呻きながら横たわる青年を見て、果南は急ぎ駆け寄る。
「涼!」
シャツを脱がせた涼の胸は、内出血を起こして赤黒く腫れている。先ほど市販の痛み止めを飲ませたのだが、効果は全く現れない。
「あの人にやられたの?」
「ええ………」
鞠莉は洗面器の冷水に浸しておいたタオルを絞って、涼の患部に当てる。喉を潰しそうなほどに苦悶の声をあげ、涼は体を仰け反らせた。これで果たして効果があるのか分からない。
「病院に連れて行こうよ。そうすれば――」
「涼は人間とは違う体なのよ。普通のDoctorじゃ、手に負えないわ」
果南の訴えに鞠莉はかぶりを振る。アギトの力で受けた傷だ。人間と同じ処置を施したところで、きっと効果はない。
それに病院に連れて行って、涼が普通の人間ではないことが知られたらどうなる。細胞が変異して異形の姿になると知られた彼の受ける仕打ちは、想像もしたくない。
でも、このままではいられないのも事実だった。彼を蘇らせたときのように力を行使するのも試みてはみたが、あの時どう力を使ったのかも思い出せずにいる。
「どうすれば……、どうすればいいの………?」
分からない。自分に何ができるのか、何をすればいいのか。助けてくれると思っていた人間はもういない。アギトになった彼はもう、かつての彼ではなくなってしまった。
3
季節の変わり目というものは、どうにも天気が崩れやすい。陽が出れば暖かいが、今のように空が灰色の雲に覆われていては気温が一気に下がり冷えてくる。天から恵みとばかりにお節介なほどの雨が降り続け、その勢いは増し続けていた。
「また雨が強くなってきたね」
滴が絶えず伝っている窓からの市街を眺めながら、ルビィが不安げに呟く。雨だろうとAqoursはプラザヴェルデの一室を借りて練習できるから関係ないのだが、低気圧の影響かどうにも気分も滅入る。気圧が体調にどう影響するのか善子はよく知らないが、取り敢えずそういうものだ、と自身を納得させる。
何も突然の雨じゃない。天気予報でもしっかりと通知はされていたし、屋上が使えないと見込んで今日は沼津での練習に決めていた。
「今日は無理して続けないほうが良さそうですわね」
ダイヤが言った。練習自体はできるのだけど、こうも屋内まで響くほどの雨では、交通機関も動いていないかもしれない。プラザヴェルデはホテルも併設されているけど、高校生にとって宿泊費とはひと月の小遣いに相当する。それに体調管理。こういった気候が不安定な時期こそ体調不良を起こしやすい。特に善子は毎年決まってインフルエンザに罹るのだから。去年は冬の始まりと終わりとで2度罹った。
「もうすぐ地区予選なのに」
まだ練習したりないのか、千歌がそう零した。千歌なら風邪はひきそうにないわね、と密かに思っていると曜が、
「入学希望者も50人越えてきたんでしょ?」
そんなに増えてたんだ、と少し驚いた。案外希望者100人というのも、達成できるのかもしれない。
「まあ気持ちは分かるけど安全第一。今日のところは終わりにしよう」
コーチの果南に言われたら反対はできまい。果南が組んだ練習メニューはハードだけど、無理はしない、が鉄則。しっかりと余力を残した状態で明日の練習に臨めるように、と。
「はい」と鞠莉から渡されたものを、果南は「何これ?」と戸惑いながら受け取る。これからの季節には必需品のカイロだった。
「待てば
更に冷えるような駄洒落に、その場の全員から溜め息が出た。翔一の影響だろうか。
早めに練習は切り上げたけど、横殴りの雨でバスは運転見合わせになっていたから、保護者からの迎えを待つことになった。
「果南ちゃんと梨子ちゃんはうちの車ね。曜ちゃんも乗ってかない?」
「良いの?」
誘われた曜はお言葉に甘えて、翔一が出してくれた十千万の送迎バスに乗り込む。黒澤姉妹と花丸と鞠莉は、黒澤家の車で帰路へつく。はずだったのだが――
「あ、ごめん千歌。わたしと鞠莉用事あるから先帰ってて」
「え、大丈夫なの?」
「No problem」と鞠莉が言って、ふたりは風で飛ばされまいと傘を両手で掴んで雨の街中へと歩いていく。こんな雨なのに行かなければならない用事とは、と気にはなるが、訊く前にふたりの姿はもう見えなくなっていた。
「あのふたり、最近よく一緒に居ますわね」
とダイヤが言った。言われてみればそんな気もしなくもない。些細な疑いは「まあいいや」と千歌の能天気な声で中断される。
「善子ちゃんは?」
「嵐が堕天使の魂を揺さぶる。秘めた力がこの羽に宿る」
「ふざけてる場合じゃないよ」
と口上を見事に受け流し、千歌も車に乗り込む。せっかく格好いい口上を先ほど思いついたというのに。
「拠点は至近距離にあります。いざとなれば瞬間で移動できます」
黒澤家送迎車の後部窓が開いた。
「まあすぐそこだし」
とルビィが何の心配もなさげに言う。座席に腰掛ける3人揃って「ごきげんよう」と言うと同時、車が走り出して声も過ぎ去っていく。続けて十千万のバスも走り出した。窓から千歌たちが手を振っていて、見送ってひとり残った善子は空を見上げる。
「胸騒ぎがするこの空。最終決戦的な何かが始まろうと――」
突風が吹いた。まさか天気にまで邪魔をされるとは。突然のことだったから、手から傘を離してしまう。黒にフリルの付いたお気に入りで、そこらの店で売っているものじゃない。ネットショップで買ったからPCかスマートフォンがあればどこでも買えるが。
「待ちなさい! 待つのです!」
開いた傘はよく転がるもので、手を伸ばして掴もうとすると逃げるように離れていく。
「何、その動き? まさか、何かがわたしを導いて………」
そうこう言っているうちに、再び吹いた突風に舞う傘は縁石に引っ掛かってようやく止まった。ようやく大人しくなった傘が手元に戻る。
ただ風で傘を飛ばされただけ。傍から見たらそれだけかもしれない。でもこの雨空に感じた予感は本物だった、と後になっても思う。
これは
江浦埠頭で目撃したことを報告すると、小沢は興奮したように食いついてきた。
「アギトが人間だった? 本当なの?」
「はい。済みません、言おうかどうしようか迷ったんですが、やはり小沢さんに隠し事はできません」
アギトの正体は木野薫という名の医師。身元を知られたら、以前捕獲作戦なんて立案していた警察がどう動くか。その懸念で報告書にも伏せていたのだが、小沢なら人道に反したことはしない、と信用できる。
「会ったの? どんな人だった?」
「ええ、あれほど高潔で純粋な人間には会ったことがありません」
会って話をして、思ったことをそのまま述べた。あのような人物こそ、まさに人間を護る守護者として相応しい。それなのに小沢は「ふーん」と微妙な反応を見せる。
「何か?」
「胡散臭いわね」
と小沢は撥ねつけるように言う。
「大体、純粋な人間なんて言葉の矛盾よ。人間は不純だからこそ人間と言える。もし誰かが純粋に見えるなら、その人物は自分の影の部分を隠そうとしている可能性が高い」
隠すだなんて、と誠は反発を覚えずにはいられない。電話を受けてすぐ患者の待つ病院に向かう彼に、一体何の裏があるというのか。ただ純粋に患者を救いたい。アンノウンという邪悪なる者から人間を護りたい。成し遂げられるだけの力と技量を持ち、それを実行できる。それを純粋と言わず何と言えるのか。
「私が出会った人間の中でもまずまず純粋と言えるのは、あなたと津上翔一ふたりだけだわ」
「ちょっと待ってください。よりにもよって、僕とあの津上翔一が似てる、て言うんですか?」
翔一は毎日家事と畑仕事。自分は刑事として事件捜査とG3-Xとして出動。まるで正反対じゃないか。それに翔一は純粋じゃなくて度の過ぎた能天気と言うべきじゃないか。
「冗談じゃありません。小沢さんは人間観察が偏ってるんじゃありませんか? 小沢さんも木野さんに会えば、純粋さというものが分かるはずです」
はやし立てると、小沢は目を逸らし逡巡を経て呟いた。
「あなた、最近結構逆らうわね………」
「………は?」
「まあ良いわ。実際に会ってみようじゃない。その木野なる人物にね」