ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト   作:hirotani

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 やはり善子ちゃんは書いていて楽しいキャラクターです。ここ最近Aqoursメンバーもシリアスな事案に巻き込まれてばかりなので良い清涼剤になりました。

 果南ちゃん、鞠莉ちゃん、ごめんなさい。
 私の腕では『アギト』と絡ませるとどうしてもシャイニーな展開から離れてしまいました………。




第5話

 

   1

 

 いつまでも寂しがっている訳にはいかない。ラブライブの地区予選も近付いているわけだし、練習に専念しよう。体を思い切り動かせば、この喉元に異物がつっかえたような気分も紛れるに違いない。

 と思っていたのだが、そう上手く紛れるものでもなかった。梨子も善子も練習に全く身が入らなくて、果南から早退するよう言われる始末だ。バス停で次の便を待っている間、頭の中に浮かぶのはどうしてもノクターン、もといあんこの事ばかり。

「飼い主のもとに戻ったのは良かったんだけど………」

 それが本来あるべき姿のはず。あの子の居るべき場所は梨子のもとでも善子のもとでもない。これが最善、と何度自身に言い聞かせたことだろう。

「やっぱりこんなの間違ってる」

 唐突に善子が言った。

「よく考えてみれば、あの人が飼い主だ、て証拠は無いはずよ。仮に飼っていたとしても、本当に飼っていたのがライラプスだとは限らない。そっくりな違う犬だったという可能性も――」

「そんな無茶苦茶な」

 あの時まっすぐ飼い主の少女に跳びついていったじゃない。人なら誰にでも尻尾を振るほど警戒心のない犬でもあるまいし。

「取り戻しに行くわよ」

「はい?」

「言ったでしょ。あの子とわたしは上級契約の関係。運命(デスティニー)で結ばれているの」

「無茶よ。迷惑でしょそんなことしたら」

「だったらいい。わたしひとりで行くから」

 はあ、と深く溜め息をつく。本当に連れて帰ってきたら誘拐になる。そうなればラブライブだって出場停止処分になりかねないのに。

 

「何で着いてきてるのよ?」

 沼津の住宅街でバスを降りたところで、低い声で善子が囁く。ご丁寧に鞄から引っ張り出した黒いパーカーまで着込んでいて、本当に誘拐犯に見えてきた。

「だって、一応わたしにも責任はあるし」

 それに誘拐しそうになったら止めないと。本音は裡に留めておく。

 住宅街をしばらく歩いて、善子は件の家を前にして脚を止める。

「流石、何か邪悪な気配に満ち溢れている家ね」

「そう? 普通の家にしか見えないけど」

 こんな失礼な発言、住人に訊かれていないことを祈るしかない。ふたりとも浦の星の制服を着ているから、問題を起こせば1発で学校に連絡が行くというのに。どこまでこの後輩は向こう見ずに行動してしまうのか。

 外でも堕天使を崩さない善子は家の前で手をかざし、

「感じる。ライラプスの気配が、あの壁の向こうから………」

 決めているところ悪いが、言わなければなるまい。

「善子ちゃん」

「ヨハネ!」

「この住所だとその家じゃなくて、そっちじゃない?」

 と隣家を指さす。捜索チラシにある住所の番地と一致するのは、恐らく梨子の指した家のほうだろう。

「やっぱりこっちよ」

「確かに、感じる………」

「さっき同じこと言ってなかった?」

「うるさいわね! 呼び寄せる」

 と家のドアに向かって手をかざし、「こーい、こーい」と手をこまねき始める。

「リトルデーモン、ライラプス。主のもとに………」

 普通にインターホン押せばいいんじゃ。そう思ったが、訪ねたところで何と言ったらいいものか。あの子はあんこじゃなくてライラプスなので返してください、なんて要求を聞き入れてはくれないだろう。

「あら」

 不意に横からそんな声が聞こえてきた。

「この間はどうも」

 びくん、とふたり揃って肩を震わせながら向くと、飼い主の婦人だった。

「え、あの、その………」

 見事に奇行を目撃されてしまった羞恥と、目的の不明瞭さから固まってしまう。

「し、失礼しました!」

 深く一礼し、家の前から逃げ出してしまう。何やってるんだろう、わたし。あの犬と会ったところで、何をしたいんだろう。別れ際に何でわたしの手を舐めたの、と訊きたいのだろうか。犬に訊いたところでまともな答えが返ってくるとは思えないけど。

 婦人が家に入るのを見計らって、梨子と善子は家の真向かいにあるコインパーキングに身を隠した。善子曰くプランB――たった今考えた――に移行。散歩で家から出たところで接触を図る。

「出てこないわねえ」

 しばらく待ってはみたが、音沙汰はない。晴れていた空の雲行きも怪しくなってきた。

「やはり何者かに妨害されているようね」

 単に飼い主に警戒されているだけな気もするが。家の前で奇行を働く高校生がいたら、外出も控えるだろう。

「こうなったら………」

「こうなったら?」

「出てくるまで待つ」

 と善子はしゃがんだ。

「本気? 日が暮れるわよ」

「嫌なら帰りなさいよ。前にも言ったけど、あの子はわたしにとって特別なの」

「でも――」

 スマートフォンが鳴った。ポケットから出すと母から『何時頃帰ってくるの?』とメッセージが届いている。しばし逡巡を挟み、『もうすぐ帰る』と返信を送る。梨子がいくら説得を試みたところで、善子は梃子でも動かないだろう。

「もう、わたし帰るわね」

「そう、じゃあね」

 どうせすぐ諦める。そう思いバス停まで歩いた頃には、気温が一気に下がったらしく肌寒くなっていた。ぽたり、と頬に冷たい雫が落ちる。通り雨とは天気予報であったから、折り畳み傘は持って来ていた。善子はちゃんと持っているだろうか。持っていなければすぐ帰りそうだが、あそこまで強情になった彼女が雨ごときであのコインパーキングから動くかどうか。

 考えているうちに、バスが来た。

 

 

   2

 

 雨音がアスファルトを叩きつける。パーキングの精算機のところは簡素ながら屋根が備え付けられていて、何とか雨をしのぐことはできた。

 そういえば、と善子は思い出す。初めてライラプスと出会ったときも、今よりは激しい暴風雨の中だった。成程、ふたりが出会うためには雨という条件が必要だったか。ならば必ずライラプスは現れる。

 流石に寒くなってくる。もっと厚手の上着を持ってくればよかった。腕をさすって温めていたとき、パーキングに先ほど帰ったはずの人物が傘を手に戻ってくる。

「梨子……」

「風邪引くわよ。あとこれ」

 と梨子はコンビニのビニール袋を差し出してきた。「いらない」とそっぽを向いたが、構わず梨子は袋からおにぎりを差し出す。一瞥すると、腹の虫が鳴った。時計は見ていないけど、そろそろ夕飯時かもしれない。

「………ありがとう」

 人間の体とはつくづく不便だ。お腹は空くし、疲れるし、眠くなるし。そんなことを思いながら、素直に受け取ったおにぎりを食べる。何だか張り込みをしている刑事になった気分だ。氷川はこんな退屈で味気のない仕事をしているのか、と妙な感慨を覚える。

「どうして戻ってきたの?」

「考えてみたら、帰っちゃったら本当に出てきたときに会えないな、て」

「わたしが先に出会ったんだからね」

「それは分かってるけど」

 そこからは、ふたりとも黙っておにぎりを咀嚼する。食べている間も善子の視線はライラプスがいるはずの家に向いていて、出てくる時を待ち続ける。わたし達が出会った日と同じ雨よ。あなたもリトルデーモンなら何か感じるものがあるでしょライラプス。

「どうして運命なの?」

「何が?」

「犬」

運命(デスティニー)運命(デスティニー)よ」

「そうかもしれないけど………」

 しつこい梨子には、誤魔化せそうにない。

「堕天使、ていると思う?」

「え?」

「わたしさ、小さい頃からすっごい運が悪かったの。外に出ればいつも雨に降られるし、転ぶし。何しても自分だけ上手くいかないし」

 まあ、どれも他人に話せば笑える程度の不幸さだけど。善子のまだ短い人生で特に大きな絶望は無いけれど、同時に大きな喜びも無い。比率としては積み重なった不幸のほうに比重が傾いていて、ある種の呪いでは、と幼い頃は真剣に、それこそ人生を懸ける想いで悩んでいた。

「それで思ったの。きっとわたしが特別だから、視えない力が働いているんだ、て」

 悩み抜いた末に出した結論が、自分は人間じゃなくて堕天使、という妄想。天界で神に愛されるあまり、他の天使たちの嫉妬を買って人間界に堕とされた。だから何をするにも自分を妬む存在からの妨害を受けてしまう。

「それで、堕天使?」

「勿論、堕天使なんているはずない、て。それはもう何となく感じている。クラスじゃ言わないようにしているし」

 それが子供の苦し紛れの妄想だとは、とっくに理解している。自分は堕天使でも何でもなく、ただの人間。特別なものなんて何もない。

 そう思うようにしていた。

「でもさ、本当にそういうの全くないのかな、て。運命とか、視えない力とか。アンノウンとかアギトとかは確かにあるのに、わたしには無いのかな、て」

 不思議なものを目の当たりにして、善子の中で芽生えたのは空虚だった。本当にあったのなら、どうしてわたしじゃ駄目だったのだろう、と。どうして呑気に日々を過ごしている翔一が、アギトとして選ばれたのだろう、と。彼の居場所は、わたしでも良かったのに。少しでも、その特別を分けてほしかった。

「そんな時、出会ったの。何か視えない力で引き寄せられるようだった。これは絶対、偶然じゃなくて何かに導かれてるんだ、て。そう思った」

 偶然だ、と笑いたければ笑えばいい。でもあの時、ライラプスを見つけた時に善子は確かに感じることができていたのだから。ほんのささやかな特別を。

「不思議な力が働いたんだ、て」

 パーキングの自販機で飲み物を買うと、空から茜色の光が降りてくる。雲間から西に傾き始めた太陽が、本日の黄昏時を告げる。

「雨、やんだね」

 そう呟く梨子に「はい、ライラプス」と飲み物を渡す。缶のラベルを見て、「ノクターン!」と少し苛立ったように訂正してきた。おや、おしるこは嫌いだっただろうか。

「やんだねえ」

 という幼い声と共に、家の門が開けられる。リードに繋がれた犬を連れた少女が門から出てこようとしたとき、家の中から「もえちゃん、ちょっと」と婦人の声が飛んでくる。

「あんこ、ちょっと待っててね」

 少女はリードを門の取っ手に括りつけ、家の中へ戻っていく。飼い主を今か今かと待ちわびる犬は、善子たちには気付かず背を向けている。今すぐにでも連れて帰りたいが、まずは確かめなければならない。

 気付いて、という念を込めた缶を、犬のほうへ向ける。

 その飼い主もあんこという名も、人間界での仮のもの。

 あなたの本当の名はリトルデーモン、ライラプス。

 上級契約のもと、本来の主たるヨハネの下へ戻りなさい。

 犬の顔がくるり、とこちらへ向いた。「見た」と梨子が驚きを口に出す。善子のほうはやっぱりね、という確信だった。上級契約はまだ生きていた。

「わたしよ、分かる?」

 ライラプスはこちらを見つめている。尻尾が揺れているのが見えた。さあおいでライラプス、と声をかけようとしたとき、

「あんこ」

 と呼ばれると、すぐさま本来の飼い主へと顔を向ける。尻尾は善子に向いたときよりも激しく振っていた。

「ごめんね。雨あがったばっかりだから、まだお散歩ダメだって。お家へ戻ろうね」

 家の中に入っていくふたりを、善子は乾いた笑い声で見送ることしかできなかった。ずっと一緒に暮らしていた飼い主と、しばらく預かっていただけの善子。どっちの元へ行くかなんて、最初から分かり切っていたことだ。

 何にせよ、答えは出た。あの犬はライラプスというリトルデーモンではなく、あんこという犬として生きる道を選んだ。というより、最初からあの犬はあんこのままで、善子との上級契約なんて無かった。

「やっぱり偶然だったようね。この堕天使ヨハネに気付かないなんて」

 もう残り香も消えかかっているケージに視線を落としながら、強がりを言い放つ。胸の裡にあるガス溜まりのような感覚は消えたけれど、空っぽになったらそれはそれで虚しい。

「でも、見てくれた」

 梨子が言った。その声も、穏やかな表情からも、皮肉や嘲笑なんてものは全く感じない。

「視えない力はあると思う。善子ちゃんの中だけじゃなくて、どんな人にも」

 仮に目覚めたとしても、その力は善子だけの特別じゃない。それは少し複雑な気分だが。

「………そうかな?」

「うん。だから信じている限り、きっとその力は働いていると思うよ」

 梨子も似たような力を感じたことがあるのかな。そう思うと、少しだけ自分の妄想にも意味ができた気がした。アンノウンとアギト。それ以外にもきっと世の中は不思議に溢れていて、善子の中にも未知のものが宿っている。きっと梨子にも。

「流石わたしのリトルデーモン。ヨハネの名において、上級リトルデーモンに認定してあげる」

 いつものように呆れられるか無視されるか、と思っていたのだが、この時の梨子はどこまでも優しかった。

「ありがと、ヨハネちゃん」

「善子! ………あれ?」

 

 

   3

 

 地方集落は街灯こそ少ないけれど、そのお陰か月光がよく映える。雲間から覗く月が内浦湾を照らし、きらきらとささやかな光をもたらしてくれる。空気が澄んできた分、これから日を経ていくにつれてより光も映えるだろう。

「偶然が重なってここまで来た、か」

 果南の言葉を、千歌はひとり呟く。スクールアイドルをやりたい、と思った矢先に梨子が内浦にやって来て、曜も交え3人でAqoursが始まって。1年生が加わってメンバーが増えて。続けて加わった3年生たちも、実は同じグループ名のスクールアイドルで。本当に偶然て不思議だな、と思った。偶然なんて言葉で片付かないくらいに。

 無意識に目が向くのは、三津海水浴場の波打ち際の1点。あそこで倒れていた青年を千歌と曜が見つけたのも、偶然と言っていい。もしかしたら別の人物が見つけて、青年はその人の家で世話になっていたのかもしれない。

 彼と出会って、全てが幸せだったわけじゃない。アンノウンとかアギトとか、怖いことも沢山あった。それでもやっぱり、千歌は彼と出会えて良かった、と思える。

「早く帰ってこないかなあ、翔一くん」

 独りごちりながら家の塀を潜る。いつもなら玄関前にいるしいたけが出迎えてくれるのだが、そのしいたけを前に梨子が手をかざしているのを見て、千歌は足を止めた。梨子の手が頭に触れようとしたとき、しいたけが後ろ足で首を掻くものだから驚いた梨子は手を引っ込めてしまう。

「梨子ちゃん、どうしたの?」

 声をかけると「千歌ちゃん」と梨子は再びしいたけに向き直る。

「試してみようかな、て。これも出会いだから」

「え?」

「わたしね、もしかしてこの世界に偶然なんて無いのかも、て思ったの」

「偶然は、無い?」

「色んな人が色んな想いを抱いて、その想いが視えない力になって引き寄せられて、運命のように出会う」

 梨子はポケットから骨の形を模したビスケットを出した。

「全てに意味がある」

 それは梨子や、皆の裡にある力なのかもしれない。それが引き寄せ合って、Aqoursになったのかもしれない。そうなると、翔一がここに来るのも必然だったのかな。ふとそんな想いにとらわれる。

「視えないだけで、きっと――」

 ビスケットを乗せた掌を、しいたけの口元に持っていく。しいたけはがっつくことなく、梨子の手にあるお菓子を食べた。犬にも警戒心はある。たとえ食べ物で釣っても、信頼できない人間に触れることはない。前からそうだったように、しいたけは梨子を拒んだりしない。

 梨子はそ、と掌をしいたけの頭に乗せた。優しく毛を撫でる彼女の手を、しいたけは受け入れる。運命は何も過酷なものをもたらすだけじゃない。失うだけじゃなくて、得るものだってある。

「そう思えば、素敵じゃない」

 

 

   4

 

 以前来た時と変わらず、廃工場は人気が全くない。一応調べてはみたのだが、ここは10年以上前に廃業した鉄工所だ。訪れるとしたら住所を失ったホームレスか、それとも家に帰りたくない非行少年か。

 何にしても、ここをねぐらにしている人物を標的にアンノウンが現れたのなら放っておくわけにはいかない。前は取り逃がしてしまったから、再び現れる可能性は十分にある。

 車のヘッドライトは赤茶色に錆びた建物の壁や不法投棄されたゴミの山ばかりを照らしているが、光に照らされたなかでふたりの人影がよぎった。すぐに車を停めて、暗がりの中で影のある点へ懐中電灯の光を向ける。

「待ちなさい!」

 光を向けられ、眩しさに目を細めるのは少女たちだった。それも見知った顔の。

「松浦さんに、小原さん?」

 目が慣れたのか、それとも声で気付いたのか、「氷川さん?」と果南が恐る恐る、といった様子で返す。

「こんなところで何を――」

 彼女らのもとへ歩いていく途中、鞠莉が目を見開いて誠を凝視する。いや、彼女が見ていたのは誠ではなかった。

「後ろ!」

 咄嗟に振り向くと、暗闇の中から異形の存在が現れる。懐から拳銃を出したが、それよりも速くアンノウンの腕が誠を突き飛ばす。地面を転がった拍子に拳銃と懐中電灯を取りこぼしてしまった。雲間から月光が落ちる。照らされたアンノウンの姿は、以前取り逃がした個体で間違いないだろう。

「逃げてください!」

 誠が声を飛ばすと、立ちすくんでいたふたりは工場の中へ走っていく。誠の目に、壊れたシャッターの傍に鎮座しているオフロードバイクが映った。駆け寄って目を凝らすと、不用心なことにキーが挿さったままだ。だがこの不用心さに助けられた。

 シートに跨ってエンジンを駆動させると、アクセルを捻りアンノウンへ向かっていく。致命傷までには至らないが、その体を突き飛ばすくらいの効果はあった。

 バイクから降りた誠は、果南と鞠莉のもとへ向かいながらスマートフォンを通話モードにして耳に押し当てる。応答はすぐに来た。

『氷川君?』

「小沢さん、アンノウン出現!」

『分かったわ』

 至極冷静な声で通話が切れる。走りながら振り返ると、アンノウンは先ほどバイクに轢かれたことなど無かったかのように悠然とこちらへ歩いてくる。

「松浦さん! 小原さん!」

 「こっちよ!」と返事はすぐに来た。声の方向へ走ると、果南と鞠莉はドラム缶の陰に隠れていた。

「逃げなさい、早く」

 そこで、甲高いバイクの音が近付いてきた。アンノウンと誠たちの間に割って入ってきたその姿は、月光だけでも十分に認識できるシルエットをしている。

「薫……!」

 鞠莉が震える声で呟く。バイクから降りたアナザーアギトは、その赤い目を敵であるはずのアンノウンではなく誠たちへ向けている。

「見つけたぞ。今度は逃がさん。お前たちも、葦原涼もな」

 「逃げろ!」と工場の奥から声が聞こえた。夜目がきくのか、アナザーアギトは声の方を向きふん、と鼻を鳴らす。

「逃げるんだ!」

 その声の主が、葦原涼か。木野が邪悪な存在と語っていた、アギトと同じ力を持つ者。

「こんな所に隠れていたのか」

 声のほうへ歩き出すアナザーアギトを、アンノウンが阻む。ひとまずの邪魔を排除するべく、アナザーアギトは顔面に拳を埋めた。それに紛れ、誠は声の方へ走る。先程回収した懐中電灯の光をあちこちへ向け、ようやく彼の姿を照らし出すことができた。涼は胸を押さえつけながら、玉汗の浮かぶ顔を苦しそうに歪めている。

「こっちへ」

 「よせ」と涼は拒んできたが、殆ど体に力が入らないのか誠の手を振り切れずにいた。構わず肩を支えて起こし、果南と鞠莉の手も借りながら車へと連れていく。

 ガラスが割れる音がした。振り向けば、敵を排除したのかアナザーアギトが赤い両眼をこちらに向けている。

「終わりだ」

 

 長い夢を、視させられていたような気がする。

 翔一の記憶はただ裡の奥底に眠っているだけで、失われたわけじゃない。逆行催眠とは催眠状態にした上で、眠っている記憶を呼び覚ますイメージ、とセラピーの前に説明された。

 でも後からいくら思い出そうとしても、その時翔一は果たして過去の記憶を蘇らせていたのかは判然としない。北條によると効果はあったらしいのだが、翔一にはいまいち実感が湧かなかった。

 浮上させられた記憶は大半が深く沈んでいき、まどろみのなかにあった翔一が視ていた夢はほんのひと時のものだけだった。

 

 ――こっちに来て。こっちこっち。こっちに来て――

 

 海岸で自分を呼ぶ女性。千歌が教えてくれた。彼女は姉だと。実感が湧かない。本当に彼女が、血を分けた肉親だなんて。記憶が無いせいか、愛しさなんてものは感じられなかった。

「津上君」

 別の女性の声が聞こえる。意識は現実へと引き戻され、姉のいる海岸は遥か遠くへと過ぎ去っていく。

「津上君」

 再び呼ばれ、目蓋を開く。ソファで眠っていたらしい。随分と長く眠り続けていたらしく、体の節々が凝り固まっていた。何でも逆行催眠は数日にも及んでいたらしい。

「あれ、小沢さん。何でここに?」

 自分を呼んでいた女性を見上げながら翔一は尋ねる。翔一の質問には答えてくれず、小沢は逆に質問を向ける。

「あなた、アギトなの?」

「はい、実は」

 面と向かって明かしてみると照れるもので、翔一は笑ってしまう。釣られたのか小沢も笑っていて、

「そう。良かった、あなたがアギトで」

 小沢はすぐにまなじりを吊り上げた。

「起きてすぐで悪いのだけど、助けてくれるかしら、氷川君を?」

「はい、慣れてますから」

 またアンノウンに苦戦しているのだろう。即答したことに小沢は満足そうに笑み、

「本物ね、やっぱり。行くわよ」

 小沢について部屋を出てすぐ、北條が腕を組んで待ち構えていた。

「待ってください。どこに行くつもりです?」

「あなたと話している暇は無いわ」

 それだけ言って小沢は北條の股間を膝蹴りする。声にならないほどの悲鳴をあげながら、北條はその場でうずくまってしまう。痛いよねえ、と同情はするが、緊急事態だから特に何も言わず翔一は早足で小沢の後を追った。

 

 






次章 Aqours WAVE / ギルス咆哮
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