ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト   作:hirotani

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第21章 HAKODATE / 動き出す闇
第1話


 

   1

 

 曜と梨子が十千万に寄ったのは、いつも通りプラザヴェルデでの練習帰りだった。大事な話がある、とふたりは言っていた。千歌は決勝での曲についてかと思っていたのだが、違うらしい。

「すいません、急に」

 玄関で靴を揃えながら、曜は謝罪を入れる。翔一は嫌な顔ひとつせず、

「良いって良いって。丁度晩ご飯の支度してたところだからさ、ふたりも食べてってよ」

 「ああ、いえお構いなく」と梨子は遠慮するのだが翔一はよほどの自信作なのか、

「大丈夫だって、家には連絡しておくからさ。それよりふたりとも、今日は曲作り?」

「ううん、翔一くんに話があるんだって」

 千歌が答えた。「俺に?」と翔一はとぼけた自分の顔を指さす。「はい」と梨子が応じ、

「わたし達、この前北條さんと会ったんです」

「北條さんと? 何でよ?」

「翔一さんが雪菜、て人に宛てた手紙のことで」

 手紙と聞いて、千歌の脳裏にあの封筒が浮かんだ。記憶を失った彼が持っていた唯一のもの。「それって……」と翔一は明後日のほうを向いた。

「俺の姉さんが出した手紙……」

 「翔一さんの、お姉さん?」と曜が途切れ途切れに聞いた。まさか、と千歌は息を呑んだ。それを知っているということはつまり――

「津上翔一、て俺の姉さんの恋人だった人の名前でさ」

 さら、と言ってのける。姉の恋人に会いに行く途中で記憶を失った。その話を聞いたのは、一時的ではあったけど彼の記憶が戻っていた頃のこと。

 あの封筒の宛名は翔一の本当の名前じゃなかった。なら、今こうして千歌たちの前にいるこの青年は。

「じゃあ、翔一くんは?」

 千歌が訊くと、また翔一はさらりと名乗る。

「俺の名前は沢木哲也(さわきてつや)

 沢木哲也。どうしても違和感が拭えない本名を名乗ると、翔一は照れ臭そうに笑った。

「よろしくね」

 そのあまりにも味気ない事実に、千歌はただ口を開いたまま何も言えなくなる。曜と梨子も黙ったままだった。以前記憶を取り戻した時にも彼はいつも通りだったけど、今回もまたいつも通りすぎる。記憶喪失の間は過去に興味なんて無さげだったけど、取り戻してもさほど興味が無いように見えてしまう。

「今の、本当?」

 振り向くと、居間から顔を出した志満が目を見開いていた。

 夕飯は後回しにして、自室にいた美渡も呼び急遽家族会議が開かれた。千歌たち高海家の問題だから、と曜と梨子は帰ろうとしたのだが、千歌と翔一が引き留めた。ふたりだって、翔一と無関係なわけじゃないのだから知るべき。翔一のほうは、ふたりに夕飯を食べて欲しい、という理由だったが。

「沢木哲也………」

 本人から明かされたその名前を、志満は反芻する。「はい」と翔一は笑顔で応じた。

「それが翔一君の本当の名前なの?」

「だから翔一じゃないです、て」

 と本人は訂正する。何だか善子ちゃんみたい、と千歌は思わず笑ってしまった。

「じゃあまた思い出したんだ、昔のこと」

 美渡が言うと、翔一は「うん、お陰さまで」と応じると、美渡は更に茶化しにかかる。

「結構カッコいい名前じゃん、翔一」

「だから翔一じゃない、て」

 「翔一君」ともはや訂正の利かなくなった名前で志満は呼び、

「思い出したこと全部話してくれる? あなたはどこで何をしていたのか、何故記憶喪失になったのか」

 そうなると話が長くなるからか、「それは、追々……」とはぐらかし。

「それより、これからの事なんですけど」

「これから?」

「俺、いつまでもここにお世話になってるわけにはいかないんじゃないかな、て。こういう場合、記憶を取り戻したら昔の生活に戻るのが筋なんじゃないかな、て」

「それは、そうかもしれないわね」

 やっぱり、そうなるよね、と千歌は思った。翔一がこれからの事を考え始めたということは、姉の死についてはもう踏ん切りがついたのだろうか。以前記憶を取り戻した時に、姉の恋人には無事に会えたのだろうか。

「帰るところあるの翔一くん?」

 千歌が訊くと、翔一は「それは、無いけど……」と弱々しく言った。

「俺、両親も子供の頃死んじゃってるし」

 意地悪なこと訊いちゃたな、と内省した。前に天涯孤独だと聞いているのに。両親を失った後に育ててくれた姉も亡く、翔一を沢木哲也として迎え入れてくれる肉親はいない。

「翔一君」

 志満は優しく微笑み、

「前にも言ったと思うけど、私たちは翔一君のことを家族同然と思っているわ。記憶を取り戻しても翔一君は翔一君じゃない」

「いえ、だから翔一じゃなくて――」

「翔一君さえ良ければいつまでもうちに居てくれて構わないのよ、翔一君」

 そう、志満の言う通り今更になって翔一を他人として見ることなんてできない。本名が沢木哲也でも、千歌たちにとって彼は津上翔一だ。何も変わる事なんて無い。翔一が記憶の有り無しに関わらず何も変わらないように。

「本当、ですか……?」

 不安げな表情を浮かべる翔一に、黙って話を聞いていた曜が口を開く。

「もうここが地元だって良いじゃないですか」

 梨子も微笑を浮かべながら、

「ここが翔一さんの居場所なんですから」

 「そうそう」と美渡が翔一の肩を叩きながら、

「遠慮しないでよ翔一。大体翔一が居なくなったら、誰がご飯作るわけ? 掃除や洗濯だってさ」

 随分とまあ不純な引き留め方なのだが、翔一にとっては大満足だったらしい。沈んでいた彼の顔が普段通りの、揚々とした表情に戻っていく。

「そっかあ。よーし、美味しい料理を作るぞー!」

 大声で笑い、翔一は夕飯の支度に台所へと入っていった。

 

 

   2

 

「そっか、翔一さん思い出したんだ」

 千歌の話を聞いて、最初にそう漏らしたのは果南だった。

「それじゃあ、これからは哲也さん、と呼ぶべきなのでしょうか?」

 ダイヤの疑問に千歌は「うーん」としばし考え、

「今まで通りで良いんじゃないかな? 思い出してもいつもの翔一くんなんだし」

「まあ、本人がそれで良いのなら………」

 律儀なダイヤらしく腑に落ちないようだが、それ以上は言わなかった。性格は以前と変わらないのに名前だけ違うというのも、何だか違和感があって落ち着かない。

「何だかこっちの調子が狂いマースね」

 ずっと座りっぱなしで肩が凝ったのか、鞠莉が伸びをしながらごちる。確かに違和感はあるけれど、それも短いうちに消えていくだろう。

 「でも」とルビィが言った。

「良かったね、これからも一緒に暮らせるようになって」

 「うん」と千歌は満面の笑みで応えた。喜んでいるのは千歌だけじゃなく、花丸も。

「調理師学校に通ってたなら、美味しいものたくさん作ってくれるずらね」

 「あんたそこしか興味ないわけ?」という善子の皮肉に、皆で笑った。

 これで、この話は終わりなのかな。

 窓からの景色を眺めながら、曜はふと思う。翔一の記憶が戻って、でも何も変わることなく十千万で暮らし続ける。これで良いのかもしれないが、まだ全てが片付いたわけじゃないことを、曜は知っている。

「あの手紙のこと、考えてる?」

 隣に座る梨子に訊かれ、曜は顔を向ける。

「うん、まあそれもそうなんだけど。梨子ちゃん覚えてる? 前にわたしが、翔一さんの記憶が視えた、て」

「あ、うん……。確か千歌ちゃんのお父さんが………」

 あの時、脳裏に走った像はまだしっかりと曜の記憶に刻まれている。力なく倒れた千歌の父が、翔一の記憶の中にいたことを。

「翔一さん、あの事も思い出したのかな?」

 彼が千歌の父殺害の犯人じゃないことは信じられる。でも、全くの無関係でもない。もし覚えていてくれたら、事件の真相を知ることができるのかもしれない。

「帰ったら、ゆっくり聞いてみよ。大丈夫よ、翔一さんが犯人なんて有り得ないもの。あの翔一さんよ」

「うん、あの翔一さんだもんね」

 そう控え目に笑うと、曜は窓へ視線を戻す。目的の陸地が見えてきた。

 

 空港からはすぐにバスで移動したものだから、駅に降りてようやく自分たちが日本最北の地に来たという実感が沸いた。

「いやー、はるばる来たね函館!」

 四角い箱に円柱が飛び出した駅の前に着いて、千歌は帽子を脱いだ。お気に入りのミカン色の帽子らしいのだが、目と口元だけに穴が開いた目出し帽だ。よく強盗か特撮に出てくる戦闘員が被るような。どこで売っていたのだろうか。

 懐から封筒を出して、果南がしみじみと言う。

「まさか地区大会のゲストに招待されるなんてね」

 それは浦の星に届いた、ラブライブ運営委員会からの封書だった。決勝大会進出を祝う文言と、次に開催される北海道地区大会の特別観覧チケット。決勝に進んだグループへ贈られる特典のようなものらしい。知らせを受け、冬休みの練習プログラムを組んでいたAqoursはすぐに予定を変更し向かうことになった。北海道は誰も行ったことのない土地だし、何よりあのグループがいるから。

 「うう、寒い……」と曜が腕を抱いた。「曜ちゃん、もうちょっと厚着したほうが良いわよ」という梨子も、少し寒さに震えていた。沼津は比較的温暖だから、こうしてちらつく雪も珍しい。降ってもすぐ溶けてしまうから、雪を被った土地というのは異国めいた雰囲気を感じられた。

 「さあ行くわよ!」と善子がプログラムシートを掲げ、

「レッツ、ニューワール――」

 と駆け出そうとしたのだが、履いていたローファーが路面を覆う雪に滑って盛大な尻もちをつく。

「雪道でそんな靴履いてちゃ駄目だよ」

 今更ながらの忠告をルビィが言った。もっとも、出発前からローファーはやめとくように言ったのに聞かなかったのは善子だが。

「その通りデース!」

「そんな時こそこれ!」

 と鞠莉とダイヤが足を上げた。この日のために新調した、靴裏にスパイクの付いたスノーブーツ。流石の姉も初めての土地に舞い上がっているらしく、いつもなら窘める鞠莉と一緒に近くにある除雪で集められた雪の山に登り始める。

「これでこのような雪山でもご覧の通り――」

 ずぼ、とふたりの体が雪山に沈んだ。まだ柔らかいらしく、ふたりがもがけばもがくほど底なし沼みたいに沈んでいく。「お姉ちゃん!」とルビィが救出しに登ろうとしたところで、

「お待たせずらあ」

 ダルマが歩いてきた。

「やっと温かくなったずらあ」

 いや、ダルマじゃない。恐る恐るルビィが呼ぶ。

「は、花丸ちゃん?」

 先程厚着してくる、と駅構内に残った花丸であることに間違いはなさそうだ。

「マルはマルマル、と丸くなったずらあ」

 どれ程着込んだのか、重量も増しているらしく歩く度にざくざく、と足元の雪が音を立てている。自重に耐え切れなかったのか、足をもつれさせた花丸がたたらを踏みながらルビィたちの方へ寄ってくる。

「ちょ、ちょっと!」

 という善子の声も虚しく、ルビィの傍にいた善子と曜を巻き込んで花丸は転んだ。

「ずらあ」

 「ちょ、重い!」と善子が喚いている。花丸も重ね着しすぎたせいか身動きもとれず、千歌と果南と梨子の助けを借りてようやく抜け出すことができた。

 鞠莉とダイヤも雪山から引っ張り出して、満足に歩けない花丸を手助けしながら次の目的地へ向かう。駅前で浮かれていたせいか、開場まであまり時間もなくなってしまった。

 観光都市として発展しているだけあって、交通機関の利便性も高い。そう時間を取られることなく、ルビィたちは会場へ着くことができた。大小の円が繋がったような形状の函館アリーナの前には、応援用の旗を広げる者や、建物を背景に記念写真を撮る者と既に多くの観客が集まっている。

 エントランスに入ると大型液晶が備え付けられていて、本日の大会の出場グループが羅列されている。入れ替わりに、出場するグループのメンバーと紹介文がピックアップされて表示された。

「あ、Saint_Snowさんだ」

 画面に大きく写真付きで紹介された表示を見ながら、千歌が声をあげる。「流石、優勝候補だね」と梨子が応じる。メンバーがふたりだけということもあって、他のグループよりも一際目を引く。姉妹ふたりが織り成す抜群のコンビネーションに期待、と紹介文には綴られていた。

 「ふん」と善子が鼻を鳴らし、

「ならこの目で、この地の覇者となるか確かめてやろうじゃない」

 どの口が、と皆で呆れに溜め息をついていると、「あの」という声を向けられた。振り向くと、3人組の少女たちがルビィ達、即ちAqoursのもとへ歩いてくる。

「Aqoursの皆さん、ですよね?」

 「え?」と千歌が呆けた声で応じると、「えっと、あの……」とせわしなく手元を動かしながら意を決したように、

「一緒に写真撮ってもらっていいですか?」

 ん、誰と?

 掲げられたポラロイドカメラを見ながら、ルビィはそんな間の抜けたことを思ってしまう。でもそれは他のメンバーも同じようで、ようやく口を開いた梨子でさえこれだ。

「ちょ、ちょっと皆落ち着こう!」

 「梨子ちゃんも落ち着いて」と千歌が言って、ようやく理解が追いついた。皆集まってシャッターを切り、カメラから吐き出された写真を少女たちは感激しながら眺めている。

「ありがとうございます。応援してます、頑張ってください」

 深々と礼をして去って行く3人に「ありがとう、頑張るよ!」と千歌が言うと、3人は1度立ち止まって手を振ってくれた。彼女たちも、自分たちの学校のグループを応援しに来てくれたのかもしれない。言うなればライバルのはずのAqoursも応援してくれる。矛盾しているように見えるけど、ラブライブとは矛盾すらも越えてしまうほどの熱気を生み出すということ。

「決勝に進む、て凄いことなんだね」

 ひとり呟いたルビィは、姉の顔をちらり、と見た。姉と一緒に決勝へ進む。一緒にAqoursとして活動を始めてから視てきた夢だけど、今は何故か手放しに喜べない。その理由は、程なくして理解してしまう事になる。

 受付で楽屋の場所を訊くと、係員は快く教えてくれた。本来なら学校関係者しか立ち入りは許可していないのだが、Aqoursはゲストとして招待したから特例、ということで。

 普段は更衣室として使われる楽屋のドアを静かに開けながら「失礼しまーす」と千歌は少し緊張した声色で入る。本番前の緊張はよく知っているし、あまり刺激してしまうのは良くない。

「Saint_Snowのふたりは――」

 「はい」と溌剌とした声が返ってくる。千歌に続いてルビィ達が入ると、化粧台で既に着替えを済ませた聖良が緊張など感じさせない堂々とした表情で迎えてくれる。

「お久しぶりです」

 そう挨拶する聖良はとても柔らかだった。楽屋というのは特に緊張に満ちた空間なのだが、彼女だけはその雰囲気から外れている。

「ごめんなさい、本番前に」

 梨子の断りにも「いいえ」と余裕に返し、

「今日は楽しんでってくださいね。皆さんと決勝で戦うのは、まだ先ですから」

「はい、そのつもりです」

 真正面からの勝利宣言に、千歌も臆すことなく応じる。ふたりの何事も恐れない強さが、ルビィにはとても眩しく見える。いつも姉の背中に隠れてきた自分は、いつまでこうしていられるのか。

「何? もう決勝に進んだ気でいるの?」

 と善子が皮肉を漏らす。隣にいる花丸も、

「もの凄い自身ずら。と、もの凄い差し入れずら」

 彼女の場合は積み上げられたお菓子のほうに興味が向いていたみたいだが。そんなふたりを見ていると少しばかり緊張がなくなったルビィも口を開く。

「おふたりとも、前回も地区大会は圧倒的な差で勝ち上がってこられたし」

 夏季の地区予選をSaint_Snowはトップで通過し、決勝大会も8位という成績を残している。今回も北海道地区では当然の如く通過するとされ、全国的にも優勝候補グループの1画として名を連ねている。

 もっとも、Aqoursだって注目グループとされているが。

「もしかして、また見せつけようとしてるんじゃないの? 自分たちの実力を」

 果南が強気に言う。「いえ、他意はありません」と聖良は苦笑し、

「それにもう、皆さんも何をしても動揺したりしない」

 「どういう意味ですの?」とダイヤまで強気になっている。

「Aqoursは各段にレベルアップしました。今は紛れもない優勝候補ですから」

「優勝候補………」

 千歌は、まるで実感が沸かないかのように反芻する。ルビィも、正直なところ有力グループの一員という実感があまり沸いていない。千歌というリーダーに、姉に手を引かれ着いてきただけ。もしSaint_SnowのようにAqoursもダイヤとルビィの姉妹ふたりだけだったら、ここまで来られなかった。ダイヤの実力は贔屓目なしに素晴らしいが、その分ルビィの未熟さで足を引っ張ってしまう。

 だから、鹿角姉妹は本当に凄い、と思える。ふたりでお互いを高め合って、更に歌もダンスも向上させ限界というものを感じられない。

 聖良は立ち上がり、千歌たちを真っ直ぐに見据える。

「あの時は失礼なことを言いました。お詫びします」

 深く頭を下げる聖良を千歌は止めようと手を伸ばしたのだが、聖良からも手を差し伸べられ戸惑い静止する。頭を上げ、聖良は宣言する。

「次に会う決勝は、Aqoursと一緒にラブライブの歴史に残る大会にしましょう」

 口を開けたまま目の前の手を眺める彼女に、「千歌ちゃん」と曜が声をかける。続けて鞠莉も声を潜め、

「ここは受けて立つところデース」

「そうそう」

 「うん」と頷き、千歌はコートの裾で拭った手を差し出して、聖良と握手を交わす。共に全力を尽くしましょう。もっとも、勝つのはわたし達ですけど。そんな応酬が、言葉に出なくても伝わってくる。不穏なものは一切なかった。正々堂々と、どれだけ観客を沸き上がらせるか。どちらがより輝けるか。

「理亜」

 聖良はここまでひと言も発さない妹へ振り向き、

「理亜も挨拶なさい」

 姉に呼ばれても、理亜は全く反応を示さない。イメージトレーニングかイヤホンを耳に付けたまま、きゅ、と両手の拳を握りしめている。

「理亜」

 再度呼びかける聖良を「ああ、良いんです」と千歌が止めた。

「本番前ですから」

 理亜は瞑想するように、目を閉じたまま出番を待ち続けている。でも、ルビィは見逃していなかった。

 握った理亜の拳が震えていたのを。

 

 話がある、と翔一から呼び出されたのは、沼津の仲見世通りにある喫茶店だった。署から車で来たというのに、酷く疲れて額に浮かんだ汗を袖で拭う。本格的に寒い季節に突入したから、変わり目に風邪でも引いただろうか。熱は無いから出勤したのだが、体がとてもだるい。

「ああ氷川さん、こっちこっち」

 翔一が挙手して呼ぶボックス席には、涼と木野も腰掛けている。ウェイターにホットコーヒーを注文してから誠も席に腰掛けると、「一体何の用だ?」と木野は不遜に問いかける。

「アギトの会なんてふざけた集まりなら帰るぞ」

「違いますよ。まあそれも近いうちに、て考えてますけど」

 僕は補欠ですけどね、なんて皮肉が出かけたが、今は喋る気力すらない。

「なら、何の用なんだ?」

 今度は涼が尋ねた。翔一はいつになく真面目な顔つきになって、

「はい、実は――」

 からん、と乾いた音が鳴った。何だろう、と思いながら手元を見ると、テーブルに伸ばした手の先で水のグラスが転がっている。ああ、僕が零したのか。

「ああもう氷川さん零しちゃってるじゃないですか」

 そんな翔一の声が遠くなっていく。視界がぐらぐら、と気持ち悪く歪んでいき、やがて暗転する。

「氷川さん!」

 意識が沈む前に誠が感じていたのは、指先に感じた水の冷たさだった。

 

 

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