ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト 作:hirotani
第1話
1
「ライブ?」
「ここで?」
ルビィが告げたことに、花丸と善子は予想通りの反応を見せる。あまりにも唐突なのは仕方ない。提案されたのが沼津へ帰る日の朝で、客室でくつろぎ土産物屋で買ってきた焼き鳥に舌鼓を打っているときに。
「理亜ちゃんと一緒にライブをやって、見せたいの。聖良ちゃんとお姉ちゃんに」
「できるの?」と善子が訊いた。「分からないけど……」と答えるしかない。曲も衣装もないし、ステージだって目星はついているけど使えるかも不明瞭なまま。
「でも、もしできたら理亜ちゃん元気になってくれるかな、て………」
「準備とかは?」
「それは………」
全くできていない。思いついたのは昨日だから、なんて言ったら反対されるかも。
「面白そうずら」
2本目の焼き鳥を食べようとしていた花丸が口を開いた。「そうそ――え?」と同意しかけていた善子も食事の手を止めてしまう。
「マルも強力するずら」
「本当? じゃあこの後理亜ちゃんと会うことになってるんだけど、一緒に来てくれる?」
「うん」と花丸は頷いてくれる。反対されたらルビィと理亜だけで、と考えていたから、一緒にやってくれる人の存在がこれほど頼もしいと思ったことはない。
「善子ちゃんも勿論行くずらね?」
と振られた善子は、まさか本当にやる気とは思っていなかったのか「わ、わたし?」と上ずった声で応じる。でもすぐに「くっくっく……」と堕天使モードに切り替わった。
「そんな時間、あるわけなかろう。リトルデーモンたちを探すという崇高な目的があるのに。ただどうしてもと――」
ああこれは大丈夫だ、ということで、待ち合わせの時刻も近いから口上を無視して花丸と一緒に客室を出た。
「待ってよー! てかヨハネー!」
と善子が出てきたのは、ルビィたちがエレベーターに乗ろうとしたときの事だった。
待ち合わせたラッキーピエロに理亜は来てくれたのだが、いつにも増して不機嫌そうにジュースのストローを吹いてぼこぼこ、という音で牽制してくる。
「ふたりも来るなんて聞いてない」
「ああでも、花丸ちゃんも善――」
言いかけたところで本人からの視線を感じたので「ヨハネちゃんも」と訂正した上で、
「とても頼りになるから」
「関係ない。わたし、元々皆でわいわいとか好きじゃないし」
失礼ながら、集団行動に向いているタイプじゃないことは何となく察してはいた。それでもスクールアイドルとして活動してきた者同士として打ち解けられないか、と淡い期待があったのだが、理亜のとっつきにくさの前に消えてしまいそうになる。
そこで、花丸が口を開いた。
「それを言ったら、マルもそうずら。善子ちゃんに至っては、更に孤独ずら」
「ヨハネ」と訂正しつつ善子は文句を飛ばす。
「何さら、と酷いこと言ってるのよ」
でも理亜は別のところが気になったようで、
「ずら?」
と反芻され、花丸は咄嗟に口を手で覆う。
「これは、おらの口癖というか………」
「おら?」
「違うずら……、マル………」
と訛りが恥ずかしくなったのか黙りこくってしまう花丸に善子が助け舟を出してくれる。
「ずら丸はこれが口癖なの。だからルビィといつも図書室に籠ってたんだから」
仕返しのつもりなのか、善子も恥ずかしいことを暴露してくれる。もっとも、あの頃の図書室で完結してしまう日常も、すっかり過去のものになっていったが。
「そうなの?」
理亜は意外そうに言った。「ずら」と花丸はまだ恥ずかしそうに、
「今年の春までは、ずっとそんな感じだったけど………」
理亜も少し恥ずかし気に顔を俯かせ、
「わたしも、学校では結構そうだから………」
考えてみれば、互いにステージでの姿しか知らない。ステージでは歌って踊れるスクールアイドルだけど、普段はあまり人と話さないし、皆とわいわいするタイプじゃない。こうして互いのことをさらけ出せると、漂っていた緊張が少しずつほぐれていくような気がする。
「善子ちゃんに至っては、図書室どころか学校にも来なか――」
「いちいち言わんでもええわい! てかヨハネ!」
「ごめんね善子ちゃん」
「だからヨハネよ!」
なんていつものやり取りをしていると、理亜がふ、と一瞬だけ微笑を零してくれた。
親睦が深まった――のかは分からないが――ところで、曲についての打ち合わせを始める。理亜がひと晩でやれるだけやってくれた歌詞を渡してくれた。携帯電話のメモ機能に綴られた詞を、注文したラキポテ――フライドポテトにミートソースをかけたオリジナルメニュー――をつまみながら目を通す。
「わたしは負けない。何があっても。愛する人とあの頂に立って、必ず勝利の雄叫びをあげようぞ………」
ルビィたちは3人揃って開いた口が塞がらなかった。何と言うか、独特というか――
「だから言ったでしょ。詞も曲も殆ど姉様が作ってる、て」
噛みつくように理亜が言った。「まだ何も言ってないけど」とルビィは苦笑を返す。理亜がここまで姉を慕う理由がよく分かった。
「しっかし、捻りも何もないわよね。直接的すぎる、ていうか」
ラキポテを食べながら善子が皮肉を言うのだが、「何? 文句あるの?」と理亜に凄まれて黙った。善子だって作詞させたら堕天使丸出しで読めない文言がたくさんあるのだから、人のことは言えない。
「でも、歌いたいイメージはこれで分かったずら」
花丸が前向きに言う。何も理亜ひとりに曲作りを押し付けるつもりなんて無い。詞を作ってきてもらったのも、彼女がどんな曲にしたいか、という方向性を得るため。生き字引な花丸が一緒に考えてくれれば、きっと良い詞になるに違いない。
「ルビィも手伝うから、一緒に作ってみよう」
「あなた達、ラブライブの決勝があるんでしょ? 歌作ってる暇なんてあるの?」
「それは………」
本当なら早く沼津に戻って練習しなければならないのだけど。言い淀んでいると、花丸が代弁してくれる。
「ルビィちゃんは、どうしても理亜ちゃんの手伝いをしたいずら」
そう、今更隠して取り繕っても仕方ない。だからルビィも、想いをそのままにして告げる。
「理亜ちゃんや、お姉ちゃんと話してて思ったの。ルビィたちだけでもできる、てところを見せなくちゃいけないんじゃないかな、て。安心して、卒業できるんじゃないかな、て」
自分のことを認めてくれた姉に見せたい。自分の力を。もう姉の後ろに隠れなくても進んでいける、と。
「げ、リリーだ!」
スマートフォンを見た善子が焦ったように声をあげた。
「どこにいるの。もう帰る準備しなきゃ駄目よ、て」
「もうそんな時間?」
「どうするの?」と理亜が訊いた。花丸は焦ることなく、
「今は冬休みずら」
2
事の段取りを決めてから、ルビィたちは函館駅へ急いだ。既にホテルをチェックアウトして待ってくれていた皆にここに残りたい、と説明すると、当然のごとく驚かれた。
「そうずら。理亜ちゃんが大変悲しんでいて、もう少し励ましたいずら」
上手い理由を考えてくれた花丸に続いて善子も、
「そうそう、塞ぎ込んじゃってどうしようもなくてさ」
「
「泊まる場所は?」と梨子が訊いた。この遠征費は委員会持ちだったから、これからの滞在はルビィたちの実費になる。でもそれに関しては心配ご無用。
「幸い、理亜ちゃんの部屋に余裕があるからそこで」
と花丸が答える。嫌がられると思ったのだが、思いのほか理亜が了承してくれた。一緒に作業するのならうちに来ればいいし、両親にも話はつけてくれる、と。
「何か面白そう」と曜が言った。
「そうですわね。この際わたくし達も――」
と同行に話が進みかけたところを「ああでも」とルビィが待ったをかける。
「そんなに広くないというか何と言うか――」
「そうずら。それに理亜ちゃん色々ナイーブになってるずら」
「そ、そう」と勢いよくまくし立てられ、ダイヤも何も言えなくなる。何だか騙しているみたいで心苦しいが、しばしの辛抱ということで。
「ごめんね、お姉ちゃん。2、3日で必ず戻るから」
「別に、わたくしは構いませんけど………」
ダイヤとしばらく離れるのは、ルビィとしても寂しい。でも、その先のことを想像すると楽しみでもある。
「良いんじゃないの。1年生同士で、色々と話したい事もあるだろうし」
そう告げる千歌は、何か知っているように見えたけど、それ以上は何も言ってはこなかった。どこまで知っているのか気にはなったけど、それをここで訊いたら台無しになってしまう。だからルビィも何も言わず、駅に入っていく千歌を見送った。
離陸時の揺れが収まり、気流に乗った飛行機の姿勢が安定する。シートベルトを外すよう呼びかけながら、乗務員が乗客たちの中で体調不良を起こした者はいないかと見て回っている。
練習を一時中断しても、この旅行は有意義だった、と思える。知らない土地でも自分たちと同じスクールアイドルが頑張っている光景を見られて、力を貰えた気分になる。このはやる気持ちのまま沼津に戻ったら即練習、と言いたいところなのだが、ダイヤはとてもそんな気分にはなれなかった。
「ルビィ……」
スマートフォンの中で笑う最愛の妹を見ながら、ダイヤは溜め息をつく。心配だ。慣れない土地で事件に巻き込まれやしないか。
「何か気に入らないことでもしたんじゃないの?」
なんて事を言う隣の果南に「そんなこと!」と思わず大声をあげてしまった。「お客様?」と様子を見に来た乗務員に、果南が慌てて「ああ大丈夫です」と断りを入れる。
「でもあの様子、明らかに何か隠してる感じだったけど」
それはダイヤも感じていた。理亜を励ますため、という建前のもとで、何かしようとしているのは。
「メンバーと別れてSaint_Snowの家に……。もしかして………」
鞠莉の予想が、ダイヤの脳裏で簡単に本人たちの姿で映し出される。
――お姉ちゃん、実はルビィ――
――Aqoursを堕天して――
――今日から――
――Saint Aqours Snowになります!――
「ブッブー、ですわ‼」
と思わず大声を出してしまい、再び乗務員が「お客様」とやってくる。「落ち着いて」「It's joke」と果南と鞠莉からも宥められ少しは頭が冷えたのだが、先ほどよりも不安は増した。
まさかルビィが。いくら浦の星がなくなるとしても、北海道にまで移り住んで理亜と新グループ結成だなんて。いや、でもあの妹はダイヤが思っているよりも行動力があって、でもラブライブの決勝を放り出してまでなんて――
「そうじゃないと思うよ」
後ろの席から、そんな千歌の声が聞こえる。
「多分あれは――」
「あれは?」とダイヤはシートから身を乗り出してその先を促す。知っている素振りな千歌はしばし逡巡して、
「いーわない」
と悪戯っぽくはぐらした。何なら多少強引な手を使ってでも吐かせてやろうか、とも思った。善子から教わった堕天使奥義堕天龍鳳凰縛で。
「もう少ししたら分かると思うよ」
「そんなあ………」
「ここが理亜ちゃんの部屋?」
招かれた理亜の自室は、ルビィたちのためか綺麗に掃除されている。ベッドは皺ひとつなく、物も整頓されていた。理亜は不服そうに腕を組んで、
「好きに使って良いけど、勝手にあちこち――」
言っているそばから、花丸が棚に飾られていたスノードームを手に取って、
「綺麗ずら」
「勝手に触らないで」
と理亜にひったくられる。スノードームは表面に埃ひとつなくて、中身が澱みなく輝いている。
「雪の結晶?」
善子がその中身を眺めながら呟く。その中身は、まさに雪の結晶だった。わずかな光でもきらきらと輝いている。理亜は大事そうにスノードームの表面を布で磨きながら、
「そう。昔、姉様と雪の日に一緒に探したの。ふたりでスクールアイドルになる、て決めたあの瞬間から、雪の結晶をSaint_Snowのシンボルにしよう、て」
スノードームを置いた横には、姉妹ふたりが写った写真が飾られている。衣装から、きっと夏の東京で開かれたスクールアイドルワールドの日に撮ったものだろう。
「それなのに……。最後のラブライブだったのに………」
まだあの日の後悔が強く残っているのか、スノードームを眺める理亜の目は切なげだった。幼い姉妹が視た、雪の結晶の放つ光。掌に落ちたそれはすぐに溶けてしまうけど、一瞬のうちに放つ光はとても儚く、そして美しい。
「綺麗だね」
似たものを追い求めていたことが嬉しく、自然と言葉が出た。理亜は得意げに「当たり前でしょ」と。
「姉様が見つけてきたんだから。ほら、あなたの姉より上でしょ」
「そんなことないもん。お姉ちゃんはルビィに似合う服、すぐ見つけてくれるもん」
「そんなの姉様だったらもっと可愛いの見つけてくれる」
「そんなの――」
顔が触れそうなほどいがみ合っていたことに気付く。花丸と善子は意外そうに、
「こんな強気なルビィちゃん――」
「初めて見た」
咄嗟に顔を理亜から背け、「そ、それは――」と弁解しようとするが、上手い言い方が見つからない。理亜は強気な姿勢を崩すことなく、
「本当、姉のことになるとすぐムキになるんだから」
「それは、お互い様だよ………」
「そうかも」
そんな素直な返しに驚いて、理亜のほうへ視線を戻す。理亜は笑っていた。同じ姉を慕う者同士として。姉に贈り物をしたい、という想いへの同調として。
そこで、部屋のドアがノックされた。開くと聖良が顔を覗かせて、
「皆さん、本当に戻らなくて平気なんですか?」
聖良も、ラブライブ決勝を控えていることを心配しての事だろう。あらかじめ用意していた言い訳を花丸が告げてくれる。
「他のメンバーに頼まれて、どうしてもこっちでやっておかなきゃいけない事があるずら」
「そうですか」
未だ腑に落ちない様子の聖良の前に善子が立って、
「こちらこそ、急に押しかけてしまってすみません」
ん?
この人、誰?
「いえいえ、うちは全然平気なんですけど。では、ご飯ができたら呼びますね」
「お構いなく」
聖良がドアを閉めると善子は溜め息交じりに、
「何とか誤魔化せたわね」
花丸もルビィと同じだったようで、「善子ちゃんが………」と声を震わせている。
「ちゃんと会話してる………」
ルビィが言うと善子は「ヨハネ!」と訂正しつつ迫ってきて、
「あんた達に任せておけないから仕方なくよ。仕方なく!」
普通に会話できるのはあくまで建前らしく、善子はいつもの堕天使ポーズを決める。
「堕天使はちゃんと世に溶け込める術を知ってるのだ」
何にせよ、外ではしっかりしているのなら大丈夫そうだ。花丸が感心したように言う。
「皆意外な一面があるずら」
「隠し持っている魔導力と言ってもらいたい」
「相変わらずずら」
善子は意外としっかりしていて、花丸は読書家で生き字引。ふたりだけじゃない。Aqoursの皆も、接すればそれぞれ意外な面が見えてくる。
「でも、そうかも」
「え?」と眉を潜める理亜に、ルビィは言う。
「ルビィ、最近思うの。お姉ちゃんや上級生から見れば頼りないように見えるかもしれないけど、隠された力がたくさんあるかもしれない、て」
きっとそれは、ルビィ自身にも宿っているのかもしれない。ダイヤも知らず、ルビィもまだ気付いていないだけで、大きな力が。
「じゃあ、決まりずら」
花丸が意気揚々と言った。「何が?」とルビィが訊くと得意げに応える。
「歌のテーマずら」
3
飛行機と電車を乗り継いだ長い帰路の末にようやく踏んだ故郷の地だけど、曜は真っ先に千歌と梨子と一緒に十千万へ向かった。出迎えてくれた翔一はいつものように台所で料理をしていて、その顔に陰なんて全く感じさせない。
「皆お帰り。どうだった函館? 美味しいものいっぱいあった?」
「うん」と千歌は満面の笑みで応じ、
「お土産いっぱい買ってきたよ」
「良いなあ。あ、そうそう。もうすぐクリスマスじゃない。今度のケーキは白菜で作ろうと思うんだけど、どうかな?」
「白菜、ですか」と梨子が苦笑した。記憶が戻っても、相変わらず発想が突拍子もない。「そんなことより」と曜はケーキの話題をひとまず置いて、
「翔一さんに訊きたいことがあるんですけど」
「何?」
翔一には料理を中断してもらい、千歌にはアルバムを取りに行ってもらった。テーブルの上で開いたアルバムの中は、高海家の記録が現像され並べられている。よその家のアルバムを捲るという行為に向けられる奇異の視線を感じながらも、曜は目的の人物を探す。なるべく最期の時期に近い写真がいい。当時に最も近い容姿の頃の。
ようやく見つけたのは、千歌と曜が中学生の頃のもの。釣竿を手にした千歌が、父と笑顔で並んでいる写真だった。これを撮った日のことは曜も覚えている。千歌の父が東京から帰ってきたお盆の頃で、曜と果南も一緒に海釣りへ連れて行ってもらった日だった。
曜は写真を指さし、
「この人、見覚えないですか?」
翔一は写真に写る千歌の父をじ、と眺める。
「この人………」
「わたしのお父さんだよ」と千歌が教える。千歌も不思議そうな顔をしていた。曜の気付きは、まだ千歌に教えていない。
翔一の目が、わずかに見開かれた。それを見逃さなかった曜は畳みかけるように、
「もしかして、どこかで会ったことありますか? 千歌ちゃんのお父さんと」
翔一は逡巡を挟んで首肯する。「でも」と千歌が口を開いた。
「何で翔一くんとお父さんが?」
「会った、ていうか………」
翔一は重苦しそうに写真に目を落とし、
「俺、この人が倒れてるところに偶然通りかかって………」
「お父さんが倒れてた、て………。もしかしてお父さんが死んだ日のこと?」
千歌は席を立つと、棚の奥から新聞紙を出して戻ってきた。テーブルに広げた新聞は3年前の、高海伸幸殺害事件を大見出し記事で報じたもの。他殺体という事実が大きく取り上げられ、十千万にも連日記者が取材に訪ねていたことは曜も覚えている。
「まさか千歌ちゃんのお父さんだったなんて………」
翔一は新聞記事を手に取ると、日付を見てか「この日……」と呟く。「何?」と千歌に促され、翔一は重々しく続きを言った。
「この日は俺が姉さんと会った最後の日でもあるんだ」
3年前の5月10日。
それは死体になった姉と対面する前日、姉と最後に言葉を交わした日だった。後に待ち受ける運命を悟ってか、姉は残される弟に遺言めいた言葉を残した。
なんて事実はない。
その日はいつもと同じ朝だった。朝食を食べながら、姉が夕飯は餃子が食べたい、と言った。その日の姉はアルバイトが久々の休みだったから、大学のゼミが終わったら一緒に食材の買い物に行く約束をした。
「姉さん、じゃあゼミが終わったら電話して」
アパートを出て行く姉にそう言うと、姉は笑顔で頷き手を振ってくれた。自分たち姉弟にとってはいつもの風景だ。その日常の中にあったあの笑顔が、最後の「生きた」姉だった。
専門学校での講義を終える頃には姉のゼミも終わると聞いていたのだが、電話は来なかった。姉さんもおっちょこちょいだからな、とさほど気にはしなかった。朝の時点で待ち合わせの場所は決めていたから。待っていればいずれ落ち合えるだろう、と。
待ち合わせ場所に向かう途中、線路の高架下の路地で、中年の男性が倒れているのを見つけた。その路地はいわゆるシャッター商店街というべき場所で、常に電車の走行音が響いていたから近道程度にしか利用されていない通路だった。
「やめてくれ……。もう、やめてくれ………」
コンクリートの壁にもたれながら、男性はうわ言のようにそう繰り返していた。いくら声をあげたところで、電車の音で掻き消され誰にも気付かれなかったのだろう。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
駆け寄って呼びかけたのだが、男性は聴覚も視覚もろくに機能していないようだった。焦点の定まらない目を泳がせ、その口からごぼ、と血泡を吹いた。もはや肺も潰れたのか、ひゅー、という吐息を最後に男性は首を垂れて震える目蓋を閉じた。
警察と救急車を呼ぶべきだったのだが、その場から離れてしまった。姉との待ち合わせ場所はすぐ近くだったから、もしかしたら姉にも何かあったんじゃないか、と。
路地から出ると、そこはいつもの東京の風景が広がっていた。お勤め人や学生たちが行き交い、ぞろぞろと脇目もふらず、立ち止まらず。その中に姉はいなかった。待ち合わせ場所とその周辺も走り回ったが、見つけることは叶わなかった。
現場に戻ると、別の人が通報したのか警察が来ていて、男性の亡骸にはシートが被せられていた。恐ろしくなって、現場から逃げるように去って家に帰った。
そして翌日、姉が自殺したと連絡が来た。