ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト 作:hirotani
第1話
1
涼は痛む体を持ち上げ、炎に向かって駆け出した。炎の中で焼かれるままでいる翔一の肩を掴み、共に火柱から抜け出し地面を転がる。ほんの一瞬だけだが、飛び込んだ炎に撫でられた服が焦げて煙をくゆらせた。露出していた手も軽いが赤く火傷していて、髪も少し焼けたらしくその臭気にむせ返る。
「葦原さん!」
変身していた翔一は多少の痛みで済んだらしく、涼へ手を伸ばそうとしている。
「逃げろ!」
撥ねつけるように叫ぶと同時、黒い青年が手をかざした。気付いた翔一が咄嗟に避け、その脇を蜃気楼のように揺らめく波動が掠める。すぐさま立ち上がる翔一だったが、急速に滑空してきたハヤブサに足を払われた。不意打ちが堪えたらしく、宙を1回転し倒れた翔一の姿が戻ってしまう。
「津上!」
と翔一の体を起こす。「逃げるんだ」と肩を貸すと呻き声が聞こえた。視線を転じると、黒い青年が前と同じように腹を抱えて苦悶に顔を歪めている。
「飲み込んでやる……、貴様の力など………!」
木野の時もそうだったが、どうやら彼にとってアギトの力は毒のようなものらしい。
「逃げるんだ、早く!」
この好機は逃せない。翔一を抱え、足を引き摺りながらバイクのもとへ行きその場を後にする。
黒い青年は追ってこなかった。今は涼から奪った力に苦しんでいるが、しばらくすれば再び現れる。最後のアギトである翔一の前に。
バイクを猛スピードで駆り、内浦湾の沿道に出る。敵から離れて緊張が解けたせいか、貫かれた腹に激痛が走った。何とかバイクを路肩に停めると、糸が切れたように身体の力が抜けていく。前なら多少の痛みくらいはすぐに治まったのに。普通の人間とはこうも脆いものなのか。
「葦原さん?」
遅れてバイクを停めた翔一が、涼へ駆け寄ってくる。
「しっかりしてください。葦原さん、どうしたんですか?」
返事もできず息をあえがせているところで、通りかかったセダンが涼たちの傍で停まった。開けたフロントガラスから覗かせた男の顔に、涼は息を呑む。
「あなたは……」
翔一は知っているのか、男と視線を交わしたまま無言のままでいる。
「乗れ」
男はそれだけ言った。翔一は逡巡したが、素直に涼をバイクのシートから降ろし後部座席へと座らせる。
男が車を発進させてしばらくすると、シートに預けた身体が少しだけ楽になった。
「あんたは………」
涼が絶え絶えの息で質問を飛ばすと、ハンドルを握る男は振り向くことなく答える。
「沢木哲也だ」
その名前に涼は違和感を覚えた。何故ならその名前は、翔一の本名なのだから。ただの同姓同名とは思えない。本当の沢木哲也であるはずの翔一は、気まずそうに顔を俯かせた。
沢木の屋敷に到着すると、翔一はソファに涼を寝かせた。声を出すのも辛そうだが、涼は懸命に絞り出す。
「やられた……、奴に力を抜き取られた………。俺はもう、変身することができない………」
「そんな、どういうことです? 何なんですかあの人?」
ソファに腰掛けていた沢木が、その答えを告げる。
「あれは、人ではない。力そのものだ」
「人じゃない? 前に、俺をアギトにした人にそっくりでしたけど………」
そっくりどころか、全く同じ顔だ。同一人物じゃないのか、と思ったほどに。
「そう、全く同じものだ。だが、正反対のものだとも言える。光と、闇のように」
沢木の言葉の意味は、全く理解できない。同じだけど正反対なんて矛盾している。翔一の疑問を汲み取ったのか、沢木は嘆息し壁際へ目を向けた。視線を追うと、壁に床から天井まで届くほどの大きな絵画が飾られている。
奇妙な絵だった。上には3対の翼を持った者とその周囲にも翼を持った天使のようなものが描かれている。下へと目を降ろすと人と天使たちが武器を手に戦っていて、更にその下には何も描かれず白紙になっている。
「長い話になる」
まだ人間という種どころか生命が生まれるよりも、その遥か昔。まだ世界が世界という形を成さなかった時代があった。全てに満たされていたが、同時に取り留めもなく何も成さない混沌の中で、彼は闇という概念として現れた。
彼はまず、混沌を整理することから始めた。最初に創ったのは光。そこから昼と夜、天と地、陸と海というように、この世界を成した。次に創ったのは生命だ。自らの傍に使徒――お前たちがアンノウンと呼ぶ者たち――を創り、使徒に似せて動物を創り、そして自らに似せて人間を創った。つまり彼はこの世界と我々人類の創造主。太古に神と定義された存在だ。
彼は自身の現身である人間を、創造物のなかで最も愛した。彼の寵愛を受けた人間たちはアダムとイブを始めとして産まれ増え、地に満ちていった。だが、やがて人間たちは驕り鷹ぶり、動物たちを家畜として飼いならし、戯れに虐げ殺すようになった。この在り様に使徒たちは怒った。人間が彼の現身ならば、動物は使徒たちの現身。自分たちを元に創られた命を殺さないよう警告したが、人間たちは聞く耳を持たなかった。
そこから、使徒と人間の戦いが始まった。いや、戦いなんてものじゃない。使徒たちによる虐殺だった。いくら彼に似せて創られたとはいえ、所詮は形だけ。彼の傍付きとして創られた使徒に人間は成す術もなかった。
だが、蹂躙されていく人間に救いの手が差し伸べられた。その手は彼じゃない。彼に最初の使徒として創られながら、彼と同じ存在となった光だった。光は人間に力を与えた。力を授かり全く新しい生命として生まれた人間はアギトと名付けられ、使徒と戦う尖兵になった。
戦いが長引くにつれて、人間の中でアギトは決して多くはなかったが、その数は増えていった。力の進化は枝分かれのように分岐し、中にはギルスという別種まで生まれるほどに。
これまで静観していた彼は、この裏切りに怒り狂った。自分の創った人間を勝手に作り替えた光を自らの手で粛清した。だが光は、最期に直接アギトの種を人間たちに撒いた。全ての人間がアギトになれば、いずれ使徒は滅ぼされ彼も牙を向けられる。そのことを怖れた使徒たちは地上を洗い流すことで生命を滅ぼし、全てやり直すことを決めた。
だが、彼は愛した人間たちをそう簡単に捨てることはできなかった。人間と動物たちのつがいをひと組だけ、方舟に乗せて生き延びさせた。今度こそ、正しい命だけが満ちるように。
だがこの慈悲が、皮肉にも彼を苦しめることになる。
滅ぼしたはずの光が最期の力で時を越え、遥か未来の船――つまりあかつき号に現れた。その時のことはお前も知っている通りだ。光はお前の中に眠るアギトの力を目覚めさせ、今度こそ滅びた。
水の使徒を通じこのことを知った使徒たちは、生き残らせた人間も滅ぼすべきと沸き立った。だがそんな傍付きたちを彼は鎮めた。そもそも使徒と人間の戦いは、彼の制止に背いた使徒たちが起こしたものだったからな。目を閉じるだけで全てを滅ぼすことなど容易い彼に、制裁を怖れた使徒たちは矛を引くしかなかった。
戦いと粛清で深く悲しんだ彼は、再び人間が地に満ちた未来を待つことにした。自分の愛した人間なら、正しく生きていけるはずだ、と。だが、憎きアギトの力がまだ人間たちの中に残っている限り、悲しみは繰り返される。だから彼は、再びアギトが生まれ始めたら、アギトだけを滅ぼすよう使徒たちに命じた。
彼も未来の人間を愛せるか見定めるため、自らの器となる卵を残し長い眠りについた。
語り終えた沢木は、少し疲れたように深く溜め息をついた。世界の成り立ちとアギト誕生の神話。恐らくそれは事実だったのだろう。1度リセットされた後に繁栄した人類が国や民族、宗教とそれぞれのコミュニティを形成すると共に、創世神話もまた分岐と脚色を繰り返し語り継がれてきた。
でも全ての伝承や神話の原典を聞いても、翔一のなかに感慨なんて湧かなかった。自分の存在しなかった大昔のことなんて、想像しても確かめようがない。湧いたのは、ただひとつの疑問。
「何故、何故あなたはそんなことを知ってるんです?」
「彼は俺を選んだ。人間の側から、アギトを滅ぼす者として。そして俺に全てを教えた」
沢木はソファから立ち上がり、より近くで絵画を眺める。この絵は沢木が描いたものだろうか。神から聞かされた神話を元に。
「だが俺は彼を裏切り、アギトを護る側についた」
翔一は思い出す。バイクが変形する力を得たときに聴こえた声。あれは沢木の声だった。沢木は出会う前から翔一を、アギトを助けるために知らないところで動いてきたのだろう。
全てはアンノウンと、アギトの存在を否定する神と戦わせるために。
「俺の……、俺の姉さんがアギトだったからですか?」
沢木はき、とまなじりを吊り上げる。
「まだそんなことを言っているのか。雪菜は無関係だ」
「嘘だ! 姉さんはアギトだった。そして、アギトの力が千歌ちゃんのお父さんを――」
「違う、雪菜はただの被害者だ!」
もはやこの男の語ることが、全て誇大妄想にしか思えなくなってくる。神に存在を否定された姉が、悪魔じゃないと信じ込むために。神を倒し、彼女を新しい神話の祖として祀り上げるために。
でもいくら後付けで神聖さを纏わせたところで、何も変わるものなんてない。正しい力を語られても、アギトになった姉が千歌の父を殺してしまったことは事実のままなのだから。
「もし姉さんが犯人なら、アギトの力なんて………俺はいらない!」
吐き捨てて翔一は部屋を出て行く。「津上!」と呼ぶ涼の声を無視して。
屋敷を出たところでバイクを置いてきたことに気が付いたが、そう気にも留めることなく歩いて帰路についた。涼のバイクも、後でレッカーを手配して沢木邸に運んでもらおう。
そう考えた後は、思考を止めたままひたすらに歩いた。何も考えたくなかった。山を下って冷たい潮風が吹く沿道を行き、十千万に着く頃になると深夜の内浦は静寂に包まれていた。腕時計も携帯電話も持っていないから何時か分からないけど、もう住民たちは誰もが眠っているだろう。
家にすぐ入らず、翔一は三津海水浴場の砂浜で海を眺めた。足を止めると、否応なく思考が再開される。思い出すのは、警察署で視たUSBメモリのイメージ。薄暗い部屋のなかで、アギトに変貌する姉の姿。
「姉さん……」
呟いた呼び名に返事はない。ただ波の音が静かに繰り返されるだけだった。呼ばれて弟へと振り向く姉は、いつも笑顔だった。作った料理をいつも美味しい、と食べてくれた。
――姉さん!――
――何、哲也?――
愛しかった思い出の全てが、どす黒いグロテスクなもやに覆われていくようだった。
――こっちに来て――
あのイメージの中で、姉はひたすらにそう言っていた。一緒に海に行ったときとは違う、とても苦しそうな声。
ああ、と翔一の唇から震える吐息が漏れた。
姉さんは助けを求めていたんだ。
自分の中で膨れ上がる力を怖れて。力に意識を塗り潰されて、自分が自分でなくなってしまう事に震えていた。
遅すぎる懺悔の想いが胸の裡に流れ込んでくる。
ごめん、姉さん。
俺、何も気付けなくて。
姉さんを止めることができなくて。
そこで、翔一は気付いてしまう。今まで幸福を抱きしめてきた高海家での生活。ずっと記憶喪失のままでいい、なんて日和見だった日々。その全てが、実は残酷な因果の結果だったことを。
全部、全部俺たち姉弟のせいじゃないか。
姉さんがアギトになったから、千歌ちゃんのお父さんは命を奪われた。
俺が姉さんの自殺に納得できなくて、あかつき号に乗ったせいで木野さんや船の皆もアギトにされた。
アギトの力を植え付けられたせいで皆はアンノウンに殺されて、葦原さんのお父さんも亡くなって――
「姉さん………」
その呼び名にどんな感情を込めて良いのか、分からなくなった。育ててくれた唯一の家族なのか、大切な人の家族を奪った悪鬼なのか。
ただ、懺悔のみが裡に渦巻くばかりだった。
ごめん。
皆、ごめん――
2
職場復帰できた誠の快気祝いに小沢と尾室が連れてきてくれたのは、やはり焼肉だった。昼食時でユニットメンバー3人でのささやかなものだったが、それでもこうして労ってくれるのは誠にとって有難い。
「退院おめでとう、氷川君」
「おめでとうございます」
ウーロン茶で乾杯すると、早速尾室が運ばれてきた肉を熱した網に並べていく。しばらく病院食だったから、脂がじゅう、と音を立てる食事に食欲をそそられる。
「すみません、ご心配をおかけしました」
怪我で病院送りなんて沼津に来てからは日常茶飯事のようなものだったが、今回は頭を打ったということもあって検査入院が長引いてしまった。年越し前に退院できてよかったですね、と看護師は言ってくれたのだが、生憎実家に帰省する予定もないから寮でひとり年越しを迎えることになる。
「でも良かったですね、本当何ともなくて」
「そうね。まあ丁度いい休養になった、てところかしら」
小沢の言う通りゆっくり休むことはできたが、心的にはアンノウンの事で気が気でなかったから落ち着かない入院生活だった。知らせを受けた両親が病院まで駆けつけてきて、こんな危ない仕事は辞めろ、だなんて泣きつかれる始末だ。心配をかけて申し訳ないとは思っているが、ここで逃げ出すわけにもいかない。不可能犯罪がいつ終わるのか分からないし、それに高海伸幸の事件もある。
「ほら、どんどん食べなさい」
最大火力で焼かれた肉はもう焼けていて、我先に「いただきます」と尾室が箸を伸ばす。その箸を小沢は跳ねのけて、摘まんだカルビを誠の取り皿に乗せてくれた。
「すみません、いただきます」
と肉をタレに付けて口へ運ぶ。ニンニクと醤油の味に浸された肉を噛みしめているうちに、小沢はどんどん食べ頃な肉を見繕って誠の皿に上げてくれた。
「そうですよ氷川さん、どんどん食べなきゃ」
と尾室も誠の皿に肉を乗せて、自分の分にと取った肉を頬張る。冷めないうちに、と取り皿で山盛りになった肉を取ろうとしたとき、誠は違和感を覚えた。
視界が霞みがかっていて、どれが肉なのか分からない。目を擦って視線を上げると小沢と尾室の顔もぼやけていて、煙かと思い店内を見渡してみるのだが同じだった。
「氷川君、どうした?」
呼ばれて目を転じると、ぼやけた視界が明瞭になっていき小沢の顔が認識できる。
「いえ、何でもありません」
と応じ皿の肉を取る。今度はしっかりと肉も見えた。
「美味いっすね。もっと食べてください氷川さん」
なんて言いながら、尾室が摘まんだタン塩を自分の口に放っている様子もはっきりと見える。
まだ疲れが取れていないのだろうか。そう思いながら食べるカルビも、味がよく分からなくなっていた。
3
寒い時期の夜空に散りばめられた星々を見て、脳裏に浮かぶのは幼い日の思い出だった。あまり良い思い出ではないけれど、何故か星を見るとよぎってしまう。
あの日、鞠莉は果南とダイヤの3人で葛城山へ向かった。親には何も言わずに家を出たから、すぐにホテルの従業員たちが駆けつけてきて、捕まるものかと急ぎロープウェイに飛び乗った。お嬢様、と昇っていく鞠莉を呼ぶ声に、ダイヤが不安がっていたのをよく覚えている。
「どうするんですの? 大事になっていますわよ」
「諦める?」といつも強気だった果南も、あの時ばかりは弱気だった。「いや」と鞠莉は即答し、
「流れ星にお祈りできなかったら、きっとダメになっちゃう」
テレビで流れ星が観られる、と天気予報のキャスターが言っていて、父に流れ星にお祈りすればどんな願いも叶えてくれる、と聞いた。だから鞠莉は、果南とダイヤに観測を提案した。どうしても叶えたい願いがあったから。
富士山や伊豆半島の山々が見渡せる葛城山の山頂は、パノラマパークとして整備されている。ロープウェイを降りてデッキに躍り出た空中公園に広がる空は、灰色の雲に覆われていた。
もっと星がよく見える場所。あの雲を越えられるほど高いところを探して、鞠莉たちは木の骨組みで建てられた展望デッキへと走った。
山の最も高い場所へ登っても、雲を越えることなんてできない。依然として空は灰色で、雲が押し潰してきそうな恐怖すら覚えた。
「そんなあ」
とダイヤが肩を落とした。でも果南は背負ってきた小さなリュックを開け、
「これで確かめなきゃ、まだ分かんないよ」
と丸い厚紙を手渡した。点と点が線で結ばれた星座の早見盤だった。鞠莉は両手で早見盤を掲げ、まだ星を見るには明るい空に照らし合わせる。
ぼつ、と早見盤に滴が落ちた。「雨……」と果南が呟くと同時、灰色の雲が雨を降らせる。傘なんて持って来ていないから、鞠莉たちは濡れるままだった。
「そんな。これじゃお祈りできませんわ。これじゃ………」
神様から質の悪い悪戯をされたような気分だった。お前の願いなど知った事か、と。
「来たのに……、せっかく来たのに………」
もうじき、従業員たちも山頂にやって来るだろう。家に帰れば両親から酷く叱られる。でも、そんなことはどうでも良かった。願いを叶えるために、祈ることすらできない雨に泣くことしかできなかった。
「泣かないで」
とペンを手にした果南が、早見盤に落書きを始めた。
「ほら」
果南が早見盤に描き加えたのは、厚紙の大半を占めるほどに大きなひとつの流れ星だった。
「これで大丈夫!」
星がないなら、自分で作っちゃえばいいんだよ。そう果南は得意げに言っていた。結局あの後も雨は止まず、早見盤に描いた流れ星に3人で祈った。すぐに従業員たちが山頂に来て、それぞれの家に連れ戻された。
あの日の早見盤は、今も鞠莉の机の引き出しにしまってある。あの日の祈りを忘れないように。
だから今でも鞠莉は祈り続けている。現実を知らない子供の儚い夢だと分かっていても。
ずっと一緒にいられますように、と。
鞠莉の追憶は、翔一の訪問によって打ち切られた。
部屋に行くと、薫はベッドで横たわったまま虚ろに天井を見上げていた。アギトの力を失ってから、ずっとこんな様子だった。傷は癒えたようだが、部屋から出ようとしない。鞠莉が運んだ食事を食べてはくれるのだが、それ以外は何もせず虚空を見つめているだけで日々を過ごしている。
「薫、翔一が話がある、て」
鞠莉がそう言うと、「ああ」とだけ応じた薫は重そうに身体を持ち上げソファへ移動した。
部屋に招いた翔一も似たような顔をしていた。いつもの笑顔はどこへやら、重苦しそうな顔を俯かせたまま、鞠莉の促すままソファに腰を落ち着ける。
「アギトの力についてか。何故そんなことを俺に訊く?」
紅茶を啜り、薫はそう訊き返す。
「俺、今までずっとアギトとして戦ってきました。けど、分からなくなったんです。アギトって何なのかな、て」
その疑問を彼が抱くこと自体が、鞠莉には意外に感じられた。自分には人を護る力がある。人を護るために戦うことができる。それだけで十分、とこれまで翔一は戦ってきた。記憶を取り戻しても以前と変わらないと思っていたが、心境に変化があったということか。
「もしかしたら、アギトが千歌ちゃんのお父さんを――いえ、俺の姉さんもアギトのせいで命を落としたかもしれないんです」
「どういうこと?」と鞠莉は訊いた。千歌の父が3年前に殺人事件で亡くなったことは果南から話には聞いていた。まだ犯人が逮捕されていないことも。
「まだ千歌ちゃんは知らないんだけど――」
と前置きし、翔一は話してくれた。千歌の父が行っていた研究と、その研究に協力していた翔一の姉のことを。
千歌と翔一の間に結ばれていた縁に、鞠莉はただ唖然とするしかなかった。翔一は無関係、と簡単に言う事はできる。でも当人にとって、身内の過ちを他人事と割り切れないのも現実だった。千歌の父を死に追いやったのは姉の持つアギトの力。千歌から父を奪った者と同じ力で彼女を護っていた事実が、彼にとって矮小な償いになってしまったのだろう。
だから翔一は疑問を抱いてしまった。
アギトの力を持つことの意味を。
翔一は薫を見据え、
「木野さん、前に葦原さんや俺を襲ったことがありましたよね。あれってやっぱり、アギトの力のせいだったんじゃないですか? アギトの力に操られて、それで………」
アギトの力は人を惑わし、狂わせるものなのか。それは力を育て、顕現させた者にしか分からない。鞠莉の裡にあるアギトはまだ育ってはいない。変身するほどの力になれば、自分もまた狂ってしまうのだろうか。燻っていた黒い感情のまま力を暴発させた、かつての薫のように。
分からない。いくら考えたとしても仮説でしかない。全ての答えは、あかつき号に現れた白い青年のみぞ知ること。
薫はしばらく逡巡し、ようやく無表情だった口元に微笑を浮かべた。その微笑に翔一は少し苛立ったように、
「何が可笑しいんですか? お願いします。何とか言ってください」
薫の笑みが、自嘲のものだと鞠莉には分かった。次に彼が告げるだろう言葉も。
「俺にお前を助けることはできない」
予想通りに呟き、薫は自分の右手を眺める。弟から与えられた、自身の無力の象徴を。
「俺は本当に助けなければならなかった者を前にして、何もできなかった人間だ。そんな俺に何ができる」
もう俺はアギトじゃない。弟を助けられなかった、ただの弱い人間だ。そう自身を嘲笑う薫に、翔一は何も言えずにいた。強くなりたかった、とかつて薫は言っていた。全ての患者を、弟を救えるほどに強く。その力への渇望から、最強唯一のアギトとして存在しようとした。
そのアギトは、もう薫の裡にはない。彼は空っぽになった。アギトという芯も、力を求める意味すらも失って。
翔一が出て行った後も、薫はずっと右手を眺め続けていた。アギトでなくなった今、自分を自分たらしめているのは弟への懺悔だけ。そんな哀しい感情に縋ろうとしている姿がとても小さく映り、鞠莉は強い声で告げる。
「薫、いつまで昔のことに拘ってるの? 薫はdoctorとして沢山の人を助けてきたじゃない。あなたはアギトじゃなくても凄い人じゃない」
医師としての資格を剥奪されても、薫は圧力に屈しなかった。決して陽の当たる場所に戻れないと知りつつも、助けを求める患者たちに手を差し伸べ、メスを取り救ってきた。
根底にあるのは弟に対する贖罪だったのかもしれない。でも鞠莉にとって人を救おうとする薫の背中は大きくて、目指すべき指針だった。鞠莉にとって木野薫とは英雄そのものだった。
「わたし、ずっと薫に憧れてた。前にも言ったけど、わたしずっとパパの会社を継ぐように言われて。でも、あまり頭は良くないし………」
父の仕事を継ぐことへの重圧は、果南とダイヤにすらも打ち明けたことはなかった。スクールアイドルを始めたことも、重圧を忘れるための逃避という不純なものだったかもしれない。その想いを初めて薫に打ち明けたとき、彼は鞠莉の弱さを受け止めてくれた。自分の役目から逃げることなく向き合い続ける彼は、逃げ出したかった鞠莉を笑いなんてしなかった。お前は自分が思っているよりも強い、と勇気を授けてくれた。こんな大人になりたい、と強く思った。
「わたし、薫みたいになりたかった。薫のように強くて、薫のように優しく………」
薫は鞠莉を見上げる。かつての強さも優しさもなくなったと思われた瞳に何かが宿ることを願ったが、彼は何も言わずに再び視線を落とした。