ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト 作:hirotani
1
「ううっ」という呻き声が聞こえ、誠はアンノウンの拳を交わしながら視線を転じる。地面に倒れたアギトの姿が翔一に戻り、その腹から光る球のようなものが浮かび上がっていた。
光の球は吸い込まれるように宙を滑り、その先で立っている黒衣の青年の腹に収まる。
「あれは……!」
青年の顔に誠は息を呑んだ。彼は確か、三浦智子殺害事件の犯人として逮捕された。精神病院に措置入院しているはずが、どうしてこんな所に。
それに、今の光景は一体――
腹を抑える翔一の呻き声で、思考は中断される。
「津上さん!」
翔一を映す視界がぼやけた。一瞬、センサーの不具合かと思った。胸部装甲に衝撃が走る。アンノウンの爪でやられたらしい。目の前の敵へ目を向けるが、視界は霞かかったまま。敵がどこにいるのか分からないまま、闇雲に振るった拳が空を切る。直後、右肩を殴られた衝撃が走り身を狼狽えさせた。すぐさま右へ蹴りを入れるのだが、それも虚しく空振り反撃を許してしまう。
どういうことだ。センサーの不具合ならモニタリングしている小沢も確認できるはず。何故指示を飛ばしてくれないのか。
いや、そもそもセンサーの不具合で霞がかるなんておかしい。普通なら暗転かノイズが走るはずだ。マスク内に損傷のアラートが響いている。ということは、G3-Xのシステムは問題なく機能している。
まさか、僕の目か。
目が視えていないのか。
成す術なく胸を穿たれ、地面を転がる。何度か瞬きを繰り返していると、視界の霞が少しだけ晴れ、一瞬だが迫ってくるアンノウンの姿が映し出される。
視えた!
すかさずGM-01を抜き発砲する。引き金に指をかけた時にはまた霞で視界が覆われたが、破砕音から命中したと分かった。ばさ、と翼を広げるような音が聞こえた。構えるが何も起こらず、無音が漂う。
「津上!」
「翔一!」
そんな声が聞こえると同時、視界が回復していく。目を向けると、翔一のもとに涼と木野と鞠莉が駆け寄っていた。
「しっかりしろ!」
「津上!」
涼と木野が呼びかけても、翔一は粗い呼吸を繰り返しているだけ。一体あの青年に何をされたのか。翔一の体から出てきたあの光は何なのか。
埠頭を見渡しても、黒い青年の姿は既にない。困惑と恐怖ばかりが裡で渦巻いている誠の耳に、小沢からの指示が来た。
『氷川君、アンノウンは逃走したわ。帰還して』
埠頭の空き倉庫を拝借して、しばしの休息を経た翔一は痛みが治まったらしく、呼吸が安定した。椅子代わりに腰掛けたコンテナボックスで彼は俯いたまま、涼と薫、それに鞠莉からの視線を一身に集めている。
薫が教えてくれた。あの黒い青年によって、薫と涼は力を奪われたと。翔一にも同じことが起こってしまったと。
「津上、何故だ?」
涼が怒気を含んだ声で訊く。
「何故自分からアギトを捨てた?」
翔一は長い逡巡を挟み、か細い声で答えた。
「あれは……、あれは人間が持っちゃいけない力なんです」
「ちょっと待ってください」という声が割り込んでくる。G3-Xとしての戦闘を終え、背広姿で戻ってきた誠が倉庫に入ってくる。
「どういうことですか。アギトを捨てた、て?」
鞠莉たちへ険しい視線を巡らせると、誠は翔一の前に屈み彼の顔を覗き込む。
「一体何があったんです?」
「俺、今までアギトの力で人を護ることができる、て思ってました。でも違ったんです。アギトは人を不幸にします。そんな力を持ってたって、仕方ないじゃないですか」
そう語る翔一を、誠は信じられない、と言うような目で見つめていた。
「何を言ってるんです………? 現にあなたは、今まで多くの人々を助けてきたじゃありませんか」
「氷川さんには分かりませんよ。アギトじゃない氷川さんには」
「それは………」
突き放すようなその物言いに、誠は何も言えずにいる。誠だけじゃない。翔一と同じ力を持っていた薫も涼も、ただ無言のまま彼を見下ろしている。
力を持った者の苦悩は、当人でなければ分からない。力で苦しめられた涼、力で狂ってしまった薫、力の目覚めに恐怖した鞠莉でなければ。
「もういいじゃありませんか。俺たちはアギトじゃなくなったんです。ただの人間として、皆勝手に生きていけばいいんです。もう関係ないですよ俺たち」
そう言って、翔一は重そうな身体を起こして倉庫から出て行く。誰も後を追うことはできなかった。
部屋に戻ってから、千歌は何もする気が起きなかった。走って温まった身体は冬の空気ですぐに冷え込んで、布団に潜ろうにも眠気も来ない。
頭の中がぐるぐるとかき回されているようだった。思考が全くまとまらない。どうしてあの時、翔一を拒んでしまったのか、千歌自身にも判然としなかった。
彼が父を殺した者の身内だったからなのか。それとも父を殺したのと同じ力を持っているからなのか。
これは恐怖なのか、それとも憎悪なのか、分からない。
「千歌ちゃん」
襖を隔てて、翔一の声が聞こえた。今の翔一に、恐怖は感じない。全くの無感覚だ。一切の感情が冷え込んで凍り付いたように。
翔一は部屋に入ろうとせず、襖越しに続ける。
「千歌ちゃん。俺、もうアギトじゃないから。アギトの力を、捨てたからさ」
「どういうこと?」と思わず訊いていた。言葉の意味が分からない。
「人間は、人間のままでいれば良いもんね」
翔一はそれだけ答え、
「だから、ごめん………。姉さんのこと、これで赦してもらおうなんて思ってないけど………、ごめん」
足音が、部屋から遠ざかっていく。詳しく訊こうにも、その気力すら千歌にはなかった。
2
「では、どこにも異常はないと?」
北條の問いに、医師は「ええ」とカルテを見ながら答える。
「先日入院していた際の検査結果も確認してみたのですが、脳にも視神経にも異常はありません」
北條はその説明に納得がいかないような表情をしているが、この診察は北條ではなく誠のものだ。朝出勤したら北條に掴まって強引に病院へと連れてこられ、また精密検査を受けることになってしまった。何でも北條は、先日のオペレーションを現場で見ていたらしい。つまり、彼はあの時誠に起こった異常を目の当たりにしていたということ。
身体に異常がないことは、誠自身が最もよく知っている。入院中も検査は受けていたし、どこにも異常は無いから退院の許可が下りて現場復帰した。
「もしかしたら……」と医師はカルテから目を離し、
「ストレス性の神経異常の可能性もあります」
「ストレス?」と誠が反芻すると、医師は「ええ」と応じ、
「過度なストレスによって、正常なはずの器官が突如不調を起こすことがあります。例えば難聴や味覚障害、顔面の神経が麻痺するといった症状もあります」
「彼の場合、視覚に症状が現れたということですか?」
北條の質問に医師は言葉を探るように、
「一概にそう、とは言えませんが可能性はあります。精神科のほうで、カウンセリングの手配をすることができますが――」
「いえ、結構です」と誠は椅子を立った。少し前ならばその提案を受け入れただろうが、今は悠長に構えていられる状況じゃない。
「ありがとうございました」
医師に頭を下げて、診察室を出た。遅れて出てきた北條に言う。
「だから言ったじゃないですか。大したことない、て」
「果たしてそうでしょうか。アンノウンと戦うに際しては、たとえ一時的にせよ目が視えなくなれば命取りになりかねない。私としては、当分の間G3-Xの装着はやめるべきだと思いますが」
それが正しい判断だろう。悔しいが、北條の言っていることは常に正しい。それは認めざるを得ないが、この時ばかりは受け入れることはできない。
「それは……、それはできません」
「しかし、氷川さん――」
「北條さんはご存知ですか? 津上さんは今、アギトとして戦えなくなってるんです」
「津上翔一が? どういうことです?」
「詳しいことは分かりません。彼に何があったのか………」
何故翔一が自らアギトを捨ててしまったのかは分からない。彼に言われたように、アギトでない誠に彼の苦悩は理解できないだろう。木野も涼も、謎の人物からアギトの力を奪われた、と言っていた。だとしたら、今戦うことができるのは誠ひとりだ。アギトでない、ただの人間でしかない誠だけが。
「でも僕がG3-Xとして命懸けで戦っていれば、きっとアギトは帰ってきてくれる。理屈じゃなく、僕はそう信じてるんです」
颯爽と現場に現れアンノウンと戦っているアギトの背中を見て、誠は常に思っていた。自分も強くなりたい、と。多くの人々を救えるように。特別な力が有ろうが無かろうが関係なく、食らいつくように出動してきた。
同じ戦う者ならば、と誠には直感で理解できる。かつての彼のように自分が戦い続ければ、翔一は必ず戦士としての意志を取り戻してくれる、と。こんなこと、北條に言ったら嘲笑を買うだろうか。
「お願いします。僕の目のことは誰にも言わないでください」
北條は笑わなかった。いつものように険しい眼差しで誠を見据え、逡巡の後に溜め息をつく。
「知りませんよ。どうなっても」
これからについて話し合おう。その鞠莉の呼びかけに応じて涼はホテルオハラまで来てくれたのだが、彼はソファに腰掛けたままひと言も発することなく俯いている。薫も、ただぼんやりと窓辺で内浦湾を眺めたままだった。
話し合いどころか沈黙するふたりに耐えかねて、鞠莉が切り出す。
「これからどうするの? 今のままじゃどうしようもないじゃない」
こんな年下の少女に好き放題言われても、ふたりは何も返してこない。これからの戦いを、G3-Xである誠ひとりで乗り切れるとは思えない。都合よく鞠莉がアギトに変身できるようになったからといって、碌に戦えもしないままあの黒い青年に力を奪われるのも目に見えている。
対抗する術はもうない。これからアギトの種を持つ者が狩られていく様を怯えながら見ていくしかないのか。
「そう、今の我々はただの人間だ」
ようやく薫が口を開いた。でも彼が告げたのは、
「どうすることもできない。津上が言うように、それぞれ自由に生きていけばいい。鞠莉、お前たちを護れる者は誰もいない。せめて、アンノウンに勘付かれないよう力を抑えることだ」
ソファに腰掛けた薫は深く溜め息をつく。アギトでなくなった今、かつての同胞たちを救う力も道理もない。ある意味で、このふたりは過酷な運命から解放されたと言っていい。薫は力なんてなくても医師として生き続ければいいし、涼は力に苦しめられることなく人間として平穏な人生を歩んでいける。
それなのに、どうしても素直に喜ぶことができない。自分を護ってくれる存在がいなくなったからだろうか。今度こそ自分と、他に力を持ったメンバー達の未来が閉ざされてしまうからなのか。身勝手な不安に駆られる自分が嫌になる。こんなとき、自分も変身するほど力を高められたらよかったのに。
「我々を繋ぐものは、もう何もない」
薫は告げた。一見すれば何の接点もなかったこの面々がこうして一堂に会するのは、アギトという繋がりがあったから。それぞれが抱えていたものがなくなった以上、もう運命が交わることはない。鞠莉たちや誰かがアンノウンに狙われようが、ふたりにとっては他人事。過去に垣間見た世界の裏側での出来事でしかない。
「できないな俺には」
そう言って、涼はソファから立ち上がる。
「ようやく見つけた絆だ。津上を放っておくことは俺にはできない」
コートを掴んで部屋を出て行く涼を、薫は細めた目で見送っていた。まるで眩しいものでも見ているようだった。ようやく過酷な運命から解放されたのに、目を背けることなく向き合おうとする彼の背中を。
「奴は、どうしてあんなに………」
当人に届かない問いに、鞠莉は代わりに応える。
「それが、薫から継いだ意志だからよ」
薫の目が、鞠莉へと向いた。鞠莉は続ける。
「前に涼が言っていたじゃない。あなたは彼の心に火を点けたの。アギトとか関係なく人を救おうとする薫のように、涼も戦うことを決めたの」
「そんな意志はもう無意味だ。俺たちにできることは何もない」
「それでも涼は翔一を助けるわ。何もできなくても、前の薫みたいに」
「前の、俺のように………?」
がらんどうに呟いた薫は、自分の右手に目をやった。今更何を言ったところで、薫はかつての彼に戻ってはくれないのかもしれない。でも、彼の意志を継いだのは涼だけじゃない。鞠莉だって薫の背中を見て、追いかけてきたひとりなのだから。
3
練習着に着替えて、千歌は居間へと降りた。今日の練習は休みだけど、走れば気晴らしになるかもしれない。効果はあまり望めないけど。居間には母ひとりだけだった。しいたけと一緒に正月特番を見ている。姉たちは、また新年会だろうか。台所をちらりと覗くと、そこは静まり返っている。菜園かな、と思いながら、千歌はそれとなく母に訊いてみた。
「翔一くんは?」
「ああ、ちょっと出てくる、て」
「………そう」
正直、安堵した。昨日から翔一とは顔を合わせていない。今朝の朝食も、食卓に出る気になれず部屋で布団を被っていたら、いつの間にか部屋の前にお盆に乗った食事が置かれていた。白米に味噌汁に、焼き鮭と漬物。間違いなく翔一の作った味だけど、いつものように美味しく感じられなかった。
「千歌、ちょっといい?」
母はそう言うと、新年で賑やかなテレビを消した。「うん」と戸惑いながら、テーブルを挟んで対面に正座する。
「大体の話は、翔一君から聞いて知ってるわ。残酷な話だと思う。私も辛いわ」
辛いなんて言葉を告げながら、母はなぜか微笑んでいた。どうしてそんな顔ができるんだろう、と疑問しか沸かない。
「でも、今の千歌を見たら、お父さんはどう思う?」
「お父さんが?」
そんなの、分かるはずもない。死人に口なんて無いのだから。母は遠くを見やるように、
「千歌の、千歌たち姉妹の名前はお父さんが付けたのよ。何で志満や美渡や千歌、て名前なのか、知ってる?」
千歌は無言でかぶりを振った。考えてみれば、今まで名前の由来なんて聞いたことなかったし、知ろうともしなかった気がする。
「千歌たちの名前はね、この内浦に伝わる伝説の女神様から付けられたの。大昔に集落が深刻な不作で皆が飢えていたときに、その女神様は天から降りてきた。彼女の胸は志に満ちていて、海と山を美しい佇まいで渡り、千の歌を口ずさむと稲が芽吹き沢山の人々を救った、と言い伝えられているの。お父さんは千歌たちの名前に、人々を救える人間になってほしい、て願いを込めていたのよ」
太古の昔に、この内浦を救った女神。千歌はその偉業の、千の歌を授けられた。不思議な因果だ。父に授けられた名前の通りに、スクールアイドルとして歌うことになるなんて。
「人々を、救う……? そんなの無理だよ………」
目尻が熱くなっていく。こんな素敵な名前を付けてくれた父に、申し訳なさしか沸かなかった。自分の歌が誰かを救うなんて、できっこない。こんな普通怪獣の、ただの人間でしかない自分に、翔一を救うことなんてできない。
「わたしなんかに……、わたしなんかに………」
涙が溢れるのを止められない。理解はしていた。辛いのは翔一も同じだ、と。今まで千歌を護るために振るってきた拳が人を殺める力にもなってしまった事実に、最も心を痛めているのは彼自身だ。翔一は千歌から恨まれ、罰せられることを望んでいるのかもしれない。でも、憎悪なんて向けられるはずないじゃないか。父のいなくなった空虚を埋めてくれたのは、翔一だったのだから。
嫌なことがあっても、翔一が家で「お帰り」と迎えてくれると自然と笑顔になった。彼の作る料理を食べると元気が沸いた。昼休みに翔一が持たせてくれた弁当を食べるのが楽しみだった。もはや兄も同然の彼を、憎むには一緒にいる時間が長過ぎた。
「わたし、どうして良いか分からない」
自分なんかに、翔一の傷を癒すことはできない。ならばどうすれば良いのだろう。考えるよりも早く、千歌は無意識に玄関へ向かっていた。「千歌?」という母の声に一旦足を止め、
「翔一くんに会ってくる。何て言ったら良いのか分からないけど、とにかく会わなくちゃ」
せっかくの休みにも関わらず、鞠莉の呼びかけに皆は松月に集まってくれた。
「千歌ちゃんは?」
全員が席についた頃になって、曜が唯一この場にいないメンバーを口にする。
「呼ばなかったわ。チカっちには辛い話だから」
「どういうこと?」と果南が首を傾げる。誰もが似たような反応だが、曜と梨子のふたりは青ざめた顔を俯かせている。もしや、と鞠莉は思ったのだが、敢えて触れることはせず告げる。
「翔一がアギトの力を奪われたわ」
「え?」と皆が揃って口を開いた。「それはどういう……」とダイヤは声を詰まらせている。
「正直、何が起こったのかはわたしにもよく分からない。ただ、翔一はもう変身できない、てこと。自分からアギトの力を捨てたのよ」
あの黒い青年が何者なのかは分からない。分かるのは、彼もアンノウンと同じようにアギトを敵視しているということ。そしてアンノウンよりも強力な存在ということだけ。
「でもどうして自分から?」
「そうずら。翔一さんが?」
ルビィと花丸も、ただ純粋な疑問をぶつけてくる。理由は何となく分かる。でも、それを明かすのが正しいかも不明瞭だ。
「わたしのせい………」
答えあぐねていると、曜が震える声を絞り出す。隣に座っている梨子が曜の肩を抱きながら「曜ちゃんのせいじゃないわ」と穏やかに声をかけている。
「ふたりは知っていたの?」
鞠莉が訊くと、嗚咽を押し殺すのに必死な曜に変わって梨子が首肯を返す。
「ねえ、一体何のことなの?」
蚊帳の外に追いやられていた面々の中から、善子が苛立った様子で訊いてくる。逡巡するが、沈黙するわけにもいかない。鞠莉たちに立ち入る事ではないのかもしれないけど、知ってしまった以上は目を背けてはいられない。
それに、涼も言っていたように、鞠莉にとってもAqoursはようやく見つけた絆だ。千歌も、翔一も、どちらも放っておくことはできない。
「実は――」
鞠莉の告げた真相に、皆は唖然としていた。
「まさか、翔一さんのお姉様が………」
ようやく声を出せたダイヤですら、平静を保てずにいる。
「千歌のお父さんがね………」
果南も信じられない、という口調で呟く。千歌の父とも面識があったらしいから、思う所があるのかもしれない。
「でも、それって翔一は何も悪くないじゃない」
善子が言った。その鋭い言葉に、皆が口をつぐむ。善子の言う通り、この件に明確な加害者も被害者も存在しない。千歌の父が翔一の姉を単なる実験サンプルとして見ていたのか、翔一の姉が千歌の父を憎んでいたのかは分からない。もしかしたら千歌の父は純粋にアギトという存在に人類の希望を見出していたのかもしれないし、翔一の姉も力を抑えられずに犯してしまった悲劇なのかもしれない。当事者たちが既にいない今、ふたりの胸中は闇の中。
確かなことは、犯人の親族だからといって翔一に罪を被せるいわれはないという事だ。同じ力を持っていたからといって、彼は何の関係もない。
「人の心は、そう簡単に割り切れるものじゃないずら」
花丸の言う事も正しくはある。鞠莉たち他人からすれば翔一は悪くない、と簡単に言える。でもそれは本当に無関係だから。親族同士という入り組んだ者同士に行き交う感情は、到底理解できるものじゃない。
「ええ、どちらも辛いのは同じことですわ。この痛みは、おふたりにしか分からないことです」
ダイヤが嘆息気味に言う。千歌の行き場のない悲しみの受け皿になることを、翔一は選んでしまった。もう償うことのできない姉の代わりに、せめてもの贖罪がアギトの放棄だったのかもしれない。
アンノウンにアギト狩りを進めてもらうために。人を不幸にする力をこの世から根絶やしにしてもらうために。
「千歌ちゃん?」
不意に、曜が呟いた。彼女の視線を追って窓を見やると、練習着を着た千歌が沿道を走っていく。数舜だけ見えた彼女の顔からは、涙の滴が後方へと流れていった。
「千歌ちゃん………」
曜と梨子が、勢いよく椅子から立って店を飛び出していく。鞠莉もすぐに後を追うのだが、店から出たところで1台のワゴンが目の前で停まった。ナンバーを見なくても、それが小原家の送迎車とすぐに分かった。運転席から降りてきたのは家お抱えの運転手ではなく、
「薫?」
「乗れ。お前たちが集まっていたら、アンノウンの良い餌だ」