ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト 作:hirotani
今だってこの雨を降らせてる雲の向こうには、どこまでも青空が広がってるんだ。
――仮面ライダークウガ
第1話
1
『どうかね、氷川主任。その後、目の具合は』
この聴聞会も久しぶりな気がする、と思いながら、誠は画面の中にいる警備部長の質問に答える。
「はい、別に異常ありません。僕としては既に完治したと思っています」
あの戦い以降、目の不調は起こっていない。以前と同じように、どの景色もクリアに視えていた。誠に起こっていた異常を知った小沢から強引に病院に連れられ診察を受けたが、やはり異常はなし。原因としては、以前に診察を受けた際と同様に極度の緊張とストレスと結論付けられた。
その診断結果に当初は眉を潜めていたが、今となっては納得できるかもしれない。あの日から、緊張やストレスとは無縁の日々が流れているのだから。
『そう焦ることはない。ゆっくり養生することだ。もしかしたら、もうG3-Xの出番は無いかもしれないがな。君たちも、これ以上長く沼津にいる必要もないだろう』
その補佐官の言葉に誠は眉を潜める。誠だけでなく、一緒に出席している小沢と尾室も。
「どういう事です?」
小沢が訊くと、警備部長は何やら憑き物が落ちたような軽い声色で応じる。
『最後のアンノウンを撃破してから約1ヶ月。この間、新たなアンノウン出現の報告もなかった』
そう、この1ヶ月の間にアンノウンと思わしき事件は1度も起きていない。何の前触れもなく立て続けに発生していた不可能犯罪は、まるで一時の悪夢のように止んだ。
インターネット上でもこれまで沼津市内で起こった不可思議な事件について様々な憶測と警察への不信が飛び交っていたそうだが、今となってはそれもすっかり鳴りを潜めているらしい。元々カメラで捉えることのできないアンノウンの存在は世論に触れるための証拠に乏しく、ただの殺人事件を面白おかしく脚色し都市伝説に仕立て上げたネットユーザーたちの悪ふざけ、なんて結論で落ち着く始末だ。
『我々としては、アンノウン絶滅の可能性を考慮してもいいのでは、と思ってるんだが』
「そんな、何の証拠もないじゃありませんか」
と小沢の申し立てには誠も同意だ。アンノウンが消えるとしたら殺す対象、即ちアギトの可能性を持った超能力者たちを根絶やしにしてからのはず。アンノウンから保護した人々はまだ生きているし、それにアギトの力を顕現させた者たちも健在だ。この世界にまだアギトはいる。それをアンノウンが見過ごすだろうか。
直感だが、あの黒い青年が消えた事と関係があるのでは、と誠は考えていた。彼の消息も掴めないままだ。入院していた精神病院でもひと言も言葉を発さず素性も分からず仕舞いだったから、医師や看護師たちからも名無しの権兵衛扱いだったらしい。
とはいえ、平穏が続いているのも事実。アンノウンがアギト根絶を諦めた、と解釈できなくもない。何となく、誠には警備部長たちの考えが読めてきた。きっと小沢も気付いているだろう。
「まさか、このままG3ユニットを解散するおつもりですか?」
『落ち着きたまえ』と警備部長は小沢を窘め、
『ただ、可能性の話をしているだけだ。勿論、G3ユニットを解散するつもりはない。ただ――』
「ただ? 何です?」
『G3ユニットの今後のあり方について検討したいと思っている。ついては、G3ユニットは一時活動停止。結論が出るまで、各自本庁に戻って新しい部署で働いてもらいたい』
2
バイクを走らせていると、冷たい戦慄がいつよぎるのか気が気でない時がある。特にあの日からしばらくの間。再びアンノウンが出やしないかと常に涼は神経を張り詰めさせていたが、次第にそれも薄れつつある。
全てが穏やかだった。アンノウンも自分の身体に起こった異変も、何もかもが嘘だったのでは、と錯覚してしまうほどに。
市街から外れた馴染みの町工場にバイクを潜り込ませると、奥から油まみれの作業着を着た店主が「おお、またお前か」と朗らかに出迎えてくれる。
「何だか調子悪そうだな。今度はどうした?」
かなりのベテランな風格を漂わせる店主は、エンジンの音だけで不調を見破ってしまう。
「エンジン音にノイズが入るんだ。スロットルの具合もちょっと固い」
「そろそろ買い換えたらどうだ? お前なら安くしとくぞ」
「気に入ってるんだ、こいつが」
もうメーカーも製造を止めた車種だし、パーツを交換したとしてもまた別の箇所が不調を起こすかもしれない。でも涼にとってこのXR250は初めて買った愛車で、ギルスに変身した涼の相棒として一緒に困難な時期を駆け抜けてくれた。出来ることなら、もっと長く頑張ってもらいたい。
せっかくの提案を反故にしてしまったが、店主は気を悪くした様子はなく、
「じゃあ待ってろ、すぐ見てやる」
「よろしく。コーヒー貰うよ」
「ああ、勝手にやってくれ」
すぐに店主はバイクのエンジンをかけて、音の調子を確認しはじめる。涼は事務所――といっても休憩所のような狭い座敷――に上がり込んで、棚に並んでいるカップを取ってちゃぶ台に置かれたポットのコーヒーを注いだ。熱いから少しずつ啜ると、冬の風にずっと当てられていたからコーヒーの暖かさが腹の奥へと伝っていく。
ぼんやりとコーヒーをちびちびやりながら、涼はこれからについて思いを巡らせた。妙なものだ、と思いながら。去年の春頃からは、目先の困難をどう対処するかで精いっぱいだったのに。
もうアンノウンによるアギト狩りが起こらないのなら、沼津に留まっている理由もない。かといって、故郷に戻る気にもなれなかった。雪解けの季節になったら帰省して父に墓前で全て片付いたと報告するつもりだが、実家は叔父に頼んで処分してもらったから帰る場所もない。どこに行って何をすれば良いのか、完全に迷子だ。ただひたすらに生きていくことばかり考えていたせいで、何のために生きていくのかさっぱり分からない。
俺に居場所はあるのか。漠然とした不安だが、こんな悩みが贅沢に思えて不謹慎にも微笑んでしまう。まさか、将来なんて人間らしい悩みを抱えることになるなんて。
考えているうちに、もう1杯飲んでしまった。おかわりを貰おうとポットを手に取ったとき、事務所のドアが開く。
「終わったぞ。ちょっと見てくれ」
流石は仕事が早い。来た時点で不調を見破っていたから、店主はどこを直せばいいかすぐ分かったことだろう。愛車のエンジンを駆動させると、混じりっ気のないクリアな音を奏でた。アクセルのスロットルも滑らかに捻ることができる。
「オイルが真っ黒だったから替えといた。お前メンテさぼってたろ」
「ああ、済まないな」
代金を払おうと財布をポケットから出すと、いつも鷹揚な店主は珍しく難しそうな顔で切り出す。
「なあ涼、お前仕事はしてるか?」
「いや、してないが」
「そうか………」
「どうしたんだ急に?」
すると店主は気まずそうに眉間に皺を寄せ、
「いや、お前さんが良かったらなんだが、俺の弟の店で働いてもらえないかと思ってな」
「俺が? おやっさんの弟の?」
「ああ、東京で俺と同じように店をやってるんだが、去年に腰を悪くしてな。ひとりでやってるもんだから、人手が欲しいらしい。引越しが面倒だとは思うが、手伝ってみないか?」
「良いのか、俺なんか紹介して? おやっさんは俺のこと何も知らないだろ」
「なあに、バイクを見れば持ち主のことは大体分かるさ」
そう言って店主はバイクを見て笑い、
「お前さんは荒っぽい割には情が厚い。俺と同じで、古いタイプの人間だ」
「おやっさんと同じか………」
俺はまだ若いのにな。皮肉を押し留めながら、涼は微笑んだ。時代遅れなんて笑われるかもしれないが、この店主と同じと評されるのは悪い気はしない。
「どうだ、やってくれるか?」
沼津港の鮮魚市は今日も盛況だった。多くの人々が並べられた新鮮な魚に目を光らせている。磯の香りと共に「安いよ安いよ!」と大声がひしめき合っていた。どの魚も水揚げされたばかりで活きが良さそうだが、翔一は道中で既に今晩の献立を決めている。
「おじさん、才巻エビを12尾ください」
「あいよ!」
他にも良いものがあれば買っておこう、と物色しているところ、すぐ隣でその声は翔一の耳に入ってきた。
「豆腐にしめじ、才巻エビか………」
豆腐としめじはスーパーで買った翔一の袋の中身だ。見れば隣で中年男性が思案するように髭の剃られた顎を手で撫でながら「なるほど」と呟き、翔一の顔を見て大声で笑う。
「久しぶりだな!」
知り合いのようだが、今ひとつ呑み込めない翔一は「あのー」と困惑を漏らす。そんな翔一に男性は構わず、
「お前の買い物から見て今日のメニューは、焼き豆腐のエビ餡かけ、だな」
とまた大声で笑いだす。「ははは!」と大口を開けるその顔が、翔一がまだ沢木哲也だった頃の記憶と合致する。懐かしさに自然と笑顔を浮かべながら、翔一はその名前を呼んだ。
「倉本先生!」
目の前の男性が調理師学校時代の恩師と気付いてから、どれほど笑っていただろうか。少なくとも顔が疲れるまで、ふたり揃って笑い飛ばしていた気がする。
落ち着いてから、市場の近くにある喫茶店に入った。旅行で沼津に来たという倉本は「俺の店だ」とタブレット端末で、レストランのホームページと店の内装写真を見せてくれた。洋風の瀟洒なビストロといった店の様子に翔一は目を輝かせながら、
「へえ凄いなあ。本当にこれ先生のお店なんですか?」
「ああ、俺の汗と涙の結晶、てやつだ。少し狭いが、アットホームな店だと自負している」
そう語る倉本はとても誇らしげだった。料理に携わる者ならば、多くの者が自分の店を持つことを夢見るだろう。倉本も調理師学校に勤める前は海外のレストランで修行していた時期があったらしく、その頃から温め続けた夢なのかもしれない。
「じゃあ、もう調理師学校のほうは?」
「辞めたよ。今はこの店で手一杯でな。学校で教えてる時間はない」
倉本は翔一の肩を叩き、
「それにしても久しぶりだな。急に学校に来なくなったんで、心配していたんだがな」
「すいません、色々ありまして。でも嬉しいです、俺のこと覚えていてくれて」
「そりゃあお前ほど真面目な生徒はいなかったからな。まあ少々、発想が奇抜すぎるところはあったが。実習であんこのスパゲッティなんて作ったのはお前だけだ」
「おお、そんなこともありましたね!」
そういえば実習でそのスパゲッティを作ったとき、倉本はしばし目を見開いたまま固まっていた。ひと口食べて逡巡してから「美味い」と呟いたことも。
またふたりでひとしきり笑うと、倉本は先ほどとは打って変わって落ち着いた口調で訊いてきた。
「で、今何してる? 働いてるのか?」
「え、まあ……」と翔一は逡巡しつつも応えた。この手の質問にはいつも弱い。
「主婦、ていうか無職、ていうか………」
もう記憶喪失でもないのだから仕事に就いて自立すべきなのだが、つい高海家の厚意に甘んじてしまっている。他に帰る場所もないしこれまで通り高海家で専業主婦として暮らしていけばいい、と日和見で考えていたのだが、やはり世間体を考えれば翔一の年齢で無職というのは印象が良くないかもしれない。
でも倉本は軽蔑するような素振りを見せず、
「なら、話が早い。どうだ、うちの店手伝ってみないか?」
「先生の店を?」
「ああ。お前に才能があるのは間違いない。まあ俺も助かるし、お前のためにもなると思うんだ」
面と向かって才能がある、と言われこそばゆくなる。
「ありがとうございます。俺のことなんかそんな風に言ってくれて」
調理師学校に通っていた頃は自分のレストランを持ちたいと思っていたし、修行のために腕の良いシェフのいる店で働きたいと考えていた。倉本の腕が確かなことは、調理師学校にたくさん学んだことからよく知っている。尊敬できる人物のいる店で働けることはとても有難い。何より、太鼓判を捺してくれたことに応えたい。
「でも、少し考えさせてもらっていいですか?」
倉本に恩はあるが、彼以上に恩を受けている人たちがいる。まず、その家族に相談しておきたい。
深堀りはせず、倉本は翔一の肩を叩きながら言ってくれた。
「ああ、そりゃ構わないが」
3
翔一から話を切り出されたのは、夕飯後に家族みんなでお茶を飲んでいたときだった。
「昔の先生に?」
母が反芻すると、翔一は「はい」と応じ、
「調理師学校に通っていた頃にお世話になった先生なんですけど、東京で一緒に働かないか、て言ってくれてるんです。できれば、住み込みで。俺、やってみようと思ってるんですけど」
お茶請けのたくあんを頬張っていた美渡がとどのつまりを言う。
「それって、翔一うちから出てく、てこと?」
対して志満のほうはどこか安堵したように、
「そう。記憶を取り戻して、翔一君も新しい人生を歩み始める、てことね」
急な話だけど、母も嫌な顔ひとつしていなかった。その話を切り出した本人はというと、申し訳なさそうに顔を俯かせている。
「すいません、今までお世話になった上に勝手言って」
翔一のことだから、突然のことに後ろめたさを感じているのだろう。色々と準備を進めていた際中だったから。
「せっかく養子に入ろう、てときだったのに」
と半ば文句のように不貞腐れる美渡を「こら」と母が穏やかに窘め、
「お世話になったのは私たちの方よ。翔一君には翔一君の人生があるんだから」
「そうね」と志満も同意を示し、
「いつまでも翔一君に甘えるべきじゃないわ」
ひと月から、家族の間で翔一を正式に高海家へ養子として迎える話が出ていた。記憶を取り戻した彼の戸籍は元の沢木哲也に戻さなければならないが、今は天涯孤独。これからも高海家で暮らしていくのであれば、翔一を正式な形で家族にしよう、と。翔一が本当の意味で兄になることは千歌としても喜ばしいし、大いに賛成していた。
これから家族として一緒に過ごしていけると思った矢先で東京とは。突然で、しかも遠い話だ。
寂しい。でも、ここで留まらせるのは翔一のためじゃない。
「良かったじゃん翔一くん」
千歌が言うと、翔一は意外そうに千歌を見つめてくる。
「やりたいことがあるなら、どんどんやった方が良いよ。家のことなら心配ないから。菜園だって、翔一くんの代わりにわたしが面倒見るよ」
翔一だって、千歌のスクールアイドル活動を応援してくれて、アンノウンからAqoursを護ってくれていた。そんな翔一が自分の進みたい道を見出したのだから、寂しいけどそれ以上に嬉しい。一時は思い出した過去のせいで苦しんだけど、今は過去が彼を未来へと進ませてくれる。
「千歌ちゃん………」
翔一は千歌を見て、次に姉たちや母へと視線を転じる。誰も引き留めはしない。皆が翔一の前途を応援しているし、背中を押している。今の家族である千歌たちに、翔一は満面の笑みで言った。
「ありがとう」
涼が夕飯のレトルトカレーを食べてひと息ついていた頃に、翔一はアパートを訪ねてきた。
「すいません、突然お邪魔しちゃって」
手土産に渡されたタッパーの中身は、焼き豆腐のエビ餡かけだった。容器を冷蔵庫に入れて翔一を居間に招いたところで尋ねる。
「それで、何の用だ? まさか本気でアギトの会を作ろうなんて言うんじゃないだろうな?」
「いえ、実は俺今度東京のレストランで住み込みで働くことになったんで、一応言っとこうかな、て」
「そうか、偶然だな」
「え、じゃあ葦原さんも?」
「ああ」と応じながら涼は翔一の椅子を探すが、客用のものなんて部屋に置いていないからベッドへ促す。涼も1脚しかない椅子に腰かけ、
「俺も東京で働くことになった。まあ、俺の場合そんな大袈裟なものじゃないが」
バイク屋の店主からの誘いに、涼はその場で応じることにした。いつまでも父の遺産を食い潰すわけにはいかないし、鞠莉への借金もある。
「このところアンノウンも出てこないし、良い感じですよね。ずっとこのままなら良いんですけど」
「そうだな」
この日々が続くことを心底願いたい。涼に続いて翔一まで沼津を去ってしまったら、もうAqoursを護れないのだから。
「俺、時々木野さんのこと思い出すんです」
翔一は言う。
「木野さん前にこんなこと言ってました。自分の人生を狭くするのは自分自身だ、て」
あいつらしい言葉だな、と思えた。思えば涼も、自分のことで精一杯なあまり視野が狭い日々を送っていたかもしれない。こうして新しい道に踏み出すことで、涼自身の人生も少しは広くなっただろうか。
「本当にそうですよね。だから俺、何かうおおおおっ、て感じで頑張ろう、て」
「ああ、きっとあの男も喜ぶだろう」
俺も一生懸命に生きてみるか。そう前向きに考えることができる。翔一のように明るく、木野のように強くなれるかは分からないが、自分のペースで行けるところまで。前途多難な涼の人生はまだ続いていく。ゆっくりと、自分の「居場所」を探していこう。
「あ、そうそう」
と翔一はポケットから長方形の紙を取り出して、
「ラブライブ決勝のチケット、俺当選したんです。葦原さんも取りましたか?」
「ああ」と涼も、机に置いたチケットを見せる。
「人気なんだな、ラブライブって」
「千歌ちゃん達の晴れ舞台ですからね。一緒に応援行きましょうよ。きっと皆、輝いてますよ」
「ああ」
思えば、Aqoursのステージを見たことは今まで1度もなかった。アイドルは興味なかったが、彼女たちのステージを見たらこれまでの戦いにも意味があったと思える気がする。
涼も視てみたい。あの少女たちの輝きというものを。
4
東京へ引き上げるのはG3ユニットだけでなく、沼津市警に出向している警視庁捜査一課の面々全員だった。不可能犯罪捜査本部も一時活動停止となっているが、このままアンノウンが現れなければそのまま解散になるだろう、というのは河野の弁だ。
沼津に出向して1年近く。常連になっていた屋台のラーメンを河野と一緒に食べに行き、小沢や尾室とも行きつけの焼肉屋にも足を運んだ。北條は、東京の高級フレンチを食べに行ける、と帰庁を喜んでいたが。
晴れて元の居場所に戻るわけだが、短期間でもここで過ごしてきた時間というものがある。出会った人々に、何も言わず去ることもできない。
「済みません、急にお邪魔してしまって」
「いえ、ゆっくりしていって下さい」
志満に通された居間で腰を落ち着けると、彼女が出してくれたお茶をゆっくり味わいながら啜る。その味がいつも出されるものと違うことに気付き、誠は尋ねた。
「津上さんは、不在ですか?」
「ええ、色々と買うものがあって、出掛けてるんです。翔一君、来週から東京のレストランで働くことになって」
「そうでしたか、お忙しいところを済みません」
「氷川さんならいつでも大歓迎ですよ」
志満はそう言って笑ってくれた。
「実は、僕も本庁に戻ることになりまして、今日はそのご挨拶に」
「ええ、そうなんですか?」と志満は驚いたように目を丸くする。
「じゃあ、もしかしたら東京でも翔一君に会うかもしれませんね」
「そうですね」
この人とこうして顔を会わせられるのも今日で最後か。決して遊びに何度も訪ねてきたわけじゃないが、この土地で結んできた縁が解けると思うと少しばかり寂しくなる。この旅館でこの家族に触れると、自然と肩も軽くなっていたのだから。
「志満さんとご家族には、何度もお世話になりました。ありがとうございます」
頭を下げると志満は「いえ」と手を振りながら、
「私たちこそ氷川さんにはとてもお世話になって、本当にありがとうございました」
互いに頭を下げ合っていると、何だか可笑しくなって微笑を交わした。
「僕は何もしていません。お父さんのことも――」
最後まで言い切れず、口をつぐんでしまう。高海伸幸事件の真相は北條と、沼津署に出頭してきた被害者の妻である高海夫人から聞いている。通りで3年間河野が捜査しても容疑者が見つからないわけだ。犯人は人間を超えたアギトで、既に自ら命を絶っているのだから。
しかもその犯人が、翔一の姉だったなんて。
翔一が記憶を取り戻していたことも驚いたが、それ以上に誠は残酷な高海家との縁に閉口するしかなかった。自分はあくまで刑事で、カウンセラーじゃない。事件の真相を暴いて、そのせいで被害者遺族に精神的負担を与えてしまっても、何もできることはない。果たして自分の職務に意義があるのか、つくづく疑問を抱かずにいられなかった。
かくして高海伸幸殺害事件は犯人の自殺という形で終結。被害者の研究資料を抹消していた高海夫人は証拠隠蔽の罪での逮捕が問われたが、消していた情報が証拠といえるものではないと判断された。
「全部、母から聞きました」
志満は自分の湯呑に視線を落としながら、
「正直、まだ信じられないですし、受け入れるのに時間が掛かるかもしれません」
毅然とした若女将だが、志満だってまだ年若い女性だ。親族の死に何も感じないはずは無いし、脆い面だってあるだろう。でも彼女は、客人である誠にそういった部分は見せず、笑顔を崩さなかった。
「それでも、私たち家族にとって優しい父だったことに変わりはありません。それに翔一君も、うちの家族ですから」
そう語る志満の笑顔は、一切の曇りを感じさせない。彼女にとっては、それが揺るがない事実なのだろう。この家族に深く入れ込んでいた誠は安堵で思わず溜め息をついた。時間を要するかもしれないが、この家族なら事件を乗り越えていけると信じられる。
「氷川さん、本当にお世話になりました。お休みが取れたら、またいつでもいらして下さい。温泉もお料理も、氷川さんには最高のものを用意しますので」
そういえば、ここの温泉に入る機会は結局なかったな、と思い出す。仕事が落ち着いたら、と先延ばしにし続けていたせいか。本庁に戻っても仕事漬けになりそうだが、非番の日が取れたら必ずまた来よう。
「はい、是非」