ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト   作:hirotani

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第6話

 

   1

 

 石段を駆け下りていく花丸の姿が見えなくなると、ダイヤはロックテラスから臨める内浦湾へ目を向けた。穏やかに波のたゆたう海面が夕陽を反射している。空は東の方角から徐々に藍色がかっていた。もうすぐ陽も暮れるだろう。

 国木田花丸。彼女と話すのは今日が初めてだが、話はルビィからよく聞いていた。本が好きでとても優しい子だ、と。重度の人見知りの妹に友達が、妹を想ってくれる親友ができたことは嬉しい。想ってくれているからこそ、花丸から向けられた言葉と、そこに込められた意味が針のようにダイヤの胸に突き刺さる。

 ルビィ気持ちを聞いてあげてほしい。ルビィを縛らないであげてほしい。

「………そんなの、分かってる」

 遅れた反論を呟き、ダイヤは唇を噛んだ。2年前、スクールアイドルへの鬱屈した感情をルビィに八つ当たり同然にぶつけたことを、ずっと悔いていた。あれからルビィとアイドル談義に華を咲かせることはなく、ルビィもダイヤの前で曲を聴くことも、アイドル雑誌を読むこともしなくなった。でもダイヤは知っている。ルビィがまだ曲の鑑賞に勤しんでいることを。収集したアイドル雑誌を自室の箪笥に隠していることを。

 ルビィはずっとスクールアイドルへの熱を失わずにいた。ルビィがダイヤの妹だからといって、ダイヤにルビィの趣味を咎める資格はない。ルビィの人生はルビィのもの。ダイヤの都合の良い人形なんかじゃない。

 でも、ダイヤはスクールアイドルを認めるわけにはいかない。たとえ妹と熱中していたあの頃に戻ることができなくても。いや、あの日々には戻っていけない。

「お姉ちゃん⁉」

 不意にその声が聞こえて、ダイヤはき、っとまなじりを吊り上げて振り返る。

「ルビィ?」

 思わず声が上ずった。スクールアイドル部の3人と、ルビィが所在なさげに立っている。「ダイヤさん、何でここに?」という千歌の問いには答えず、ダイヤは質問を返す。

「これはどういうことですの?」

 鋭いダイヤの声色に、「あの、その……」とルビィがしどろもどろに言葉を紡ごうとしている。人見知りな妹のよく見る姿。それを向けられているのが家族である自分という事実に、ダイヤは寂しさを必死に押し隠す。見かねたのか慌てた様子で千歌が、

「違うんです。ルビィちゃんは――」

 「千歌さん」とルビィは遮った。ゆっくりと前に出て、ダイヤと対峙するように立つ。

「お姉ちゃん」

 静かに告げる妹の声にダイヤは裡で(おのの)いていた。ルビィは臆病な面が目立つ。姉であるダイヤにさえ怯えてしまうほどだ。こうして内緒でスクールアイドル部の練習に参加することを予想していなかったわけじゃない。遅かれ早かれ来ると思っていたし、「辞めなさい」と言えば従うとも思っていた。

「ルビィ………」

 そう言うと、ルビィは真っ直ぐダイヤと視線と交わす。その力強さを湛えた眼差しを受けてダイヤは理解する。

 妹は自分が思っていたよりも強かったのだ、と。

「ルビィね――」

 

 

   2

 

 黒澤姉妹と別れた後、十千万へ向かう曜の足取りはひどく重かった。なかなか新曲の作詞が進まない千歌を手伝うという話になったのだが、あまり気が乗らない。作詞自体は何てことない。問題は場所が十千万ということだ。十千万に行けば、当然翔一がいる。千歌の父親を殺したかもしれない翔一が。

 歩きながら曜はちらりと、梨子から作詞の遅れに説教を受けている千歌を一瞥する。言うべきだろうか。曜が視た翔一の記憶を。記憶のなかで怯えていた伸幸の姿を。

 すっかり陽の暮れたなかで、十千万の暖かな照明が曜たちを迎えてくれる。こんこん、と音が聞こえた。「何だろう?」と首をかしげる千歌に続いて、曜は梨子と一緒に部屋へと向かう。近づいていくにつれて音が大きくなっていく。何かの工事でもしているのか。もう夜だというのに。

 障子の開け放たれた部屋に入ると、翔一が何やら作業をしていた。木製の骨組みを木槌で叩いて連結している。

「何してるの?」

 千歌が言うと、こちらに気付いた翔一がいつもの笑顔を浮かべる。

「ああ、お帰りなさい」

 「何を作ってるんですか?」と梨子が訊くと、「千歌ちゃんのベッド」と翔一は応えた。続けて作業しながら、

「ほら、俺壊しちゃっただろ。だからさ、一度庭で作ったんだけど入んなくてさ。で、バラバラにして組みなおしてるとこ」

 もしかして翔一は、曜の態度は千歌のベッドを壊したことに端を発していると勘違いしているのか。

「ちょっと待ってて。すぐできるからさ」

 その笑顔を見て、曜は胸の奥にあった不快な溜まりが消えていくのを感じた。そうだ、翔一はこうしてベッドや料理を、誰かのために何かを作る人だった。他人から奪うような人間じゃない。

「そうだよね………」

 無意識にそう呟いていた。隣にいる梨子に聞こえたらしく、「え?」と小声で曜の顔を覗き込んでくる。自然と出た笑みと共に曜は言った。

「翔一さんにあんなことできるわけないもんね」

 すると梨子も笑みを零した。作業に勤しむ翔一を見て「そうね」と呟く。

「もう遅いし、ふたりも夕飯うちで食べてく?」

 翔一が訊いてくる。千歌は「うん、そうしよう」と嬉しそうに骨組みの傍でしゃがみ、

「早くこれ完成させよう。ほら、わたしも手伝うから」

 「あ、わたしも」と曜も加わる。「これ手作りなんですか?」と感心したように梨子も。

 おじさん、と曜は裡で伸幸に告げた。

 翔一さんじゃないですよね。

 翔一さんは、翔一さんですもんね。

 

 

   3

 

 渡辺家は狩野川沿いに家を構えている。堤防に阻まれて川面を見ることはできないが、耳を澄ませばせせらぎが聴こえる。すっかり夜も更けると、水の流れる音は一層際立って涼しげな気分になれる。十千万では毎日波の音を聴くことができるが、川の音もいいな、と翔一は思った。

 夕食後に曜と梨子は千歌の部屋で曲について話していたが、どうにも成果は芳しいものでなかったらしい。最終バスの時間を過ぎたということで、翔一がバイクで送ることになった。もう車も殆ど通っていない時間帯だから移動時間はそうかからない。

 リアシートから降りた曜が、鞄の中からタッパーを取り出して中身を確認する。液漏れはないようだ。

「怒られそうになったらそれ渡しなよ。お母さんの機嫌も直るからさ」

「食べ物でご機嫌取りって、子供じゃないんですから」

「あれ、曜ちゃんのお母さん芋の煮っころがし嫌いだった?」

「いや、そうじゃなくて………」

 苦笑しながら手を振る曜が、翔一はいまいち腑に落ちない。刻んだミカンの皮を加えたからさっぱりと食べられる自信作なのだが。

「でも、きっと喜びます。お母さん翔一さんの料理好きなので」

 どうやら杞憂だったらしい。翔一はご機嫌に曜に貸していたヘルメットをリアシートに括りつける。

「それじゃ、お休み」

「はい、お休みなさい」

 他愛もない挨拶もそこそこに、翔一はバイクを走らせる。冷えた潮風がヘルメットに吹き込み頬を撫でていく。信号が赤く灯る交差点で停止したときだった。

 突如、痺れにも似た戦慄が翔一の頭蓋を駆け回った。いる、奴が近くに。自分の裡に目覚めた力がそう告げている。丁度信号が青に変わり、翔一は予定のルートを外れて沼津駅へとバイクを向かわせた。

 いくら駅前が市内でも賑わいのある地区とはいえ、居酒屋もしくは24時間営業のコンビニを除く商業施設の殆どが営業時間を過ぎている。そんな夜の街を歩くのは泥酔した仕事帰りのお勤め人か明日の授業がない大学生くらいだ。眠りに落ちたほぼ無人と言っていい街を駆け、駅前通りに出る。翔一の視界に駅の構内からたったひとり出てきた若い女性が映った。同時に彼女へ近付く、空気を裂くような音も。

「変身!」

 翔一の腹が光った。光はベルトを形成し、更に強い光を放って翔一の体を戦士の姿へと変える。翔一の駆るバイクも、ベルトの光を受けて金色へと変わった。アクセルを捻りマシンを加速させる。彼女の僅か数メートル後ろ。そこへ到達すると同時、翔一と別方向から彼女へ向かっていた影がカウルに衝突した。

 ビルのコンクリート壁に叩きつけられた影のシルエットが、街灯を受けてはっきりと視認できる。善子が「堕天使」と呼んでいた、両腕からカラスのような翼の生えた敵。

 翔一は女性のほうを見やる。自分の後ろで何が起こっているのか、イヤホンで音楽を聴いている彼女はまるで気付かず歩き続けていく。

「アギトお……!」

 立ち上がった敵は忌々しげに翔一を睨んでくる。敵は一気にこちらへと肉迫してきた。翼で飛ぶほどの腕力に加え脚力もそれなりにあるらしく、素早い接近だ。翔一は迫る拳をかわし、アクセルを捻りながら前輪ブレーキを効かせてバイクをターンさせる。後輪に足を払われたたらを踏むようによろめいた敵の鼻面に、渾身の拳を沈めた。吹き飛んだ敵が、両腕の翼を広げて夜空へと飛翔する。

 翔一はバイクから降りた。空へ逃げられては飛ぶ術のないこちらは追跡のしようがない。それに、敵は再びやってくると気配で分かる。これまで現れた敵たちは、どうにも翔一の存在が気に入らないらしい。

 予想通り、気流の動きが変わった。翔一はオーバーヘッドキックの容量で上空に蹴りを入れる。闇から現れた敵の腹を蹴り上げると同時、翔一の腹も蹴り落とされた。ふたり同時に倒れ、互いに間合いを保ちながらゆっくりと立ち上がる。

 数秒間の睨み合いを経て、先に攻撃を仕掛けてきたのは敵のほうだった。降り下ろされた拳を受け止め胸を殴る。敵は空中での機動性こそ手強いが、陸上ではこちらに分がある。単純な力勝負では敵わないと察したのか、敵は黒翼を広げた。すぐさま翔一は、飛ぼうしたその体に組み付く。翔一を抱えたまま敵は街のビルを沿うように上へ上へと昇り、すぐに屋上へと到達する。

 翔一の拳が敵の背中を穿った。バランスを崩した敵が、屋上の床へ翔一を道連れにして墜落する。すぐさま立ち上がった敵の蹴りを紙一重で避け、すれ違いざまに背中を裏拳で殴る。よろめいて隙だらけになったところ、追撃の拳を胸と腹に打ち込んでいく。

 刹那、敵が翔一に組み付いた。そのまま翔一の体を押し倒し、好機とばかりに空へ逃げる。さっきのように飛びつかれないためか。昨日のように空中からの頭突きをかましてくるつもりだろう。流石にビルの屋上から突き落とされては、この姿でも助かるかは分からない。

 翔一はベルトに手をかざした。バックルの球から柄が出てくる。掴んで引き抜くと、それは一振りの刀だった。素早く動き回る敵はストームでも追いつかない。鋭い切れ味を持った刃と、攻撃の瞬間を見極める研ぎ澄まされた感覚で確実に仕留める。

 体が熱くなっていくのを感じる。見下ろすと、金色の鎧が赤く染まっている。刀を持つ右腕が一回りほど太く隆起した。

 翔一は深呼吸した。戦いの緊張を沈め、超越感覚の赤(フレイムフォーム)で目と耳を澄ます。遠くから届く空気の流れを肌で感じ取れる。敵が旋回し方向転換するのが、風を切る音で分かった。宵闇のなか真っ直ぐこちらへ向かってくる、怪しく光る敵の目を捉える。

 両手で刀を構える。変身した翔一の角に似た鍔が開くのを感じる。

 思考がとてもクリアだった。今朝、善子が飛ばしていたクラフト飛行機を思い出す。飛行機は真っ直ぐ飛んでいく。敵もまた真っ直ぐ飛んでくる。脇目もふらず、一直線に――

「はっ!」

 上段から刀を振り下ろすと同時、敵が翔一の頭上を通過した。確かな手応え。刀の鍔が閉じる。振り返ると、敵の体が左右真っ二つに分かれた。切断された面から炎が噴き出す。

 夜空を舞うふたつの肉体が一気に燃え上がる。闇のなかで爆発の光を灯し、そしてほどなくして闇へと還っていった。

 

 

   4

 

「よろしくお願いします」

 ルビイから差し出された入部届を千歌は受け取る。「よろしくね」と笑みを向けるとルビィも満面の笑みで「はい、頑張ります」と応じてくれる。晴れて今日から、ルビィはスクールアイドル部の一員になる。ダイヤに自分の意志を伝えて、堂々とスクールアイドルが「好き」という気持ちを出すことができる。

「そういえば、国木田さんは?」

 何気なしに梨子が訊くとルビィは表情を曇らせた。

「きつかったのかな? 昨日も帰っちゃったみたいだし」

 遅れた反省を裡に秘めながら、千歌はそう言った。必要な練習とはいえ、ゆっくりと段階を踏めば良かった。ルビィが頂上まで辿り着いたから失念していた。でも、初めて花丸を見たときから一緒にやれれば、と思っていたし、だからこそ体験入部に来てくれたときは飛びそうになるほど嬉しかった。

「入ってほしかったな………」

 「まあ、無理強いは可哀想だよ」と曜が言う。確かに、嫌々やってもらうのも良くない。

「あの――」

 不意にルビィが言った。

 

 花丸の物語は終章に入る。

 人生のなかで誰かに語る節があるとすればここまでだ。これでもAqoursの物語の一節に過ぎない。Aqoursにルビィが加わるための脇役として花丸は登場しただけ。脇役としての役目を果たした花丸は元の日常に戻る。放課後、暇な図書委員の業務を読書で過ごす日常に。

 図書室のドアを開けると、住み慣れた我が家のような紙とインクの香りが迎えてくれる。カウンターの椅子に腰かけると、帰ってきたという感慨が沸いてきた。ここが自分の居場所。

 これからが今までと異なるのは、もうルビィと花丸の物語は交わることがないということ。これからルビィは毎日スクールアイドル部の練習へと行く。もう花丸と図書室で談笑することはない。

 世の中の関節は外れてしまった。

 不意に『ハムレット』の台詞を思い出す。そう、これは関節が元通りに、あるべきところへ収まっただけの話だ。

 カウンターの引き出しを開けると、図書室の蔵書には不釣り合いなほど華やかなアイドル雑誌が置いてある。花丸の私物だ。開き、とあるページで捲る手を止める。そのページ一面に掲載された写真のなかで、ウェディングドレスをモチーフとした衣装を着た少女がマイクをブーケのように両手で握っている。名前は星空凛(ほしぞらりん)というらしい。ルビィが特に熱中しているμ’s(ミューズ)というグループのメンバーだ。アイドルなだけあって愛らしい。

 自分も、こんな風に可愛くなれるかな。

 初めて凛を見たとき、そんな想いを抱いた。彼女のように輝けるスクールアイドルとは何だろう。自分には無理と理解していても、ルビィの背中を押す目的とは別に知りたかった。

 でも、そんな好奇心はもう無意味だ。最大の目的は果たされたのだから。

「ばいばい……」

 花丸がそっと雑誌を閉じようとしたとき――

「ルビィね」

 不意に聞こえた声に振り向くと、ルビィがカウンター越しに立っていた。

「ルビィちゃん?」

 何でルビィがここにいるんだろう。授業が終わるとすぐ部室へ向かったはずなのに。

 駄目だよルビィちゃん。せっかく前に進めたのに、ここに戻ってきちゃいけないよ。

 そう言おうとしたが、ルビィの力強い言葉に阻まれる。

「ルビィね、花丸ちゃんのこと見てた。ルビィに気を遣ってスクールアイドルやってるんじゃないか、って。ルビィのために無理してるんじゃないか、って心配だったから」

 間違っていない。ルビィのために体験入部を提案したのだから。

「でも練習のときも、屋上にいたときも、皆で話してるときも、花丸ちゃん嬉しそうだった。それ見て思った。花丸ちゃん好きなんだ、って。ルビィと同じくらい好きなんだ、って。スクールアイドルが」

 「マルが? まさか……」と花丸は顔を背ける。確かに練習は楽しかった。運動は不慣れでダンスも素人だから思うように体は動かなかった。でも千歌たちは花丸に嫌な顔ひとつせず教えてくれて、皆で何かをすることが楽しいと心の底から思えた。

「じゃあ、何でその本そんなに読んでたの?」

 涙に潤んだルビィの目が花丸の手にある雑誌に向けられる。「それは……」と誤魔化そうとするができそうにない。雑誌のページは何度も捲られて折り癖がついている。

「ルビィね、花丸ちゃんと一緒にスクールアイドルできたら、ってずっと思ってた。一緒に頑張れたら、って」

 自分の行動が恥ずかしくなってくる。練習の間、ルビィはずっとスクールアイドルになれたことへの歓喜に満ちていると思っていた。親友は自分のことなんて眼中にないと高を括っていた。でも、ルビィも花丸のことを見ていた。花丸がルビィを想うように、ルビィも花丸を想ってくれていた。

 一緒に頑張れたら。ダンスのステップを踏めたとき、一瞬だけ花丸もそんな想いがよぎった。それは叶わぬ夢だ。花丸では輝けない。この雑誌の一面を飾る凛のようには。

 花丸はかぶりを振り、

「それでも、おらには無理ずら。体力ないし向いてないよ」

「そこに写ってる凛ちゃんもね、自分はスクールアイドルに向いてない、ってずっと思ってたんだよ」

 「え?」と花丸は誌面に目を向ける。こんなに可愛らしいのに、こんなにも輝いているのに。

「でも好きだった。やってみたいと思った。最初はそれで良いと思うけど」

 不意に梨子の声が聞こえた。向くと入口の近くに2年生の3人が立っている。千歌がカウンター越しに手を差し伸べてきた。この手を取る資格が自分にあるだろうか。今まで華のある事なんて何ひとつ成し遂げられず、物語を消費するだけだった自分に。

 ルビィが身を乗り出して力強く告げる。

「ルビィ、スクールアイドルがやりたい! 花丸ちゃんと!」

「………マルに、できるかな?」

 物語の読み手でしかない自分が紡ぎ手になる。花丸はその可能性に怖気づいた。花丸がAqoursの物語に組み込まれるということは、花丸次第でこの場にいるメンバー達全員の物語に影響を及ぼすということだ。間違えればバッドエンドを迎える。やってみたい。そんな軽い気持ちで彼女たちの物語の責任を背負うだなんて荷が重すぎる。

「わたしだってそうだよ」

 千歌は言う。

「一番大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ」

 千歌に続いて、皆が笑みを向けてくれる。あなたと一緒にやりたい。物語を紡いでいきたい、と。

 花丸は気付く。自分もルビィと同じように、心に蓋をしていたことを。本では決して埋めることのできない虚無に、目を背けていたことを。心の蓋を取り払うのは、被せることよりも勇気がいる。誰かに背中を押してもらうか、こうして手を差し伸べてもらわなければ、決して蓋は開けないだろう。

 花丸は千歌の手を取った。その上を更に梨子と曜とルビィの手が重なっていく。

 ここから花丸の物語は新しい章を迎える。

 花丸とルビィが紡ぎ手として加わった、Aqoursの次の章へと。

 

 

   5

 

 長い夢を見ていたような気がした。

 どんな夢だったのか、まるで霧のように霞んで暗闇のなかへと消滅していく。夢を暗闇へと置いていき、涼の意識は海面に射し込む光へと向かった。

 目蓋を開くと見知らぬタイル張りの天井が視界に映る。眠気が一気に飛んだ。ここはどこだ。その疑問と共に視線を巡らせながら、ゆっくりと上体を起こす。

 ベッドに寝かされていたらしい。枕もなく、シーツの敷かれていない剥き出しのマットレスはかなり粗末でかび臭い。鉄製のパイプで組まれたベッドは白い塗装が剥げ落ちていて、そこから錆が侵食している。

「大丈夫?」

 幼い声が聞こえ、咄嗟に涼は右手を向いた。寝起きのせいか、強張った首の筋肉がきしむ。

「君は3日間眠っていたんだ」

 それは二次性徴を迎えて間もない年頃の少年だった。錆びついたパイプ椅子に腰かけ、涼を見つめている。

「誰だ?」

 問いかける声に思わず恐怖が混ざる。

「まだ無理をしないほうが良い」

「誰なんだお前は」

 少年は答えない。無言のまま浮かべた微笑はとても美しかった。

 

 




次章 ヨハネ堕天 / 銀の点と線
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