ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト   作:hirotani

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第2話

 

   1

 

 ふわ、と額に何かが乗った感触がした。

 果南、と唇が無意識になぞる。応えてくれないということは、きっとこの感触は果南ではないのだろう。でも馴染みのある感触に、涼の気分は少しだけ安らいだ。

 ダイビングに疲れてボートで一息ついていると、つい眠ってしまうことがよくあった。穏やかな波に揺られる船の上だと、どうしても睡魔に逆らえないことがある。しばしの眠りから覚めると、開いた視界に映るのは果南の顔だった。一度、涼の顔を至近距離で覗き込む果南の顔に驚いて、反射的に起き上がったせいで互いに頭をぶつけてしまったことがある。痛みに悶えている涼の額を、果南はおかしそうに笑いながらも優しく撫でてくれた。自分も痛いだろうに、わたしは石頭だから、とおくびにも出さず。

 年下の少女に頭を撫でられるのは複雑な気分だったが、嫌ではなかった。物心つく前に亡くなった母からも赤ん坊の頃はこうして頭を撫でてもらっていただろうか、と想像することができた。父から撫でてもらったこともあったが、父は乱暴で涼の髪をかき回すようだったから。

 果南。もう少しだけ、寝てもいいか。

 涼が言うと果南は微笑んで――

 

 ――起きろ――

 

 それは果南の声ではなかった。聞き覚えのない、でも不気味で本能的に恐ろしいと直感できる声だった。微笑んでいたはずの果南の顔が歪んでいく。彼女の顔は渦を巻き、まるで虚無の彼方への入口のように深い闇へと染まっていく。

 ――起きろ――

 声は再び言う。果南も、船も、海も、空も。全てが闇に塗り潰されて、意識が解けるように散開していく。

 

 目を開けると同時、解けかけていた意識が葦原涼という肉体の感触を取り戻した。服が生温い汗に濡れている不快さ。絶えず呼吸しても止まない息苦しさ。体が熱いのに震えが止まらない。寒いのか。感覚が滅茶苦茶だ。

 額に乗っている生温いものを掴むと、濡れたタオルだった。布団の感触もする。ようやく自分がベッドで寝かされていることに気付いた。ここは病院か。ぼやけた視線を横へと流す。少しずつ目の焦点が合っていき、病院の殺菌された白とは程遠い暖色の壁と天井が見えてくる。そして、誰かの背中も。

 ――襲え――

 また声が聞こえた。ゆっくりと、涼は体を起こす。

 ――襲え――

 這うようにベッドから降りて、背中へと腕を伸ばす。

 ――襲え――

 手の皮膚が緑色に変色していく。指先から鋭い爪が伸びて、触れただけでも背中の肉を引き裂いてしまいそうだ。

 背中がす、と立ち上がった。見たところ若い男らしい。涼の目覚めに気付かない青年が部屋から出て行く。手が元の肌色に戻ると同時、体が一気に重くなり涼は床に倒れ込んだ。

 涼は老人のようになった自分の手を見つめる。

「何なんだ………」

 誰も応えてくれる者はいない。まるで自分の裡から沸いたように、脳に直接響いてきた、あの声すらも。

 あの恐ろしい声はもう聞こえない。代わりにセミの鳴き声が聞こえてくる。それに何やら大勢の人の声も。すぐ近くで祭りでも催されているのだろうか。

 セミにしても人にしても、涼にはとても遠くに感じられた。

 

 

   2

 

「良い感じだなあ」

 賑わう海水浴場と、そこに建つ海の家を見て翔一は感慨深く呟く。設営を手伝ったときも思ったが、こうして店として機能していると改めて自分が作ったものとして実感できる。

「あ、翔一くーん!」

 看板ですっぽりと体を覆っている千歌が声をかけてきて、それに吊られて近くにいた長い黒髪の少女が翔一へ目を向ける。

「お知り合いですの?」

「うちで居候してる津上翔一くんです」

 確か、夏祭りのステージに立っていた少女だ。千歌からAqoursの新しい、でも最古参のメンバーだと聞いている。

「黒澤ダイヤと申します」

 少女は名乗り、整った礼をする。翔一も吊られて会釈し、

「津上翔一です。よろしくねダイヤちゃん」

 「ちゃん」付けで呼ばれることが珍しいのか、ダイヤは照れ臭そうに頬を赤くする。

「どうしたんですか、その荷物」

 千歌と同じように看板を被った梨子が訊いてきた。翔一は右手に提げたビニール袋を示し、

「曜ちゃんから届け物頼まれてさ。料理の材料が足りないみたい」

 店の中に入ってみると、まだお客は来ていないらしい。小さな店だから、客席は数席のみで厨房も一般家庭のキッチン並。大きな鉄板が厨房の半分近くを占領していて、その脇で曜は慣れた手つきで包丁を握りニンジンを切っていた。

「あ、翔一さん」

 曜は調理の手を止めて、翔一の差し出した袋を受け取る。

「ソースと卵、これくらいで足りるかな?」

「うん、ありがとうございます」

 「じゃあ早速」と曜は調理を再開する。熱された鉄板で切った野菜と豚肉を炒め、程よく火が通ったところで麺を投入。翔一が持ってきたソースをかけると、黄色かった麺が茶色に染まり、更に鉄板の熱で焦がされてじゅう、という音を立てながら香ばしい匂いを昇らせる。これだけで焼きそばの完成なのだが、曜はひと手間を加える。鉄板に溶き卵を円形に広げ、一気に焼き上げると更に盛った焼きそばの上に卵を包むように乗せる。仕上げにケチャップで卵に「YO」と書いてオムそばの完成。

「ほい、美味しいヨキそば。ヨーソロー!」

 「おお!」とその手際の良さに翔一は拍手を贈る。他人の料理を見て創作意欲が疼き、自分も何か作りたくなる。

「よーし、じゃあ俺も。昨日新しい料理思いついたんだよねえ」

 と厨房に入ろうとしたのだが、「わあ!」と何故か慌てた曜に静止させられる。

「翔一さんは大丈夫ですから。ほら、人手足りてますし」

 厨房には曜の他に善子と、金髪の外国人らしき少女が立っている。確かこの少女もAqoursの新メンバーだ。でもふたりは翔一の訪問に気付かず、各々の調理に夢中になっている。楽しそうに笑いながら。

 善子は専用の型取りされた鉄板でタコ焼きらしきものを作っているのだが、生地は黒焦げになっている。針を入れるとぶしゅ、と赤い液体が飛び出した。

「くくく………。堕天使の涙、降臨………」

 一方で金髪の少女のほうは、寸胴鍋の煮えたぎる中身をかき混ぜている。鍋の周りには様々なオイルやらワインやらハーブが並んでいるが、一体何を煮込んでいるのだろう。

「Unbelievable. シャイ煮complete………」

 ふたりの様子を見て、曜はとても不安そうに顔をしかめる。

「ふたりとも何作ってるのかな?」

 翔一の素朴な疑問に、曜は「………さあ?」と苦笑し自分の持ち場に戻った。

 

「さあ、これでお客がドバドバと!」

 店内からソースの焼ける香りが漂ってきたところでダイヤが言うのだが、まだお客はひとりも来ていない。隣の店のほうはテラスに人が収まりきらず外に行列ができていた。

「何で来ないんですの!」

 と千歌と梨子に怒りの矛先が向きかけたところで、「こんにちは」とようやくお客がやって来て、「あ、はーい」とダイヤは営業スマイルに切り替えた。

「ここが千歌たちが手伝ってる海の家?」

 そう訊くのは千歌のクラスメイトだった。友人たちを引き連れ、早速ヨキそばを人数分注文してくれる。

「皆に連絡したら、すぐ来てくれたよ」

 千歌が言った。それを聞いた果南が溜め息交じりに、

「最初からこうすれば良かったんだね。ほんとダイヤはお馬鹿さん」

 続けて厨房から出てきた鞠莉も、

「ほんと、オ・バ・サ・ン」

「一文字抜けてますわ!」

 客足こそ少ないが、去年よりも賑やかな夏だな、と果南は思った。去年は翔一新作のスイカ焼きそばが不評でお客が殆ど来なかっただけに、今思えば寂しい夏だったと思う。

 たった1年で同じ場所でも、こうして変化はある。千歌が自分のやりたいことを見つけて、同じ想いを抱く人々が集まっていく。去年と異なる夏になったのは、果南も同じだ。きっとこの場にいる皆の誰もが。もっとも、果南には悪い変化もあったのだが。

「翔一さん」

 翔一の隣に立ち、小声で話しかける。

「この前のこと、言ってない?」

「この前?」

「ほら、獅子浜でわたしが泣いてたこと」

「ああ、言ってないよ」

 良かった、と果南は胸を撫でおろした。翔一のことを信用していないわけではないのだが、やはり不安はある。涼が殺されたあの日、偶然獅子浜に来ていた翔一には何も訊かないで、誰にも言わないで、と頼んでいた。何かしらの説明はするべきだろうが、まだ果南には諸々の整理がついていない。この悲しみ、いくら楽しい出来事があっても、ふとした拍子に突き落とされる涼のいない虚しさにどう折り合いをつけたら良いのか。

「果南ちゃんが話す気になったときで良いからさ、いつでも言ってよ。きっと皆も聞いてくれるからさ」

 翔一は言う。「ありがとう」と返しつつも、果南はその日がとても遠くに感じられた。もしかしたら話す日は来ないかもしれない。涼のことは誰にも話したことがないし、まさか果南が恋をしたなんてここの面々は誰も考えはしないだろう。ましてや恋の相手が殺されて、ずっと悲観に暮れているなんて。この悲しみは消えてはくれない。この海、涼と潜った海を見る度に思い出す。

「ふたりとも何話してるの?」

 会話に鞠莉が割って入ってきた。

「鞠莉の料理が不安、て話」

 果南が答えると、鞠莉は「No problem」とウィンクする。不安なのは本当だ。

「そういえば鞠莉は初対面だったよね。千歌の家に居候してる津上翔一さん」

 紹介すると、翔一は「よろしく」と笑みを浮かべる。大概の相手はこの人好しな笑顔で翔一に親しみを覚えるものなのだが、似た者同士なはずの鞠莉は翔一の顔を呆けた表情で見上げながら、

「津上……翔一?」

 そう反芻すると、鞠莉は無言のまま翔一の顔を見つめている。見られている翔一も笑顔が消えて、どう応じたらいいか分からず無言で鞠莉に視線を返している。

「鞠莉、翔一さんのこと知ってるの? もしかして小原グループの人とか」

「え、ううん………。どうして?」

「翔一さん記憶喪失だから」

 「Oh」と納得したように鞠莉は頷き、「I don’t know」とようやくいつもの笑顔を浮かべる。

「わたしは小原鞠莉。良かったら何か食べていってね」

 そう言って鞠莉は厨房へと戻っていく。一体何なんだろう、と気にはなったが、その疑問は海の家の来客の会話で打ち消された。

「にしてもこの間の作戦て何だったんだろうな? あの生き物ってアンノウンて奴なのか?」

「さあな。上は何も言ってくれないし、不気味で仕方ないよ」

 それは若い男ふたり組の会話だった。「美味そうだな。食ってくか」とヨキそばの香りに誘われて店に入っていく。

「ヨキそばふたつ」

 「へい、ヨーソロー!」と屋台の親父よろしく、曜は早速調理に取りかかる。料理を待っている間、ふたりの間に交わされる会話を果南は聞き逃すまいと耳を澄ませていた。

「あれって、結局どうなったんだ? 捕獲されたのか?」

「分からん。何から何まで極秘だ。アギトだかアンノウンだか、どっちにしても訳分かんないのは変わらないよ」

 

 

   3

 

 西から焼けるような茜色が空に広がっていくにつれて、海水浴客も帰路につき始める。海の家の手伝いも切り上げてようやくAqoursは本来の目的として練習を始めた。

 まずはランニング15㎞。足場の安定しない砂浜で走れば、トレーニングとしての効果は高い。それほど広くない海水浴場を何周か回ったところで、流石に毎日ランニングをこなしている果南も疲れが出ている。今何㎞走っただろうか。

 足を止めると息が粗くなった。ランニングの後は遠泳10㎞に腕立て腹筋それぞれ20セットを控えているというのに。

「流石にお店の後だと、ちょっときついね」

 後方に続いているはずの皆に声をかけるのだが、その皆は海水浴場の隅で倒れ込んでいる。もう、と溜め息をついて駆け寄ると、息も絶え絶えなダイヤが声を絞り出す。

「こ、こんな特訓をμ’sはやっていたのですか………」

 ラブライブに優勝するほどのグループなのだから、これくらい朝飯前だろうに。

「これくらいでバテちゃ、優勝なんてできないよ」

 他の皆もいつから足を止めていたのか。鞠莉に至ってはビーチチェアでくつろいでいる始末だ。

「こ、これくらいで………」

 ダイヤは起き上がろうとしたのだが、腕の力が抜けたのか再び砂浜に伏した。

「まあ、いきなりは無理かもね」

 普段よりも倍以上の練習メニューだから、まずは体を慣らしたほうが良さそうだ。もうすぐ陽も暮れそうだし、明日の練習もあるのだから遠泳はやめておこう。

 1年生の頃に振り付けと練習メニュー考案を担当していた果南主導の下、体幹を鍛えるための比較的緩いトレーニングに切り替えた。果南からすれば軽い準備運動のようなものなのだが、それでも1日の疲労が蓄積していたメンバー達にはハードだったようだが。

 

 太陽が水平線の彼方に沈み、空に夜の帳が降りる。三津海水浴場には仮説シャワーが備えられていないから、皆は十千万の玄関先で砂と潮を洗い流す。

「ひゃっこい……」

 バケツで冷水を浴びたルビィが震えながら言う。

「我慢して。まだ砂落ちてないよ」

 そう言って千歌も水を被る。いくら暑い季節といっても、水道水の冷たい水は流石に堪える。

「まったく、お湯は無いんですの?」

 文句を飛ばすダイヤに「すぐ慣れるよ」と果南は水をかけた。冷たさに震える姿がついさっきの妹と重なる。

「それにしてもμ’sって凄い特訓してたんだね」

 憧れのグループと同じ経験ができたことが嬉しいのか、ルビィが目を輝かせる。「リトルデーモンね」と善子が言うのだが、すかさず花丸が「違うずら」とそれ以上の発言を阻止した。

「みんなー」

 玄関から翔一が顔を出す。

「他のお客さんもいるから静かにね」

 「分かってる」と千歌が応えた。

「じゃないと美渡が怖いからさ」

 翔一がそう言うと千歌がふふ、と笑みを零した。「何か言った?」と奥のほうから本人の声が聞こえて、翔一は慌てた様子で中へ戻っていく。

 ぐう、と音が鳴った。その音を発した鞠莉は羞恥など見せず、

「I’m hungry.ご飯まだ?」

 もう夕飯時には丁度いい時刻だ。

「じゃあ、わたし買い出し行ってくるよ」

 果南が挙手すると、千歌は「あ、それなら大丈夫。食材の余りあるから」とかぶりを振る。曜も「それに終バス出ちゃったよ」と言うが、果南は構わず、

「良いって。まだ走り足りないから、ちょっと街まで走ってくる」

 「え、果南ちゃん?」と千歌の声がしたが、果南は無視して十千万から駆け出した。

 

 海の家に置いたリュックの中から適当な服を掴んで着込み、外に出た時だった。

 宵闇のなかで小さく青の光が灯っている。まるでホタルイカみたいだ。でもホタルイカと違うのは、その光は梵字のような形をしていたこと。青い光は海の家へと近付いてくる。

 光が一際眩しく瞬き、果南は反射的に目を瞑った。まるで目を焼かれたようだった。でも熱さは感じられず、目を開くと視覚は問題なく機能している。

 目の前に男が立っていた。年齢は壮年くらいだろうか。まるで影のような男だった。真っ暗な夜の海から這い出てきた、闇から産まれたかのような。腕を組んだ男の手の甲で、青い梵字が徐々にその光を失っていく。

「お前はまだ赤ん坊だ。だが、俺がお前の(とき)を早めた。お前の力は、更に強く覚醒する」

 一体何をされたんだろう。この男は何者なんだろう。様々な問いが次から次へと浮かび、その度に恐怖が上乗せされる。

「その力をどう使うかは、お前の自由だ」

 男は背を向けて、夜の闇へと歩き出す。「あ、あなたは……?」と果南がようやく声を絞り出すと、男は一旦足を止めて振り向く。

「俺は誰でもない。名前はとっくの前に捨てた。だが、そうだな。仮に名乗るとしたら、これが相応しいか………」

 果たして名前を知ったところで、果南にはそれが意味のあることに思えなかった。誰でもない。それはこの男を表すのに最も相応しい。この男は自分とは違う、と直感できる。もしくは果南の裡に目覚めた力が告げている。きっと涼とも、金色の戦士ともまた異なる存在。

 ふ、と男は笑う。無意味なのに、と自嘲するように。

沢木哲也(さわきてつや)だ」

 

 

   4

 

 気配を感じ取れたのは、内浦湾沿いに立つ民宿からだった。まだ寝るには早い時間で、殆どの客室らしき窓には灯りが点いている。目を閉じて耳を澄ませると、壁の奥に響く様々な声が聞こえた。まるで神経が研ぎ澄まされたようだった。どの声もはっきりと、クリアに聞こえる。

 はしゃぐ子供を嗜める母親の声。友人と釣りの成果を自慢し合う老人の声。お客の予約を確認する女将の声。

 ――すみません、この辺りに飲み屋はありませんか?――

 見つけた。間違いない。海の家に来た男の声。

 ――この辺りには無いですねえ。街まで行かないと――

 女将が困ったように言う。

 ――そうですか、分かりました。どうも――

 そう言ってほどなく、民宿の玄関から男が出てくる。果南は建物の陰に隠れ、男が車の運転席に乗る様子を観察するように見る。民宿から漏れた光で、男の顔は宵闇の中でもはっきりと見えた。

 あの人が――

 悲しい記憶が蘇ってくる。変身した涼を穿つ銃声。苦悶に満ちた涼の悲鳴。それらが想起させる悲しみが、怒りへと変わっていくことが分かる。悲しみは怒りへ。怒りは殺意へ。

 プラグが点火する音が聞こえるが、エンジンは起動する気配がない。キュルル、という虚しい音を何度か繰り返し、完全に停止する。果南には車内の様子が手に取るように分かった。男のエンジンが掛からないことに困惑している顔も。男の体内で脈打っている心臓の鼓動も。その全てが果南の手の中にある。

 車内の空気が震えた。男が左胸を抑えつけ、突き立てた爪がシャツ越しに食い込んで血が滲んでいる。ドアのレバーに手をかけるが、すかさず果南はドアをロックし固定する。いくらロックを外そうとしても、並の力では動かせないほど強固にしておいた。

 男の鼓動が激しくなっていくのが分かる。心臓が風船のように大きく膨らんで、肺を圧迫していく。男は大口を開けて空気を吸い込もうとするが、肺は空気を取り込めない。

 この状態を維持しておけば、男は窒息死するだろう。その前に鼓動を更に激しくさせれば、心臓が破裂する。

 不意に恐怖が込み上げた。力を解いたせいで、男の心臓が正常な脈を刻み始める。肺は元の大きさに戻り、気道から送り込まれた空気から酸素を体内へと取り込んでいく。

 できない。わたしには――

 昼間、男が涼を殺した隊員のひとりと悟った時に決めたはずだ、涼の仇を討つ。涼と同じ苦しみを与えてやる、と。

 殺人というものがどういう行為なのか、果南は今更になって気付く。人の死とは呪縛を与える。涼の死は悲しみという呪縛。自ら手を下すとなれば、罪という呪縛。この先一生、この誰にも明かせない罪を抱えて、周囲にも自分にも嘘をつき続けなければならない。Aqoursの皆に、何食わぬ顔をしてステージに立つことなんてできない。誰かの笑顔のために歌うスクールアイドルが、誰かの命を奪っていたなんて。

 果南は泣き崩れた。涼は自分を守るために力を使っていたのに、どうして自分は殺めるために力を使おうとしたのか。とてつもなく怖かった。涼のためという想いが、殺意というおぞましいものへと変わってしまうことへの恐怖。

 再び悲鳴が聞こえた。車の中で男が胸を抑えて悶えている。強引にも車内から抜け出そうと窓ガラスを何度も蹴っている。

 どうして。力は解いたはず。いや、そもそも力の扱い方なんて分かっていない。激情に任せていたら発しただけだ。

 やめて………

 果南は強く念じる。男の足がガラスを蹴破る。閉ざされていた空間から悲鳴が放たれる。

 やめて!

 ぶち、と太い何かが切れるような音を感じた。悲鳴が途絶え、割れた窓からはみ出した脚がだらりと垂れる。

 鼓動はもう聞こえなくなっていた。

 

 

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