ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト 作:hirotani
1
城北大学の構内には、当然ながら20歳前後の若者たちが他愛もない話をしながら行き交っている。誠と小沢も彼らと2、3ほど歳の差がないのだが、どうにもこの若者たちの集まる場には疎外感を覚えてしまう。年齢があまり変わらないとしても、ふたりの出で立ちはどう見ても学生には見えないが。誠はスーツ、小沢は白のブラウスに黒のパンツと、シンプルすぎる故にファッション性豊かなこの場では浮いている。
高校卒業後は警察学校に進み大学というものを知らないまま現在に至る誠はともかく、小沢にとって城北大学は母校なのに、どうしてこんなにも周囲との温度差が大きいのか。まるで雰囲気に馴染めていない。在学当時も、彼女はこうだったのだろうか。とはいえ小沢はこの大学に入学する頃には、既にアメリカでの大学卒業資格を取得していたから、別にここに通う必要はなかったはず。廊下を歩きながら、誠はその疑問を尋ねた。
「小沢さんは、どうしてこの大学に入ったんですか?」
「暇つぶしにね。日本のレベルがどうなのか興味があったの。
「それが、高村教授の?」
「そう」
V-1プロジェクトの資料にあった参加メンバー。その一員として名を連ねていた
「そういえば、高海さんとはご学友だったんですよね」
「意外? 私と志満じゃタイプが全然違うものね」
「いや、そういうわけでは――」
「良いのよ。あの子のお陰でこっちの生活には退屈しなかったし、花札なんて面白い遊びを知ることができたんだから」
「花札?」
「ええ。志満のほうから話しかけてきて、強引に花札サークルに入れられたのよ。サークルメンバーの頭数揃えるためにね」
何とも妙な出会いだ。まさかあの淑やかな志満が、この小沢を強引に集団へと引き入れるなんて。
この才媛の学生時代の一端を知ることができたところで、目的の研究室に着いたらしい。ドアの札には「高村研究室」とあって、緊張感が一気に高まる。小沢がドアをノックすると、奥から「入りたまえ」と気難しそうな男の声が聞こえた。臆せず小沢はドアを開け「失礼します」と中へ入る。誠も後に続き、視界に北條の姿が収まったことで思わず礼をするのを忘れてしまう。
「これはこれは小沢さん。氷川さんも。こんなところに何の用です?」
考えてみれば、プロジェクトの発案者である北條が高村の研究室にいるのは自然なことだ。改まって誠は礼をする。声に違わず眉間に皺を寄せた表情を緩めることなく、高村はまるで値踏みするような目で誠を足元から見上げてくる。
北條が起動していたPCディスプレイの電源を落とした。きっと表示されていたのはV-1システムの設計データだろう。
「スパイ行為は反則ですよ」
「お黙りなさい。あなたには用は無いわ」
撥ねつけるように言って、小沢は恩師へと向く。
「お久しぶりです、高村教授」
「卒業以来だね」
その重苦しい口調は、とてもかつての教え子を歓迎しているようには聞こえなかった。
「君のことは今でもゼミで時々話すよ。私の教え子の中で1番優秀な生徒としてね」
「光栄です」
そう返す小沢も淡泊すぎる。先ほど面白いゼミだった、と話していたのに。
「でもV-1プロジェクトに教授が関わっていたなんて、驚きました」
「北條さんから話を聞いたんだ。人の命を守るためだ。私もひと肌脱ごうと決心したんだよ」
「実は、ご存じだと思いますが私もG3-Xを開発することになっています。そのシステムのアイディアを聞いて欲しいんですが」
小沢はバッグからファイルを取り出す。だが高村はそれを受け取ろうとはしない。
「何を考えているんです?」
そう訊いたのは北條だった。
「我々はいわば敵同士だ。敵に手の内を見せるつもりですか?」
「いや」と否定したのは高村だ。彼はデスクの横に置かれた冷蔵庫からワイングラスを取り出す。まさか勤務中に飲酒するつもりか、と思ったが、冷蔵庫の別の棚から取ったのはペットボトルのミネラルウォーターだった。どうやら彼も、北條と同じく拘りの強い人間なのかもしれない。
「G3-Xのアイディアを聞けば、私がV-1システムの開発を中止する。小沢君はそう思ってるんだよ」
まさか、と誠は思う。確かに小沢は警視庁の上層部相手でも不遜な態度を崩さないが、礼儀を知らないわけじゃない。恩師を蔑むようなことをするはずがない。
でも「違うかね?」という高村の質問に「その通りです」と小沢は即答してしまう。
「小沢さん」
流石に口を出さずにいられなくなったが、「ごめんね氷川君、少し黙っていて」と制されてそれ以上は何も言えなくなる。小沢が感情に任せて言っているのなら先ほどの北條と同じく「お黙りなさい」と撥ねつけられる。何か考えがあってのことだろう。
高村はグラスに水を注ぎながら、
「私に恥をかかせないための思いやりとも取れるが。しかし小沢君、君は自分が何を言っているか分かっているのか? 自分のほうがこの私より優れてる。そう言っているのと同じことなんだよ」
グラスを口元で傾けて喉を潤すと嘆息する。
「だいいち君はV-1システムについて何を知っているというんだ? 何故G3-Xについてそれだけ自信があるのか」
「知らなくても分かります。G3-X以上のものを作るのは不可能です」
それは挑発ではない、純粋な降伏勧告だった。自身が天才であることを自覚し、相対する人間に勝利することを冷静に分析した上での。そこに自身への過信や、他者への軽蔑は一切介在していない。
天才小沢澄子は、他者に蔑みの念を抱かない。いくら嫉妬や憎悪を向けられたところで、それを向ける者たちが自身に決して敵わないことを理解しているからだ。いくら凡人に足を引っ張られようが、それを容易く一蹴することができてしまう。G3プロジェクトも複数の権威者たちによる共同開発として発案されたそうだが、結局は小沢ひとりで設計した形が最も優れていて、他の面々の介入する余地がなかったらしい。
「もういい、帰りたまえ。君は昔からそうだ。いつも人の上に立ってものを言う」
でも本人に意図はなくても、凡人は蔑まれたと捉えてしまう。そう思うことで、天才を攻撃する口実になるから。
「私はただ――」
「小沢さん」と北條が止める。
「いずれにせよ、両システムが完成すれば答えは出ます。それで良いじゃありませんか」
両システムが完成して、一緒にユニットで運用することはできないのだろうか。そんなめでたい願望を抱かずにはいられない。単純に戦力は倍になり、小沢と高村も互いに屈折した感情を抱かずに済ませられるかもしれない。でも、それは現実的に難しいだろう。いくら警察でも、国税で賄われる資金を湯水のように使うことはできない。
「聞こえなかったのか? 帰りたまえ」
恩師と思えない言葉に素直に従い、小沢はドアへと歩く。ノブへ手をかけようとしたところを見計らったかのように「小沢君」と高村は呼び止め追い打ちをかける。
「私は昔から君のことが嫌いだった。それはこれからも変わらんだろう」
その言葉に小沢は振り向くが、背を向ける高村は気付かず水を飲んでいる。
「分かりました」
あくまで淡々と小沢は言う。
「そういうことなら、私もあなたのことを嫌いになります」
そこでようやく、誠は小沢がこの研究室を訪ねた理由が分かった。
彼女は褒められたかった。
日本で自分の才能を伸ばしてくれた恩師に、社会に出て活躍している姿を見て欲しかった。それは恩師を慕う教え子なら誰もが思うことだろう。あなたのお陰で私はここまで来ることができました。あなたの下で学ぶことができたからこそ、G3-Xという傑作を生み出すことができたんです。ただ、そう告げたかっただけなのに。
小沢にとっては尊敬する恩師でも、当の高村は彼女を教え子とは見ていなかった。自身の積み上げてきた研究者としてのキャリアをあっけなく飛び越えてしまう天才。研究を簡単に凌駕され、果てには否定されてしまう脅威としてしか映っていなかった。そんな、天才の足を引っ張るその他大勢の凡人と変わらない人間だったなんて。
小沢は足早に研究室から出て行く。誠は北條と高村に無言で一礼し、彼女を追いかけた。
追いついた誠が隣につくと、小沢は穏やかに言う。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「いえ」
一体どう言葉をかけたらいいのか、誠は思案する。もしかしたら、本当に小沢は気にしていないのかもしれない。高村から告げられた言葉も、凡人のくだらない戯言とすぐに忘れてしまうのか。全く分からない。この人は天才でも、どこまで自分たち凡人と違い、どこまでが同じなのか。こうして肩を並べて歩くことができても、絶対に縮めることのできない差がある。
誠のスマートフォンが着信音を鳴らした。河野からだ。
「はい氷川ですが」
『不可能犯罪と思わしき変死体が発見された。現場は
2
「綺麗になったね」
「ピッカピカずら」
全ての汚れが落とされたタイル張りの床を見て、ルビィと花丸が口々に言う。床面に残った水も澄んでいて空を鏡のように映し出している。
「ほら見なさい。やってやれないことはございませんわ!」
得意げに言うダイヤに、全員が「ええ?」と呆れの声を出した。特訓と言っておきながらやはり雑務の手伝いじゃないか。曜は水兵服を披露する機会を得られたから良かったものの。ただ善子が文句のひとつも言いたくなったのか口を開きかけるが、「そうだ」と果南が何かを思いついたらしく寸でのところで喉元に留まる。
「ここで皆でダンス練習してみない?」
「Oh,funny! 面白そう!」
子供みたいにはしゃぐ鞠莉を「滑って怪我しないでください」とダイヤが窘める。
「じゃ、皆も一緒について」
果南の号令にならい、皆それぞれの配置につく。既に曲も振り付けも全部頭に入っているから、メロディ抜きでも踊れる。最初はダブルセンターとして千歌と梨子が動くことになるのだが――
「………あれ?」
千歌が声をあげる。そこでようやく、他の面々もこの曲の致命的な問題に気付いた。それぞれ取っていたポーズを崩し、ダンス担当の果南が言う。
「そっか、梨子ちゃんがいないんだよね」
「そうなると、今の形はちょっと見栄えがよろしくないかもしれませんわね」
ダイヤの言う通り、9人から8人と些細な変更ではあるが、そのほんの「ちょっと」がバランスの綻びになってしまう。人数が多ければ多いほどダンスのフォーメーションは複雑になっていくから、小さなものでも綻びというものは目立ちやすい。
「変えるずら?」
花丸の質問に「それとも――」と果南は顎に手を添える。
「梨子ちゃんの位置に誰かが代わりに入るか………」
本番が近い今、ダンスも大方ものになっていて、後は細かい部分を修正するのみになっている。センターを千歌ひとりにすれば、他のメンバーの配置もそれに伴い大幅な変更が余儀なくされる。ダブルセンターのままが良いだろう。
「代役、て言ってもねえ………」
鞠莉が嘆息した。それが最も修正点を最小に済ませられるのだが、簡単なことじゃない。センターがふたりなのだから、当然コンビネーションが求められる。適任なのは梨子がいないAqoursのなかで、最も千歌との連携が取りやすい、元から相性の良いメンバーになる。
「………ん?」
一体誰が適役かな、と曜は考えていたのだが、皆の視線が自身に集中していることに気付いた。
千歌と最も連携できる、互いに気心が知れていて、彼女の相棒として最適なメンバーとして見出されたのは――
「え……、わたし⁉」
3
買い物に出掛けても、翔一の気分は全く晴れることなく厚い雲のようなガス溜まりが漂い続けている。普段ならスーパーで良い食材を見つけると最高に良い気分になれるのだが、質の品定めなんてする気にもなれず惰性で商品を籠に入れていた。
店内を無為に一周した後、翔一はニンジンとジャガイモと玉ねぎと牛肉を購入して店を出た。今晩はカレーにしよう。簡単に作れるし美味い。千歌だってカレーは好きだから喜んでくれるに違いない。付け合わせのサラダは畑のトマトとキュウリで事足りる。
そこでレタスを買い忘れたことに気付いたが、引き返すのも面倒になりそのままバイクを停めた駐輪場へと向かう。
「君」
若い女性の声がする。どこかで聞いた声だな、とぼんやり思いながら立ち止まることなく歩き続ける。
「ちょっと」
声が強気になって、ようやく自身に向けられたことに気付き翔一は足を止めて振り向いた。スーパーの目の前にあるバス停に立つ女性が、真っ直ぐな視線を翔一に向けてくる。
「確か、津上翔一君だったかしら」
特に特徴的な顔立ちをしているわけでもないのに、全身から放たれるその独特な雰囲気は街中でよく目立っている。
「小沢澄子よ」
女性はそう名乗るも、いまいち腑に落ちない。もしかして記憶を失う前の知り合いだろうか。いや、でも自分を「津上翔一」として知っているのなら、やはり最近になって知り合ったのか。
「はあ………」と曖昧に返す翔一に小沢は「ほら」と、
「以前氷川君と一緒のときに会ったことのある」
そこでようやく、翔一の記憶のなかで一致する人物を見つけ出した。
「ごめんね付き合わせちゃって。さっきまで氷川君も一緒だったんだけど、ちょっと事件現場に行っててね」
「いえ………」
小沢に誘われるまま、翔一は彼女の少し遅めの昼食に同席することになった。小沢が昼食の場として案内してくれたのは焼き肉屋で、何度も来ているのかメニューも見ずに注文した。
既に昼食時を過ぎたからか、店内はそれほど混み合っていない。小沢の頼んだ肉の皿はすぐに運ばれてきて、一緒に注文したビールを小沢は一気にあおりジョッキの半分まで飲んでしまう。普段から酒を飲まない翔一はウーロン茶を頼んだが、それには口を付けることなく肉を網に乗せていく。熱せられた網に触れた途端、生肉がじゅう、と音を立てて汁と脂を滴らせる。それは網の下で燃えるコンロの火にとっては良い燃料で、更に火力が増して煙が立ち昇り天井のダクトへ吸い込まれていく。
「どうかした? 何か落ち込んでいるみたいだけど」
小沢に訊かれ、翔一はまだ焼けてもいない肉をひっくり返しながらぼんやりと話し始める。小沢に話したところで解決すると思っていないが、別に隠すことでもない。というより、虚しさのあまり頭の回転が酷く遅かった。多分、犬のようにわん、と鳴けと命令されても躊躇することなく実行してしまっただろう。
勿論、まだ会って2回目の人間にそんな命令をするほど小沢も歪な女性じゃない。ビールを飲みながら翔一の話に耳を傾けてくれた。それほど長話をした覚えはないのだが、翔一の話を聞いている間に小沢はビールを飲み干してしまった。
「生ビールおかわり!」
ビールはすぐに運ばれてきた。
「そう、それで何となく元気が無いんだ。まあ気持ちは分かるわ。仲の良かった女の子が傷付けられたとなればね」
小沢に話した中で、アギトとアンノウンについては省いている。それらのことを質問されても、翔一にだって分からないのだから説明のしようがない。小沢はきっと、果南が翔一の目の前で暴漢に襲われた、と解釈しているだろう。それであながち間違ってはいない。
「………はい」
「こんなこと言うのも無責任だけど、死ななかっただけ幸いかもね。私はついさっき、知り合いが死んだわ。ある意味でだけど」
小沢はそう言ってビールを飲む。翔一は網に肉を並べながら、
「それが、俺悔しいわけじゃないんです………」
「どういうこと?」
「悔しい、ていうより……、何かスカスカしてるんです」
早くも小沢は2杯目のビールを飲み干したのか「生おかわり!」と注文する。
「スカスカ?」
「その子が襲われた分だけ世界が広くなって……、その広くなった分だけスカスカして………」
「生ビールお待たせしました」と小沢のビールが来た。
「それで?」
「椅子が1個余ってたら、て感じなんです。その子の椅子なんですけど、もしその子が死んじゃってたらそこには誰も座れなくて………。そう思うと怖いんです………」
「生おかわり!」と小沢が店員に告げると翔一に向き直る。
「要するにぽっかりと穴が空いてる、て感じね」
ああそうか、と翔一は焼き色が付き始めた肉を眺めながら納得する。この感覚は穴だ。裡に大きな穴が穿たれて、そこに恐怖が入り込んで埋めようとしている。でも恐怖で穴は埋まらない。その恐怖が穴の空いていることを示していて、尚更虚無という穴が広がっていく。
「で、どうするの?」
尋ねられ、翔一は俯いていた顔を上げる。ビールが来たようで、小沢は泡が潰れないうちにと喉を鳴らしながら飲んでいる。
「君はどうやってその穴を埋めるつもり?」
重ねられた質問にすぐには答えられず、翔一は視線を肉へと戻した。肉は十分焼き色が付いている。焦げたら勿体ないな、とおもむろにカルビを1枚箸で摘まんで口に運ぶ。カルビは脂が甘くて、とても美味しかった。もし死んでしまったら、こうして食べ物が美味しい、という感覚もなくなってしまうのだろうか。それはとても寂しい。
何をすればぽっかりと空いた穴が埋まるかなんて、翔一には分からない。自分のすべきことといえば、アンノウンが現れれば戦って倒す。ただそれだけだ。他は高海家の家事をこなすこと。家の姉妹たちが気持ちよく毎日を過ごせるよう、千歌がスクールアイドル活動を頑張れるよう、美味しい料理を作ってあげることだけだ。
まずは、食べなくちゃ。
そう思うと腹が空いてきた。翔一は肉を食べ続ける。タン塩にハラミにロースと、網の上で不揃いに焼かれた肉を全て平らげていく。無くなればまだ皿に残っている肉を網に広げて、それらが焼けるとすぐに口へと放り込む。
「生おかわり!」
自分がうじうじと立ち止まっていても、アンノウンはお構いなしに人を襲う。自分に戦う力があるのなら、いつでも万全に戦えるようにしなければ。それには食べて英気を養わなければ。
「………俺、頑張ります」
皿の肉が残り僅かになって、ようやく翔一は答えを出した。店内の喧騒で聞き取れなかったのか「え、何?」と小沢が口元の泡を拭いながら訊いてくる、翔一が食べている間にも小沢はビールをおかわりしていたのか、テーブルには空になったジョッキが大量に置かれている。
「俺が頑張って強くなって、穴を埋めます」
翔一が力強く言うと、小沢はふ、と笑みを零した。小沢が殆ど肉を食べていないことにようやく気がついて、翔一は残りの肉を焼いていく。
「――なさい」
何か言われたような気がして「え?」と聞き返す。小沢はじゅう、と肉の焼ける音に負けじと声を張る。
「頑張りなさい!」
そう告げられて、翔一の裡に穿たれた穴が少しだけ埋まった気がする。皆の居場所を守りたい。こうやって肉が美味しい、という感覚を皆にも噛みしめてもらいたい。この穴は、皆がその喜びを味わう顔を見ることで次第に埋まっていくだろう。
久しぶりに、翔一は笑顔を浮かべることができた。
やっぱり、後でスーパーに戻ろう。今夜はご馳走を作らないと。
4
「ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイト。ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ――」
果南の声に合わせ、ステップを踏んでいく。次の1拍でセンターふたりが合流し――
「あっ」
背中合わせになって足を止めようとしたところで、千歌と肩がぶつかってしまう。たった半歩ほどのズレだが、互いの立ち位置が絶妙なところだから僅かな差でもぶつかったり離れすぎたりしてしまう。
「まただ……」
「これでもう10回目ですわね」とダイヤが溜め息を漏らす。
午後からは曜と千歌をダブルセンターとしたダンスの調整として、練習の場を屋上へと移した。大まかなステップは特に変えることなく、曜のいた立ち位置は他のメンバーの歩幅と位置を微調整する形で落ち着いた。そうなると後は曜が梨子の務めるはずだったステップを覚えて、千歌と合わせられればパフォーマンスは完成する。
急遽担当パートを大幅に変更することになったわけだが、特に難しいものではなく覚えるのは容易だった。でも今回の曲でセンターはふたり。動きが完璧になったところで、それを相棒である千歌とシンクロさせなければ意味がない。このシンクロが難点だった。どうしても千歌との歩幅が合わない。
「曜なら合うかと思ったんだけどな」
果南がそう判断したのは直感ではないだろう。曜と千歌はメンバーの中で最も付き合いが長いし、身長や体形も近いからステップを合わせやすいと考えたのかもしれない。
同じ距離で同じ歩幅でステップを踏めば合わせられる。そう単純なものではなく、いくら体形が近くても歩幅には個人差がある。
「わたしが悪いの。同じところで遅れちゃって」
千歌はもうステップが体に染みついているわけだから、今更になって掴んだ感覚を変えるとなると負担になる。最善なのは、曜が千歌に合わせること。
「違うよ。わたしが歩幅曜ちゃんに合わせられなくて」
苦笑がちに千歌は言う。最初はすぐに合わせられる、とふたり揃って自信満々だったが、流石に10回目になってずれてしまうとその自信も喪失していく。
「まあ、体で覚えるしかないよ。もう少し頑張ってみよう」
果南の言う通り、上手く動きが合わさるまで反復練習を重ねるしかない。何度も繰り返し、コツを掴めばその感覚を体に染み込ませなければ。もたついている間に本番までの期間は過ぎてしまう。
「じゃ、行こうか」
果南が言うと、曜と千歌は再び間隔を開けて最初の位置につく。
「ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイト。ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイ――」
また肩がぶつかってしまう。先ほどのとは別のところで。
「わたしが早く出すぎて………」
さっきは上手くできていたパートまで失敗するとは。体力はそれほど消耗していないし、普段なら「まだまだ」と活力を漲らせることができる。でもこの時ばかりは千歌への申し訳なさで、とても前向きな思考ができなくなっていく。
「ごめんね、千歌ちゃん」
頭をかきながら、曜は苦笑するのが精いっぱいの空元気だった。