ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト   作:hirotani

70 / 160
第13章 サンシャイン‼ / 甦った記憶
第1話


   1

 

「ちょっと待ってください。それはどういうことですか!」

 会議室に北條の怒声が響く。部下の不遜な態度はもう慣れたものなのか、それとも役職の余裕なのか、PCの中で警備部長は落ち着いた姿勢を崩さない。

『氷川主任はG3-Xを使いこなし見事にアンノウンを撃破した。この働きを認め彼を同システムの装着員として任命する』

 先日のオペレーション。高村教授の協力で搭載されたAI制御チップのおかげで、誠はAIの影響を受けなかった。これにより一定の普遍性を得たG3-Xを装着するのに相応しいのは、G3に引き続き氷川誠警部補。これがこの日の会議で言い渡された決定事項だ。

「異議を申し立てます!」

 当然、北條がこの決定に納得するはずがない。誠に使いこなせたということは、北條も同じようにアンノウン相手に立ち回れるかもしれないということだ。先日の出動も、試験的に北條を装着員に任命しようというなかで起こったこと。あと1歩のところで、北條の企みは頓挫したことになる。しかも、自分のシステムを担当していたはずの高村教授の手によって。

「先日のG3-XとV-1システムのコンペの際の、彼の暴挙をお忘れですか!」

 『あれは――』と補佐官が、この場で暴挙を働きかけている北條を制止する。

『小沢管理官も認めているように、G3-Xに問題があったんだ。そして今、その問題もクリアされG3-Xは理想的なシステムとして完成してる。そのことは、高村教授も認めているところだが』

「しかし――」

『頼むよ、氷川君』

 と警備部長は強引に話を打ち切る。少々乱暴な対応にも見えるが、それが最善と誠は思った。ここで何を言っても北條は決して納得はしないだろう。自身がG3-Xの装着員になれるまで。

『君の活躍に期待している』

「はい、頑張ります」

 きっぱりとした誠に、警備部長は満足そうに笑みを浮かべる。「そんな……」と苦虫を嚙み潰したように北條は憎悪を込めた視線をくべ、

「知りませんよ、どうなっても。この決定は間違っています。取返しのつかないことになるに決まってるんだ!」

 そう吐き捨て、上等な革靴を鳴らしながら北條は会議室を出て行く。すれ違いざま、小沢の椅子の脚を蹴ったのは意図的だろう。腹を立てた小沢は立ち上がろうとするが、それは誠が止めに入る。

 それからの会議は特に報告を受けることもすることもなく、すぐに解散となった。

「そういえば、あの男も津上翔一に会いに行ったそうね」

 会議室を出てすぐ、小沢が言った。

「ええ」

「どうだった?」

「かなり困惑しているようでした」

 もっとも、原因の半分は小沢のついた嘘にあるのだが。

「でも、何となく分かる気がするんです」

「どういうこと?」

「津上さんの独特のペースに巻き込まれると、何故か普段の自分を見失ってしまうんです」

 「なるほど……」と小沢は唸った。何故か翔一と話していると、不思議と気分を張り詰めさせた自身が馬鹿馬鹿しく思えてしまうことがある。彼にからかわれると無性に腹が立つし、彼に料理を出されるとその気もないのに食べてしまう。

「確かに独特なものがあるわね、彼には。記憶喪失らしいけど、一体どんな過去の持ち主なのかしらね」

 

 

   2

 

「この野菜使って凄いご馳走作っちゃうからさ、楽しみにしててよ」

 夕飯の支度をするとき、エプロンの紐を結びながら翔一はそう意気込んでいた。ご馳走を作る、なんて前からよく言っていたことだけど、大体作るものは家庭的なもので敷居の高い料理は食卓に並んだことがなかった。

 だから、その日の夕飯に並んでいた品々を見た時点で気付くべきだったのだけど、千歌は普段なら味わうことのできない絢爛さに夢中だった。

 夕飯のメインは菜園で採れたトマトだった。どの更に盛られた料理も赤く色付いている。でもそれらの料理はまるで高級店のフルコースみたいに洒落たもので、テーブルには白いクロスが敷かれるほど雰囲気作りにも凝ったものだった。

 トマトソースのパスタ。トマトのスープ。トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ。ヨーグルトドレッシングを和えた夏野菜のサラダ。

 レストランのウェイターさながらに、翔一は志満のワイングラスに飲み物を注ぐ。飲み物はワインじゃなくてミネラルウォーターだが。

「翔一くん、いつの間にこんな技覚えたの?」

 口の中を満たす唾液を飲み込みながら千歌が訊いた。志満も早く食べたそうに料理を見ながら、

「ええ、これはもう立派なプロの仕事よ」

 「いやあ、何となく」と笑いながら翔一が席につくと、皆で手を合わせて「いただきます」と唱和する。

 ひと口啜ったパスタはとても美味しかった。行儀の悪いことに口に物を詰めたまま「美味しい!」と言わずにいられない。「甘! え、これデザート?」とサラダを食べた美渡が目を丸くする。「デザートじゃないんだなこれが」と翔一が得意げに言った。

「いつまでもうちに居て良いのよ翔一君」

 だなんて志満が調子の良いことを言う。でも千歌も同意だった。こんな美味しいものを毎日食べられるなら、翔一にはずっと十千万にいてほしい。

「ほら、ガスパッチョは自信作なんだ。トマトの酸味が苦手でもいけると思うんだ」

 翔一に勧められるままスープをひと口飲む。「美味しい」と姉妹で声を揃えた。その後も談笑を交えながら食事は進んでいったのだが、千歌は料理の味に夢中で話なんて耳に入っていなかった。

「俺子供の頃トマト嫌いでさ。夕食にトマト出されて家出しちゃったこともあってさ。家出しているうちにお腹空いてきちゃって。で、畑から野菜黙って採って食べたんだけど、それが滅茶苦茶美味しくて。その野菜がトマトでさ、それ以来トマト嫌いが直ったんだよ」

 

 その日の夜、千歌はふと目を覚ました。何てこともない、深夜に寝苦しくて目覚めるなんてよくあることだ。前はベッドから転がり落ちて起きたことがある。

 このまま目を瞑ったらまた眠れそうなのだが、喉が渇いた。こういうものは1度気になるとなかなか眠れなくなってしまうもので、千歌は台所へ降りると冷蔵庫を開けた。翔一はしっかりオレンジジュースを買い置きしてくれたらしい。ジュースの紙パックに手を伸ばしたとき、ふとトマトが目に入った。今日のトマト料理は美味しかったな、なんて思っていると、翔一の言葉を思い出す。

 ――俺子供の頃トマト嫌いでさ――

 子供の頃、という部分に違和感を覚える。翔一が昔の話をしたことなんて、今まで1度もなかった。記憶喪失なんだから当然だ。でもそれを話したということは――

 違和感の正体に気付いた千歌は、冷蔵庫を乱暴に閉めると階段を駆け上がった。宿泊客の迷惑なんて顧みず、どたどた、と足音を立てながら翔一の部屋の前に立ち襖をノックする。

「翔一くん?」

 返事はない。寝ているのだろうか。翔一は毎日決まった時間に寝て決まった時間に起きるから、夜中に目が覚めることはない、と話していた。

「翔一くん」

 再び呼びかけるも、やはり返事はない。恐る恐る、千歌は襖を開ける。真っ暗な部屋のなかを進み、手探りで電灯の紐を掴み引っ張る。

 灯りの点いた部屋の中に、翔一はいなかった。ベッドに敷かれたシーツや布団はきちんと皺が伸ばされていて新品のようだ。

 まるで、誰も最初から使っていなかったように。

 

 

   3

 

 前日の夕飯と比べると、この日の朝食はとても質素なものになった。朝食に夕食ほど手の込んだものを作る必要はないけど、翔一は毎朝栄養のバランスを考えてくれて品数を多く揃えてくれていた。だからこの日の朝食のコーンフレークは、あまり食欲をそそらない。志満も美渡も同じらしく、3人での食卓で唱和された「いただきます」はどこか火が消えたように弱々しい。

「ねえ、ふたりとも気付いた?」

 皿に牛乳を入れながら志満が訊いた。「うん」と美渡が頷き、千歌も無言のまま頷く。

「信じられないよね、翔一が記憶を思い出した、なんて」

 スプーンで皿をかき回しながら美渡が言う。やっぱり、ふたりの姉も勘付いたらしい。

「昨日子供の頃の話してたでしょ? あれって思い出した、てことだよ」

 千歌が言うと、志満は溜め息と共に、

「あまりにもいつもの翔一君と変わらないから、気が付かなかったわ」

 そう、昨日の翔一はいつもの翔一だった。仕草も話し方も、千歌たちが美味しそうに料理を食べる姿を見るときの笑顔も。本当に記憶を取り戻したのか疑ってしまうほどで、どのタイミングで思い出したのか全く分からない。

 電話が鳴りだした。こんな朝早くに誰だろう。宿泊の予約かもしれないから、志満が受話器を取る。

「はい十千万でございます………、翔一君⁉」

 その名前を聞いて、千歌と美渡は食事の手を止めて電話のもとへ駆け寄る。

「翔一君、あなた本当に記憶が戻ったの?」

 「志満姉貸して」と千歌は長姉から受話器をもぎ取る。

「翔一くん、今どこにいるの?」

『千歌ちゃん………』

 受話器から聞こえる翔一の声はいつもの張りがない。電話の液晶を見ると非通知になっている。翔一は携帯電話を持っていないから、どこかの公衆電話からかけてきたのだろう。

『俺、大丈夫だからさ………。しばらく帰れないかもしれないけど心配しないで。俺、会いたい人がいるんだよ』

「会いたい人?」

『うん………、それじゃ』

 通話が切れた。無機質なコール音を鳴らす受話器を、千歌は見つめる。この時が来ることは理解していた。翔一が記憶を取り戻せば、きっと彼に何かしらの変化は起こる。でも彼のいる日常がなくなってしまうのも怖くて、あと少し、あと少し、と先延ばしを祈り続けていた。

 でも、それは唐突に終わる。この時のために何の準備も心構えもなかった千歌には、この感情の揺さぶりをどうすればいいか分からなかった。

 

 個人に大きな出来事でも、世の中にとって記憶喪失の人間が過去を思い出したことなんて、ほんの些細なことに過ぎない。例えばラブライブ。翔一が記憶を取り戻したからといって東海地区予選の日程がずれ込むなんて当然あるはずもない。だからこの日、まだ千歌は普段通りの日常を保つことができていて、予選に向けた練習に励んでいた。

「ワン・トゥー・スリー・フォー。ワン・トゥー・スリー・フォー」

 屋上で果南の手拍子に合わせてステップを踏み、修正すべき点があれば次々と指示が飛んでくる。

「今のところの移動はもう少し速く。善子ちゃんは――」

「ヨハネ!」

「――更に気持ち急いで」

「承知。空間移動使います」

 冗談なのか本気なのか分からない善子の文言は置いといて、同じパートをもう1度踏んでみる。

「はい、じゃあ休憩しよ」

 と果南が区切りをつけると、皆が一斉にその場で座り込む。座ったら座ったで、陽光に焼かれたコンクリートの床が熱いのだが。

「暑すぎずら………」

「今日も真夏日だって………」

 とうなだれる花丸とルビィに、まだ体力を保ち続けている曜がペットボトルの水を差し出す。

「水分補給は欠かさない約束だよ」

 「ありがとう」とふたりは受け取った。たとえ喉が渇いていなくても、水分補給はしっかりと。この夏休みの練習での決まりだ。喉を鳴らして水を飲んだ果南は、屋上から内浦の港町を見下ろす。

「今日も良い天気」

 この炎天下のなか、果南もまだ体力が有り余っているらしい。その両隣に、ダイヤと鞠莉が並んだ。

「休まなくて良いんですの? 日なたにいると体力持っていかれますわよ」

「果南はshinyな子だからね」

 丘の上という立地条件から、浦の星からは内浦が一望できる。地元民でも思わず溜め息が出るのだから、他の土地から来た人間は感動できるかもしれない。事実、翔一はたまに学校へ千歌の忘れ物を届けに来るとき、必ずここで景色を見ていた。

 無言のまま地元を眺めていた3人だったが、後ろで漏れ出た呻き声に振り返る。視線の先には善子が力なく床に横たわっていた。その出で立ちでは当然なのだが。

「黒い服はやめたほうが良いとあれほど………」

 とダイヤが何度目かも分からない注意をする。善子は練習中もずっと黒のローブを脱がない。紫外線を吸収して中は熱が籠ってかなり酷なはずなのだが、彼女は決して折れない。

「黒は堕天使のアイデンティティ。黒がなければ生きていけない」

 「死にそうですが」とダイヤは一応の気遣いを見せる。本人はそれならば本望、とでも言いたげな笑みを浮かべているから、無理に脱げとまでは言わないが。

 そんな様子を見ていると、「千歌ちゃん」と梨子がペットボトルを投げてきた。宙で掴み取ると曜が「ナイスキャッチ」と賛辞の敬礼をする。

「飲んで」

「ありがとう」

 キャップを開ける前に、千歌は透明なボトル容器を空高く昇っている太陽にかざしてみる。プリズムのように7色には分かれないけど、透過する白色の光は混じり気のない清廉さを感じられた。

「わたし、夏好きだな。何か熱くなれる」

 自分が夏生まれだからだろうか。千歌は幼い頃から四季のなかで夏が好きだった。暖かな春や涼しげな秋、空気の澄んだ冬も捨てがたいけど、やっぱり夏が1番だ。気温の上昇に伴って、自身の熱もどんどん上がっていくような気分になれる。以前翔一と似た会話をしたことがあって、そのとき彼は全部の季節が好きだ、と語っていた。何故ならどの季節にも必ず美味しい旬な食べ物があるから、と。

「わたしも!」

 と曜が暑さも何てことない、とばかりに敬礼する。梨子も、これだけ炎天下でも笑みを浮かべていられる。「よーし」と千歌はこの時期に高まる裡の熱に任せ、

「そろそろ再開しようか」

 と軽く足踏みしたところで、

「ブッブー!」

 とダイヤの声が飛んできて危うく跳び跳ねそうになってしまう。

「オーバーワークは禁物ですわ」

 「by果南」と鞠莉が、

「皆のこと考えてね」

 1年生の3人はまだ立ち上がれずにいる。善子は仕方ないとして。少しだけ頭が冷えた千歌は「そっか」と、

「これから1番暑い時間だもんね」

 ダイヤは言う。

「ラブライブの地区予選も迫って焦る気持ちも分かりますが、休む間もトレーニングのうちですわよ」

 練習は厳しくても、決して無理はせず。それは3年生たちからの教訓だ。常にコンディションを最良の状態に保ち、最高のパフォーマンスを本番に出せるよう臨むこと。

「でもその前に、皆100円出して」

 練習を指揮する果南が言うと、むくり、と善子が立ち上がる。

「やって来たのですね。本日のアルティメットラグナロク………」

 くっくっく、と気味の悪い笑みを挟んで、

「未来の時が………視える!」

 そんな意味の理解しがたいことは誰の耳にも入らず、皆は片手をあげた。

「じゃーんけーん――」

 

 インターホンを鳴らしてそう待つことなく、住人は応答してくれた。

『はい』

 その女性の声は警戒の色を含んでいる。向こうからは、ドアフォンのモニターから戸口に立つ見知らぬ来訪者の姿が見えるのだろう。

「突然お邪魔してすみません。自分は葦原涼という者ですが。少し話を聞かせてほしいことがあるんです」

『何でしょう?』

「あかつき号のことについて」

 それを告げると、スピーカーからがちゃん、という音を最後に沈黙が漂う。「関谷さん?」と涼が住人に呼びかけるも、応答はない。

 やっぱりか、と嘆息しながら涼は手帳を開く。関谷真澄(せきやますみ)。綴られた住所はこのマンションで間違いはなかったようだが、話は聞けそうにない。以前訪ねた篠原佐恵子の態度から予想はしていたが、彼女もまたあかつき号で何かに見舞われた当事者であることは確信した。

 なら尚更、引き下がるわけにはいかない。今の涼に残された生きる理由は、父の死について真相を追うことだけだ。

 たとえ、それが最後に何も残らないとしても。

 

 

   4

 

 今は津上翔一として生き、しかしかつての名前を思い出したその青年をここでどう呼ぶべきなのかは分からない。かつての目的を思い出し、その記憶の下に旅立った彼は紛れもなく本来の彼として行動しているはずなのだが、津上翔一としての意識が消滅しているわけでもない。突然家を出て行ってしまったことは世話になっている家族には申し訳なく思っているし、彼女たちへの思慕もまだしっかりと残っている。でも自分がどちらなのか、どちらの名前でこの旅を往くべきなのかは、青年自身にも分からなかった。

 過去を取り戻しても、青年は両親のことを覚えていない。物心が芽生える前にふたりとも既にこの世を去っていて、思い出そうにも元から親にまつわる記憶なんて持っていなかった。

 子供たちを祖母に預けて知人の結婚式に出掛けた両親は、骸になった状態で帰宅することになった。ふたりをこの世から追いやったのは泥酔したドライバーを乗せた高級外車で、法定速度をとうに越したスピードで車線を逆走し両親を乗せた車と正面衝突した。大破した2台の車に乗っていた人間は全員が即死で、遺体の状態があまりにも悲惨だったことから両親は帰宅の前にエンバーマーによる修復を受ける羽目になった。

 突然両親を失った青年と5歳上の姉は預けられていた祖母にそのまま引き取られることになった。青年が生まれる前に夫を亡くした祖母は高齢だったが、その頃には姉はほとんど手のかからない年齢だったこともあり、主に青年の面倒は姉が見てくれた。姉は祖母と一緒に台所に立って料理をしてくれて、脚の悪かった祖母に代わって家事を率先して引き受けた。正直、姉は学校の制服よりもエプロンのほうが似合っていた。それを言ったら夕飯に嫌いなトマトを出されたが。

 だから幼かった青年にとって祖母は「おばあちゃん」のままで、「お母さん」と感じ取ることができたのは姉のほうだった。

 青年が10歳の頃に、祖母は老衰で亡くなった。姉もまだ高校に進学したばかりで大人の庇護が必要な年齢だったのだが、両親と祖母が遺してくれたなけなしの遺産を元手に弟とふたりで暮らすことを選択した。

 狭いアパートで始まった姉弟ふたりだけの生活は、傍から見れば結構な苦労に見えるだろう。でも青年は不幸を感じたことは1度もない。姉はいつも笑顔を欠かさない人で、そんな彼女と暮らすことで青年も自然と笑顔でいられた。青年が炊事や家事をするようになったのはその頃からだ。早朝の新聞配達と夕方のコンビニのアルバイトで生活費を稼いでいた姉の負担を少しでも減らしたかった。

 初めて作った料理はチャーハンだった。テレビの料理番組でシェフの動きをうろ覚えのまま真似して作ったもので、今思えば油が多すぎてべたついていたし、具材の切り方も不揃いな酷い出来だった。

 それでも、姉は美味しい、と笑いながら食べてくれた。

 

 神戸港から出航したフェリーボートの「たそがれ号」は、晴天の下で穏やかに波打つ瀬戸内海を航行している。デッキに立った青年は、先の見えない水平線を無表情のまま眺めていた。記憶喪失だった頃には全ての景色が新鮮に思えたのに、思い出した今はその新鮮さが失われている。

 本土からは明石海峡大橋が敷かれているからバイクでも四国へ渡ることは可能だが、青年はフェリーでの航路を選択した。ゆっくり海を見ることで、これまで忘れていた姉との思い出をより鮮明に追憶することができる。

 姉は海が好きだった。よく暇を見つけては弟である青年と一緒に各地の海を見に出かけた。関東の海水浴場は踏破していたし、長い休暇が取れれば沖縄まで行ったこともあった。

 きらり、と眩しい光が目をくらませる。振り向くと、柵のパイプが陽光を青年へと反射させている。それが思い出した記憶と重なり、青年は懐かしさに微笑を零す。こうしてフェリーで船旅をしていたとき、姉に化粧用の手鏡で光を当てられたことがあった。

 ――何だよ姉さん――

 ――別に、何となくしてみたかっただけ――

 そう言って悪戯っぽく笑っていたっけ。

 初めて姉弟で海に行ったのは、ふたりで暮らしてから間もない頃だった。幼かったせいか、どこの海岸かは覚えていない。ただ、そこで地元民らしき少女たちと一緒に紙飛行機を飛ばしたことは覚えている。

 ――飛べるよ。今は飛べなくても、きっといつか飛べるようになるからさ――

 なかなか上手く飛ばせなかった少女に、そんなことを言ったことがある。あの少女たちと出会ったのが何処だったのか、それは未だに思い出せない。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。