豊かなスローライフを目指して 作:どん兵衛
この時代の城壁は日本の城壁とは異なり、城だけではなく城下にある街まで囲っている。
そのため長さは途方もない。四方それぞれ数百メートルは優に超える。後に袁紹の居城となる鄴の城壁を例に挙げるなら、東西六里(約2.4キロ)南北四里(約1.6キロ)ときた。
城壁の中に街があり、何千何万、場合によっては何十万の人々が生活を送る。なんとも規模の大きい話だ。戦乱期が続く時代には城壁の外側ではなく、内側に田畑があったという話も頷ける。
「は、はわわわわ…………」
「あ、あわわわわ…………」
「おー!太守様の居城だけあってデカいなー!」
所謂、城郭都市と呼ばれる形状である。
流石に鄴城の城壁と比べると見劣りするが、劉表が治める襄陽城の城壁も立派なものだった。
水鏡女学院を出発し、はるばる襄陽城までやって来た諸葛亮、鳳統、徐庶。三人は間近で見る城壁の迫力に目を見開いては「百聞は一見に如かず」の意味を、文字通り目で見て思い知った。
「…………………………」
「…………………………」
それから少しの間、三人はその場に立ち止まっては、それぞれ異なる思考を巡らせる。
諸葛亮は城壁の大きさに驚いた後、やがて城壁外の田畑へと意識を向ける。稲刈りも終え田起こしを行う人々に目を向け、次に水田や用水路の造りを見ては「なるほど…………」と呟いた。
鳳統は城壁と周囲の地形を眺めながら、頭の中で攻城戦を展開していた。その結果、襄陽城は攻めるに易いが守るには不向きであると結論付ける。「同じ南郡でも防衛面なら、江陵城の方が適している」と鳳統は思った。その一方で、南郡で治所とするなら襄陽城だろうとの理解も示す。
「────ふふ、むふふふふ────」
そんな二人とは対照的に徐庶はと言うと、まだ見ぬ街の甘味に思いを馳せていた。
司馬徽から預かった金銭に目を向けては「ちょっとぐらい使ってもバレへんやろ…………」と悪巧みを企てようとするも、真面目な諸葛亮と鳳統がそれを見逃すとは徐庶には考え辛かった。
「ならば二人も懐柔して…………」と徐庶は二人の様子をチラッと覗き見るも、静かに集中している姿を見ては諦める。そして口ではツンツンしていても、やっぱり気になるんだろうと思った。
三人はしばらく黙っていたが、やがて徐庶は諸葛亮と鳳統の肩に手を置き、陽気に声をかける。
「────ま、城壁なんてずっと見とるもんでもないことやし、そろそろ中に入るとしよか!」
「あ、うん。そうだね。紅里ちゃん!」
「先生を説得しないといけないもんね!」
徐庶の声に反応して意識を起こす二人。
三人は再び歩みを始めると城門前で穏やかな衛兵と挨拶を交わしては、門を潜って行った。
城門を潜った先には別世界が広がる。
三人が驚いたのは人の多さ。そして次に街中から競い合うかのように溢れ出る活気。
普段、山中で暮らす三人には馴染みのない光景が広がる。その人の多さには後退りしたくなるような、それでも華やかな街並みを見ていると心が弾み、一歩前へ踏み出してみたくもなる。
何処からともなく香ってくる食材の匂いは鼻孔をくすぐり、活気ある店先は思わず足が止まってしまう。農業は勿論のこと、南郡は河川も近く漁業が盛んであることから、襄陽城では新鮮な魚介類が所狭しと並べられている。なるほど、太守が居城に置くだけあって活気のある街だ。
「はわわ~話には聞いてたけど」
「あわわ~実際見てみると凄いね!」
「────朱里!雛里!あっちの商家で試食が出来るらしいで!さっそく食べに行こか!!」
たちまち心奪われた三人は散策を開始する。
目聡い徐庶に連れられ商家を訪ねては、その流れで周囲の店頭にも順番に顔を覗かせる。
劉表が太守に就任して半年と少し。この時期の襄陽城はまだ都会的とは言い難い側面も多くあったが、それでも三人にとっては十分だった。
興味を惹かれる物が尽きない。時間を忘れ散策に没頭する。優しい人の多い街だと三人は思った。治安が改善され、豊作にも恵まれたこの地では、住み着く人の心にゆとりが持たされた。
「おっちゃん!もう一声まけてーや!」
「元気なお嬢さんだね。他の客には内緒だよ!」
「もーおっちゃん大好き!────うん、わかった!内緒にするから、さらに一声ちょうだい!」
活気があって良い街だと三人は思った。
その後も商家が立ち並ぶ一角を抜けては市井を覗き、人の出入りが盛んな政庁を遠目に見ては憧憬の念を抱き、なんとも人の出入りがまばらな兵営区域を見ては首を傾げたりもする。
時間は有限であったが、楽しい散策は続く。徐庶が値引きしてもらった土産の差額代を握り締めては、三人で甘味に舌鼓も打った。ちょっとした役得に頬を緩ませつつ、その後も散策は続く。
「はわわ……雛里ちゃん、この本…………」
「あわわ……裸の男の人がいっぱいだね…………」
諸葛亮と鳳統は書店で艶本に目を奪われたり。
「────ん、麻雀?聞いたことないな。ふむふむ、太守様が考案した遊戯と。面白そうやん!」
徐庶は劉表が領内で流行らせようとしていた麻雀に興味を示したりと有意義な時間を過ごす。
「楽しいね、雛里ちゃん!紅里ちゃん!」
「うんうん!みんなとっても親切だよね!」
「せやなー!────って、うん?二人とも普通に楽しんどるけど、それでええんやっけ?」
司馬徽を説得するという当初の目的はどこへやら。すっかり街を満喫する諸葛亮と鳳統。
それに気づいた徐庶の言葉に、二人はハッと我に返っては互いに顔を見合わせる。その姿を見た徐庶がニヤニヤしながら「アカンやん」と続けるものだから、二人も抗議の意を示そうとする。
「ち、違うってば紅里ちゃん!これは私達を惑わす太守様の陰謀、だよ。多分…………」
「そ、そうだよ紅里ちゃん!街の人達もグルだから親切にしてくれたんだよ。きっと…………」
────も、抗議と呼ぶには苦しい。
既に諸葛亮と鳳統は襄陽の街が気にいっていた。というか嫌いになる理由が全くなかった。
それでも煮え切らないのは、自分達がここに来た理由を思い出したから。このまま全てを認めてしまうのなら、何も得ることがないと二人は思う。良い街であることなんて、来る前の段階からある程度わかっていたことなのだから。
「…………………………」
「…………………………」
「やれやれ、ホンマに難儀なもんやな」
俯き加減に肩を落とす諸葛亮と鳳統。
二人は結局のところ、司馬徽という親元から巣立つことの出来ない雛鳥であった。
師である司馬徽を軽んじる世間の者達を好きになれない気持ちも勿論あったが、司馬徽の下を離れた後、自分達が成すべきことが見えて来ない。だから同じ場所に留まり続けたいと思う。
諸葛亮と鳳統は徐庶ほど割り切り良く、物事を考えられなかった。二人はただ流されるのではなく、仕えるべき主君を見つけ、その主君の下で高い志を胸に大きく羽ばたきたいと願っていた。
二人は先の見えない焦燥感から太守である劉表に対抗意識を燃やしてみるも、今日こうして街を訪れてみては、自らの矮小さを思い知らされる。そして思う。この街にケチを付けて一体なんになるのか。無理に嫌味な言葉の一つでも吐き捨てられれば、それで自分達は本当に満足なのかと。
「ねえ、雛里ちゃん。私達って…………」
「うん。本当に何してるんだろうね…………」
二人はそう呟くと大きな瞳を潤ませた。
そして我執に囚われていたのは世間の者達だけでなく、自分達もそうだと気づかされる。
二人の胸中に忸怩たる思いがこみ上げて来ては、長い沈黙が続く。一人取り残された徐庶はどう声をかけるべきかと思い悩む。「明るく楽しく!」という空気ではないが、今にも泣き出しそうな二人に対し「ま、ウチはこうなると思っとったけどな!」と追い打ちをかけるのも違う。
優しい言葉。厳しい言葉。はたまた何も言わず、当人達が気持ちの整理をつけるまで待つ。人によって慰め方は異なるだろう。そんな中で徐庶の言葉とは単純であったが、明快なものだった。
「────せや、この手があったか。ええこと思いついた!朱里!雛里!ちょっと走るで!!」
手を一つパンッと叩き、徐庶が声を張る。
その声に諸葛亮と鳳統の二人が顔を起こし、それを受けた徐庶が二人の手を引いて走り出す。
「ちょっと紅里ちゃん!?」
「走るって突然どうしたの!?」
「ええからええから、ウチに付いて来てや!」
徐庶が考えた案とは高い場所に上り、そこから景色を眺めては元気を出そうというもの。
単純ではあるが悪い発想ではない。出来ることなら静かな場所が良い。そこで気持ちを落ちつかせられるのであれば最良なのだが、人の多い街の中で静かな高所を探すとなると困難である。
本来なら容易に見つかるものではない。が、これも巡り合わせなのだろうか。この時期の劉表は内政に傾倒しており、そして世が平和であったことから、定められた時間内であれば城壁の上に立ち入ることを認めていた。そしてそれこそが、三人が劉表と出会うきっかけとなった。
この時期の劉表は内政の他にも、いくつか習慣として行っていることがあった。
一つ目は定期的に歴史年表を思い出しては、先々に起こる重要な出来事を記憶しておくこと。
書き記すことで記録するという方法も確かにあるが、流出してしまっては大事である。それなら漢文ではなく平仮名で書くという発想も考えられるが、性別を始め色々と変化が生じているこの世界。平仮名を読める人がいたって不思議ではないと考え、記憶のみに留めておくことにした。
二つ目は今の時代や次の時代を代表する、主要人物達の名前を忘れずに記憶しておくこと。
まあ、これも一つ目の事と同様、先々に役立つだろうという考えからであったが、劉表は人物雇用をあまり積極的に行ってはおらず、この知識を正しく活かしているとは言い難かった。
この世界にて二度目の生を受けてから早二十年。本人に自覚は薄いが、劉表はこの時代の考え方に染まっている部分が多くあった。下手をするなら曹操や袁紹よりも、転生者であるはずの劉表の方がこの時代の官僚らしい考え方をする。
良く言い表せば環境に適応しているが、悪く言い表せば長所となる部分が薄まっている。その自覚があるのか、劉表は三つ目の習慣として、定期的に前世のことを思い出すように努めていた。
「────ふむ、今日は風が騒がしいな」
劉表は三つ目の習慣を行う際、城壁の上から遠くの風景を眺めていることが多くあった。
静かな場所で風に当たりながら供も連れずに独り、前世でのことを思い返す。時には感傷的になることもあったが、多くの場合それらの記憶は劉表を懐かしい気分にさせた。
家族のこと。友達のこと。小さい頃の思い出や、学生時代の記憶。「何もかもが懐かしい」と劉表は呟く。時にはこうして過ぎ去った遠い過去を思い返してみるのも悪くないものである。
「────みんな向こうで元気にしてるのかな。死んだはずの僕は案外、元気にやってるよ」
すっかり日も傾き始めた時刻。
劉表は沈みゆく日輪に照らされる、城壁外の赤い大地を眺めながらそんなことを呟いた。
悪くない気分であった。吹き抜ける秋風は心地よく、思い出す記憶は美しいものだった。そんな明日への活力も湧いてきそうな黄昏時のこと。
不意に強い風が周囲を吹き抜ける。その風は揺らぎなく立つ劉表の下にふらふらと鍔の長いとんがり帽子を運んできた。帽子には大きなリボンが付けられていて、女性物であることがわかる。
「ほう、珍しい帽子だな。流石に魔女なんていないだろうから────あの子達のかな?」
その帽子を拾った劉表は周囲に目をやると、この場所に自分以外の人がいることに気づく。
そして劉表は可愛らしい三人の少女と目が合った。少女達は目が合うと「あっ」と声を揃えては少し動揺した様子を示す。帽子を拾った劉表はスッと少女達に近づくと、柔らかく声をかける。
「やあ、この可愛い帽子は君達の落し物?」
それは秋も深まる黄昏時のこと。
劉表が帽子を拾ったことをきっかけに諸葛亮、鳳統、徐庶の三人と邂逅することとなった。
その②で終わらなかったので③に続きます。