その日、人間の里は久方ぶりの大雨に見舞われていた。
寺子屋の女教師は窓の外を見上げると、小さな苦笑とともに立ち上がる。
備品のタオルを数枚取り出すと、玄関に向かってゆっくりと歩いていった。
編纂者の少女は紙に走らせていた筆を止め、障子の向こうを見やる。
そして、すぐに視線を落として再び筆を走らせ始めた。
貸本屋の娘は大雨に気づくと慌てて店の入り口に駆ける。
店の暖簾を下ろして戸を閉め、湿気対策をしなければならないからだ。
「……うん?」
娘が外を覗き込むと、大雨で霞む視界の端に人間と思しき影を捉えた。
この大雨の中で傘も差さず、笠も被らず、どこかへ向けて駆けていく。その左手には、棒のような何かが握られているようだったが……娘の目にはそれ以上を捉えることはできず、小さく首を傾げてから暖簾に手をかけた。
大雨が降っているというだけの、いつも通りの人間の里の姿がここにある。
貸本屋の娘が駆けて行った人間のその後を知るのは二日後のことであった。
◆
「はあ、はあっ……」
早鐘を打つ心臓を握りつぶすように、右手を胸に当てて誰もいない里の裏道を駆け抜ける。
左手に握る刀の重さと雨の冷たさが容赦なく体力を奪っていく。だけど、ここで立ち止まるような時間はない。
「親父、なんで……!」
ほとんど無意識のうちに、俺の口からこぼれ出た言葉。
俺が畑に雨対策を仕掛けているうちに、親父はいつの間にかいなくなっていた……それはほぼ間違いなく、俺や親父が追っている大型獣絡みの事案が発生したからだろう。
しかし、親父は病を患っている。あまり無茶はさせられない。なんとしても親父を見つけて連れ戻すか、せめて同行しなければ……。
そんなことを考えているうちに里の出入口にたどり着く。俺は少しだけ呼吸を整えると、閉ざされていた出入口の扉を開いた。
「くうっ!?」
里の外は里よりも激しい豪雨だった。なぜ――と考える暇もなく、俺は親父の姿を探して駆けだす。
「親父、親父ー!」
大声を出して呼びかけるが、返事はない。
視界は里の中よりも悪く、それほど遠くを見渡すことができない。
「どこだ、親父……!」
焦る気持ちを右手で握りつぶしながら、俺はひたすらに里の外を駆け回る。
「……あれはっ!?」
やがて、足が悲鳴を上げ始めた頃。
ようやく人影らしきものが見えた。しかし、親父だと判断するにはまだ遠すぎる。
「親父か、獣か……?」
急な襲撃に備えて腰を低く構え、慎重に接近した俺の視界に映ったのは――
地面に倒れ伏す、ふたりの、人間。
「親父っ!」
一も二もなく、倒れているうちの片方――俺の親父に駆け寄り、抱き起す。
「ぐっ……」
「親父! なんてこと……!」
親父のうめき声が耳に届き、俺の目は親父の左手――ざっくりと切り裂かれた服、そして腹にできた複数の縦傷を押さえる手を捉えて止まる。
「この傷……獣か!? どこに!?」
「あれだ……」
かすれた声が耳に届き、押さえていた手で親父が指さした先……そこには、倒れていたもうひとり――いや、人間じゃない。人型をしているが、その外見は紛れもなく獣。これは――
「妖獣!?」
「そうだ。手こずったが……切り倒した、ぜ。ごほっ!?」
「親父っ!?」
せき込んだ親父の口から大量の血が吐き出される。親父の傷がどれほどのものかなんて……わからないわけがない。
「はは、っ……」
乾いた笑い声が、激しい雨音をくぐり抜けてかすかに耳に届く。
「やられるつもりは、なかったんだがな……ごほ、っ」
「親父っ!?」
内臓すら見えるのではないかと思えるほどに深い傷口を、しかし止めどなく流れる血液が、止めどなく降り注ぐ雨が、覆い隠す。
間に合うか――そんなことを考えている暇すら、ない。
「と、とにかく、止血して診療所に――」
「もう、遅えよ……」
「っ!?」
ぶわっ、と。何かが胸にこみ上げてくる。
かすれかすれで、今にも雨音にかき消されそうな親父の声。雨が視界を奪ってくる。鬱陶しい。
「すまねえ、颯治。俺はもう、これまで、だ……」
「っ!? 冗談じゃねえ! 親父はまだっ、もうすぐっ……!」
想いが溢れ出し、言葉が出てこない。拭っても拭っても、雨が視界を奪って離してくれない。目の前の男――父の顔すらまともに見ることができない。
「お前に……全部、残しちまって、悪ぃな」
「そんな、こと……っ!」
親父は震える指で、腰に締めた紐を解いてそれを俺に差し出す。
「お前にゃ、ずいぶん迷惑をかけちまったけどよ……」
「そんなっ、こんなの、大したことねえよ! まだ、まだ終わらねえって……!」
「これが、俺のかける、最後の、迷惑だ……受け取れ」
親父の差し出した、それ――大振りの刀を、俺は震える手で受け取る。
ずしり、と。
この重みが、親父の背負ってきた重みなのか――そんなことを凍り付いた頭でぼんやりと考え、託されたそれをしっかりと握りしめる。
「泣くなよ、いい年した男が……恥ずかしい」
「泣いてねえよ。雨が鬱陶しいんだよ……。確かに、受け取った」
それでも、わずかに笑顔を見せられたんじゃないかと思う。それに応えるように、親父も笑みを浮かべて。
「後を……里を、頼んだ、ぜ……」
「ああ、頼まれ……親父?」
刀と、想いを託し、答えを受け取った男は。
笑みを浮かべたまま、目を閉じ、そしてそのまま――
「親父っ、親父……! ああっ、あああああああああああああっ!!」
なにも考えられない。想いの溢れるがままに、託された刀をかき抱き、慟哭の声を上げる。
それを見た者も聞いた者も、誰もいなかった。
それからどれくらいの間そうしていただろうか。
慟哭の涙は雨に流されて、声は枯れ果てて、なにもなくなった俺は親父の形見を背中に担ぐ。そして妖獣の亡骸を一瞥してから、親父の亡骸を抱えて立ち上がった。
「報告、しなきゃ……」
なにもわからなくなった俺が唯一できること。今なにをすべきか考え、そのために動く。それだけ。それだけしか、今の俺にはできないから。
親父の仕事を管理している里の長者の屋敷へ、報告に行かなければ。
「うう……」
落とさないように慎重に歩き、一度降ろして里の門を開き、また抱えて歩く。余計なことを考えたらすぐに泣きだしてしまいそうで、必死にそれ以外のことを考えながら歩みを進める。
足は震え、もつれ、何度も転びそうになった。
それでも、転んで親父を落とさないように。ただそれだけを考えて、足を動かし続ける。
そして、数時間は歩いたんじゃないかと錯覚するような長い時間を経て、俺は目的地――一軒の屋敷にたどり着いた。
「御免! 御免ください!!」
屋敷の玄関口に立つや否や、俺は大声で屋敷に向かって枯れ果てた喉で叫ぶ。
両手は塞がっている。だったら、俺にできるのは叫ぶことと……肩を使って扉を叩くことだけだ。足で……という考えも浮かんだが、それは無作法に過ぎる。後のことを考えると、足で扉を叩くのは望ましいことではない。
「御免! 誰かおりませんか!!」
この大雨では足音も聞こえない。俺はただ親父を落とさないように気を配りながら、扉が開くまで叫び、叩き続けることしかできない。
「どなたですか?」
玄関の方から声が聞こえた。騒ぎを聞きつけた屋敷の使用人が駆け付けたのだろう。
「大神の、颯治と申します! 主人に至急お伝えしたいことがあり、お取次ぎ願いたく参りました!」
「大神の……主人からは、取次ぎはご用件を伺ってからと聞いております。ご用件をお聞かせ願えますか?」
叫びたくなる心をぐっと抑え、俺は次の言葉を探す。
「では、父が……雄吾が、亡くなったと。その報告に参ったとお伝えください!」
「大神雄吾が……!? す、すぐに主人に伝えてまいります!」
「お願いいたします!」
雨音の中でも聞こえるほどの足音で使用人が駆けていく。これで、少し待てば主人が出てきてくれる……はずだ。
断言できない自分が悔しい。断言できない現状が、悔しい。
もしかしたら、更に詳細を聞くよう申し付けられて使用人だけが戻ってくるかもしれない。
もしかしたら、その程度の理由では会わないと拒絶されるかもしれない。
雨の冷たさに身を震わせながら、冷たくなった身体をかき抱きながら、俺はただ次の音を待ち続けた。
「ふん、大神雄吾が死んだだと?」
しかし、最悪の想定からは外れ、姿を見せたのは屋敷の主人その人だった。
「はい。こちらに」
俺は少しだけ安堵しつつも、気を張り詰めたまま問いに答える。
「……本当のようだな。仔細を聞いても?」
「は、はい。父は里の外で妖獣と交戦し、妖獣の攻撃を受けて大量出血。妖獣は討伐したものの、傷は深く……」
「そうか」
涙が枯れ果ててしまっていたからか、俺は感情を乱すことなく報告の文句を並べる。対する主人の反応も小さなもので、ひとりの死を前にしているとは我ながら到底思えない。
「その刀は雄吾のものだな?」
「はい。死の間際、父から譲り受けました」
「では、貴様はこれからどうするつもりだ?」
「私は……」
問われて、俺は目を伏せる。刀を受け継いだ俺は、これから何をすべきなのか。刀を受け継いで、俺は何を成し遂げたいのか。
「願わくば、父・雄吾の後を継いで里守の任に就き、里を大型獣の脅威から守りたく存じます」
改めて考えるまでもなかった。今の俺にはその道以外考えられないのだから。
「そうか。貴様の意見としては聞くが、必ずしも通るわけではないと思え。里の内部で検討して、追って結果を伝える。それから……」
主人は踵を返し、玄関の内側に入る。
「大神雄吾の葬儀は認めない。埋葬のための人は送ってやる。さっさとそいつを人目から遠ざけろ」
口の中に鉄の香りが広がる。
「は、はい……!」
玄関の扉が閉じていく中、震える口でそう答えるのが精いっぱいだった。
それから、どうやって自宅に戻ったかはあまりよく覚えていない。
気がつけば家の玄関に立っていて、そこに主人の依頼を受けた葬儀屋が来て、埋葬の場所を指定して穴を掘って……埋めた後はそこに膝と手をついて、声を上げることなく、ただ涙を流した。
これを東方と言い張る度胸()
秋例大祭~来春の例大祭のどこかで頒布する予定の新刊から先行公開という形です。
一章は書き上げたら投稿するかもしれません。