学園都市の首都と言える第一学区。
そのビルの一角、
『本部』と呼ばれる施設の地下に、1人の少女がいた。
「―――」
輝くような純白の髪は、床を撫でるほど長い。澄んだ蜂蜜色の瞳は深すぎて、感情の一切を読み取ることができなかった。
見たこともないほど整った顔立ちに感情の起伏は無く、一見すると、職人が丹精込めて作ったビスクドールのようだった。
その少女は、とある実験によって核兵器に匹敵する力をその身に宿しながら、過去と未来を否定された『
「――?」
部屋の床に座っていた彼女は、ある瞬間、首筋に鋭い痛みを覚えた。
声も出さず、眉も動かさなかったが、手は動いた。
自分の首に触れてみると、そこに巻かれた何かから、首筋や額にコードが伸びていた。そのことに、いま初めて気が付いた。
「――?」
それが何なのか、彼女は理解できない。
コードを引き抜くこともせず、『痛み』という未知の刺激に首を傾げながら、いつものように天井を見上げた。
「――?」
いつ見ても変わらない天井、そのはずだった。
じわり…と。天井の真ん中に、黒い靄のような筋が漏れ出てきた。
幾百、幾千もの靄がまとまって、鋭い矢のように尖ってた『黒』。
ゆっくりと流れ落ちるその先端が、白い少女の額に当たった。
「――――?」
ゴォンッ、と。金属塊が地表に激突するような音が炸裂する。
音は地盤が揺れたように本部ビル全体に響き、そこにいた全員がその音を聞いた。
誰もが等しく耳にしながら、鼓膜を破るほどの鋭さではないその音は、人間が知るそれとは明らかに違っていたのだろう。
反物質を生み出す
入江明菜。
「――――――」
白皙の少女は、そうして立ち上がった。
*
振り返った時にはもう遅かった。
荒れ果てた部屋の真ん中を、黒い靄のようなものが通過していた。そう、『通過』である。
その靄は天井も床も、まるで存在しないかのようにすり抜けて、一直線に下方を目指していた。
「(……やられた)」
一瞬それを止めようかと思ったが、床を透過するならば、何を投げても結果は変わらないだろう。
であるならば、発生するであろう被害を最小限に抑えるのが先決だ。
「警戒態勢『第一種・別法』。急げ」
腕時計型の携帯端末に、努めて冷静に告げる。しかし最後には口調が上がってしまった。
どうやら私自身、少なからず焦っているらしい。
背中の痛みを我慢しながら、次の行動を必死に考える――すると、手元の端末から老人の声が聞こえた。
そういえば、通信を切ってはいなかった。
『迅速な対応だねぇ。健闘を祈っているよ』
「……応援ありがとう。なら、私から1つだけ」
ゴォンッ、と。金属塊が地表に激突するような音が炸裂した。
ピタリと動きが止まる。そのままゆっくりと、何もいないはずの後ろを見た。
「――――――」
何もなかったはずの広い執務室の中に、何かが浮かび上がっていた。それは白い光だった。
床から数センチ離れて不自然に静止しているのは、人の形に似たシルエットだった。
シルエットの背中から、翼が生えていた。
雲を束ねたような薄衣の翼。長さは不均一だった。数センチ程度の物もあれば、天井を突き破る物もある。
『1つだけ、なんだい』
手足が動かない。冷や汗すらも出ない。
ゆえに私は、自分に言い聞かせるようにこう告げた。
「――私を出し抜いた程度で、
はっはっは、と嗤う声を残して、通信が切れる。
雑音が消えたことで、再度目の前の存在と相対する。
副委員長として、ライフルを突きつけられても動じない精神性は持っている。
しかし目の前の存在は、単純に理解ができなかった。
自身の頭脳が他より優れていることを知っているからこそ、『理解できないこと』への違和感が大きかった。
「――――――」
シルエットの首が滑らかに動く。眼球があるべき場所には、墨汁を満たしたような黒い穴があった。
その穴が、確かにこちらを捉えた。
直後。
ゴッッッ!!!という衝撃が突き刺さった。
「――、ぇ?」
次に見えたのは、一面の青だった。
所々に白いグラデーションがかかった、鮮やかだが深い青。それと、慣れない浮遊感。
そうして気付いた。
私は空に弾き飛ばされて、まさにいま、地面に叩きつけられようとしている。
「あ――」
首を回すと、人気の無い第一学区の街並みがあった。
高さを考えれば、地面まであと3秒。
使えそうな道具や能力は、無い。
そもそも、必要ない。
「――副委員長!!」
唐突な鋭い声に、意識が思考の海から釣り上げられる。
いつの間にか私は、見慣れた少女の腕に抱かれて、地面に着地していた。
「副委員長、大丈夫ですか!?」
「――ありがとう。助かったよ
「いえ。しかし、まさか副委員長が自ら飛んで来るとは……」
「でも、何とかなったでしょ?」
ひと呼吸して、にゃははと笑ってみせる。
私を抱き留めた少女は、心底呆れるように溜息をついて、私を地面に立たせた。その腕には、緑色の腕章が映えている。
この子は本部に所属し、かつ『警戒態勢・第一種』で窓から逃げる敵勢力を撃墜する――言わば対空要員の風紀委員だ。
ゆえに遠距離攻撃に長けた者が多いが、もう1つ条件がある。それは『敵対者ではない転落者が発生したとき、助ける力を有する者』であることだ。
ここは学園都市の治安を司る風紀委員、その本部だ。
他人を救わんと奔走する者が、味方を救わない道理は無いのだろう。
「さて、とりあえず生き残ったけど……状況はっ、……?」
本部に戻ろうとして、ぐらりと脳が揺れた。
膝をついてしまい、口から何かが飛び出した。口元を拭うと、手のひらにべっとりと血が着いている。
「(やばいのは私も同じかー)」
鼻に残る鉄臭さを、もう一度笑って誤魔化した。
忘れていたが、たったいま私は、明菜ちゃんの一撃を真っ正面から受けて、ビルから弾き出されたのだ。
大した能力者でもない小柄な私が、無傷でいられるわけがなかった。
「さて、戻ろっか」
「……分かりました」
だけど、それが何だと言うのか。
私はもう一度立って、前を見る。ブランドものの常盤台の制服は、煤と血で汚れていた。
隣のまっきーは心配そうに眉を顰めたが、素直に従ってくれるあたり、さすがは風紀委員だ。
「(今の明菜ちゃんは、木原幻生の言う
走ろうとした私の肩に、まっきーの手が置かれた。
私は頷いて、降参したように手を広げる。するとまっきーは、お姫様抱っこのように私を担いで走り出した。
身体強化系の能力者なだけあり、女の子とは思えないほど早い。
「(だけど、そもそもどうして明菜ちゃんに?)」
抱っこされたまま、空いた時間で思考に耽る。
気になるのは対象というより、方法。
ミサカネットワークは、クローンによる同一振幅脳波と
つまり前提として、脳波も能力も違う明菜ちゃんは、ミサカネットワークに接続できない。
波長の違う者が強引に接続したところで、1万人分の出力に、脳が焼き切れるのが関の山だ。
だから私は、
「(でも違った。なら、波長を合わせる『何か』を使ったんだろうね。それっぽいのと言えば
都市伝説のような音楽は聴かせてないし、そもそも明菜ちゃんに変なものは近付けていない、はず。
しょーくんが何か与えた可能性もあるが、あれでも明菜ちゃんを思う気持ちは本物のため、可能性は薄い。
では、元々持っていた物だろうか。例えば――
「――あのチョーカー」
少し考えて、すぐ分かった。
彼女が最初から、唯一身に着けていたもの。
黒いチョーカーと、首筋と額に伸びたコード。
思考という行為そのものを奪われた明菜ちゃんが、最低限の日常生活を営むための演算補助デバイス。
なにより、その演算の源流こそが、ミカサネットワークだったはず。
製作者は――確信は無いが、予想と一致していれば、明らかな敵対行為はしてこないだろう。
「とりあえず、方向性は決まったねー」
にゃはは、と口角を上げる。
ちょうど本部前に到着し、改めてビルを見上げた、その瞬間。
ガカァッッッ!!!と。
一瞬の光が見えた瞬間に、本部の最上階層が吹き飛んだ。
「――わぁ」
光に遅れること、コンマ数秒。
轟ッ!!!と、破壊の波が一瞬で拡散し、周辺ビルの窓ガラスが1つ残らず砕け散った。
爆心地である最上階層――というか副委員長執務室があった部分には、天井が丸ごと無くなり、瓦礫と空だけが残っていた。
「(――並の能力じゃ、窓ガラス1枚割れないんだけどなー……いんにゃ。だからこそ、床が数枚抜けただけで耐えられた、とも言えるねー)」
降り注ぐガラスの破片と衝撃波から、まっきーが私ごと守ってくれるなか、そうやって呑気に考える。
治安維持の中枢、特にその最上階層から煙が上がる光景は、なかなかに珍しいし衝撃的だ。
そのため、一部の人間はもう気付いているはずだ。
「達する。副委員長執務室にて事態発生。傷者及び異状の有無を知らせ。その
端的にそう告げる。
ここからビルの内部は見えないが、今の号令により風紀委員1人ひとりが訓練通り動き回り、それ以上の事態に対処すべく備えるのだ。
少女のひと声で、選りすぐりのエリート数百人が動くのだから、なるほど風紀委員とはイカレ集団かもしれない。
「なお原因は保護対象1名の癇癪によるもの。ちょっと暴れん坊だから、対処員は完全装備で急行せよ」
にゃはは、と歯を見せて笑ってみせる。
そんなイカレ集団のテッペンが教範通り動いては、示しがつかないというものだ。
犬には牙、猫には爪があるように。
私は私の領域と、私のやり方でやらせてもらおう。
「さーて、人助けの時間だよー」
*
「どうやら失敗したみたいねぇ」
第一学区の名もないビル。
風紀委員本部ビルの高層階が爆発したのは、ここの窓からでも見えた。
爆発があった時点で、普通のテロなら成功と言える。
そして風紀委員本部は、普通のテロが成功するほど脆弱ではない。
「落雷力は無かったし、爆心地は『8人目』かしらぁ?」
そうこぼして、バチバチにデコった携帯端末を操作する。数コールで出た相手の返事を待たず、端的にこう告げた。
「風紀委員本部で爆発力があったけどぉ、現場及び周辺には
『はい、はい。了解いたしました』
相手が誰とは言わない。
だがこれで、正式な命令として、警備員は誰一人周辺には近付けず、野次馬の退避と誘導に全力を注ぐだろう。
「ま、警備員が出張ったところで死体の山を築くだけだしねぇ……」
痛む頭を抑えつつ、ビルの深部へと足を向ける。
初動が成功してしまった以上、主導権は既にあちら側だ。だが、
つまり、
「(覚醒する入江さんの誘導を継続するには、現在の
そのため、そのリミッターを解除する必要がある。
そして、解除コード含め重要機能のコードは、外部記録には一切残しておらず、私の脳内にだけ刻まれている。
その隠蔽力こそ、
重要機能の秘匿と独占もそうだが、もう1つ。
「(解除コードをどこにも残していないことは、幻生もすぐに気付くはず……つまり実質、私との一騎打ちってことねぇ)」
このビルを含め周辺の建物には、通常のセキュリティとは別系統の、私だけが起動できるトラップが多数仕込んである。
解除コードが分からないなら、私から無理やり聞き出そうとするはず。そうやって出てきた幻生を、これで無力化できれば望ましい、のだが――
「後手力に回りすぎるのも考えものねぇ」
はあ、と甘い溜息をつく。
可愛くて可憐でスタイル力抜群で、いたいけでか弱い美少女である私が、どうして主導権を奪われて、かつ追われなければならないのか。
『いーじゃん別に。誰からも狙われない女王サマなんて寂しいよー?』
そう愚痴ろうとした時に限って思い浮かぶのが、金髪に深紅のリボンが似合う少女の、やたらと無邪気な笑顔だった。
常盤台中学と風紀委員。
『
私の思う『信用』からは最も遠いが、他の誰よりも『信用したい』と願っている、そんな不思議な味方。
「私の敗北を想定してないほど愚鈍力じゃないと信じてるんだぞっ。松浦さんっ☆」
きっと彼女なら、こんな状況でも笑っているだろう。
そんな確信を抱きながら、あまり期待できない迎撃トラップを起動させた。
●警戒態勢『第一種・別法』
(前項『第一種』の追記とする)
統括総司令部に属するすべての風紀委員は、別に定める戦闘守則を一部凍結し、殺傷を除く戦闘力の全能発揮に努め、状況に即応若しくはそれが可能な態勢を維持する。
派遣及び遭遇による応援に当たっては、個人の適切な判断のもと状況に応じた同等の処置を認める。
発令権者は風紀委員長もしくは副委員長。
※風紀委員総則より抜粋。