「いやはや、まさか捨て身の特攻をするとは。食蜂君も思い切ったね」
名も無きビルの下層。電灯すらまばらな空間に、老人のしわがれた声が響いた。視界は悪いが、目の前に倒れる少女——学園都市最強の精神系能力者のことはハッキリと見えた。
意識は無いものの、呼吸は確認できる。それを見て、ふぉっふぉと笑った。
「やっぱり
僕が生きている、というより勝利できた理由。
おかげで僕は
要は、またも前原君のおかげ、ということだ。
「フム。では早速——」
ピッと、ポケットの中でレーザーポインターを押す。その瞬間、脳内に文字の羅列が流れ込んできた。
お目当ての
「リミッター解除コード、ゲット。あまり猶予もないから早速——『LnuVAF8-BXesGD VjLnzNN-2SVgQs ——』……いや」
そこまで言って、一度切る。
捨て身の特攻までした食蜂君。そこで奪った情報を、そのまま信じるのは危ないかもしれない。
例えば、
「少し探ってみようかな。幸い食蜂君が逃げなかったから、多少の時間はある」
あまりに食蜂君らしくない行動に、用心しすぎることもあるまい。
僕は食蜂君の頭に手をかざして、反対の手でもう一度ボタンを押した。ピッという電子音と同時に、膨大なデータが脳を突き抜ける。
「……ほほう、これはこれは」
砂の上の足跡を綺麗に均しても、均した跡はどうしても残る。そこに違和感を見出すのは、そう難しいことではない。
「解除コードを書き換えて、食蜂君を含めて制御権を完全に放棄するとは考えにくい。となると、
思わず口角が上がり、年齢の割には比較的綺麗な歯をのぞかせる。
確信はないが、やってみる価値はある。これすらもブラフなら、素直に食蜂君の勝ちを認めるしかない。
科学は理論立ててやるのが常だが、偶然や賭けに挑むのも、意外とよくあることなのだ。
「『LqtQB9e-BYlA 5ms5V696nk0hAMz-ElGX9H X00YwhE-xXwGDp 8765d6uvr0 LCkzEL4-WbeqiE 3vE3tU9-OeHNW akx479389』——入力完了」
静かに、無機質にそう告げる。
これが成功したならば、『8人目』たる入江君に、さらに強大な支配が及ぶようになる。
「——お?」
ふと、気の抜けた声が漏れた。
リミッター解除コードは入力した。
つまり、私は賭けに勝ったということだ。
にも関わらず、脳に強烈な違和感が走った。
「——おおおお?」
思考という1本の線が、横から伸びた手に掴まれたような。不自然なほど鮮明だった視界の輝度が落ちて、いつも通りに戻ったような感覚。
「——ほお」
明らかな違和感。間違いなく不都合なことが起きた確信。しかし、それでも僕の口元は弧を描いていた。
「
登録していた脳波か、それとも接続する電気信号を改竄したのか、それは分からない。
いずれにせよ、今この瞬間に
可能性は考えていたが、この早さは想定外である。大脳生理学にも明るいとは、天は彼女に幾つの物を与えたのか。
「リミッター解除コードを入力できてなかったら、この時点で負けていたよ。侮っていたわけじゃないけど、ほんの一瞬の差だったね」
手元の端末をいじり、
いくら松浦君とはいえ、強引に奪ったのなら、まだ防備は不十分なはず。奪い返すなら即座に、だ。
「危なかったけど、今回は僕の勝ちだ」
もっとも、奪われたままでも、状況はさほど変わらない。
リミッター解除コードは既に入力されており、入江君はさらなる領域へ突き進んでいる。言うなれば発射されたミサイルだ。今になってサイロや発射ボタンを無力化しても、ミサイルは止まらない。
「そうなると、ミサイルが着弾する前に撃ち落とすのが最善だが」
そこまで言って、口の端から笑みが漏れ出る。
あの幼き支配者は止めようとするし、おそらく手立てもあり、実力もある。勝ちを掴み取る能力で言えば、『表』でも指折りの実力者なのは間違いない。
だが、『裏』のやり方は少し違う。『こうすれば勝ち』を狙う前に、『どう転んでも勝ち』を準備しなければ生き残れない。
ゆえに僕としては、入江君が勝っても負けても、正直どちらでも構わないのだ。
「まあ、ゆっくり見届けさせてもらうとするよ。松浦君」
*
学園都市の中枢、第一学区は荒れていた。街の一角の地面に怪獣が暴れたように捲れて、
行政機能が集中する、要は来る用事も無いゆえに、風紀委員以外の学生はほぼおらず、大きな騒ぎになっていないのがせめてもの救いだった。
「(乗っ取り成功——だけど、一瞬遅かった)」
その中心に最も近い場所で、松浦奏が呟いた。
金糸を編んだようなミディアムの金髪と、それを背後で結んだ深紅のリボン。強気につり上がった
風紀委員の副委員長であり、この場の誰よりも背が小さく、誰よりも大きな責任を背負う少女であった。
「リミッター解除の凍結は——不可能、ね。それじゃ、全力の出力で干渉。それと
いつも通り告げながらも、私自身も困惑していた。視界が広がるあまり、壁の向こうまで見えるような気分だ。確かに、これを全能感と錯覚するのも分かる。
しかし、その全能感よりも理不尽な駄々っ子が目の前にいれば、そんな事は言ってられない。
「中・長距離要員は15秒待機。今からこの場にいる全員の
今回、私が木原幻生に仕掛けたのはそれだ。といっても脳波を調律した訳じゃない。脳波は幻生のまま、電気信号の入出力のみを入れ替える『変換器』のようなものを挟み込んだのだ。
しかし、あくまで窮余の策。強引に挟んだ変換器はすぐ対策されるし、再度奪取されるだろう。
その前に、可能な限りの手を打つしかない。
「まもなく——いま」
ピッ、と。腕時計型端末のボタンを押す。
びくりと、周辺の風気委員たちの肩が跳ねた。今この瞬間、彼らの能力は
ひとまず火力の底上げはできた——が、足りない。
次にやるべきは、明菜ちゃんの洗脳解除。
「(問題は、どんな洗脳をされて、どんな状態なのかまるで分からないこと。範囲の指定ができないこと。今回以外のことにまで影響したら、私はともかく
私の策は、所詮は『変換器』。過去に何がどれくらい流れたのか、なんて分からない。
そうなると、時間単位での解除が現実的だろうか。
「次いで洗脳解除を試す。動きが鈍った瞬間、攻撃を開始」
急激に冴え渡る思考に戸惑っていた風気委員たちは、私の号令を合図に、各自で攻撃準備の態勢を取った。
こちらは問題なさそうだ。とはいえ、
「まもなく——いま」
ビタリと、白いシルエットの動きが止まる。
その瞬間、シルエットが爆発した。正確には、指示した通りシルエットへの攻撃が集中し、爆ぜたように見えたのだ。
「観測は省略。攻撃中止の下令まで続行せよ」
了解、と歯切れの良い声が連続し、風紀委員たちは攻撃の手を加速させる。攻撃の余波により、本部の上層階が気持ちいいほどに崩れていく。
彼らは言わずとも分かっているのだ。自分たちの圧倒的劣勢と、極僅かなチャンスがこの瞬間であることを。
彼らはデスクワークだけやっている訳じゃない。苛烈な環境を過ごす中で選び抜かれた、本物の強者たちなのだ。
「——!攻撃中止!対ショック姿勢!」
広がった視野の端に、影のようなものが映る。瞬間、私は叫んだ。
風紀委員たちは好機を前に闘争に酔う——こともなく、即座に手を止め、その場で身を屈める。
直後、覆っていた砂埃がドーム状に膨らんだ。
「(間に合——)」
コンマ数秒以下の刹那、私の視界がブレる。
轟ッ‼︎と、津波のような衝撃波があった。
直後、皮膚を突き破るような爆風が吹き荒れ、シルエットの足場が完全に崩落する。
——しかし、それだけだった。伏せた風紀委員たちは誰一人欠けることなく、各々立ち上がっていく。
「危なかったー」
私も立ち上がり、にゃはは、と笑う。
その視界に映ったのは、スプーンで掬ったように抉れた雲の跡と、根本からへし折れた風紀委員の旗だった。
「怖いなぁ——、と」
ぐらりと脳が揺れて、体が僅かに傾く。
ならば、明菜ちゃんはいよいよ埒外の領域に入ってきた、と判断せざるを得ない。
「(
腕時計型端末を操作しつつ、少しだけボヤく。
この端末だけでは、
それに——
「副委員長!対空警戒探知‼︎」
「——
遠くから響く怒号のような声。反射するように号令を叩きつけると、風紀委員たちは、1つの生き物のように動いて防御姿勢を取った。
時間にして数秒後。ぼたり、と鈍色の水滴が落下した。
「そろそろ来ると思ったよー」
ザァァァアアアッッ‼︎‼︎と。
雨よりも硬くて暴力的な、耳元で太鼓を乱打されたような衝撃が、周辺一帯を支配した。
降ってきたのは、鈍色の金属矢。厳密に言えば液体重金属の雨だった。
「……‼︎」
1つでも直撃すれば致命傷。
そんな暴威を前に、隣にいた
『オォー?今ので1人も倒せないんだ?風紀委員のテッペンって聞いたけど、思いの外やるネェー』
雨という名の破壊の嵐が上がり、どこからともなく聞こえる声。暴威に晒された風紀委員たちは、立ち上がりはしたものの、至るところで負傷者が出ていた。
予想はしていた。これを好機に、『裏』が私を殺そうとするだろう、と。
つまり、先ほど私を強襲してきた暗部——警策看取の再来だった。
「(ま、狙ったんだろうねー。ちょっと厳しいカモ)」
視界の隅で、鈍色の液体がうぞうぞと蠢く。それらはやがて密集して、少女のシルエットを形成していく。
それが1体、2体、3体……20体ほど。
見覚えのある人型。遠隔操作に極めて優れ、殺すことに特化した能力——
「スピーカーを前に」
明菜ちゃん相手だけでも劣勢。そこに『裏』の物理的妨害は、流石に分が悪い。
狙いはまず間違いなく、私の首。『裏』を幾度となく牽制してきた私の排除だ。
「(指揮継承順位は決まってるから、私がいなくても現場は回る……けど解決手段の糸口も、
「副委員長」
「ん、どーしたの」
数秒だけ考えていると、ふと横から声がかかる。
主に私の防衛を担当してくれる正木委員だった。
彼女は数多の軽傷を負い、震える肩で息をしながらも、迷いのない目で私を見ている。
「彼女のことはご心配なさらず。ここは我々に任せて、副委員長は、思う絵を描いてください——あるのでしょう、勝つ手立てが」
その声に、周辺にいた風紀委員たちが振り返る。みんな焦りも恐れもない、良い表情をしていた。
にゃはっ、と笑ってしまった。
そう、これが風紀委員。ここぞという場面で、やたらと頼りになるイカレ集団、その上澄みだ。
お前たちなんかにできっこない、と言われれば、彼らは必ず成し遂げる集団なのだ。
「ん、分かった。それじゃとりあえず——私を連れて逃げ回って」
正木委員は一瞬驚いたようだが、了解と返した。
明菜ちゃんの対応は任せたい……が、警策看取は私がどうにかしよう。
「各員は変わらず、目の前の暴れん坊の対応にかかれ。横からの妨害に留意せよ。……ただし、みんなが望むなら、撤退してもいーよ」
端末越しに、すべての委員にそう告げる。
瞬間、ピクリと彼らの眉が動く。たとえ事実であろうと、こう言われて何も思わない者に、風紀委員の資格はない。
私は口角を釣り上げて、試すようにこう続ける。
「私があなたたちに望むのは、勝利じゃない。『身勝手』だもん」
これもまた事実。本当に必要なのは、勝利ではなく救済だ。目の前の少女を救えるならば、本部ビルなんていくら倒壊してもいい。
では、救済とは何か?
「各員、自分たちの『正解』を優先せよ。身勝手を示し、身勝手で動くことができる人にこそ、その腕章は相応しい——期待してるよー?」
告げた瞬間、破壊に晒された周辺一帯から、雄叫びのような声が上がった。
単純、実に良い。あーだこーだ理屈をつけるより余程好印象だ。やはり風紀委員はこうでなくては。
「ではお連れします。どのように動けば?」
「ひとまず、あの人形たちに捕まらないよう全力で逃げ回って。なるべく広く、高くね」
「了解しました」
待機していた正木委員にお姫様抱っこされて、ひと息で戦場を駆け抜ける。
その僅かな時間で、残った違和感を洗う。
「(さっき洗脳を解除したけど……それはつまり、
その影響がどの程度か分からないが、せいぜい少ないことを祈るとしよう。
それを見届けるためには、いま目の前にある脅威を排除しなければならない。
「でも一応、私が死ぬくらいの想定はしといてねー?」
「……私は副委員長の意思に従うまでです」
ならせめて目を見て言いなよ、と苦笑する。笑うだけでは戦えないが、笑いが消えた戦いというのも危険だ。
余裕があるように振舞っておけば、いずれ成長して、その余裕に見合うようになるだろう。
「(そこまで求めるのは酷、なのかなー)」
そんな思いを胸に押し込めたまま、私は人形から逃げるように戦場を駆け抜けた。
その問いもボヤきも、背後に置き去りにしたままに。
*
「————、え?」
あまりに唐突に、中村涼乃は目を覚ました。
脳を覆っていた洗脳の幕が、糸が切れたように剥がれ落ちる。
ふわふわしていたすべての感覚が元に戻る。音が止まって、呼吸が戻って、視界がぼんやりと世界を認識し始める。
「え?」
目の前に、人が倒れている。
声が漏れたが、感情は乗っていない。そもそも、理解がまったく追いついていない。
「……え?」
倒れていたのは、前原将貴だった。
私と同じ風紀委員で、同僚で、仲間で、誰よりも信頼する少年。
その首に、左右の手が伸びていた。
「…………え」
角度。
位置。
圧力。
体温。
戻ってきた触覚が、徐々に現実を伝えてくる。指先が震えるが、それでも理解は追いつかない。
「……あ」
理解が追いつく前に、思い出した。
特殊警棒を振り抜いて殴打した感触。
怒りでも恐怖でもない、『戻ってきてくれ』という願いだけが籠った瞳。
声にならない謝罪と、伸ばした腕。
「……なん、で?」
それら断片が浮かび上がり、やがて線となり、線が形となって。ようやく私は、自分が何をしていたのか理解した。
ふいに視界が歪む。頬に熱い何かが流れていた。
「……や、やだ」
将貴は何も言わない。手から伝わる呼吸の浅さ、脈の弱さが、反応できない事実を雄弁に語っていた。
首に伸びていた手が、頬を包むように移る。
「やだ、将貴……やだ……」
ボロボロと落ちた涙が落ちて、将貴の頬を濡らした。
不思議なほど穏やかな表情をしている彼は、何も答えてはくれない。
しかし、長年で培った癖はそう簡単に抜けないみたいだ。意識を喪失した人間を前に、私の頭の冷静な部分は、静かに最適解を導き出していた。
「呼吸……頸動脈洞反射……?」
将貴の頬から手を離して、私は一歩離れる。そうして将貴の両足を掴んで、垂直になるように持ち上げた。
将貴の服は学校指定の体操服。つまり首元は始めから緩んでいる。であれば、次は足を高く上げて脳への血流を促すのが有効だ。
「呼吸がまだ浅い。何か、血とか詰まって……」
そう呟いて、すぐに思い出す。
将貴の体内に、弾丸を入れたのは私だ。吐血したのなら、消化器官のどこかが傷付いたのだろう。その血、もしくは弾丸が、気道を閉塞しているのかもしれない。
「私の、せいで……」
また視界が歪んでしまう。それを見ないように目を瞑って、足をぎゅっと抱きしめる。
私の鼓動だけは分かる。憎らしいほどに。
「……ゅ」
一瞬、将貴が話したような気がした。冷静さが一瞬で吹き飛んだ私は、思わず足を離して駆け寄る。
呼吸音は変わらず浅い。先ほどのは無意識の痙攣だろうか。けれど私には、将貴が終ぞ言わなかった『痛い』という訴えに聞こえてならなかった。
「……私のせい、で」
将貴の胸元に顔を埋める。まるで許しを請うように。涙が溢れるたびに、思考が悪い方向に向いてしまう。
今回の件に、関わりにいったのは私だ。
将貴を問い詰めてまで『共に戦う』ことを選び、挑んで、そしてまんまと利用されたのは私だ。
私が、将貴を瀕死に追い込んだのだ。
「……私、なんか」
守ると決めたのに。
一緒に戦うと決めたのに。
1人で傷付くことは許さないと告げたのに。
傷付けていたのは、全部私だった。
「——消えちゃえ」
瞬間。
カンッと。
遠くに小さな金属音が聞こえた。
見ると、それは真っ赤に濡れてはいるが、黄金色の弾丸だった。それがコロコロと転がって、止まった。
「……?」
「ひゅ……」
「——!将貴、将貴!?」
急に聞こえた呼吸音に、思わず叫ぶ。それでも返事はない。
スイッチがもう一度入った私は、すぐに切り替えて考える。前原将貴を助ける最善手を。
意識はない。骨に異常はない。私が圧迫した時間。吐血。そして呼吸の音。これらを合算すると——
「——頸動脈圧迫による脳虚血と、血液による気道の部分閉塞」
脳虚血自体は、血液が脳に戻れば自然と治る——はずだ。しかし、問題は呼吸。
呼吸自体はあるが、気道が血で部分的に塞がっている。要は呼吸が不足して、脳に十分な酸素が行き届いていない状態だ。
そうなると有効な手段は——人工呼吸で酸素を補うこと。
「……なん、で」
将貴の顔の近くに膝をついて、片手で額を押して、もう片手で顎の先を持ち上げる。
人工呼吸は必要なことだ。やり方も、有効性も分かる。将貴が相手なら、抵抗なんてある訳がない。
でも、どうして。
どうして。
「こんなことに……」
悔しさや悲しさを空気と共に吸い込んで、私はひと思いに唇を重ねた。
人生で初めて重ねた唇は、想像していたような甘いものではなく。乾いた血と、少しの涙の味がした。