中村涼乃がどんな人かと聞かれたら、かけがえのない人だと俺は答える。
もらった恩は大きすぎて、一生かけても返せる気がしないほどだ。俺の最優先は涼乃に固定されているし、そのためなら何を犠牲にしても納得する自信がある。
少なくとも前原将貴は、そう思えるくらい、中村涼乃の隣に心地良さを感じていた。
ならば、この状況は何なのだろう。
「………」
「………」
沈黙。
俺の背にのしかかるそれは、少なくとも心地良さは与えてくれない。隣に座る涼乃も同じなのか、目線を下げたまま合わそうともしない。
「……無理に話さなくていいよ。気にしてないし」
「……俺は気にするよ。勘違いされちゃ困るんだ」
「勘違いもなにも無いでしょ」
涼乃は興味無さそうに目線を上げ、淹れてきたコーヒーを口に運んだ。しかし苦かったのか、ほんの少ししか飲めていない。
「(どこまで話せばいい……ていうか隠しようがない。詰んだ)」
1番知られたくない事を、1番知られたくない人に知られてしまった。
そんな思考が沈黙を生み、それに苛立った涼乃が口を開いた。
「……寝ていい?」
「待って。分かった、話すから聞いてくれ」
立ち上がろうとする涼乃の手を、俺は縋るように掴んだ。そんな女々しい行動に、どう誤魔化そうか迷っていた思考も遠くに消える。
「……少し、長くなるけど……それでもいいか?」
「……うん」
……下手でもいい。すべて正直に話そう。嘘をついても涼乃は見抜くし、そもそも涼乃に隠しごとなんてしたくない……なんで浮気裁判みたいになってんだ。
俺達はまだ、そんな関係じゃないのに。
―――
―――――
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―――――――――
7月25日。
学園都市の空は、
「……ふう」
その一室にいる前原将貴は、白いベッドの上で雑誌を読んでいた。その表紙には『宇宙エレベーター【エンデュミオン】完成間近!!』と大きく書かれている。
「エンデュミオンねえ……」
窓の外にそびえ立つ、裾野より青い塔を眺める。雲を軽々と突き刺すそれは、塔というより巨大な矢に近い。
アレの建造が開始して、およそ1年。たったの1年。
それを成し遂げた学園都市のデタラメな技術に、驚きより恐怖を感じる。
「……そろそろ行くか」
デスクに雑誌を放り投げ、俺は上体を起こす。雑誌は低い放物線を描き、デスクギリギリで止まった。
痛みを我慢して起き上がり、点滴棒を片手に廊下へ出る。少し進むと、ソファーにテーブル、自販機だけが置かれた簡単な談話スペースがあった。以前、白井と訪れた場所だ。
「君はまだ安静のはずだけどね?」
「退屈なもので」
自販機の前にいたカエル医が、俺を見て呆れたように呟いた。こうも早く会うのは予想外だが、病み上がりの俺には嬉しい誤算である。
「それで何だい?まさか散歩に来た訳じゃないだろう?」
「『あの子』に会わせてください」
ピピピッと、自販機から小さな電子音が鳴る。カエル医は出来上がったコーヒーを片手に、廊下を進み始めた。
「ついて来なさい」
「……何も聞かないんですね」
「聞いた方がいいかい?」
「いえ、助かります」
内心は割と驚いているが、体調が万全ではないため、反応がどうも素っ気なくなる。そんな俺を気遣ってか、カエル医の歩くペースは少し遅い。
「木山君から話は聞いているかい?」
「……まあ、一応」
従者のようにカエル医の後を歩きながら、右手をちらりと見る。そこに刻まれた爪痕には、1人の女性が残した、小さな『願い事』が宿っていた。
―――
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―――――――――
気持ちが落ち着いたのか、木山先生がゆっくりと口を開いた。
「君は私の過去を見たのだろう?なら、あの『実験』も知ってるんだな?」
「……ええ、まあ」
「……あの実験には続きがあったんだ」
その言葉に、先ほどの記憶がフラッシュバックする。思わず目を逸らしたくなるような、そんな忌々しい実験の記憶だ。
「……続き、とは?」
「言葉通りだ。あの実験は2回行われたのだよ」
「2回?」
あんな非人道的な実験が、2回も行われたと言うのか。そのために、何の罪も無い子供達が、無意味に傷付けられたと言うのか。
「その被験者も
「……?」
「私の生徒は11人いたんだ。最初に10人が倒れ、2回目に残った1人が連れて行かれた」
そう言う木山先生の声は、小刻みに震えていた。そこにどんな感情が宿っているのか、とてもじゃないが推し量れない。
「能力体結晶――『体晶』の完成を確認するには、より強力な能力者を生み出す以外に無い。そのために、あの子は使われたんだ」
「……なら、何で2回に分ける必要があったんですか」
「簡単だ。1回目でより詳細なデータを取り、2回目に繋ぐためだよ」
……なにそれ?
1回目がデータ回収ならば、最初の10人は本当にただの捨て石ではないか。1つの薬物の効果を、より効率的に、確実にするためだけの?
「……ッ!!」
ふざけんな。どうして人の命が、自由が、尊厳が、そんな簡単に弄ばれる。
そんなの、まるで――
「まるでモルモットじゃねぇか……っ!!」
「……そうさ。モルモットも能力者も、彼らの前では、等しく実験材料にすぎないのだよ」
ぎりっ、と奥歯が軋む音がした。どす黒い感情が全身を這い回り、強烈な吐き気に襲われる。右手に爪が食い込むが、痛みは何も感じない。どういう訳か、そこには悔しさすらあった。
「話を戻そう。結果から言うと、2回目の実験は成功した」
「成功、ですか」
「その子は
「………」
「なにか勘違いしているようだが、1回目の子供達も全員生きているぞ。意識は無いがね」
よかった、なんて思わない。前提が悪魔じみた実験なのだから、口が裂けても良いなんて言えない。つらつらと話す木山先生も、頬に一縷の涙が流れている。
「……だが代わりに、あの子は人格を失った」
「人格……?」
「体晶は、能力を強制的に底上げする薬品だ。そして、人間の脳は、その急激な変化に耐えうるほど強くない。ましてや
「………」
「だからこそ、彼女は自分を殺した」
自分を殺す――その言葉に、嫌な記憶を思い出す。俺は首を振って、改めて木山先生を見た。
「その子は今、どこに?」
「
「………」
「……だが、あの子には『帰る場所』が必要だ。しかし私に、その役目は果たせない」
「……まさか」
「そうだ。お願いというのは他でも無い。君に、あの子の『帰る場所』になってほしい」
……意味が分からない。
そんなの、すべてを託すと言ってるようなものじゃないか。ただの
「もう君にしか託せないんだ。だから、頼む……!!」
「……分かりました」
それでも俺の口は、無意識にそう返していた。不思議なことに、言葉を撤回する気も起きない。
「そうか……!!ありがとう……っ!!」
「……何で俺なんですか?」
「君ならできる。そう思ったからだ」
「……いや、答えになってませんよ」
「自分でもそう思うよ」
その子は、今まで散々な目に遭ってきた。
スタートが親に捨てられてからだった。それでも懸命に生きてきたのに、ある日突然、実験動物として利用され、すべてを失った。そして用が済んだら、一方的に捨てられた。
「………………」
……やりたい事はそれだけか?
なら、その後のことは、俺が好きにして問題ないよな?
「(……実験動物だろうが、俺らは生きてる。そこに何の違いもない)」
深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じる。静かに、しかし強く拳を握る。
―――――――
―――――
―――
「……っ」
思考を今に戻すと、俺は見知らぬ場所に立っていた。本当の意味で何も無い、殺風景な廊下だ。細かく区切られたその壁は、病院より研究施設に近いものを感じる。
「あの子の能力は知っているかい?」
「……確か、
「ある意味、君より稀少な能力だよ?」
驚いて、俺は顔を上げた。しかしカエル医の足の速さは変わらない。
俺の
俺と同系統の能力――純粋な『反射』を起こせる能力者は、俺以外には
それ以上に貴重とは、つまり学園都市で――世界で唯一、しかも誰も真似できない能力、ということになる。
「全反射より稀少……?」
「うん。応用性はともかく、単純な攻撃力なら君の反射を凌駕するかもね?」
そして全反射は、
「なら、廊下の造りがやたら頑丈そうなのも……」
「それは違うね?」
「……?」
「こんなのは、彼女の前では紙くず同然だね?造りを頑丈にしたのは、どこかに穴が空いても建物が崩れないようにするためだよ?」
コンコンッと壁を叩きながら、カエル医は確認するように続けた。俺も壁を叩いてみるが、造りが頑丈だ、ということしか分からない。
……これで、耐えるのではなく、穴が空くのが前提?この要塞みたいな建物すら、紙くず同然?どんな攻撃をすればそうなる?
「そんなに驚くことないさ?その気になれば、彼女はダイヤモンドの壁だろうと簡単に破るからね?」
「……そんな子が、なんで
「あまりに不安定だからだよ?」
「……?」
「能力体結晶――体晶によって底上げされた能力は、まだ幼い彼女には強力すぎたんだね?」
つまりどれだけ強力な能力に目覚めても、それを処理できる頭脳が無ければ意味が無い。ソフトはあっても、それを操作するハードの型が違えば使えないように。
ならば、型を無視して、強引に使えば、どうなる?
「ただでさえ幼く、未熟な心が完全に崩壊したんだ。どうなるかは明白だね?」
「……精神があまりにも不安定で、能力の制御が出来ない、ということですか」
カエル医は何も言わず、両開きの扉の前に立ち止まった。そして静かに、ゆっくりと問いかける。まるで、余命宣告をする医者のように。
「彼女はこの部屋にいるけど、本当に入るかい?」
「……入ります」
「彼女の気まぐれで、その命を落とすとしても?」
冗談ではないのだろう。俺は今、怪我の影響で能力がうまく使えない。つまり、今はただの
しかし答えは決まっている。
「入ります」
「覚悟の上だね?」
「はい」
ここまで深く関わっておいて、入らない、なんて選択肢が存在するはずがない。傷付いた少女が目の前にいるなら、それを救うのが風紀委員だ。傷付くのを恐れていては、風紀委員は務まらない。
「なら僕からは何も言えないね?健闘を祈っているよ?」
「ありがとうございます」
「まぁ、僕の城で死人なんか出させないけどね?」
「なら安心ですね」
俺の答えを聞いたカエル医は、どこか呆れたように告げた。幻想御手を渡す木山先生に似た、何かを託すような顔で。
それを合図とするように、堅く閉ざされた扉が、音も無く開いた。俺は深呼吸をして、ゆっくり部屋に入ろうとする。
「――――ッ」
その瞬間、時が止まった。
扉が背後で閉まる音が、遠く離れたことのように聞こえる。小さい部屋のはずなのに、吹き抜けた風は異様なほど冷たい。冷や汗が頬を撫でても、目の前の存在が、それを拭うことを許さなかった。
「―――」
そこにいたのは、1人の少女。
純白の髪を床に垂らし、静かに座るその姿は、1枚の絵画を思わせた。しかし、纏う空気は岩窟の水晶のようで、触れるものすべてを傷付けてしまいそうだ。
「(この子が……)」
これが、この透明な少女と初めての邂逅を果たした時であり――――そして、俺の日常が大きく歪んだ瞬間であった。