――綺麗だ、と。
前原将貴の思考に浮かんだのは、そんなひと言だった。実際、そうとしか思えないほどに、目の前の少女は美しかったのだ。
輝くような純白の髪は、床を撫でるほど長い。澄んだ蜂蜜色の瞳は深すぎて、感情の一切が読み取れなかった。見たこともないほど整った顔立ちは、取り澄ましたような無表情で、職人が丹精込めて作ったビスクドールのようだった。
「―――」
現実から遠く見えるその光景に、俺はしばらく見惚れていた。
意識を取り戻せたのは、入江の首にある黒いチョーカーから、首筋や額に不自然なコードが伸びていることに気付いたからだ。
「(点滴……いや、電極?)」
入江への集中が薄れ、視界が少しだけ広くなる。
そこに広がっていたのは、一面の『白』だ。
床。壁。天井。そのすべてが白い。それらの境界すらも曖昧で、距離感が狂いそうになるほどに。
真ん中にいる入江も、床と同じかそれ以上に白いため、首に巻かれた黒いチョーカーだけが、異物として浮かんで見えたのだ。
「(なんだ、この部屋……?)」
そんな事を考えていると、唐突に黒いチョーカーが動いた。
入江が驚くほど緩慢な動きで、白い箱を手繰り寄せたのだ。その側面には、『地獄のホワイトジグソー』と書かれている。
「……!」
箱詰めされた大量のサイコロ。
乱雑に散らばったトランプ。
放置されたジェンガブロック。
数百ピースのジグソーパズル。
何十冊も積まれたスケッチブック。
見渡してみると、入江の周囲には多くの玩具やゲームが置かれていた。白い少女のあまりにも歪な存在感に、今まで見えていなかったようだ。
「………」
散らばったスケッチブックを手に取り、最初の1ページを捲る。そこには、極めて緻密に描かれた箱庭があった。特徴など何も無いのに、しかしひと目でこの部屋を描いたのだと理解できる。
「すごいな、絵が得意なのか?」
適当な感想を述べ、今度は1番下のスケッチブックを捲ってみる。そこにあったのは、ただ鉛筆を踊らせただけの、絵とも呼べない線の山だった。次のページも、その次も、同じような絵がずっと続いている。
「(いや、これは……)」
絵が得意、という訳じゃない。
何年も、何百枚も、絵を描き続けた結果、望まぬままに、絵の才能が開花しただけだ。
「―――」
「……?」
胸の内に黒い感情が流れ込むなか、パチッと、背後から子気味良い音が聞こえた。見ると、白い少女のすぐ近くに、白いジグソーパズルが大量に散乱している。
入江はその1つを手に取ると、無造作に床に置いた。
「―――」
「……!」
パチッ、パチッ、パチッ、と。
入江が、まったく同じ行動を繰り返し始める。それは時計の針のように規則的で、一切の迷いが無かった。
「(……まさか、記憶してるのか?白いピースの違いと、その配置全てを?)」
パズルの配置も、きっと覚えようとはしなかったのだろう。何回も何百回も、数えることすら嫌になるほど繰り返して、自然と分かるようになっただけだ。
そんな、傍から見たら異様極まりない光景。しかしそれが、入江明菜の日常なのだ。
なぜなら、他に何もできないから。
なぜなら、そのことに疑問すら抱けないから。
「(……そんなの、死んでることと何が違うんだよ)」
不思議と力が入り、拳が震える。意識してその力を抜いて、改めて俺は、白い――透明な少女と向き合った。
「初めまして。
「―――」
パチッ、パチッ、パチッ、と。
ピースが床を叩く音が続く。しかしそれだけで、少女は振り向くどころか、聞く耳すら持たない。俺という存在を認識すらしていないようだ。
「………」
「―――」
パチッ、パチッ、パチッ。
特に理由もなく、俺はピースを1つ手に取った。掌に転がる白いピースは想像以上に小さく、握ると隠れてしまうほどだ。
「(さあ、どう反応する?)」
パチッ、パチッ……。
そのまま待っていると、パズルはあと1ピースで完成するまでに至った。
入江は手を伸ばし、最後のピースを手に取ろうとする――が、そこには何も無い。探しているのか、入江がその首をゆっくりと回して――その瞳に、俺の意識を吸い込んだ。
「――?」
――なんて、綺麗な瞳なのだろう。
深く透き通った蜂蜜色の瞳は、水に濡れた宝石のようで。
小さく揺れるその瞳は、死んでいないだけの少女の、生きているという唯一の証明で。
冷酷にも見えるその瞳は、どこか遠くを見るように儚げで。
俺の決意を固めるには、十分すぎる輝きがあった。
「……入江、明菜」
「――?」
「俺は、お前の味方だ。何があっても絶対に、俺が救ってみせるから」
それは、自分への誓い。
そして、学園都市への宣戦布告。
胸の内に、真っ赤な火柱が立ち昇る。それに身を委ねるように、白い部屋に、一陣の風が通り抜けていった。
*
パンドラの箱、という話がある。
かつて神々が封印した、世界のあらゆる悪を閉じ込めた箱のことだ。
決して開けてはならないとされていたが、人間は好奇心に負け、その箱を開けてしまった。その結果、世界に悪が飛び散った、という話は有名だ。
しかしその箱には、同じだけの希望が入っていた。
ゆえに人々は悪に苦しむたび、希望を抱くようになったのである。
つまり、こう捉えることもできる。
誰かが禁忌の箱を開けなければ、人々は希望を持つこともできなかった、と。
*
太陽が天頂を通り過ぎて、熟れた空気が街を揺らしている。天然の光が病室に差し込み、カエル医の白衣を明るく照らしていた。
「……1つ、質問いいですか」
「うん?何だい?」
「入江を閉じ込めて……ああして
ベッドで上体だけ起こした前原将貴は、そう静かに問いかけた。
外界から完全に隔離された部屋。食事や風呂などの世話は専属のナースがしているらしいが、基本的には1人でいるだけの、まるで鑑賞用の熱帯魚のような日常。
それは『生きている』と言えるのか?
「好きでああしてる訳じゃないよ?僕にそんな趣味は無いからね?」
「じゃあどうして?」
「それが木山君の頼みだからだね?」
……木山先生が、あの体制を望んだのか?
異常と言えるほどの親バカである木山先生が、どうして……というか。
「……先生の願いだからって、どうしてそれを聞き入れるんですか。あんなの、彼女のためにならない」
「それについては同意するけどね?こちらにも色々と事情があるんだよ?」
「事情……?」
俺とは対照的に、カエル医はすらすらと言葉を続けた。こんな説明は何度もしてきた、とでも言うように。
「患者の宗教によっては輸血もダメ、手術もダメ、命を助けても裁判沙汰、なんて事もあるからね?医者にとって最終判断っていうのは、結局は患者の意思によるものなんだよ?」
「……それで、話すことすら出来ない入江の代わりに、保護者である木山先生の望みを聞き入れた、と」
「理解が早くて助かるね?」
……確かに、患者にも選ぶ権利はある。本人の判断が難しいから保護者が判断する、というのも自然なことだろう。
でも、それが正しいと?
過去を否定され、未来への選択肢を奪われ、自分自身すら見失った姿が、正しいと言うのか?
「彼女の首にあるチョーカーを見たかい?」
「……?ああ、あの電極みたいなやつですか?」
「あれは少し特別な電極でね?彼女はあれで外部から演算補助を受けて生活しているのさ?」
「演算補助……」
……そうしなければ、入江は日常生活を送ることもできないのか。ならば絵を描いたり、パズルを解いたりすること自体、奇蹟と言っていいのか……?
「それに、これは彼女のためでもあるんだよ?」
「どこがです?」
「さっきも言ったけど、彼女の能力は君より強力、かつ稀少なものなんだね?」
「………」
入江明菜の能力――
よく分からないが、俺の
そんな才能、周りが放っておくはずがない。
もし世間に露呈すれば、学園都市中の研究機関が彼女を狙うに違いない。木山先生はそれを危惧して、今の管理体制を望んだ、ということだろうか。
「反物質を知っているかい?」
「はんぶっしつ?」
カエル医が唐突に、何かを言った。俺は思わず復唱するが、それで察したのか、カエル医は返事を待たず、さらに言葉を続けた。
「簡単に言えば『通常とは正反対の電荷を持つ物質』、『地球には存在しえない物質』のことだよ?」
「は?」
「特徴として、反物質と普通の物質がぶつかると、
「え?ちょ、ちょっと待ってください」
手でカエル医を遮り、何とか時間を確保する。しかし、いくら考えても理解などできやしなかった。
「えーと……つまり?」
「1グラムで街を吹き飛ばす物質、と言えば分かるかな?」
「いえ、全く」
まったく分からないが、無理もないと思う。
1円玉で街が吹き飛ぶ物があります、と急に言われて即座に理解できるほど、俺の頭は聡明じゃない。
「何にせよ、世の中にはそういう物質が存在するんだよ?それを意図的に創れるのが彼女の能力、ということだね?」
……何だそれは?
街を更地に変える?そんなの
無論、科学利用の可能性も。
「……本当の狙いは入江ではなく、能力によって生まれる物質にあって」
「それを危惧した木山君が、彼女を守るために隠すように願い出た、という訳だね?」
1つの薬物を完成させるために、11人もの子供を切り捨てた学園都市。
そんなイカれた街に、あの白い少女を渡す訳にはいかない。最悪、能力を生み出すだけの『呼吸する肉塊』になる可能性だって否定できない。
なるほど。本当の意味で彼女の事を思えば、現状を維持するのが『最善』かもしれない。
でも、それは『最高』だろうか?
「……それでもダメですよ、あんなの」
それは、主張というより願望に近い、幼稚で無意味な考えだろう。テレビを見て『戦争はいけない』と言うような、何の実行力も無い言葉でしかない。
だが、決して間違ってはいないはずだ。
「望んでもないのにあんなにされて、そのまま『過ごす』だけの人生を、正しいとは俺は思いたくない」
「いずれにせよ、彼女を取り巻く環境はそういったものなんだよ?分かってくれとは言わないが、理解はしてくれたかい?」
少し経って、パタンと扉が閉まる音が聞こえた。用は済んだのか、カエル医が退室したのだろう。
冷たく重い沈黙を、この病室に残したまま。
「………………」
入江明菜を取り巻くロクでもない環境は、正しくは無いが、間違ってもいない。これ以上の悲劇を防ぐためにも、下手に干渉すべきではないかもしれない。
……それでも俺は、彼女を救いたい。救いたいと、本気で思っている。
なにより、脳裏から消えないのだ。信じられないほど鮮やかに澄んでいた、あの蜂蜜色の瞳が。
「………」
ゆっくりと拳を開き、閉じる。俺はその拳を額に当てて、白い少女の事を思い出した。
あの白髪。
とても綺麗な白だった。手をつけていないキャンパスのような、汚れ1つ無い純粋な白だった。
「………」
「………」
髪が白くなる理由はいくつかある。
まず染髪料や加齢があるが、これは論外だ。入江はまだ13歳らしく、俺の2つ年下だ。それに、髪を染めようなんて発想自体浮かぶはずがない。
次に考えられるのが、何らかの病気だ。
髪が白くなる症状で、1番有名なのはアルビノだろうが、これも違う。アルビノ患者は、血の色である赤い瞳をしているが、入江は澄んだ蜂蜜色だった。加えて、カエル医もそんな説明はしていない。
最後に、自律神経の乱れによる脱色だ。
過度のストレスを受ければ、人の髪は白くなる。消去法で考えても、入江のは恐らくこれだろう。
だが――どれだけのストレスを受ければ、あそこまで白くなる?どれだけの間、どれだけ苦しめば、腰まで伸びた髪の全てが、毛先1ミリまで残らず白くなるのだ?
「…………クソが」
幼い少女を襲った悲劇に、目眩がするような憎悪が生まれる。強すぎる憤りは冷静さを呼び戻し、逆に視界を広げていった。
それはやがて脳へと伝播し、臨界に達した思考を強制的に冷ましていく。
「(……違う。もっと簡単に、彼女は……入江明菜が、何をしたと言うんだ)」
親に捨てられ、友を失い、思い出すら否定され、未来まで奪われるような事を、したのか?
「……救い出してみせる。必ず」
この日、新たな目標が生まれた。
この誓いが分岐点となるのは、まだ遠い先の話。