『己の信念に従い正しいと感じた行動をとるべし』
加入に際して教えられた、
なぜなら、この言葉を都合良く解釈すれば、『信念に従う行動であれば多少は目を瞑る』、ともとれるためである。
「………」
黒を基調とした制服を着た前原将貴は、灰色の殺風景な廊下を1人歩いていた。
複雑に入り組んだ廊下を進み、明菜の部屋へと向かう。その手には、大きめの袋が握られていた。
「(えーっと……あっちか)」
8月5日、盛夏祭当日。
病院は既に退院したため、外出に際して問題は無い。監視カメラが無機質にこちらを見ているが、それも大して気にならない。
「(覚えるの大変だったな……)」
そのまま2〜3分歩いていると、ようやく見慣れた壁のに辿り着いた。扉は壁と同化するようにカモフラージュされており、初見では分からないだろう。
壁にある灰色のカバーを外すと、壁に埋め込まれた電子盤が出てきた。パスワードと指紋照合を同時に行うだけの、学園都市では少し古いものだ。
「(うし、始めるか)」
右の人差し指にシールを貼り、深呼吸する。
結論から言えば、明菜の外出許可は取れなかった。だが、盛夏祭には行くと約束した。
ならばどうするか――そうだ、無許可で連れ出そう。
「(フツーにアウトだけどな……)」
居心地悪そうに顔を歪め、俺は心底そう思った。
そもそも、風紀委員の備品を無断で拝借している時点でグレーだ。指先の指紋シールもそうだし、今も懐に忍ばせている、監視カメラを無力化する電波妨害装置もそうだ。
先日支部に行った時に持ち出したのだが、バレたら始末書で済むかどうか、というレベルである。
「(まぁ後で考えよう。121749121015781……)」
ナースさんと同じく20数桁の数字を打ち込み、解除のボタンを押す。すると音もなく扉が開かれ、壁から白い部屋が現れた。
パスコードに法則性が無かったため、ナースさんが打つのを盗み見て覚えるのは苦労したものだ。
「侵入成功――おはよう、明菜」
「―――」
やってきた達成感と罪悪感を無視し、俺は白い部屋に溶け込む、白皙の少女に声をかけた。
明菜は部屋の真ん中でうつ伏せで転がっており、小さな手でドミノを並べていた。部屋の何割かを規則正しく埋めるドミノの列は、並の集中力では成し得ないだろう。
「明菜。ドミノで遊ぶのもいいが、今日は外に出ないか?」
「―――」
ドミノを並べる手は止まらない。等間隔に並べられたそれは防壁のようで、踏み込むことに躊躇を覚えた。
しかし、覚悟ひとつでそれが突破できることを、俺は既に知っている。
「明菜。外に、出よう」
「―――」
「………」
「――?」
俺は近くに座り、明菜が取ろうとしたドミノを横から摘んだ。すると明菜は、油が流れるような緩慢な動きで、じっとこちらを見つめてきた。
やはり、その蜂蜜色の瞳は深い。深すぎて、感情の一切を読み取れないほどに。
しかし俺は、それが綺麗だと思った。
「(こんなに純粋な目を見たのは、この街に来てから初めてだ)」
「――?」
「ああ、ごめん。明菜。外に出るから、とりあえずこの服に…………ん?」
持っていた袋から、泡浮に借りた服を取り出そうとして、止まった。ある重大な事実に、今になってようやく気付いたのだ。
「(……この服を、明菜はどう着るんだ?誰が着せるんだ?)」
明菜は……無理だ。そもそも『着替え』という概念を理解できていない。
ナースさんは……無理だ。無許可で連れ出すことがバレては元の子もない。
泡浮は……無理だ。これ以上明菜に関わらせると、泡浮にまで危険が及ぶかもしれない。
涼乃は……却下。
と、いうことは。
「…………マジで?」
「――?」
「うそでしょ……」
俺は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。明菜が不思議そうに眺めているが、それが見えないほどに、俺は絶望していた。
「明菜にこの服を着せれるのは、俺以外いない……」
もはや見慣れた姿だが、明菜の普段着は、簡素な下着と薄い病衣だけだ。もちろん天下の常盤台に、そんな寝間着のような格好で行けるはずもない。
そして諸々の事情により、本人含めお願いできる女性もいない。
よって俺は、善悪も分からない純真無垢な少女の服を剥ぎ取り、別の服を着せねばならないのである。
「(やばい、やばいぞこれは。罪悪感、なんてものじゃない。俺の中の大切な何かが砕け散る)」
「――?」
「(待て待て待て落ち着け俺。いやムリ。死ぬ。帰りたい。帰らんけど)」
「―――」
2分ほど頭を抱えた俺は、やがて特大の溜息をして、諦めたように遠くを見た。
白い壁と白い天井の境界が、ひどく朧気だった。
「―――」
「………」
「―――」
「………」
「――?」
「………」
そのままの体勢で、悩んで、悩んで、悩んで。
さらに数分悩んでようやく、俺は小さく呟いた。
「……憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる*1」
〜〜〜
「――?」
「………」
十数分後、音の消えた白い部屋には、とんでもない美少女が立っていた。
真っ白なワンピースに、主張しすぎないライトブルーのカーディガン。雲の上を歩けそうな白い靴と、ふわふわしたラフィアのつば広帽子。
そして、そのすべてを従える純白の髪と、深く澄んだ蜂蜜色の瞳。首に巻かれた黒いチョーカーに違和感はあるものの、誤差の範囲だった。
「(じ、次元が違う……)」
あまりに隔絶した存在を前にすると、人は感情よりも冷や汗が先に出るらしい。
美琴や涼乃も、整った顔立ちはしている。だが、これはそんなレベルじゃない。物語から飛び出してきた、と言われた方がまだ納得できる。
「……すげぇ可愛いよ、明菜」
「―――」
「……うん、ごめん。早く準備するから」
数分前の柔肌を忘れるように、俺は持ってきた別の袋を開けた。そこに入っているのは、対監視カメラ用のぬいぐるみである。
それに明菜が着ていた病衣を着せて寝転がせ、俺は改めて明菜と向き合った。
「行こうか」
「―――」
ガタガタと揺れる精神に気合いを入れ直し、迷路を案内するために、俺は明菜の手を取った。
あ、めっちゃ柔らかい。もっちもちだ。
「(……ええい落ち着け、ここが最後の分水嶺なんだぞ)」
「―――」
「……明菜」
「―――」
「俺は、お前の味方でいたい。一緒に、戦わせてくれ」
目を閉じて、先日の誓いをもう一度立てる。
すっと目を開くと、俺は明菜の膝裏と肩に手を伸ばして、ひと息に引っ張った。すると、軸を失った明菜の身体が重力に負けて、抵抗も無く俺の腕の中に収まった。
要するに、お姫様抱っこである。
別に俺の趣味ではない。明菜の体力と時間を心配しただけだ。ほんとだよ?
「―――」
「(――軽い)」
――こんな小さな身体で、明菜はどれだけの地獄を見てきたのだろう。どれだけの悲劇を刻まれてきたのだろう。
明菜は逃げることも、泣くこともできないのに。
「………」
「――?」
「……ごめん、何でもない」
腕に少しだけ力を込めて、改めて前を向いた。俺は自分の意志で踏み出して、そのまま鎖された部屋を飛び出した。
この部屋に、幸せな世界は無い。
部屋の外にも、幸せなだけの世界など無い。学園都市の闇に巻き込まれ、1人では抱えきれないほどの悲劇が降り掛かるかもしれない。
ならば、俺がそのすべてを振り払おう。どんな茨の道だろうと、すべてを焼き尽くしてやる。
この子を救うことは、俺の『正解』だから。
「明菜――これから、よろしくね」
「―――」
俺と明菜が出ていくと、やがて音も無く扉が閉まった。
再び鎖された白い部屋で、綺麗に並べられたドミノが倒れていくのを見届けた者は、誰もいない。
*
黒い少年が白い少女を連れ出した、まさに同時刻。
とある総合病院の一室で、カエル医と入江明菜専属のナースはどこか楽しそうに話をしていた。
「彼は本当に困った子だね?」
「その割には先生、嬉しそうじゃないですか?」
「そう見えるかい?」
「ええ。なんだか、息子の成長を見守るお父さんみたいですよ?」
ここは院内の監視カメラを統括するモニタールームだ。
目の前にはモニターがいくつも並んでいるが、何故か所々に黒くなったものがある。こちらから電源を切った訳ではないため、局地的な電波妨害が発生しているようだ。
「前原君も凄いですよね。まさか本当に連れ出しちゃうなんて」
「色々とギリギリな気もするけどね?」
「ていうか普通にアウトですよ」
この病院から明菜ちゃんを連れ出すには、乗り越えなければならない関門がいくつもある。どれもただの学生が突破できるものではないが、それでも彼はその警備網を突破し、明菜ちゃんを外まで連れ出した。
「それにしても、こういうのって何かこう、良いですよね。恋愛ドラマみたいで」
「だとしたら、中村君との衝突は避けられないけどね?」
「あ、あの子ってやっぱりそうなんですか。前原君も罪な男ですねぇ」
私は堪えきれずに、くつくつと笑ってしまう。
彼は本当に大したもの……いや、最早おかしいのではなかろうか。
表に一切出ない言葉と感情。
人を寄せ付けない、歪に隔絶した雰囲気。
不安定だが埒外の能力。
その背後に潜む、学園都市の底知れぬ闇。
そのすべてを相手取ろうなど、それはもう無茶ではなく無謀だ。仮に私が
それをあっさり決意するのは、感性が狂ってるとしか思えない。
しかし、だからこそかもしれない。
どこか歪んでいるからこそ、今までとは違う種類の人間だからこそ、木山さんは明菜ちゃんを託したのかもしれない。器用なだけでは彼女は救えないのだ。
「先生も人が悪いですね」
「?」
「だって先生も、前原君を試してるじゃないですか。こうして警備網も緩めてる訳ですし」
そもそも、前原君が明菜ちゃんに会えている時点でおかしい。
いくら木山さんから託されたとはいえ、
そんな少女を本気で隠したいのなら、前原君を会わせなどしないし、潜入などもってのほかだ。
不自然な点は他にもある。
明菜ちゃんの部屋への警備が、指紋認証やパスコード、監視カメラという、
以前は指先の微振動パターンや虹彩認証、さらに対侵入者用トラップがあったのだが、それが前原君が来た日から、突然停止したのだ。
偶然にしては出来すぎた話である。
「さぁ。何のことかな?」
「ふふっ。そういう事にしておきます」
「なんにせよ、木山君が託したのは彼で、その彼が選んだことなんだ。僕達からは何も言えないね?」
結局、先生もこうなることを期待していたのだ。
1人の患者を光の世界に戻すために、リスクを承知で闇に飛び込む彼に、託したかったのだ。
彼女の状況を、街の特性を理解したうえで、それでも拳を握れる者に。
間違ったものを間違っているとはっきり言えて、何度失敗しても諦めない、子供のような強さを持つ者に。
「そうですね」
「そうだよ?」
その強さをすっかり忘れてしまった大人達は、持つ者に託すしかないのだ。
それはもう、呆れたように笑いながら。