「……すっげぇ」
「―――」
利用していたタクシーから降りると、そこには荘厳な建物があった。地中海沿岸のような街並みには少し合わないが、それを捩じ伏せる威厳を醸し出している。都会の中に世界遺産の城が聳え立っているようなものだろうか。
観光名所になってもおかしくなさそうだが、周囲の雰囲気のせいか、人目に触れることは少なそうだ。
「お待ちしておりました。前原様」
「おはよう、泡浮」
「―――」
招待状を査証してもらい中に入り、入口近くに1人いた少女──泡浮万彬に声をかける。
両手を前で合わせて佇む彼女は、相変わらずお淑やかな雰囲気を全身から滲ませていた。
「ん?1人なのか?」
「そうですの。申し訳ございません、着付けに手間取っているようでして……」
「着付けって、また気合い入れてんだな」
「ええ、随分と楽しみにしておられましたので。それで、こちらの方が……?」
「ああ、この子は入江明菜。喋るのは少し苦手だが、仲良くしてやってくれ」
「―――」
「泡浮万彬と申します。入江様、今日はよろしくお願い致します」
明菜は何も言わない。話を聞いているのかも分からないし、何を見ているかも定かではない。
しかし流石と言おうか、泡浮は気分を害することなく、穏やかに微笑んで会釈した。
「では早速ご案内致しますの」
「ああ、頼むよ。それじゃ行こうか」
「―――」
もう一度明菜の手を取り、豪奢な造りの寮へと入っていく。明菜も何の抵抗も無く、曳航される
さぁ、天下の常盤台中学。
明菜を存分に楽しませたまえ。
「泡浮。そろそろ休みたいんだが、どっか休める場所ねーか?」
「あら、お疲れですか?でしたら……あ、あちらへどうぞ」
「すまんね」
「―――」
そのまま2時間ほど寮を見た後、俺は前を歩いていた泡浮にそう切り出した。横を歩く明菜は変わらず無表情だが、その呼吸は僅かに早い。
あの狭い部屋に長くいた明菜が、ここまで動いたのは久しぶりなのだろう。
「どうぞこちらへ」
「ここは……何だ?」
「紅茶を提供する場所ですの。飲んでいかれますか?」
「そーだな。せっかくだし貰うよ」
あれから俺ら3人は、絵画や生け花、ステッチやシュガークラフトなど、様々な作品を見て回った。
しかし、明菜はそれらに一切興味を示さず、澄みすぎた瞳で一瞥するだけだった。少しでも興味を示してくれれば僥倖だったが、それは淡い期待だったらしい。
「こちらへどうぞ」
「サンキュー」
「―――」
泡浮に促され、洒落た喫茶店のようなスペースに向かう。そこにはマホガニーの机と椅子のセットがいくつか並べられていた。
窓に掛けられたビロードのカーテンには陽光が優しく差し、木目調の机にはつるりとした陶製のケーキスタンドが置かれている。
「(さすが常盤台、金持ってんなー)」
「―――」
「さ、明菜、ここに座って」
俺は窓際にあった椅子を引き、明菜に座るよう促す。明菜もそれに従い、精巧な装飾が施された椅子に腰をかけた。
「―――」
「――な、っ……」
「まぁ……」
――その瞬間、世界は明菜に支配された。
深窓の令嬢、と言えばそれまでだが、しかし俺にはそう言うのが精一杯だ。この明菜の美しさ全てを表現できる言葉など、俺は知らない。
「……素敵な方ですね」
「……ああ、ホントだな」
正真正銘のお嬢様である泡浮でさえ、明菜の雰囲気に圧倒されている。息を呑む声がいたる所から聞こえるが、それでも明菜から視線を外すことは出来なかった。
「(注目されるのは避けたいんだが……これじゃ無理だ。他んトコに移動するか……?)」
「よろしければどうぞ」
「ん?ああ、ありがとう」
思考を巡らしながら、近くにいた金髪のメイドさんから紅茶を受け取る。琥珀色の液体はティーカップの中で幾重もの層を生み出し、香り高いうえに見た目も美しかった。
メイドさんに紅茶を淹れてもらうとは、何だか自分が偉くなった気分だ。
「(……美味い。普通に金取れるな)」
「―――」
「あ、明菜。そのレモンは食べるモンじゃなくてだな……」
「――?」
「貴方が前原さんでよろしくて?」
「あん?」
紅茶用のレモンを頬張る明菜を注意していると、今度は後ろから別の声が掛けられる。
面倒くさそうにそちらを向くと、おでこを出した気の強そうな黒髪の少女が立っていた。
「初めまして。わたくし、常盤台屈指の
「お、おう」
「貴方がどうしてもと言うのであれば、わたくしとお友達なってあげてもよろしくてよ?」
「………」
畳み掛けるような言葉の雨に、思わず何とも言えない微妙な表情になる。
何と言うか、この子も典型的なお嬢様だ。
泡浮が『木陰の下で白いワンピースとつば広帽子を被り、小鳥に本を読み聞かせるお姫様』だとすれば、この子は『豪奢な宮殿でドレスを纏い、優雅に紅茶を嗜む令嬢』と言えるだろう。
「……あー、おう。よろしく」
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
まぁ悪意は無いだろうと納得していると、今度はその隣にいた、栗色のウェーブのかかったセミショートの少女が声をかけてきた。
恐らく、泡浮が言っていた『お友達』はこの2人のことだろう。
「2人とも初めまして。瀬川高校1年の前原将貴です」
「は、初めまして。常盤台中学1年、
「よろしく。湾内さん、婚后さん」
「よろしくお願いしますの」
男と話すことに慣れていないのか、仄かに頬を染めながら少女……湾内さんは会釈した。
さすが泡浮の友人と言おうか、とても穏やかそうな子である。なんというか、本能がそう告げている。
「前原様は瀬川高校の方なのですか?」
「まーね。推薦だから何とも言えんけど」
「瀬川高校はとても素晴らしい所と伺いましたの。わたくしも、可能ならそちらへ進学しようと思っておりますわ」
「そりゃ嬉しいね。歓迎するよ」
「湾内さん。前原様は
「まあ。すごいですね」
「ははっ、よせやい」
対面に座るこの2人と話すと、何故かこちらも穏やかな気分になる。朱に染まれば赤くなるというか、滲み出るオーラに影響されたのだろうか。
ちなみに婚后さんはメイドでもあったため、他の席で給仕を行っている。ご苦労なことだ。
「おー、そこにいるのは前原かー?」
「ん?」
「ふむ。お嬢様を2人も侍らすとはやるではないか」
「って、舞夏?何してんの?」
「この料理はうちのだからなー」
声に振り返ると、そこには料理を運ぶメイドさんが立っていた。隣人である元春の寵愛を一心に受ける少女、土御門舞夏だ。
あの兄にこの妹ありで、年にそぐわないドロドロした漫画やアニメを好む少女である。
「ふむ。おねーちゃんを切り捨ててお嬢様ハーレムを取るのか。今後が楽しみだなー」
「んな訳ねーだろ。こいつらに変な事吹き込んでんじゃねーよ」
「吹き込まれて嫌なぐらいの関係ではあると」
「はっ倒されたいのか」
メイドと悪態を吐き合うという、なんとも奇妙な図が出来上がる。
というか、涼乃のこと『おねーちゃん』って呼ぶの止めろって前から言ってるだろ。たまに俺や当麻のことも『おにーちゃん』って呼ぶけどね。
「そう言えば、さっき上条を見たぞ。男同士で一緒に回ってやってはどーだー?」
「生憎、俺は明菜と用事があるんでね。遠慮しとくよ」
「……ッ!?……こ、こりゃまた凄い子を連れてるなー。どこで引っかけたんだー?」
「俺は女誑しかコラ」
「あまり否定できないと思うけどなー」
そこは否定してほしかったなー。
いや、美少女を3人連れてる奴が言える台詞ではないけどね。涼乃に知られたくないんでね。
「前原様」
「ん?ああ、悪い。友人の妹なんだよ」
「いえ、そちらではなく、入江様が……」
「え?」
何かあったのかと思い、急いで振り返ってみて。
――そして、その体勢のまま固まった。
「――……」
「………」
「………」
「………」
「………」
「………」
窓辺で微睡むその姿は、人間というより人形に近かった。この豪奢な寮そのものが、まるで明菜1人のためにあるような錯覚すら覚える。
『静』と『動』の両面を持ち、それに引き裂かれた少女には、ともすれば異様とも言える美貌があった。
「なんて麗しい方なのでしょう……」
「……本当、すごい子を捕まえたなー。兄貴にも見習ってほしいものだ」
「………」
俺は逃げるように目線を外し、ポケットにあったケータイを見る。時刻は昼過ぎで、既に3時間以上が経過しているのが伺えた。
……そろそろ帰るか。明菜の体力はもう無くなるだろう。寮祭も一通り回ったし、外界との不必要な接触はなるべく避けたい。
「すまん、もうそろそろお暇するわ」
「あら、もうですか?お食事の準備もできていますが」
「悪い、この後ちょっと用があるんだ」
軽く2人に謝り、うたた寝をしている明菜を背負う。そのせいで周りの視線が集中するが、今更そんな事は気にしない。そんな事より、明菜の華奢な体をどう労るかを気にしてしまう。
「……っと。そんじゃ、短い間だったけど、ありがとな。楽しかったよ」
「――……」
「いえ、わたくし達も貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました」
「ええ、機会があればまたお越しくださいませ」
「おう。またな」
給仕をしていた婚后さんにも別れを告げ、俺は静かに寮を後にする。その背中には、無防備に眠る白髪の少女が1人。
「楽しかったか?」
「――……」
「そっか」
本当の意味で明菜のためになる事なんて、俺は知らない。俺もカエル医も木山先生も、そして明菜自身も、きっと分かってなんかいない。
だから、いくら考えても無駄なのだ。
それでも、いつかそれが分かるまで――いや、それが分かった後も。
「(俺は、ずっとお前の味方だからな)」
「――……」
新たな決意を固めて、ゆっくりと、そして大きな1歩を踏み出した。そこに躊躇や後悔など存在しない。
そうして、そのまま玄関を出ようとした時。
「あっ」
「えっ」
1番会いたくて、1番会いたくない人と鉢合わせたのは別の話。
―――――――――
―――――――
―――――
―――
「………」
「………」
話が終わって、既に数分が経過した。
しかし、俺の隣に座る少女――中村涼乃は何も言わない。聞いた情報を整理しているのか、別の事を考えているのか、俺には分からない。
涼乃の顔は下の方を向いており、薄茶色の髪は目にかかっていた。
「………」
「……それで」
「?」
「それで将貴は、私に何て言ってほしいの?」
小さな声で聞こえてきたのは、そんな言葉だった。俺は真意が理解できず、思った事をそのまま口にするしかない。
「別に、何も。無責任だと思えばそう言えばいい」
「………」
「………」
そして再び、静寂の帳が下ろされる。しかし今度のそれは、先ほどのように居心地の悪いものではなかった。
「……ご飯、食べる?」
「え?」
「オムライス。冷蔵庫にもう1個あるけど、食べる?」
「……あ、ああ。食べる」
「そう」
涼乃はそう吐き捨て、冷蔵庫から取り出したオムライスをレンジでチンした。それをソファー前のデスクに置き、何故か俺のすぐ隣に座る。近い。
「それ食べたら行こっか」
「え?ど、どこに?」
「明菜ちゃんの部屋」
「いや、この時間はさすがに……」
「いいから。行こ?」
おぉう。涼乃さんや、何か見えない圧みたいなのが出てますよ。抑えて抑えて。
……だが、正直こうなるのは予想通りだ。
多分、今の涼乃は止めても止まらないし、涼乃の望みは俺の望みだ。ならば従うのが当然であり、むしろ何よりも優先されるまである。
「……お疲れさま」
「……別に、疲れてないよ」
「それでも、お疲れさま」
「……おう」
そして、その夜。
「初めまして、明菜ちゃん。中村涼乃です」
「―――」
「よろしくね」
白い少女と、とある風紀委員が邂逅を果たした。
どんな厳重な警備網も
「………」
「………」
「―――」
互いに見つめ合ったまま、部屋の時が止まる。深くて静かな明菜の瞳は、俺と涼乃をどちらも見ているようで、しかしどちらも見ていない。
この邂逅は、本来あるべきではないのだろう。
俺達は才能も境遇も全てが違う。本来なら会うことなどありえなかったはずだ。
しかし今、3人はこうして顔を合わせている。
理由はただ1つ、入江明菜を救うために。
「……私も」
「―――」
「私も、あなたの味方だからね」
「――?」
涼乃が膝をつき、静かに明菜を抱き締めた。ゆっくりと、力強く、決して離さぬように。
俺達が明菜に出来る事など、多分ほとんど無いのだろう。それはきっと、朽ち果てた草木に水を注ぐように、自身が善と感じているだけの、無意味で滑稽な事かもしれない。
そりゃそうだ。急に知らない人が来てじっと自分を見てるなど、俺からしても気味が悪い。
「―――」
「(……それでも)」
それでも俺は、自分の意志を曲げたくない。
中村涼乃が信じるものを、俺も信じたい。
前原将貴の『正義』を貫きたい。
「………」
「………」
「―――」
どこからか風が吹き、3人の髪を揺らす。
それは夏にしてはやけに冷たくて、部屋の外では小さな星たちが夜空にそっと寄り添っていた。