第3話
「……ん」
目を覚ますと、そこは知らない天井だった。窓からは夏らしい強い日差しが射し込み、空を見なくとも、今日は良い天気だと分かる。
「……ん?」
起き上がろうとして、前原将貴は違和感に気付いた。
なんか、狭い。あと生温かい。
もちろん、ソファーベッドが狭いのは分かるし、夏だから暑いのも当然だが、そうじゃない。
「……?」
目を擦ろうとして、何かに当たった。柔らかくて温かくて、なんか良い匂いのする『何か』。
俺は嫌な予感がして、自身を覆うタオルケットをそっと捲ってみる。
そこには、寝息をたてる中村涼乃がいた。
「………………」
深呼吸して、改めて見てみる。
やっぱり、寝息をたてる中村涼乃がいた。肩にかかる薄茶色の髪に、女の子らしい長いまつ毛。健康的に薄く照っている唇に、そこから漏れる甘い吐息。そして、女性らしさの象徴とも言える、2つの膨らんだミカン。その感触が、夢じゃないと脳をビンタしてくる。
「(……3.141592653589)」
「んっ……」
「ん゙ん゙っ」
何とか落ち着こうとして、涼乃の寝言がそれを邪魔する。豊満なミカンの感触に、身体中の血管が浮かび上がる。
「……あの、えっと、涼乃?」
「すー……」
「その……あっちょっ、起きて?頼むから起きて!」
「うるさい……」
「そぉいっ!!」
「あうっ」
下半身の特定箇所に血が集中していることに気付いた俺は、下半身を強引に捻り、ソファーから転げ落ちるようにして脱出した。全身に鈍い衝撃が走るが、涼乃に失望されるよりは何百倍もマシである。
「んー……どしたの……?」
「……なんでもない。おはよう、涼乃」
「……おはよ、将貴」
何とか平静になろうとして、生返事をする。
朝イチで俺を見ても何も驚かないあたり、涼乃がソファーに潜り込んだのは確信犯のようだ。俺としては全然良いが、男としての生理現象は仕方ない。
「どしたの?なにかあった?」
「別に」
「でも……」
「別に」
ふぁ〜、と。涼乃は欠伸をしながら、猫のように伸びをした。まだ思考が覚め切ってないのか、涼乃は特に言及もなく起き上がる。
チラリと、パジャマの隙間から、涼乃の白いお腹が見えた。そのせいで、血の集中がよけいにひどくなる。狙ってんのか。
「……じゃ、朝ごはん作るね」
「何か手伝おうか?」
「だいじょーぶ……もう少し寝てていいから……」
涼乃が目元を擦り、いつもの白い髪留めを片手に、心底眠そうに洗面所へ向かった。
「(あれで素なんだよなぁ……)」
床に落ちたタオルケットを畳みながら、朝から大きな溜息をついた。
昨晩からそうだが、涼乃は無防備にも程がある。信頼してくれるのは本当に嬉しいが、朝から同じベッドは普通にヤバい。
「これからどうなるんだ、俺……」
もう一度溜息をつき、俺は適当にストレッチを始めた。血流を全身に回復させると共に、自制心を取り戻していく。
……逆にそうでもしないと、涼乃のことを後ろから抱き締めそうになる。俺の理性がこんなにも弱いことに、ガッカリせずにはいられない。
〜〜〜
「できたよー」
「あーい」
ストレッチを切り上げ、足早にリビングに向かう。そこでは、狐色に焦げついたトーストとスクランブルエッグ、アイスミルクにヨーグルトと、定番の朝食メニューが俺を出迎えた。
「いただきます」
「はいどーぞ」
「……で、何でソファーにいたの?」
「んー?」
トーストを千切りながら、改めて当然の疑問を口にする。しかし涼乃は考えるそぶりすらせず、ジャムを塗る手を止めようともしない。
「ちょっと喉が乾いて、お茶を飲みに行ってね」
「うん」
「ソファーの方を見たらベッドがあったから」
「うん」
「そのまま寝ちゃったのかな」
「なんでだよ」
ベッドとソファーを間違えるなんて、そんなはずあるか。過労寸前のサラリーマンみたいに、普段からソファーを寝床にしていた訳でもあるまいし。
「その、ごめんね?部屋が薄暗くて、ちょっと怖くてさ。つい、ね?」
「……そう、か」
「それより、今日はどうするの?仕事は?」
「いや、今日は休む。確認したい事あるしな」
昨晩、家の惨状を固法先輩に報告したところ、『明日からは休みなさい』とその場で暇を出された。
まあ、あの様子を見たうえで仕事を優先させる輩は、そうはいないだろう。もしいたら、そいつはブラックの化身である。
「んー……じゃ、私も休もうかな」
「え、何で?」
「私も見ときたいし、ちょっと用もあるからね」
「……まぁ、俺はいいけど」
口調から察するに、涼乃も俺の寮を見に来るつもりなのだろう。俺は構わないが、後でなに言われるか分からんぞ。特に
「なら、これ食ったら一緒に行こうか」
「うん。あ、そのスプーン取って」
「これ?」
「そうそれ」
考えるのも程々に、俺は涼乃との至福の朝食を過ごした。その朝はいつもより時間がかかったが、それには気付かなかった。
〜〜〜
「エライことになってんな」
「実際見るとすごいね。戦争でも起きたみたい」
朝日が昇った第七学区。学校の制服に着替えた俺と涼乃は、俺の家だった学生寮に来ていた。
寮の見た目は安っぽくて、涼乃の住む寮と比べたら格段に見劣りする。セキュリティも遥かに甘く、その気になれば誰でも侵入できるだろう。
しかし、それ以上に悲惨なのが7階──つまり俺や元春、当麻たちが住むフロアだ。
その階は外からでも分かるほど焼けており、ブルーシートで覆ってもなお黒かった。近くの非常階段にも被害が及び、ぐにゃりと変形している。
「……ていうかこれ、本当にただの火事?」
「超高温の熱源が生まれた、ってカンジだな。そうでもないと、学園都市の建物がああはならない」
「そうだね。爆発したって訳じゃなさそう」
瞬間的な爆発なら、放射線状に衝撃が広がるはずだ。少なくとも、手摺や床が溶けるようなことはない。
そもそも、たかが火事で、学園都市の建物はあそこまで燃え上がらない。
「犯人は能力者かな。それもかなり高位の」
「だろうな。理由は何だろう」
「上条君の右手を試したかった、とか?」
「その結果がアレなら殺人未遂だよ」
当麻の右手──『
あらゆる異能を無効化し、神の
「大丈夫だとは思うが、一応当麻にも聞いとくわ」
「土御門君は……将貴を襲うくらいなら大丈夫だろうね。舞夏ちゃんも」
「だろうね」
元春とは昨日、取っ組み合いの喧嘩の末に撃沈したため、大丈夫だろう。普段はにゃーにゃー喚いてるぶん、その強さには驚いたが。
実戦的な構えだったし、元春は格闘技でもやってたのだろうか。どうせ大した理由ではなさそうだが。
それより、この状況をどうするかを考えよう。
というのも、現場検証をする
「……ねえ将貴、どうする?今にも暴動が起きそうだけど……加勢する?」
「……いや、この人数を相手取るのは厳しい。さっさと帰ろう」
「うん」
ぼそり、と。呪詛のような声が遠くから聞こえる。それが導火線に火をつけたのか、どす黒い雰囲気が、ここにいる男子全員に一気に伝播した。
無理もない。待ちに待った夏休み、今日からたくさん遊ぼうと意気込んだ矢先の火事。そして退去命令だ。怒る気持ちも分かる。
……だが、涼乃を怖がらせるのはいただけない。1人残らず叩き潰してやろうか。
「涼乃、行こう」
「あっ」
会話を切り上げて、その場で踵を返した。涼乃で手を取り、駆け足でその場を離れる。
その僅か数秒後。誰かの怒声を皮切りに、住民の怒りが頂点に達した。それは核の連鎖反応のように留まることを知らず、あっという間に暴動へと発展する。
「ね、ねえ将貴!?ホントに大丈夫なの!?」
「
「校外活動が1番多いのは将貴だよ!?」
すたたたたー!!と走り、颯爽と街を駆け抜ける。そうして数分後、安息の地を求めた結果辿り着いたのは、第七学区内にあるいつもの公園だった。
男どもの怒声を聞いた後では、小鳥の囀りが大変ありがたい唄に聞こえる。日常は平和を埋めた上に成り立つのであり、だからこそ、それは見えないのだ。なに言ってんだ俺。
「やっぱりここはいいねー、落ち着くよ」
「そうだなー……クソ暑いけど」
「そういう事言わないの」
ここぞとばかりに、夏の日差しが身を焦がした。加えて、俺たちがいま着ている制服は、灰色のシャツに黒いネクタイ、黒いズボンという格好だ。学校の誇りとかなんとか言ってるが、暑いに決まってる。
「ん、メッセージきた。寮長から?」
「へえ。今回の事についてかな?」
「どれどれ」
胸元から、口紅ような円筒──超小型円筒式携帯電話
*1──を取り出す。側面のスリットを引っ張ると、薄く透明な液晶が、巻物のように滑り出てきた。
「まだそれ使ってるんだ。見た目はSFっぽいけど、使いづらくないの?」
「俺はこういう未来っぽいやつが好きなの。透明なチューブの中を走る電車とかもいいな」
「ふーん。それで、なんて?」
「ちょい待ち。えーっと……」
『上条、土御門、前原。部屋は1週間で直す。各員それまで生き延びるように。』
「………」
「………」
パキッという音がした。無意識に力が入ったのか、手元のケータイが悲鳴を上げている。
涼乃が何か言おうと手を泳がせるが、俺は別に、怒ってなどいない。優しく微笑んでメールを閉じ、群青に澄んだ大空をその瞳に映して、謳うように呟いた。
「主の恵みが、すべての者と共にあるように*2」
「いきなり何言ってんの!?帰ってきて!!」
〜〜〜
「この年で路頭に迷うとはね……」
「……まあ、修理費はタダみたいだし、その点は良かったじゃん」
「そりゃそーだが……」
清々しいほど雑な対応に、1周回って穏やかな気持ちになった。もしかすると、この気持ちが『悟り』というものかもしれない。またの名を現実逃避と言う。
「今日はどこに泊まろうかな……」
「ウチに泊まる?」
「え?」
「ウチならいつでも空いてるよ?」
……こいつは何を言っているんだ?
いくら仲が良いとはいえ、兄妹でも恋人でもない異性と同棲など、色々と飛躍しすぎだ。段階を踏めば良い訳でもないが。
昨晩だって、緊急事態だったからこそ、最も信頼する存在である涼乃に助けを求めただけだ。それ以上の気持ちなんて無い……はず。
「私は将貴ならいいけどね」
「そーゆー問題じゃなくてね」
「どーゆー問題?」
「……倫理的な問題?」
不思議そうに首を傾げる涼乃に、嬉しいような悲しいような、そんな微妙な気持ちになる。
俺はこんなに悶々としてるのに、何で涼乃はここまで平然としてるのか。俺が間違ってるのか、俺が男ってこと忘れてるのか……そもそも男として見てないのか。
「緊急時だし、そんな事言ってられないでしょ?ホテルに連泊っていうのも厳しいと思うし」
「街の給付金もあるし、少しは大丈夫だが」
「で、でもそんなの無駄でしょ。ね、ウチならいくらでもいていいから、ね?」
涼乃は、俺のことをペットか何かだと思ってるのだろうか?
まぁそれはそれとして、涼乃の家に連泊するのが楽、というのは事実だ。ホテルは支部から遠いし高い。友人の家を転々とするのも、なんか惨めだ。
「……それでも、俺は風紀委員だぞ。もしバレたらどうなるか」
「どうもならないと思うけどなぁ」
「……そうだね」
……うん。多分、どうもならない。
友人を家に泊める理由として、火事で家を失ったから、というのは十分過ぎる。せいぜい噂になるくらいだろうが、人の噂も七十五日という諺も──2ヶ月半って結構長いね。
「だがな、ダメなものは──」
「嫌なの……?」
「嫌じゃない」
気弱そうな涼乃の声に、思わず反射で返事をしてしまった。その返事に破顔した涼乃をずるいと思う反面、可愛いとも思ってしまう。
「(……涼乃が良いなら、それでいいか)」
「うん?」
「……何でもない。少し世話になるよ」
「そっかそっか!」
他人に振り回されるのは好きではないが、涼乃なら、むしろ嬉しいと思ってしまう。
涼乃の行動1つひとつに一喜一憂し、気が付いたら目で追ってるような自分は、傍から見たらひどく滑稽に映るだろう。
「(こうなるともう病気だな)」
それでも、別にいい。涼乃の隣にいて、その姿を見れるなら、どんな罰だって受け入れると決めた。
それこそが、俺の『正解』だと確信している。
「(あの頃から、少しは近付けたのかね)」
「どうしたの?」
「いや、別に」
こちらに振り返る涼乃の笑顔が、とても眩しい。眩しすぎて、目がくらむほどに。
涼乃の強さは、その笑顔を絶やさないこと。何時でも、どこでも、誰にでも見せることだ。
彼女の優しさ、素直さ、そして強さ。
彼女のような人になりたい。そう、思わずにはいられない。ほんの一部でも模倣できたら、これほど嬉しいことはないだろう。
今はまだ、光に魅せられた小さな存在だ。でもいつか、彼女の隣に立てるような人になる。
なんでもない日の、なんでもない場所。
そんな誓いを、俺は改めて自分に刻んだ。