人間にとって最も恐ろしいのは何だろう。
ひどく抽象的な問いだが、今の中村涼乃は明確な答えを示す事ができた。それは『慣れ』であると。
例えば、それは痛み。
初めこそ辛いが、それがずっと続くと、そのうち人はその痛みに慣れてしまう。そしてその痛みに疑問を抱かなくなり、やがて自然と受け入れるようになってしまう。
そのように、自分が知らないうちに自分が壊されていく事が、ただひたすらに恐ろしい。
「………」
私は今、能力が使えない。
BGMのように延々と流れる音が、能力の演算を遮断しているからだ。その副作用か、脳を炙られるような強烈な痛みも、演算の阻害に一役買っている。
だが私は、その痛みに徐々に慣れつつあった。現に今も、こうして現状確認できるくらいには落ち着いている。音量が大きい訳ではないので、その気になればスキルアウトの会話も聞く事が出来る。
「(今何時かな……どれだけ時間経ったのかな……)」
誰が私を攫ったのか、何故私なのか、これからどうなるのか……なんて事を、力無く転がったまま考える。
その間も痛みは絶え間無くある訳だが、今更悶えるような事はしない。その時点で、自分の中の何かが徐々に壊れつつあるのが分かる。
「(やだよ……私が何したって言うの……)」
いくら落ち着かせようとしても、やはり本当の意味での安心は得られない。視界に広がる闇は、私の行く末を見ているように真っ暗だ。
ふと、笑いそうになった。
でも、それだけは絶対に駄目だ。今笑ってしまうと、私はもう二度と元に戻れない。何故だか分からないが、そういう確信があった。
「(助けて……助けてよ……)」
泣きたい。泣きたくない。
笑いたい。笑いたくない。
諦めたい。諦めたくない。
対極にある感情が混ざり、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
その中にふと浮かんだのは、少年の顔。かつて共に働き、戦い、頼りにしてきた、見慣れた少年の優しい笑顔。
「(……だめ。ここで笑ったら、もう将貴君に顔向け出来ない……でも……)」
自らを鼓舞しようとするが、それも徒労に終わりそうだ。私はそろそろ限界なのかもしれない。
もう、全部諦めて楽になりたいなぁ……
………あはっ。
「(────違う!違う!!違うッ!!!)」
何を諦めようとしているんだ。
精一杯頑張ったから仕方ない、だと?私はアスリートじゃない、私は誉れ高き
助けはきっと、いいや必ず来る。それまで折れてなるものか!!
一瞬でも音が消えれば即座に
理想論だろうと知った事か。希望を見い出せない者に勝利の女神が微笑むものか!!
「(大丈夫。私は大丈夫だ)」
決意を新たに、痛みに耐えるよう身構える。それに応えるように痛みは勢いを増したように思えたが、それでもまだ耐える事は出来た。
そして、そのまま時間だけが過ぎていって。
『区切り』は、唐突に訪れた。
「……よぉ」
聞こえたのは扉の音と、聞き慣れた声。先ほど頭に浮かんでいた、とある少年の声だ。
視界は真っ暗闇だけど、誰が来たのか私には簡単に分かった。
「(将貴君!?え、うそ何で!?)」
パニックになる私を横に、私を攫ったであろうスキルアウト、そのリーダーらしき男の声が続く。
「……まずは褒めてやろう。素直に驚いた。処分場でとっくに死んだと思ってたからな」
「生憎、俺にはまだやる事があるんでね……」
「その姿でまだ動けてる事にも驚きだ。お前、本当に人間か?」
「さぁ、な……」
……何か様子がおかしい。言葉が途切れ途切れだし、呼吸も変に荒い。
しかも『その姿でまだ動ける』って何?
将貴君はどれだけ怪我してるって言うの?大丈夫なんだよね!?
「それで、何?」
「今すぐ人質全てを解放、投降しろ」
「嫌だと言ったら?」
「
淡々と交わされるやりとりに、思わず歓喜しそうになる……が、ふと疑問に思う。
なら、将貴君は何故ここに来たんだ?
通報したのなら、将貴君はどこか安全な所で待機していれば良いはず。無論、それが分からない将貴君じゃない。
なのに何故、怪我を負ってまでここに……?
……まさか、ブラフ──?
「はんっ、わざわざ教えに来てくれるたぁ優しいじゃねぇか。感謝するぜ」
「動くなよ。お前も死にたくはないだろう?」
「死ににきた馬鹿が何言ってやがる」
「その馬鹿に追い詰められてる気分はどうだ?」
かちゃり、と小さな音が鳴る。何度か麻酔弾を撃たれてきた私は、それが銃を構える音だと分かった。
自信ありげなその声から、通報したというのはブラフではないのだろう。そもそも将貴君は、そんな簡単に嘘をつけるような器用な人ではなかった。
「へぇ、撃つのか?」
「さぁ。それはお前ら次第だよ」
「言っとくが投降はしねぇぞ。俺らには『裏』が付いてる。警備員がいくら来ようと無駄だからな」
「……そうか」
「さぁ撃てよ。腕には自信があるんだろう?」
「………」
ぱんっ、と銃声が鳴る。
思わず体が強ばるが、私の体に変化は無い。ただ聞こえたのは、遠くで何かが……いいや、誰かが崩れ落ちた音だ。
まさか将貴君は本当に撃ったのか、という問いは、最悪の形で明らかになった。
「はんっ、詰めが甘ぇんだよ雑魚が。後ろぐらい見てろってんだ」
「……つーか危なかったな、撃つ気満々だったぞコイツ。間に合わなかったらお前死んでたぞ」
「(────えっ)」
聞こえてくるのは、スキルアウトの嘲笑だけ。
なら撃たれたのはスキルアウト……じゃ、ない?
じゃあ誰が…………まさか、将貴君が?将貴君が、撃たれ──
「──ん゙ーッ!ん゙ん゙ーッ!!」
「うお。何だコイツ、起きてたのかよ」
「うるせぇな。また麻酔弾ぶち込んどけ」
「……っ、ま゙……待、で……やめろ……ッ!!」
ようやく聞こえてきた将貴君の声は、ひどく弱々しく、苦しそうだった。生きているという事への安堵と、どう考えてもおかしいという恐怖が、私の中で綯い交ぜになる。
声を出そうとするが、口を塞ぐガムテープはなかなか外れない。
「……まだ動けるのか。大したモンだな」
「う、るせぇ……!い……がら……止め──」
ぱんっ、と乾いた銃声が鳴る。
将貴君の声が急に切れる。同時に、私の思考も完全に凍りつく。空白の思考に響いてくるのは、スキルアウトの貶すような声だ。
「お前、知ってるぞ。最近噂の『スキルアウト狩り』だろ?仲間が世話になったみてぇだし、聞きてぇ事があったんだよ」
「………」
「誰の許しを得て俺らの邪魔をしやがる。自分の手に正義があるとでも思ってんのか?」
「……知……るがよ゙……そ……の」
将貴君の声が、次第に細くなっていく。しかしその後に宿る声は、明確な敵意と覚悟に満ちていた。
近くにいるはずなのに、どうなっているのか何も見えない。その事実に頭がどうにかなりそうだ。
止めろ。将貴君に手を出すな!
やるなら私をやれ!!
「ウザイんだよねぇ!!弱ぇくせに正義を気取る奴がさぁ!!」
銃声ではなく、原始的な暴力の音が連続する。
そのたびに私を覆う何かが削り落とされ、中で燻る激情が噴き出しそうになる。ぎちぎちと、口を塞ぐガムテープに私の歯が食い込み、科学製品特有の臭いが口内に広がった。
その音が聞こえなくなるまで、どれだけの時間が経っただろうか。
「……ぅ……ぁが……」
「……すげぇな。まだ生きてんのかコイツ」
「ゴキブリかよ気持ち悪ぃな……そろそろ死んでもいいと思うんだけど」
「せっかくだし、ここの死体処分場にぶち込んどこうぜ。そーすりゃ証拠も残らんだろ」
「あいよ……っと、まぁ安心しろ。トドメくらいは指してやるよ」
昼食のメニューでも決めるように告げられた言葉に、一瞬思考が止まる。
そして暗闇の中で響く、1発の銃声。
──ぷつんと、私の中の何かが、切れた。
*
「や゙め゙でよ゙ぉッッ!!!」
ふと、そんな声が聞こえた。
自らの血に溺れる前原将貴にとって、それは聞き慣れた声だった。しかし、顔を向けようとしても眼球しか動かせない。
それでも何とか上げた視界には、荒い呼吸をしながらガムテープを噛み千切る少女、中村涼乃がいた。目隠しの上からでも、その瞳が濡れているのがはっきりと分かる。
「お願い……もう止めてよ……」
「………」
「わだ……私の、ごとは……好きにして、いいがら!!撃っでも殴っでも……ここで殺しても、構わないがらぁ!!」
「………」
「だがら止めてよ……ごれ以上、将貴君にひどい事しないでよぉ……」
この身を捧げよう、あなたの奴隷となろう、望むがままに動く人形となろう。だから前原将貴を助けてくれ。
感情の一切を隠そうとしないその慟哭は、それが中村涼乃という少女の本心であり、本質であるという事実を俺に突き付けてきた。
「(何、言ってんだ、お前……?)」
それを聞いた俺は、まず困惑した。この少女が何を言っているのか、理解できなかった。
中村は今、体の自由を奪われ、命の選択を相手に掌握されている。おまけに能力は使えず、ただの
そのうえで、中村は自分を切り捨てた。
強者の憐れみじゃない。自分より他人を救いたいと本気で願い、その人生を放棄したのだ。
家族でも恋人でもない俺なんかのために、一度は死んだ自殺志願者のために。
「……へぇ、面白いな」
その必死の懇願すら、スキルアウトは鼻で笑う。新しい玩具を見つけた子供のような笑みを浮かべ、ゆっくりと中村へ歩み寄っていく。
俺はとっさに手を動かし、その足を掴もうとした。しかし神経を炙られるような激痛を伴っても、動かせたのはほんの数センチだけだった。
「待ッ、やめ゙……ろ……!!なか……村に、手ぇ、出すんじゃねぇ……ッ!!」
「そーかそーか」
「……中村に、何かしやがったら……殺すぞ……死んでも、ぶっ殺す……ッッ!!」
それでも体を動かし、立ち上がろうとする。全身を走る激痛は凄まじく、むしろ生きている事が実感できるほどだ。
何故立とうとしたのかは分からない。そうしろと、本能が告げたのだ。
「オイ。そいつの目隠し、取ってみろ」
「あ?あ、あぁ……」
「安心しろ嬢ちゃん。テメェは大事な商売道具だからな、何もしねぇよ」
ゆっくりと手を着き、何とか膝立ちの体勢になる。明滅する視界に映る深紅の花は、思った以上に黒く、大きい。
それを見たリーダー格の男が、それはそれは愉しそうに口を歪める。同時に、中村の目隠しが僅かに緩んだ。
そして。
「だから、お前が代わりに受け止めろ」
胸元に、衝撃があった。
直後、世界が急にスローモーションになる。胸元から咲く花は、先ほどとは比べ物にならないほど赤く、大きい。
ゆっくりと傾く視界に、暗闇から解放された中村の顔が映った。
「────えっ……えっ、えっ……あっ、あぁぁっ……!」
ぐしゃり、と腐った林檎を踏み潰したように、視界が赤に染まる。自分が倒れた、という事を理解するのに時間がかかった。
中村がどんな顔をしているのか、次第に分からなくなってくる。
「あっ……うぁ……あぁ……ッ!!」
中村の言葉が途切れているのか、俺の耳がおかしくなったのか、もう判別がつかない。かろうじて見えたのは、魂が砕けたように揺れる、中村の綺麗な瞳だけだ。
「あぁ、あああああぁぁぁぁぁッ!あぁああぁぁあああぁッッ!!!」
堰を切ったように、中村が大きく口を開けた。しかし、その声はもう聞こえない。
そして中村は手足を縛られたまま、瀕死の虫のように体を捩り、俺に近付こうとした。スキルアウト達は心底面白そうにそれを眺め、俺に向けてもう一度引き金を引く。
中村の頬が、飛び散った俺の血で汚れる。ああ、また汚してしまった。
「…………?」
……本当に、不思議だ。
何故、お前が泣くんだ……?
何故、俺よりかなしそうなんだ……?
なぜ、おれなんかのために涙をながす……?
……わから、ない、なぁ。
なんで、かな。
ああ。
おもい。
ああ。
あたまもからだも、おもい。
おもくて。ぐちゃぐちゃで。とろけそう。
ああ。
これは、なんだろう。
わからないなぁ。
どろどろの、なにか。
きれい。
どんないろ?
あお。みどり。きいろ。しろ。それと──
あは。きれいだなぁ。
みぎがひだりで。
うえがしたで。
あれ、ちがうかな。
あは。まぁどうでもいいか。
あははははははははははははは ははははははははははははははは はははははは ははははははははははは はははははははははは。
ははは。
いまわらったの、だれ?
ここどこ?
あ。
このおんなのこ、だれ?
ねぇ。
どうして、このこはないてるの?
そっか。
だれかがなかせたんだね。
それはだれ?
……あ。
おれの、せいだ。
おれがよわいから。
よわいから。
よわいから。
おれが──俺が、弱いから。
中村涼乃が殺される?
ふざけるな。
そんなの許さない。
そんな事、あってはならない。
俺を見つけてくれた人を。
俺の名を呼んでくれた人を。
俺に世界を与えてくれた人を。
傷付けるなんて絶対に許さない
誰であろうと、絶対に。
……なら俺は、何を呑気に寝ているんだ?
やるべき事は決まっているだろう。
だが腕は動かない。足も動かない。
………。
だから、何だ?
俺の体など知ったことか。
それに何の価値がある。
それより先に、邪魔なものを取り除かないと。
剥がして。壊して。潰さないと。
………。
邪魔なものって?
スキルアウト?
学園都市?
それとも。
中村涼乃を追い込んだ、この世界全て?
………。
それも、やっぱり分からない。
確かめることはできない。
見ることだってできない。
壊すことだってできない。
だから
ぜんぶ 歪めて しま お う
*
同時刻。
第七学区に鎮座する、窓の無い奇妙なビルで。
『人間』が、笑った。