「落ち着いた?」
「あぁ……ごめん、心配かけたな」
「ううん、むしろ嬉しかったよ。あんな将貴初めて見たし」
「そ、それは忘れろよ」
広い個室の病室で、2人の男女が言葉を交わしていた。ベッドで休む前原将貴は、中村涼乃の胸で泣きに泣いて泣き疲れて、ようやく平静を取り戻したところだ。
「ていうか、名前……」
「あ、うん。何となく将貴って呼ぶことにしたんだけど……いいかな?」
「……別にいいけど」
何気ない会話に、胸の奥がじんわりと温かくなるのが分かる。しかし何故か気恥しさを感じ、ぷいと視線を逸らしてしまった。近くから聞こえる嬉しそうな声は、まるで耳元をくすぐられたみたいだった。
……名前、か。
「……涼乃」
「えっ」
「え?」
「……名前」
「……え?」
……うん?俺、今何て言った?
名前?名前を言ったのか?
誰の?涼乃の?いや待て涼乃って。
「……あ、その、すまん。何か呼びたくなって……気にしないでくれ」
「別にいいけどさ……えへへ」
「……ッ!?」
……な、何だこれ?何かこう、おかしいぞ。
まだ完治してないのか、気を抜くと口元が緩んでしまいそうだ。心臓も変に昂り、鼓動が早くなっているのが自分でも分かる。
「えと……す、涼乃」
「うん」
「涼乃」
「……う、うん」
涼乃の返事が何故か小さくなる。恥ずかしいなら頼まなきゃいいのに、とは思うが、俺も謎の気恥しさを感じ、中村の……涼乃の顔がまともに見れなくなってしまう。
互いに言葉に詰まり、ちらちら覗くように相手の顔を伺う。ふと目が合うが、何故がどちらとも逸らそうとはしない。
そんな中で響いたのは、病室に軽やかに鳴るノックだった。
「入るよー」
「はーい……って奏ちゃん?」
「おはよーすずのん。久しぶりー」
そのまま入ってきたのは、身長150に満たない小柄な少女だった。
肩にかかるミディアムヘアは金糸を編んだようで、それを後ろで結んだリボンは鮮やかな深紅だ。釣り目がちの
「第七学区、177支部の前原将貴だね?」
「あ、ああ。君は?」
「八月十日事件の担当、松浦奏だよ。よろしくねー」
「お、おう」
少女──松浦奏は挨拶もそこそこに、手元の薄っぺらい鞄を漁り始めた。常盤台のイメージとは裏腹に、その口調は随分と軽めだ。
しかし、事件の担当……つまり
なら、来たのは事件処理の報告と俺の弾劾、といったところか。
「将貴、奏ちゃんは私をあの橋に連れてってくれた人……つまり将貴の恩人だよ」
「……そうか。松浦さん、ありがとう」
「うん。無事ならそれで良かった。あと奏でいいよ、しょーくんの方が年上なんだし」
「しょ、しょーくん……?」
「とりあえず報告していくねー」
妙な呼び名に戸惑ううちに、松浦──奏は数枚の書類を取り出し、何事も無かったように俺と向き合った。
改めて見ると、可愛いと綺麗が見事に調和したその顔は、どちらともとれる不思議な魅力がある。
「結論から言うと、事件はほぼ完璧な形で終結したよ」
「完璧、ねぇ」
「人質は全員無傷で保護、犯人グループは壊滅、おまけに立役者のしょーくんも無事。なら完璧って言ってよくない?」
「……ほぼ、ってのは?」
「誘拐を手引きした依頼人を捕まえれなかった、ってトコかなー」
まぁ初動が遅れたのもあるけどね、と何でもないように奏は言う。しかし、それは俺としては見過ごせない脅威だ。
また涼乃が危険な目に遭うかもしれない、と思うだけで、何かどろどろした感情が出てきそうになる。
「そんな顔しなくても大丈夫だって。実験は永久凍結されたし、特力研も解体させた。それにこうして明らかになった以上、再起するのは難しいと思うよ?」
「……それもそうか」
「あと八月十日事件に関して、統括理事会から緘口令が布かれたんだー。だから他言しないようにね」
「…………は?」
……統括理事会って、あの統括理事会?学園都市の最高機関の?
え、何でわざわざそこが動くの?そこまでして揉み消したい事件なのコレ?ていうか、奏は何をどこまで知っているんだ……?
「……ま、まぁ分かった。情報統制はそっちがやってくれるのか?」
「まぁね。ちょうどいい当て馬もあったし」
「当て馬ってお前な……で、何があったんだ?」
「『88の奇蹟』」
短い一言に、隣の涼乃があっと声を上げた。それを見る奏も、腰に手を当てながら何故か得意げな表情を浮かべている。
何がなんだか分からない、という顔をしていると、涼乃が1つずつ話してくれた。
「事件が起こったまさにその夜、ある飛行機事故が起きたんだよ」
「事故?」
「学園都市の飛行機が、上空でスペースデブリと接触したらしくてね。それでエンジンが壊れちゃって、操縦不能になったんだよ」
「……大事故じゃねぇか。どうなったんだ?」
「ちゃんと帰還したよ。乗客88人、全員無事にね」
「……すごいな。それで『奇蹟』か」
「おかげでニュースとか大盛り上がりだよ。奇蹟だ奇蹟だーって」
確かに、それなら話題性も十分だし、世間への印象も良いだろう。事故に遭われた方々には悪いが、この事件の隠れ蓑にはもってこいだ。
……さて、そろそろ本題に入るか。
「奏」
「んー?」
「話を戻そう。事件に関係して、俺にまだ言う事があるんじゃないか?」
「おお、分かるんだね。さっすがー」
特に驚いた風も無く、奏は佇まいを正した。その動きは何故か優雅で、根本はお嬢様であることが垣間見える。
しかし
「そんじゃ、辞令を伝えるねー」
「………」
「本日この時間をもって、前原将貴を風紀委員から正式に免官し、その全権限を剥奪します」
えっ、という呟きが隣から聞こえた。
だが奏は気にも留めず、書類を捲る手を止めようともしない。予想していたため、俺も変に反応することはない。
「資料は読ませてもらったよ。スキルアウトに対する暴行や傷害、そして脅迫。銃の所持に発砲、器物損害に不法侵入、その他諸々……と。よくもまぁここまでやったねぇ」
「なっ……ちょ、待ってよ!!意味分かんない!!何で将貴が辞めなきゃいけないの!?」
「さっき言った通りだけど?」
「だからって納得できる訳ないでしょ!!」
「すずのん、大事なのは事情より事実だよ。特にこの風紀委員ではね」
噛み付くように声を荒らげる涼乃だが、しかし奏は受け流すだけだ。奏の言い分が全面的に正しいが、それでも涼乃の口は止まらない。
「涼乃、落ち着け」
「これが冷静でいられる!?だっておかしいじゃん!!将貴は私達を助けてくれた!!将貴がいなかったら事件解決なんてしなかったよ!!」
「文句があるなら上に言ってよ。私が決めた訳じゃないんだし」
余りに淡白な奏の言葉に、涼乃の眼光がより鋭くなる。唇を噛み、拳を握るその姿からは、内心に燻る怒りが滲み出ているようだった。
……心配してくれる人がいるって、こんなに嬉しいものなんだな。
「……もういい。もしそんなのがまかり通るっていうなら、私も辞──」
「涼乃。もういい」
「……でも」
「いいんだ」
腕章を引き千切ろうとする涼乃の手を掴み、首を横に振る。すると涼乃は動きを止め、悔しそうに顔を歪めた。
その様子に満足したのか、奏は書類を鞄に仕舞い、代わりに冊子のような物を取り出した。
「俺は風紀委員を辞めて、犯罪者として少年院に入る。それでいいか?」
「……さぁ。詳しい事は後から来る
「そっか、分かった」
「……ああ、あとこれ。私から差し入れ」
わざとらしく話を切りながら、奏は持っていた冊子を差し出した。そこにはこう書かれていた。
風紀委員冬季公募要項、と。
「……えっ」
「え……か、奏ちゃん、これは……?」
「見ての通り、公募要項だけど?」
あっけらかんと言う奏に、涼乃も戸惑いを隠せないようだ。先ほどの怒りもどこへやら、冊子と俺を交互に見つめている。かく言う俺も同じだ。
……奏は一体何を言っているのだろう。
俺は犯罪者だ。復帰なんか出来るはずがない。仮に出来たとしても、世間がそんなの許さないだろうに。
「一度辞めた風紀委員が、風紀委員に戻ってはいけない、なんてルールは無いよ?なら良いって事じゃん?」
「待て待て落ち着け。戻れる訳ないだろ」
「事件そのものが揉み消されるんだから、辞める方が不自然なんだけどねぇ」
「………」
「ていうかさ」
俺の言葉を切り、奏は楽しそうに顔を寄せてきた。一片の淀みも無いその瞳で見つめたまま、挑むように口を開く。
ただ正直に、簡単に、まっすぐに。
「
「……えっ」
「ならそれでいいじゃん。素直にそう言えばいいのに」
「………」
「もっかい聞くよ。しょーくんは風紀委員に戻りたい?戻りたくない?」
不思議そうに話す奏は、俺が何を躊躇っているのか分からない、とでも言うようだった。裏の無いその瞳の前では、嘘をつくことは出来なかった。
だから俺は、慣れない事に唇を震わせながら、未知の感情に恐怖を覚えながら、錆び付いた口を動かして、こう言った。
戻りたい、と。
「……ふふん、そっかそっか」
「奏?」
「なら話は早いねー」
何を納得したのか、奏は跳ねるように出口に向かい、扉の前でぴたりと立ち止まった。
踵を返し、遠くで向き合う少女の顔には、1人の風紀委員、という色が強く浮き出ている。
「しょーくん」
「?」
「今回の事件、解決できたのは間違いなく貴方のおかげだよ。ありがとう」
「……!」
そして奏は、その場で深々と頭を下げた。後ろで結ばれた深紅のリボンが、艶やかな髪の上で存在を主張している。
しかし頭を上げると、そこには先ほどの無邪気な笑顔が浮かんでいた。そのまま何事も無かったように病室を出ていく奏は、さながら突如到来する台風のそれだ。
残された俺と涼乃に、しばしの沈黙が生まれる。
「……将貴」
「……ああ」
「待ってるから、ね」
「…………少し、時間がかかるかもしれない。それでもいいか?」
「もちろん」
第七学区、風紀委員第177支部。
そこにいるのは、所属する風紀委員のメンバーである。仕事が多い訳ではないが、支部には珍しく全員が揃っていた。
いや正確には、ようやく揃う、だろうか。
「そろそろ時間ね」
「ああ。準備できてるか?」
「なに堅い事言ってんの。いつも通りでいいのよいつも通りで」
「とか言いつつ声震えてんぞ、固法」
そんなお喋りを遮るように響く、規則正しいノックの音。少し間を置くと、向こうから部屋のロックが解除されるのが分かった。こちらは何もしていないのに、だ。
「失礼します」
そして入って来たのは、見慣れた少年。
制服、姿、髪、声、そして腕章。
どれもこれも、よく知る少年のものだった。
「本日より177支部に特例異動配属となりました。前原将貴です。よろしくお願いします」
待ち望んだその声に、所属メンバーの何人かが目元を押さえる。しかし、それを最も望んでいたであろう中村涼乃は、いつも通り優しく微笑み、ただ一言。
「おかえり」
少年は口を歪め、ゆっくりと1歩踏み出した。元々自分がいた場所に。精一杯遠回りをして、ようやく気付いたその世界に。
そして同じように口元を綻ばせ、ただ一言。
「ただいま」
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「──……んぁ?」
まぶしい、と思った。薄く目を開けると、近くの窓か夏の日差しが存分に入り込むのが見えた。
涼乃は暗いのが苦手なため、遮光カーテンを閉める習慣が無いようだ。
「(……そーいや、涼乃と寝たんだったな)」
目を擦る前原将貴のすぐ隣には、無防備に眠る少女──中村涼乃がいた。1人用のベッドであるためか、互いの鼓動が肌で感じられる。
所謂朝チュンだが、顔も名前も事情も知っているし、もちろん情事だってシていないため、特に焦ったりはしない。
「(なんか、すっげー長い夢見てた気が……)」
しかし、その内容がいまいち思い出せない。何か大切な事のように思えたが、覚えてないならどうにもならない。
俺はベッドから体を起こし、隣で眠る涼乃の髪を撫でた。薄茶色の髪は柔らかく、柑橘系の匂いはいつもより少し薄い。昨夜は俺のシャンプーを使ったためだろうか。
「んぅ……」
「……涼乃」
撫でる手を止め、僅かに目を細める。日付が日付であるため、少し感傷的になっているみたいだ。
俺みたいな人間が涼乃に触れていいのか、と。
あの時の問いに、俺はまだ答えを出せていないみたいだ。でも、いつかは。
「………」
俺は、確かに間違えた。
自分のためだけに生きた結果、あまりにも大きな間違いを犯してしまった。自己本位に生きる結果を知ってしまった。
……だからもう、自分のために生きるなんて出来ないかもしれない。
でも、それが悪いとは思えなかった。
あの時間違えなかったら、俺は涼乃をここまで想えなかっただろう。彼女のために生きよう、戦おうとは思えなかっただろう。
「これからも、よろしく頼む」
そんな歪なジレンマに、俺は悩み、問いかけ、答えを探し続けるのだろう。
今日も、明日も、明後日も。
そして、これからも。
──なら、もしも。
もしも、涼乃を守れなかったら。
もしも、涼乃を失うような事があったら。
俺は一体、どうなってしまうのだろうか──