中村涼乃には1つの日課がある。それは学校や仕事が終わる夕暮れ時、街は薄紫色に染まり、空の支配権は昼から夜に移る頃に行うものだった。
「……急がないと」
小走りになりながら、制服の胸元をぎゅっと握り締める。暗闇に呑まれつつある空模様に、自身の本能的なトラウマが刺激されてるらしい。
そのまま走り続け、
「(間に合った)」
多少の安堵と共にもう一度空間移動し、目的の部屋に一気に飛び込む。突然広がった白は距離感が狂いそうになるが、慣れればどうということはない。
ともあれ、そこには見慣れた2人の男女がいた。片方は慣れた様子で私に気付いたが、もう片方は見向きもしない。この反応も慣れたものだ。
「おう。今日は遅いな」
「うん、
「そっか。お疲れさま」
「うん」
部屋の主である明菜ちゃんは、そもそも私を認識すらしていないのか、視線を向けることもなかった。お風呂から上がったところなのか、純白の髪にはタオルが被せられ、隙間から覗く白皙の頬はほんのりと桜色に上気している。
無論、明菜ちゃんをお風呂に入れているのは専属のナースさんである。流石の将貴もそこまでは自粛しているらしい。
「ほら明菜、髪乾かすからじっとしてろよ」
「────」
「そうだ。偉いぞ」
ふぁー、というドライヤーの音が聞こえてくる。送られる風は冷風かつ弱めで、根元からゆっくりと乾かそうとしているのが分かった。髪へのダメージを最小限に抑えるためだろう。
明菜ちゃんも将貴を認識はしているのか、言われた通りその場でちょこんと座ったままだ。異様なほど澄んだ蜂蜜色の瞳が、午睡を楽しむ子猫のように細くなっている。
「随分上手くなったねー」
「そりゃ毎日やってるからな。少しは慣れるよ」
「いや、絶対それだけじゃないでしょ」
その迷いの無い手付きを見れば、将貴が色々と勉強しているのはひと目で分かる。実際、ここ数週間で将貴はドライングが急に上手くなっており、明菜ちゃんの髪も明らかに滑らかになっている。
「涼乃、頼む」
「うん、じゃあ代わるね」
「───?」
「ちょっと待っててねー」
私は立ち上がり、明菜ちゃんの頭をそっと撫でた。以前にも増して柔らかな髪をひと房摘み、そのまま三つ編みを編んでいく。当の明菜ちゃんは動じることなく、吸い込まれそうなほど深い瞳で、世界のどこかを捉えたままだ。
「っと、はいおしまい」
「サンキュー。今日も可愛いぞ、明菜」
「───?」
「うし、じゃあ寝るか」
編み終わると将貴が立ち上がり、床に座る白い少女を持ち上げた。明菜ちゃんをお布団まで運ぶための、俗に言うお姫様だっこである。
……なんか、ずるい。毎日会いに来て、一緒に過ごして、髪を乾かしてもらって、可愛いって言われて、寝かしつけてもらって……うぬぬ。
「私も行くよ」
「あいよ」
「────」
将貴は慣れた様子で部屋を出て、そのまま隣にある寝室に向かった。その間も明菜ちゃんは微動だにせず、眠たそうに目を細めている。
時刻はまだ8時前だが、日が沈むと眠くなるというのは、人間に残された原初的な本能の1つと言えよう。
「……っと、これでよし」
「───?」
将貴は宝石を寝かせるように、明菜ちゃんをそっとベッドに横たわらせた。状況を理解できていないのか、白い少女は不思議そう将貴を見上げたままだ。それとも、視線の先にたまたま将貴がいるだけなのか、私には判断がつかなかった。
「───?」
「おやすみ、明菜」
「おやすみなさい、明菜ちゃん」
将貴が枕元に座り、明菜ちゃんの頭をゆっくり撫でた。私もそれに応じ、純白の髪に反対側からそっと触れる。何をされてるか分かってないのか、明菜ちゃんは私達を交互に目で追い、そしてゆっくりとその目を閉じた。程なくして、その白い胸元に、ほとんど見えないほど小さな起伏が見え始めた。
「──……」
「……私達も帰ろっか」
「……ん。もう少ししたらな」
将貴は呟き、白い頭をもう一度撫でた。自然な安らぎに満ちたその姿は、なんだか年の離れた兄妹に見えた。現実味が薄れるほど端整な顔立ちが、普段の取り澄ましたような無表情より、幾らか幼く思えてすらくる。
「……~~♪」
やがて将貴は目を閉じ、静かに口を開いた。タイトルも歌詞も知らない、けれど将貴がいつも口ずさむ歌だ。
特別上手い訳じゃない、むしろその旋律は少し歪んですらいる。しかしそこには、明菜ちゃんを思う気持ちが存分に込められ、聴く者を安心させる何かがあった。将貴が一小節を歌い終える頃には、明菜ちゃんはすっと落ちるように眠っていた。
「じゃあ行こっか」
「ああ、頼む」
部屋に戻り、隣に立った将貴が、ふと私の手を握った。今まで数え切れないほど手を繋いできたが、こういう不意打ちはずるいと思う。ここでこっそり指を絡めたり……なんて事を思いつつ、私は先ほどの天井に空間移動した。
「──っ!!」
「涼乃」
「──……う、うん」
暗闇が眼前に広がり、一瞬で喉が渇くのが分かる。思わず喉を掻きたくなるが、しかし手を握る将貴がそうはさせなかった。ぎゅっと繋がれた硬い手から、言葉にできない何かが流れ込んでくるのが分かる。
もう一度空間移動して地上に降り、繋いだ手を離した。名残惜しかったが、これ以上は逆に平常心じゃいられない。
「そんじゃいつも通りに」
「うん、お願い」
代わりに将貴の制服の裾を摘み、私達は帰路に着いた。こうしている事に恋人的な意味は無く、空間移動を暴走させないための対策に過ぎない。しかし、理由はどうあれ、将貴と一緒にいる事が嬉しくないはずがない。
「……♪」
「?」
トラウマの狭間だというのに、思わず笑みがこぼれてしまった。それを隠すように、ちょっとだけ将貴に肩を寄せてみる。
ちょっと大胆だったかな?まぁ将貴なら大丈夫だろう。多分気付いてないし。
「こいつは本当に……」
「?」
将貴が何か呟いたが、遠くに響いた電車の音に重なり、よく聞こえなかった。
*
時刻は0時を回っていた。街には夜の暗幕が下りて、まるで死者に被せる打ち覆いみたいだ、と前原将貴は思った。モノクロの世界を黙って見下ろすのは、見透かしたように冴え渡る月だけだ。
「………」
小さな息遣いが、無人の車両基地を駆け抜けた。隣に涼乃がいないのは、これが風紀委員の仕事ではないからである。
先日、ここで大きな爆発があったらしい。被害者も目撃者もいないことから、ただの爆発事故として処理されたそうだ。
……しかしこの場所、あそこと近いのだ。多少入り組んではいたが、昨日ミサカと別れた、あの路地裏と。
「──おかしい」
だからこそ、無関係であってほしいと、それを調べに来た訳だが──何も、無い。
割れたガラスも、めくれ上がったレールも、吹き飛ばされた砂利すらも。まるで、初めから爆発など無かったのだ、とでも言うように。
人的被害の無い事件の処理が早いのは分かる。しかし、昨日の今日で元通り、というのは流石に早すぎる。規模を考えれば、原因の追求にもう少し時間をかけてもいいだろうに。
「(やっぱり、何か引っかかる……)」
そもそも、これほど大きな爆発があって、全く騒ぎになっていないのも不自然だ。他学区より騒音が大きい第二学区とはいえ、誰も住んでいない訳じゃない。SNSで話題にも上がらないのは、単に運が良かった、と考えていいのだろうか。
「……分からん」
そんな疑念を挟みつつ、車両基地を2周ほど歩いた所で、俺は溜息をついた。この調査が徒労に終わりつつあることに、俺はようやく気付いたみたいだ。
こうして1時間近く車両基地を調べてみても、結局俺は残骸どころか、その爆心地すら掴めなかった。もはや爆発ではなく単なる騒音被害だった、と言われた方が納得できそうだ。
「(もういい、どうせ何もなかったんだろ。今度ミサカに会った時に聞けばいい)」
踵を返して、開けた場所を通って俺は出口に向かった。被害者はいなかったのだから、それで構わないではないか。専門家でも無い俺が調べたところで何が分かるのだ、と言い訳を残して。
そしてもう一度溜息をつこうとした、その時。
「……?」
ふと、何かが光った。それは人工物にしてはあまりにも淡い、そして場違いな煌めきだった。街を照らす月光が何かを映したのだろう、つるりとした光沢は、敷き詰められた砂利とは明らかに違った。ここに明かりの1つでもあれば気付きもしなかっただろう。
「(何だ今の……?)」
ふと近付き、携帯端末のライトで照らしてみると、それは砂利に埋もれた金属片であることが分かった。押し潰されたそれには、鮮やかな色と艶があるのが伺える。裏には折れた針のような物があり、これが何なのかなんとなく察しがついた。
「……缶バッジ、か?」
明るい塗装と、デフォルメされたカエルの絵。お子様趣味が強いそれは、無骨な車両基地にはあまりにも不釣り合いだ。
しかし、そんな事はどうでもよかった。こんな物が何故ここにあるのか、という思考に戻るまで、随分長い時間を要した気がする。
「………」
可愛らしいカエルの絵──そこにべっとりと付着した血を眺める。変色した血は完全に乾いており、擦っても指は汚れなかった。しかし艶が残っている分、これが潰されたのはそう前の事じゃないだろう。
……こんな子供っぽい缶バッジ、昨日の今日で忘れるはずがない。
話題にならない大規模な爆発。
あまりにも早い事故処理。
見覚えのある缶バッジ。
そして、昨日出会った1人の少女。
「(……実験、か)」
そっと握り締めた缶バッジを、睨むように一瞥した。そこに何を込めたのか、俺にはいまいち判断がつかない。
雲が重なり、月の光が僅かに翳る。街は一層暗くなり、黒を基調とした俺の制服は、その輪郭をより曖昧にしていた。