キーボードを叩く音だけが聞こえる。いつも通りの177支部は、人数以上にその賑やかさを失っていた。
しかし、それは前原将貴にとっては僥倖だった。思考の海を潜るのに、静寂以外のものは必要ない。
「(15日は第二学区の車両基地で、16日は……まだ情報が出回ってない、か。まぁこれだけ集まれば上等か)」
収集したデータを文字に起こし、別のページの地図に印をつけていく。
真面目に仕事しているように見えるだろうが、実のところこれは仕事ではない。地図に書いた印が示すのは、先日ミサカが言っていた『実験』が行われた──とされる場所だ。
ミサカは『本日の実験場は』と言っていた。それはつまり、実験は違う日にも行われたという事だ。
俺は初春の力も借り、ここ数週間における『原因が分からず目撃者もいない事故』について洗っていたのだ。こういう時、
「(たった4ヶ所、学区もバラバラ……多分、これが全てじゃないんだろう。完全に隠されたものもあるはずだ)」
その結果、膨大な報告の中に、数ヶ所ではあったが気になるものがあった。注視して見ないと見逃すレベルではあったが、それでも確かにあったのだ。
誰も知らない爆発や銃声が。
あまりにも早い復旧が。
異常なほど秘匿された情報が。
「(それだけならまだ良い……)」
極めつけは衛星映像の上書きである。
風紀委員や
それが、上書きされている。
それはつまり、『実験』はそうまでして秘匿するものだという事。そして『実験』を主導するのは、それが実行できるほどの力を持つ組織であるという事。
「(……そんな組織が、ミサカに、ねぇ)」
何故
「──ん?」
実験を、わざわざ屋外で行う……?人工衛星をハッキング、上書きまでして秘匿する実験を?
……そうだ。何故、屋外でやる?
秘匿したいなら屋内、なんなら地下でやればいいじゃないか。いくら学園都市の人工衛星とはいえ、地下までは分からない……とは断言できないが、少なくとも外よりリスクは少ないはず。
公になるリスクを許容してまで、なぜ外で?そうせねばならない理由は?それは上層部を納得させるに足るものなのか────
「────あっ……」
────そうか。そういうことか。
この街は衛星と監視カメラで常に監視されている。それを管理しているのは学園都市の上層部──正確には統括理事会である。
それに無断で干渉し、上書きすることを、統括理事会が承知していないはずがない。それを承知し、あまつさえ黙認するなんて、学園都市そのものが────
「どうぞ」
「──っ?」
ふと、香ばしい匂いがした。突然の乱入に、思考を巻いていた黒い渦が霧散し、脳内に空白が生まれる。少し遅れて、視界の端におもむろにコーヒーカップが置かれた。
淹れてくれたのは、茶髪ツインテールが目立つ後輩、白井黒子であった。
「そろそろ一息つかれてはいかがですか?」
「……ん、そうだな。ありがと」
コーヒーを一口啜り、直後に眉を歪める。カップの中には、インクを煮込んだような黒い液体が並々と注がれていた。
白井には悪いが、俺は紅茶派なのだ。なお、俺好みの紅茶を淹れてくれる涼乃は、今日に限ってお休みだったりする。
「随分と集中してらしたわね。何をお調べになりましたの?」
「別に、大した事じゃないよ」
「その割には1日中なさっていたようですが」
「どうでもいい事ほど調べたくなるもんだろ?」
「仕事ほっぽり出して何をなさっていますの」
責めるような口調に反し、白井の表情はどこか優しげだった。俺は今日、そんなに怖い顔をしていたのだろうか。
しかし、本当に大した事じゃないんだ。少なくとも、白井が関わるような事じゃない……関わらせて、たまるものか。白井も初春も、もちろん涼乃も。
「白井、ミルクあるか?」
「どうぞ」
「ん、ありがと」
ミルクピッチャーを受け取り、黒い液体にミルクを入れる、入れる……まだ入れる。
その結果、比率が見事に釣り合った謎の液体が出来上がった。カップから覗く水面は、見たことのない黄土色をしている。
「……甘っ」
「あれだけ入れれば当たり前ですの。糖尿病になりますわよ?」
「飲むか?」
「結構ですの」
呆れたような白井を横目に、俺はパソコンのページを閉じ、纏めたデータをそそくさと仕舞った。
この資料について白井に追求されたら面倒だし、苦労したとはいえ、ある程度は調べれたのだ。ここいらが潮時だろう。
「それはそうと、今何時?」
「もうすぐ6時になりますわね」
「げっ、もうそんな経ってたのかよ?」
「本当に集中してらしたのね」
ふと窓に目を向けてみると、そこには燃え尽きるような茜色が見えた。今日は涼乃がおらず、外回りにも行かなかったため、時間の経過に気付かなかったのだろう。
明菜に会いに行くのを考えたら、そろそろ出ないと間に合わない。明菜が俺を認識しているかすら怪しいが、味方でいようと決めた以上、あの透明な少女とはなるべく一緒にいたいのだ。
「あ、前原さん。この後みんなで甘い物でも」
「わり、ちょっと野暮用でな」
「野暮用って一体──」
「またな」
カフェオレを一気に飲み干し、俺は駆け足でいつもの病院へと向かった。少し遠いが、明菜の為を思えばなんて事はない。それに、毎日通っていれば慣れてくるものだ。
残された白井の言葉は、当然のように聞こえなかった。
「……お姉様も前原さんも野暮用、ですの」
彼女からすれば、本当は甘味などどうでもよかった。ここ数日、ずっと前原が難しそうな顔をしていたので、ほんの少しでいいから休ませてあげたかったのだ。
もっとも、そんな不器用な気遣いを、彼は一考の余地もなく拒否した訳だが。
「(お姉様も前原さんも、何か大変な事を抱え込んでおられるのは一目瞭然ですのに……黒子では頼っていただけませんのね)」
らしくない溜息がふとこぼれる。
強大な力を身に宿し、多くの戦いを駆け抜けてきたその少女は、しかし敬愛する人の助けになれない己の無力さに、ただ歯噛みした。
*
学園都市には『裏』が存在する事を、松浦奏は知っていた。いや、存在しないとおかしい、と間接的に理解していた。
きっかけはただの偶然だった。
「私が担当やるの?八月十日事件の?」
様々な思惑が交錯し、最後には1人の少年が全てを薙ぎ払い、闇に葬った事件である。
当時
「……へぇ」
一定の高さを境に刈り取られた天井。
隕石が落ちたような大穴。
しかし汚れ1つ無い内装。
そして当事者全員の、局所的な記憶喪失。
報告書にあったこれらの事を見て、私は好奇心をくすぐられた。
どんな能力を、どう使えばこのような様相を作れるのか、答えの片鱗すら掴めなかったのだ。私にとってそれは稀有なことで、だからこそ私は惹かれたのかもしれない。
だから知りたかった。知ろうとして、わざわざ時間を取って現場に向かって、監視衛星の映像に目を通して、そして絶句した。
なぜなら、そこには何もなかったから。
「(……何もありませんでした、ってわざわざ主張してるみたい)」
廃墟と化した現場は、たった数日で綺麗さっぱり元通りに。監視衛星の映像は、数日分がごっそりとすげ替えられている。まるで、初めから何も無かったのだと言うように。
「(監視衛星のハッキングなんて、学園都市の上層部が許すはずがない。でもこうして存在してるってことは……)」
そんな中、学園都市の最高機関である統括理事会から、異例の厳命が私に下された。
内容は、事件に関する全ての緘口令。
この時点で、私は何となく理解した。学園都市には、私の知らない世界があることを。触れてはならない領域があることを。
「(……まあ、学園都市だもんね。それくらいあるのも当然か)」
私はそれ以上追求しないことにした。私の技術をフル動員すれば真相を突き止めることも出来ただろうが、街を敵に回す気にはなれなかったのだ。
これは当然の結論だと思う。深淵を覗き込む趣味など無いし、ましてや覗かれる趣味も無い。勝てないと分かっている怪物の巣窟に飛び込むなど、自殺とどう違うのだろうか。
……そんなの、分かりきってるのに。
「しょーくん、この『実験』はしょーくんが思ってる以上に危険だよ。迂闊に首を突っ込むべきじゃない」
『知ってるよ』
「いや、絶対知らない。しょーくんが想像できるものとはレベルが違う」
『………』
「そうだね、
とある少年が、その深淵に飛び込もうとしていた。出会ったばかりの、よく分からない1人の少女のために。
私は正直に伝えた。その深淵の深さを、待ち構える怪物の巨大さを。そして、飛び込んだ先にあるであろう末路を。
私は総務役員だが、その前に風紀委員である。少年の自殺を見過ごす気はなかった……けど。
『だったら尚更、ミサカを助けねぇとな』
「……人の話聞いてた?」
『聞いてたよ。そんな所にいるミサカを放っておけないってことだろ』
「このままじゃ死ぬよって言ったんだけど」
『その時考えるよ』
何でもないように彼は言う。その軽い口調は、嘘でも強がりでもない事の証左でもあった。
気付かぬうちに深淵に堕ちてしまうならまだ分かる。けれど、分かったうえで飛び込もうとするのは異常でしかない。
ましてや彼は八月十日事件を経験し、本当の意味で生死を彷徨った身だ。なのに何故恐れないのだろう。何故そうやって聞き捨てることができるのだろう。
『言ってるだろ。ミサカを放っておけないんだ』
「自分がその代わりになるって?それでしょーくんが死んだら目も当てられないでしょ」
『なら涼乃にも聞いてみろ。多分同じ事言うと思うぞ』
「………」
中村涼乃なら、きっとこうする。
そんな曖昧な、確証すらないものを理由に、躊躇なく深淵に飛び込む。ともすれば妄信とも言えるその思考が、私にはひどく危ういものに思えた。
彼は自分の事を、本当に何とも思っていないのか。なら、もし彼女を失ったら、彼はどうするのだろうか。
「(……だからこそ、しょーくんは戦うのかな)」
中村涼乃ならこうする、という思考自体が、彼にとっての正義なのかもしれない。
だとしたら何と強く、そして脆いのだろう。楽天家の理想論の方が、まだこちらも安心できただろうに。
「……第一九学区の乱数科学研究局第二試験場」
『え?』
「第五学区の西部山東公園。第一八学区の第二資源再生処理施設。第一七学区の操車場──」
考えた末に、私は片鱗だけを教えることにした。何も知らない彼が、少しでも安全に深淵へ降りれるように。
『実験』を理解せずとも、それが遂行できそうな場所を探す事くらいは出来る。……それくらいしか、私には出来ない。
「──……このくらいかな」
『……すまねぇ、恩に着る』
私は協力できない。あなたは間違っている、あなたの正義は歪んでいる。
そう言いたかったが、口にはしなかった。自分すらどこかの一線で見限ったような少年に、一体どんな言葉が通じると言うのか。有神論者から神を奪う方法など、私は持ち合わせていない。
「(……私にできるのは、可能性を示すこと)」
いつか自分が言った言葉をふと思い出す。
彼に何を言ったところで、きっと根本的な解決にはならない。なぜなら、彼はただ純粋に、自分の正義に準じているだけなのだから。
それを貫けるだけの力があるのは、彼にとって幸運なことなのだろうか。
「(私ではしょーくんの手綱を握れない)」
それができるのは、たった1人の少女だけ。断じて私ではないんだ。
幼い頃から天才と謳われ、あらゆる面で秀でたその少女は、しかし1人の人間も導けない己の無力さに、ただ歯噛みした。