氷塊が砕けるような音がした。
直後、前原将貴の世界が止まった。それは雪が溶けるようにゆっくりと動き始め、本来の感覚に追い付いていく。
そして捉えた。俺のクロスカウンターが突き刺さり、不細工に顔を歪める最強を。
「が、ァ……ッ!?」
「──ガァッ!!!」
叫びと共に、世界の速さが完全に元に戻った。顔面から弾かれた
直後、右腕に凄まじい衝撃が突き抜ける。指先から肩まで、彫刻刀を一息に走らせたような痛みが駆け巡った。
「ギ──っ」
その痛みを噛み殺し、明々する視線を向ける。髪は長く目元は見えないが、一方通行は倒れたままだ。
学園都市の、第一位。
あらゆるベクトルを操り、理論上触れることすら出来ない、紛うことなき『最強』。そんな存在を殴り飛ばすなど、人類初の偉業に違いない。
「ぐ……く、ふぅ……っ!」
手首を抑え、歯を食いしばって痛みに耐える。
突っ込んでくる相手を拳で迎え撃ったのだ。ピッチャーが投げたボールを素手で打ち返すような暴挙に違いない。
しかしどういう訳か、手は赤く腫れるだけで、骨折はもちろん脱臼も無さそうだ。黄泉川さんの訓練の賜物だろうか。
「く、はぁッ……!!」
額の汗を拭い、再び一方通行に目を向ける。やはり起き上がる気配は無かった。
一方通行を倒すのに、難しい事はしていない。ただ拳に『反射』を纏わせ、一方通行のそれと相殺させただけだ。これが出来たのは、一方通行がデフォルトで反射を使っている事を知っていたからだろう。
かつて
「(にしても急に突っ込んできたな。もう少し遅けりゃ顎を狙えたのに)」
そして、『反射』が無い一方通行など大した敵ではない。最強なのは能力でしかなく、一方通行自身ではないのだから。
加えて、黄泉川さんの訓練を受けてきた俺からすれば、まっすぐ突っ込んでくる敵を迎え撃つなど造作もないことである。
「……まずはミサカだな」
指に異常が無い事を確認し、ミサカの方に足を向ける。ミサカは状況を飲み込めてないのか、上体を起こしたまま呆然としていた。自分の成し遂げた事の重大さがようやく実感できる。
「──、なに、を……したのですか、とミサカは……」
「無事っぽいな、よかった」
「あなたは、一体……?」
「いいから。とりあえず病院に──」
「────……ァ?」
ふと、底冷えするような声が聞こえた。その声は大きくはなかったが、神経に不調を来たすには十分なようで、熱帯夜なのに鳥肌が止まらない。
「──ァ、え……え……?」
その時俺は、半ば反射的に走り出していた。一刻も早くトドメを指すべく、硬く握った拳を携えて。そうして、地面を殴るように拳を振り抜こうとして──
「──な、なン……なンだこりゃァァァああああァッッ!!?」
轟ッ!!と、吹き抜けた颶風に阻まれた。見えない壁に殴打されるように、全身に衝撃が走る。鍛えたはずの体幹はいとも簡単に崩され、体が浮かび上がる。
「ぐ、ぶぇ……!?」
一瞬で数十メートルほど飛ばされ、遠くに生えた風力発電の柱に激突した。能力のおかげで無傷で済んだが、柱には大きな凹みが生じている。
しかし恐れ戦く暇は無い。視線の先では、長い眠りから覚めたように、第一位を冠する
──失敗した。
──失敗した。
──失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した。
「(クソが……ッ!!)」
歯が軋む音が聞こえる。俺は柱を思い切り殴りつけ、逃げ出そうとする体を必死に抑えつけた。
確かに、俺は『反射』を打ち消せる。しかし、それは俺が
そして、反射を破られた一方通行は、今度は
言ってしまえば格が違う。
最強なのはあくまで能力だ。しかし、それが最強だからこそ、一方通行は第一位として君臨しているのだ。
「(もう反射は使えない。相手がベクトル操作をしてきたら、俺には何も出来ない……!!)」
ベクトル操作を歪めることも不可能ではないかもしれない。しかし、複雑化した力のベクトルに、俺の体が耐えうる保証が無い。そんなカードをぽんぽん出すのは気が引ける。
「……ァ、……かはッ、アハあはハハハハハハハハハハァッッ!!!痛ェ、痛ェよ。これが『痛み』か!!」
「(どうする。考えろ、勝たなくていい、生き残る方法は無いのか……!)」
ふらついた足で立ち上がり、一方通行は顔を覆った。その手に血が付着するのを見て、その口元を更に歪めた。
もしかしたら初めてなのだろうか、彼が自分の血を見たのは。しかし、その血が眠り以上のものを目覚めさせたのは明らかだった。
「面白ェ、おもしれェよ!最っ高に面白ェぞオマエ!!」
「く、そが!!」
再び飛び込んできた一方通行を、今度は全力で横に躱した。直後、砲撃を受けたように地面が爆発し、砂利に小規模なクレーターを生み出した。
能力の桁が明らかに上がってる。やはり本気になったのか──なんて悠長に考える時間は、無かった。
「返しにたァーッぷりお礼してやンよ!!逃げてンじゃねェぞ三下ァッ!!」
「くっ──」
砂埃から伸びた手を、体を捻って横に交わす。速度を保ったまま直角に曲がったのか、攻撃が想定より数段速い。今のを躱せたのは反射神経と偶然によるものだろう。
しかし無理に捻ったため体勢が崩れ、結果的に無防備な姿を晒すことになる。一方通行はそれを見逃すことなく、その場で急停止し、その細い足を緩慢に振り上げた。
ミシリ、と軋む音がした。
「ぐ、がぁっ!!!」
今度は避け切れず、トラックに轢かれたような衝撃が走った。俺は吹き飛ぼうとする体を何とか抑えるが、制御が上手く出来ない。
そんな中、一方通行は緩慢に手を出した。まるで断頭台のスイッチを押すように。
避けれない。そう確信した俺は、あえてその場に立ち止まり、聞こえないくらい静かに唱えた。
『
「──、」
「──?」
氷塊が砕けるような音がした。直後、それを塗り潰す爆音が響いた。
ほぼ同時に俺は弾かれ、高く積まれたスクラップに激突する。明々する視界に、大きく揺らぐ歪な塔と、それを呆然と眺めるミサカが映った。
「(なん、で、こんな所に──)」
落下に近い形で着地した俺は、すぐに這うように倒れるミサカに駆け寄り、その上に覆い被さった。
ミサカは何かを言おうとするが、その声は轟音に掻き消された。揺れていた塔が倒壊を始めたのだ。
学園都市の金属スクラップは『外』より大きく、1辺が2メートルほどもある直方体だ。下敷きになれば只では済まないだろう。
「く、──『完全反射』!!」
降り注ぐ金属塊が、轟音と共に弾け飛ぶ。弾かれたそれが別のものに当たり、繰り返され、その結果僅かな安全スペースが生まれた。
『
本当の意味であらゆる力を跳ね返す、俺の唯一の切り札である。原理は分からないが、能力の上限が完全に解放され、核爆弾でも跳ね返せると科学者からは言われている。
しかし、これは諸刃の剣だ。
完全反射が有効なのはほんの一瞬で、非常にシビアなタイミングが要求されるからだ。少しでもズレたらどうなるか、は言うまでもない。
「──、!」
「……?大丈夫ですか、とミサカは問いかけます」
「──ああ、大丈夫、だ」
がつん、と脳が揺れる感覚が走る。それは衝撃音ではなく、完全反射の副作用だった。
理屈は分からないが、完全反射を使った後、俺は能力が暴走しがちになる。それは散発的かつ偶発的で、制御不能に近い状態になるのだ。
これらが完全反射を切り札とする、そして出来る限り使わない最大の理由である。
「……いけません、今からでも逃げてください、とミサカは警告します」
「黙っとけ。大丈夫だから、絶対」
「あなたは実験の関係者じゃない。傷付く理由などどこにも無いはずです、とミサカは──」
「ミサカが傷付く理由も無い。何でそんな事も分かんねぇんだお前は」
そう言い切り、近くの金属塊を支えに立ち上がる。副作用の余波を受けたのか、何百キロもある金属塊が一瞬だけ浮かび上がった。
その一瞬に、赤い瞳が割り込んだ。不明瞭な視界に、地獄のように赤い瞳が割り込む。
「…………く、くく」
「……?」
「くく……くふっ、カハッ……カハハッ、アハあはアハハハハハはははははハハハハァッッ!!!」
一方通行が狂ったように笑い出す。堪え切れないのか、病に侵された動物のような笑い声が、次第に甲高いものになっていく。
「何だなンだァ?ログインボーナスにしちゃァ随分と豪華じゃねェか!まさか
「──、!」
「なるほどなァ、どォりで反射が上手くいかねぇワケだ。かはッ、アハぎゃハハハハハハハッ!!」
楽しくて楽しくて仕方ない、そんな様子で一方通行は腹を抱えた。感情を剥き出しにした、いっそ無邪気な笑い声が、耳の奥に突き刺さる。
「1年くらい前かァ?俺と同系統の能力者がいるって聞いた時でも、こうは笑わなかったぜ」
「………」
「いやァ、こうなるとこの計画にも意味があったかもなァ。こうしてオマエに会えたンだから」
最強が両手を広げる。殺意を凝縮させた壮絶な笑みを浮かべながら、十年来の恋人を迎え入れるように。
ギロチンの前に立たされた人間はこんな気持ちになるのだろうか、とふと思った。
「さァて……こっからは本気だ。ちったあ楽しませてくれよな格下ァ」
「……っ!」
「上手く逃げろよ?すぐに死ンじまったらつまンねェからなァ──」
「────お待ちください」
かつんっ、と無機質な音が聞こえた。同時に聞こえる、ひどく機械的な少女の声。
俺はこの声を知っている。すぐ後ろにいるミサカの声のはず。なのに、何故かミサカがいる場所より遠い。まるで処分場の外から飛んできたような声だ。
「ただでさえ想定外の戦闘」
「これ以上は予測演算に誤差を生じる恐れがあります」
「とミサカは警告します」
同じ声が聞こえる。1人が喋っているのかと思ったが、違う。その割には、息継ぎというものが無さすぎる。
「そちらの方も同様です、とミサカは同じ警告をします」
勢い良く振り返った先には、見慣れた少女がいた。いつの間にか、聞こえる足音も1つではなくなっている。
「あなたの能力は非常に強く」「そのため戦闘による歪みは大きく」「計画そのものを破綻させる恐れすらあります」「とミサカは説得します」「しかしまずは謝罪と敬意を表しましょう」「我が身を盾に戦う姿は」「とても高潔で」「素晴らしいものでした」「とミサカは称えます」
「──、?」
1人、2人、3人、4人5人6人7人8人9人10────際限なく増えていく、御坂美琴と全く同じ造形の少女。
あまりに非現実的な光景に、俺は思わず後ろに下がった。投げかけられた言葉が、宇宙人の言語に聞こえてならない。
「……ミサ、カ?」
「はい。ミサカです」「ここにいる全てがミサカです」「詳細は機密事項となっているので説明できませんが」「間違いなくミサカです」「とミサカは答えます」
同じ顔。同じ声。同じ姿。
そこにいた少女達は、それぞれがあまりにも似すぎていた。御坂美琴に酷似しすぎていた。
まるで定規で測ったように。まるで工場で大量生産される商品のように。
『クローン』
先ほどの一方通行の言葉が、急に実体感を帯び始め、両足を地面に釘付けにした。
「──ハァ?今更何言ってるンですかァ?」
それを解いたのは、皮肉にも一方通行の声だった。抜刀された白刃のような声に、しかしミサカは動じない。目元を覆う
「ようやくマシな奴が現れたンだ。止めるはずねェだろうが」
「これ以上の戦闘は計画に致命的な歪みをもたらす恐れがあります、とミサカは再度警告します」
「どォでもイイな。先に殺されたくなかったらさっさと帰ンな」
つまらなそうに吐き捨て、一方通行は視線を外した。会話を切りたい、目の前のことに集中したい、好きなゲームを前にした子供のような気持ちが垣間見える。
「そうはいきません。警告を聞き入れられないのであれば、こちらも手段を選ばざるを得ません、とミサカは最終警告を行います」
「ヘェ。で、なに?1万回も殺されといて何も出来ねェオマエらがなにすンの?見せてくれよ」
「──、」
ミサカ達の数人が、壁となるように1歩前に出た。何をしようとしているかは分からない。しかし、どんな結末を迎えるかは理解できた。
このままでは虐殺になる。
止めないと。一方通行もミサカ達も。でもどうやって?俺に一方通行を抑えるほどの力は無いし、ミサカ達を抑えるにはそもそも頭数が足りない。
どうする。俺が戦うのは良い。最悪なのは、ミサカ達が1人でも殺されることだ。
どうする。どうすれば、戦いは止められる。
「(我が身を盾に──)」
ミサカの言葉が、ふと脳裏によぎる。その瞬間、俺は近くに落ちていた、ミサカが使っていたであろう大型拳銃を拾い、その銃口を突きつける。
「やめろ一方通行」
「あン?」
「その場を動くな。……ミサカに、手を出すな」
一連の流れに、一方通行は意外そうに、ミサカ達は虚をつかれたように俺を見た。
これが浅はかな選択なのは分かってる。ただ、自分が何もしないことに耐えられなかっただけだ。
「人殺しみてェに言うなよ。俺が相手してンのは、ボタンひとつで造れる模造品だぜ?」
「…………、だとしても、お前みたいな奴が奪っていいものじゃない」
ごりっ、と硬い感触がした。普段あれだけ身近に置き、武器として使ってきた拳銃に、こうも恐怖するとは思わなかった。
背筋に冷や汗が流れる。呼吸が乱れ、震えた指が引き金を引きそうで怖かった。
「なにオマエ?俺を脅してンの?」
「……ミサカに手を出すな、そう言ってるだけだ。難しい事じゃないだろう?」
「オマエになら出してイイのか格下ァ?」
「やれるもんならやってみろ」
その言葉に満足したのか、一方通行は嬉しそうに口角を釣り上げた。そのまま踵を返し、処分場を出ようとする。
何故お前はこんな『実験』に加担するんだ、とその背中に問いかけた。
「理由聞いて納得すンのオマエ?」
「……一応聞くだけだ。期待はしてない」
「ハンッ、大層な口叩きやがる。そうだなァ。強いて言うなら、絶対的なチカラを手にするため、ってとこかァ?」
「………」
「まァそれもここまでだ。クソつまンねェ計画より、オマエと遊ンだ方が余程楽しそうだしな」
ぱちん、と一方通行が何かを弾いた。俺にまっすぐ飛んできたそれは、
俺が受け取るのを見届けると、一方通行は今度こそ背中を向け、外周の出口に消えていった。
緊張の糸が切れたのか、俺が膝から崩れ落ちるのは、それとほぼ同時だった。
「10014号から10042号まではコンテナの撤去を」「10043号から10071号まではスクラップ等廃材の撤去を」「ミサカは何をしましょう」「10013号の保護と治療を」「しかし実験は」「中止せざるを得ません」「では延長を」「しかしチューニングが──」
ミサカ達が何か言っているが、何も聞こえない。精神を支配していたのは、生への安堵より死への恐怖だった。
それからどれだけ経ったのだろう。気が付くとミサカ達はいなくなり、視界には綺麗に整備された処分場が広がっていた。初めから何も無かったのだ、とでも言うように。
そんな中、右手に握った大型拳銃だけが、存在を主張するように静かに震えていた。