「あー⋯⋯しんどー⋯⋯」
イギリスの歴史そのものを背負っていると言っても過言ではないのがここ、ウィンザー城。世界遺産にも登録されているその場所に、ひどく不釣り合いな日本語が聞こえた。
石造りの城門から現れたのは、黒いブレザーを纏った東洋人、前原将貴である。
『本日はありがとうございます。お車を用意しておりますので、どうぞこちらへ』
『⋯⋯あ、お疲れ様です。いえ、ありがたいですが結構です。歩きたい気分なので』
『夜はもう遅く、ましてや異国の地です。ご遠慮なさることはありません』
『本当に大丈夫です。お気遣いありがとうございます』
『夜のロンドンは古くから良くない事を聞きます。
『あ、それくらいなら余裕で倒せるんで』
門の前にいた送迎車を丁重に断り、衛兵さんに何度も何度も頭を下げ、俺は遂にウィンザー城から脱出した。
衛兵さんは困った顔をしているが、本当に大丈夫だから見逃してほしい。確かに切り裂きジャックは凶悪だが、
そもそも国賓用リムジンの独り占めなど、並の学生に出来てたまるか。
「(奏は平気でしそうだけど)」
1人で城に残る少女を思い浮かべ、思わず失笑した。
極東の街の中学生が、世界で最も栄光あるイギリス王女と対談とは、一体どんな冗談だろう。巻き込まれた側としては冗談であって欲しかったが。
「⋯⋯はあ」
イギリスに上陸して僅か半日、もう日本が恋しくてたまらない。涼乃達はアメリカで楽しんでるだろうに、何が悲しくて旧大英帝国の王位継承者に謁見せにゃならんのだ。
げんなりしながら、腹の虫をどうにか宥める。
晩餐会は数時間前にあったが、王室の料理を、国賓が招かれる空間で、王女の前で口にしたのだ。味も何もあったものじゃない。手の込んだ拷問か?
「⋯⋯〜〜♪」
適当に歌を口ずさみ、夜のロンドンを歩く。ぽつりぽつりと人が見え始め、安っぽい電灯に影を落としている。
休日のせいか、夜道は仕事人より酔っ払いや遊び人の方が多かった。東洋人かつ学生の俺は、ここではさぞ目立つことだろう。
「ん?」
しかし、それ以上に異質な存在がいた。
言うならば子供、それも女の子だ。きょろきょろと辺りを見渡しているあたり、道に迷っているのだろうか。
「(⋯⋯ひと仕事するか)」
溜息をつき、駆け足でその少女の元へ向かう。海外の習慣は知らないが、女の子が夜中に出歩く、というのは万国共通で不自然だ。
『すみません、そこのお嬢さん』
『?』
『少しお時間──』
英語で話しかけると、少女が振り返った。
瞬間、ピンクのパーカーと白いビキニが視界に飛び込んできた。
「⋯⋯変態?」
「いきなり何ですか。ぶっ殺しますよ」
「⋯⋯⋯」
少女に背を向けて、ゆっくりと深呼吸する。一度情報を整理しよう。
おかっぱの黒髪に東洋っぽい顔、無線機がチラ見するデカいリュック、首筋に伸びたインプラント、フードにアンテナが着いたピンクのパーカー、そこから見える白ビキニ。
うん、最後だけ分からない。
「⋯⋯えっと、君は日本人──って待てコラ逃げんな」
「さっきから何ですか。ナンパなら間に合ってるのです」
「違うわい」
逃げようとしたビキニ少女の前に回り込み、怪しい者じゃないと両手を掲げる。ビキニ少女は思いっきり嫌そうに俺を睨んでいた。
「⋯⋯前原将貴、観光客だよ。ついでに日本人だ」
「はあ。
府蘭、と名乗った少女は首をかしげ、正面から見上げるように俺を見た。
同時にビキニもがっつり見ることになるのだが、左胸の模様が歪んでないことから分かるように、身体的な起伏は悲しいくらいに無い。
「⋯⋯とりあえず、外でそういう格好は止めような。あと夜に1人で出歩くのも止めた方がいい。変な奴に絡まれちまうから」
「変な奴なら目の前にいますが」
「違うっつの」
年齢は俺と同じくらいか。日本語は流暢だが、その声は幼いものだった。ぶっ殺すとか言われたけど。
何にせよ、夜に女の子が1人、というのは危ない。お節介とは思うが、宿泊先まで送るとしよう。
「はあ。本当に余計なお世話なのですが」
「夜中にビキニ着てる奴に言われたくない。何なの、追い剥ぎにでもあったの?」
「んな訳ないでしょう。ロンドンの治安舐めないでほしいのです」
「1番舐めてるの君だと思うけど」
こんな姿で練り歩かれては日本が誤解されかねない。放置してたら色んな意味でやばいぞこの子。
「⋯⋯とりあえず前のファスナーだけでも上げとけ。肌をそんなに見せるものじゃない」
「むっ。いいですか、これは宇宙と私の魂を接続するにあたって衣服が邪魔なだけで、断じて私の趣味ではないのです」
「上げなさい。いい子だから」
「むむっ!」
少女は不服そうに頬を膨らまし、しぶしぶファスナーを上げた。それでも乳白色の太ももは丸出しのため、変態係数はそれほど落ちていない。せめてパレオでもあればまだマシだったろうに。
「まあいいわ。君の宿泊先ってどの辺?」
「いえ、教える意味がありません。ストーキングされても困るので」
「誰がそんな事するか。俺だって暇じゃないんだよ」
「むむむっ!それは私にストーキングするほどの魅力が無いという事ですか?聞き逃せませんね」
「誰もそんな事言ってねーだろーが!」
ぎゃーぎゃー騒ぐ東洋人(しかも片方は太もも丸出しのビキニ娘)に、道行く人の視線が刺さる。頼むから通報はしないでくれ。俺は被害者だ。
「むふぅ、叫んだせいでお腹が空いたのです」
「あ?この時間ならコンビニぐらいしか⋯⋯いや待て、その格好でどっか入ろうとすんなよ。通報されるぞ」
「いくら通報されても警察なんて動きませんよ。ロンドン市警は忙しいのです」
「それ要は治安が悪いってことだよね?」
そんなツッコミは見事にスルーされ、ビキニ少女はすたすた歩いていく。色んな意味で放っておく訳にはいかないため、俺も着いていくことにした。
「つーか、こんな時間になんで外に?」
「晩ごはんなのです。気になる店があったのでそこに行こうかと」
「夕飯か。それなら、まあ」
「あなたの許可が必要な意味が分からないのです」
「未成年の日本人が海外で外食だろ?格好のカモにされるの目に見えてるじゃん」
「はあ。そんな気になるならあなたも来ます?」
府蘭の提案に、俺はため息をついた。
良くも悪くも、この子は警戒心が薄すぎる。もし俺が悪党だったらどうするつもりだろう。ぼったくられるだけならまだしも、身の危険に晒される事だってあるのに。
「⋯⋯分かった。俺も腹減ってたからな、ご一緒させてもらおう」
「むふふ、晩ごはん代が浮いたのです」
「言っとくけど割り勘だからな?」
「ケチな男は嫌われるのですよ?」
「⋯⋯まあ飲み物くらいなら」
「よっしゃ、今日は飲み放題なのです」
「やっぱ割り勘だてめぇ」
そのまま歩いて数分。ウィンザー城西部のテムズ・ストリートの一角。
案内された先にあったのは、中が丸見えの大きな窓と、スポットライトで照らされた『PUB』の文字。
「──ってここ酒場じゃねぇか!!」
「酒場じゃなくてパブなのです。日本で言うファミレスに近いですね」
「そーゆーもんなの?」
「そーゆーもんなのです。つべこべ言わずさっさと入りやがれです」
と言いつつぐいぐい押してくる府蘭。入った時の視線が怖いのか。まあ異国の地で一斉に見られたらそりゃ怖いわな。
「大丈夫なのです。別に襲われたりはしませんよ」
「だったら押すな。分かった、俺が先に入るから」
根負けし、俺はしぶしぶドアを開いた。キィと扉が開くと同時に、強烈な酒の匂いが流れてくる。一瞬クラっときた俺だが、背後の府蘭は楽しそうだった。
「おお、場末感があっていい雰囲気ですね。宇宙人の攻撃でまっさきにやられそうな場所なのです」
「君って絶対B級映画とか好きでしょ」
「宇宙人系のパニック映画なら特に。前に見た『たけのこ星人VS宇宙キノコ職人』は最高だったのです」
「ごめん。話振っといてアレだけどもういいわ」
タイトルだけでもう地雷臭がやばい。むしろ踏む前に爆発してるまである。タイトルだけでZの烙印を叩きつけても良心が欠片も痛まない。
ふんす、と無い胸を誇る府蘭をスルーし、空いている席に腰をかける。すると案の定視線が集中した。見ると周りは、1人2リットルは平気で飲んでそうな大男達ばかりで、成人すらしていない俺達は明らかに場違いだった。
「さて。君はなぜここがファミレスだと思ったのかね?」
「府蘭でいいですよ。それにいいじゃないですか。これもまたイギリス文化なのです」
「⋯⋯む」
「そもそもこんな時間に他にお店なんかやってないのです」
「⋯⋯それもそうか」
時間と場所、ついでに府蘭の格好と、あらゆる点から俺達は浮きまくっていた。店にいた大男達も、声をかけるか否か躊躇うほどに。
『なんでこんな所にガキがいるんだ?ていうかあの格好⋯⋯』
『一緒にいる坊主の趣味か?まだ若いのにやべぇなアイツ⋯⋯』
『あれが
断じて違う。ドン引きすんな、せめて笑い飛ばしてくれ。あと最後のやつ何だ。そんなの日本でも受け取り拒否だ。
『違います。こいつの趣味です。俺はむしろ被害者ですからね!』
『おっ、なかなか英語が上手いじゃないか』
『坊主、彼女だからって性癖を押し付けていい訳じゃねーぞ?そんなんじゃ上手くいかねーから』
『だから違うっつの!』
俺の魂の叫びに、男達がゲラゲラ笑う。雰囲気が変わるのは良いが、その代償にとんでもない烙印を押されつつあった。
原因の府蘭は知らん顔でメニュー表を指さし、筋肉もりもりの店長に注文をしている。観光客と言っていたが、話す英語は流暢なものだ。
『これと⋯⋯あとこれもお願いするのです。飲み物はオレンジジュースを。お代はこの変態がもつので』
「ちょっと待てコラ聞き逃さねぇぞ。あと変態はオメーだろ」
『これが絶対似合うからって無理やり⋯⋯およよ、なのです』
「てめぇ、このパブそのものを味方につける気だな⋯⋯!?」
府蘭は下手くそな泣き真似をすると、男達はなぜか気の毒そうな目で俺を見てきた。
ぽんっ、と筋肉もりもり店長さんが俺の肩を叩く。人間欠点のひとつやふたつあるさ、だから気にするな、と優しい笑みを浮かべながら。
『待って店長、ホントに待って!こんなん俺の趣味じゃないから!!ていうか府蘭にビキニなんて全然効果無いだろうが!!むしろ悲しくなってくるわ!!』
「あぁん?誰の体が悲しいって!?その安い喧嘩、高く買ってやるのですよ!!」
「ちょ、待てやめてここ店内!!」
がたがた!と対面の府蘭が机を乗り出し、俺の両頬を思いっきり抓ってきた。その様子に、ジョッキ片手の男達が口を開けて大笑いする。
なお能力者である事がバレたら余計な騒ぎを生むため、反射は使わない。そもそも使うほど痛くなかった。
「分かった分かった、悪かったよ。今日は飲み放題でいいから」
「むふ、分かればいいのです。じゃあ早速このレモネードを」
「堂々とアルコールのページ見てんじゃねぇ」
やがて手元のブザーが鳴り、食事の完成を知らせてきた。カウンターに行き、注文したベイクドポテトとミートパイ、ジョッキのオレンジジュースを受け取る。隣の府蘭は、なぜか男達からフィッシュ&チップスを貰っていた。
「むふふ、やはりさすがは英国紳士ですね。見ず知らずの私に奢ってくれたのです」
「単純に面白がられただけじゃ⋯⋯んじゃ、とりあえず乾杯でもするか」
「何に対してです?」
「⋯⋯今日という日をどうにか乗り越えられたこと、かな」
「一体何があったのですか⋯⋯まあいいのです。かんぱーい」
カチャン、と軽快な音が鳴る。食事の味付けは正直微妙だったが、飾る必要の無い会話は楽しかった。周りも何だかんだ悪い人達ではなく、時折会話に混ざってはゲラゲラ笑い、心地よい喧騒を生み出してくれている。
国を代表した晩餐会も貴重な経験だが、やっぱり俺はこっちの方が合ってるな、とふと思った。