7月23日。空の青はさらに濃くなり、それを拭うような日差しが強く照りつけている。
そんな中でも、
「8月の風紀委員夏季公募についてだが、俺らの担当は――」
「………」
「……中村?」
「……?え、あ、すみません。何でしたっけ?」
支部にいた中村涼乃が、はっとしたように顔を上げた。そんな私を見た坊主頭の先輩が、半ば憂い、半ば呆れを込めた表情を浮かべる。
何も聞いていなかった。先輩の話どころか、自分が考えていたことすら思い出せない。
「えっと……」
「……中村。今日はもう帰れ。あとは俺達でやるから」
「えっ?あの、大丈夫です。ちょっとボーッとしてただけですし」
「それで仕事が手につかないんじゃ意味ねぇだろ」
「……そうね、中村さん。今日は帰って休みなさい。そんな様子じゃ仕事も頼めないわ」
支部代表でもある固法先輩の声に、返す言葉を失ってしまう。それに同調し、将貴をはじめ、支部の面々が労いの言葉をかけてくれた。
「涼乃?どうしたんだ?」
「何かありましたの?わたくし達でよければ、何でもお聞きしますわよ?」
「そうですよ!中村先輩、最近ちょっと変ですよ?何かあったんですか?」
でも、言えるはずがない。
「……将貴」
「ん?」
「……その、またね」
返事を待たず、自分の通学鞄を片手に、私は飛び出した。
その結果、地に足を着けることなく、私は帰宅した。重力を感じる暇もなく、気分が悪くなることもない。恐らく人生最速の帰宅だ。
「……ただいま」
空間移動の並行演算。
演算を並行して行うことで、空間移動のインターバルを短くする方法だ。しかし、空間移動は非常に複雑、かつ高度な演算を要する能である。それを並行するなど、いくら
でも、能力の絶対値が上がった今なら、それも簡単にできる。
「………」
トンッと。玄関まで靴を跳ばして、私はソファーに寝転んだ。
幻想御手を使った結果、私の能力は格段に上がった。それこそ、ここ数年の努力を踏み潰す程に。
だからこそ感じる。私が行ったのはただのズルであり、冒涜であり、裏切りだ。
「何やってんだろ私……」
不意の停電にトラウマを起こされ、その克服を口実に、分かっていながら禁断の果実に手を出した。
……馬鹿か私は。目的を履き違えてどうする。
私は能力が欲しかった訳じゃない。もっと強く、そして将貴の助けになりたかったのに。こんな方法を選んで、将貴が喜ぶ訳もないのに。
「将貴……」
ソファーにあったタオルケットを抱き締め、仄かに残った匂いに身を委ねる。体の奥がじんわりと熱くなり、麻酔を打たれたように手足が重くなっていく。
「(あとどのくらいかな……)」
幻想御手を使った者は、代償として意識を失う。
それが判明したのは昨日のことだ。『人が倒れている』という通報の爆発的な増加は、3日前に将貴が立てた仮説を裏付けるには十分だった。
逆算から出した期間は、およそ3日。
私の場合、今日。
「(まぁ、仕方ないよね)」
自嘲気味に笑う。私は普段から髪に着けている白い髪留めを外して、胸元でそっと握りしめた。
どうする事もできないし、どうする気もない。どんな原理かは分からないが、私は今日を越えられない。
「(自業自得、だもんね)」
ズルをしたなら、その報いを受けるのは当然だ。どうこう喚く方がおかしい。
絶望がそこまで迫っているのに、私がこうも穏やかなのは、きっと私は、とっくに諦めているからだろう。
私には、絶望する資格すら無いのだから。
*
「疲れたな……」
「ええ……」
「……休憩とるか?」
「……そうしましょうか」
第七学区東部。とある総合病院。
廊下を歩く前原将貴は、うんざりしたように溜息をついた。黒い制服の中に風を送るが、効果は無かった。隣を歩く白井も同じなのか、その足取りは重い。
「はあ、これで3人目か……」
「昨日を入れると7人目ですわね。まったく、搬送する身になってほしいですの」
「これからもっと増えるぞ、多分」
ここ数日、『人が倒れた』という通報が爆発的に増えた。その数は、
学園都市に300以上ある支部に、同じだけの通報があったら。風紀委員を介さず、直接病院に搬送された人を含めたら。一人暮らしなどで、誰にも気付かれず倒れる人がいたら。
「幻想御手の被害者は9000……1万はいきそうだな」
「1万、ですか。そこまでいくと笑えてきますわね」
「笑い話で済んだらいいけどな」
話が大きくなり過ぎて実感が湧かないが、事態は急速に深刻さを増している。簡単に言えば、小さな町が全滅したと思えばいい。これはもはや伝染病に近い。
「病院のベッド数は足りそうか?」
「今のところは何とかなってますわ。ですが、現状が続けばそれも危ないと」
「そろそろマジでやばいな……」
幻想御手の開発者は、1万もの人を眠らせて、何をする気だろうか。好奇心だけでここまで出来るとは思えない。この騒動は、入念に計画して実行されたものだろう。
「はぁ、わたくしもか弱い乙女だというのに」
「乙女……?」
「なんでそこにツッコミますの!!」
髪を逆立てる白井を宥めて、院内の休憩所へ向かう。清潔な通路を歩くと、簡単なソファーとテーブルが置かれた談話スペースがあった。
自販機で飲み物を2つ買い、片方を白井に軽く投げる。
「白井、ほれ」
「わっ、とと。何ですの?」
「報酬。ご苦労さん」
白井は不服そうに缶コーヒーを眺め、隣にあったもう1つの自販機を一瞥した。焙煎された豆を磨り潰す所から行われる、本格的なものである。時間と値段はかかるが、それだけ味と気分転換の効率は良いのだろう。
「……常盤台の人間に対し缶コーヒー1つとは、些か安過ぎるのではなくて?」
「いいだろ別に。気持ちの問題だよ」
「……まあ、中村さんに免じて受け取っておきますの」
「可愛げの無い奴だな。素直にありがとうって言えばいいのに」
「前原さんに愛嬌を振りまくぐらいなら、ご飯に振りまいた方がマシですわ」
「ふりかけか何かか?」
謳うように毒を吐きながらも、白井は缶コーヒーを飲み始めた。素直じゃないと思いつつ、俺もプルタブを開ける。
「あー、ちょっといいかい?」
「?」
好物である『こだわりリンゴネクター』をひと口飲んだところで、後ろから貫禄のある声が聞こえた。振り返ると、どこかカエルっぽい顔の小太りの医者がいた。
実はこの医者、学園都市でも卓越した――つまり世界屈指の――名医である。ありとあらゆる手術を成功、患者を全快に導き、関係者からは『
「昨日運んできた4人だけどね?全員が幻想御手と同じ症状が見られたよ?」
「そうですか」
「予想通りですわね」
「それでその中で、1つの共通点が見つかったんだね?」
「……共通点、ですか?」
カエル医は踵を返し、来た廊下を戻って行く。背中を追うと、機能性のみを重視した質素な部屋に辿り着いた。医療器具は無く、数台のパソコンと資料、ファイルといった研究資料が置かれている。
客人を招くような雰囲気ではないので、ここはカエル医個人の部屋なのだろう。
「これは昨日、君たちが運んできた患者の脳波パターンだよ?これが全員綺麗に一致したんだね?」
カエル医が操作するパソコンの画面に、4つのグラフが映し出される。ギザギザに波打つそれは、振幅といい振動数といい、どれも同じ形をしていた。素人目でもそれは明らかだ。
「……偶然とは考えにくいですわね」
「これが幻想御手の効果、ってわけか」
「まだ4人だから何とも言えないけどね?とりあえず報告はしておくよ?」
「はい。ありがとうございます」
白井の言う通り、これは偶然ではないだろう。世の中には、人間の脳波パターンを利用したセキュリティがあるくらいだ。脳波が重なるなど、クローンでも作らない限りまず無いだろう。
「脳波を無理矢理いじれば、悪影響が出ないはずないよな」
「ええ。その結果がこの状況なのでしょう」
カエル医にお礼を言って、俺たちは部屋を出た。気が早いかもしれないが、想定することに損はないし、信頼性もあるなら尚更だ。
「わたくしは支部に戻って報告しますが、前原さんはどうしますの?」
「……とりあえず木山先生に報告するわ。さっきのも伝えるべきだろ?」
「ええ、お願いしますの。では後ほど」
そう言って行儀良く会釈した白井は、一瞬で虚空へ消えた。涼乃もそうだが、やはり便利な能力だと思い知らされる。応用性や利便性は、俺の
「(ま、俺は俺の仕事をしますかー)」
リンゴネクターを飲み干し、角に設置されていたゴミ箱にシュートする。ナースさんの嫌そうな顔を横に、シュートはギリギリ決まった。
「……ふう」
適当にこぼした溜息は、随分と重かった。みんなを助けたいと思う気持ちが、余計な焦りを生んでいるのかもしれない。
〜〜〜
「……〜〜♪」
数時間後。
涼乃の寮に戻った俺は、適当に歌を口ずさみながら、エレベーターに乗り込んだ。狭い箱の中で、若干ズレた旋律が響く。
「(涼乃は起きてるか……?)」
ここ最近、涼乃に元気がない。今日は仕事にすら支障をきたすようになったし、心配かけまいと空元気を振りまく姿も、逆に痛々しくて見てられない。
何か好物でも作ろうか。涼乃の好物は確か――
「オムライスだったか」
材料は何でもいいし、簡単だから失敗もしないだろう。どうせなら手間をかけてホワイトソースにしようか。
……にしても、涼乃は何を悩んでるんだ?
そもそもいつから?たしか停電が起きてから……やはりあのトラウマが……でもジェンガは普通にしてたような。
「(……まあいいか。相談は強要するものじゃないし、本人が納得できるまでそっとしとこう)」
そう納得して廊下に出ると、街の明かりが、夜空を掻き消すように光っているのが見えた。
涼乃から渡された合鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチッという独特の音と共に、頑丈な扉が簡単に開いた。
「ただいまー」
いつもなら『おかえりー』と気の抜けた返事があるのだが、今日は無かった。しかし綺麗に揃った靴を見る限り、出かけている訳でもなさそうだ。
「涼乃、いるかー……って寝てんのか」
リビングへ向かうと、家主はソファーで行儀よく眠っていた。胸元で手を合わせ、すやすやと静かに眠るその姿は、童話の眠り姫のそれだった。
「………」
あまりに無防備な姿に、ほんの少し、ほんの少しだけ劣情を催してしまう。
いや、行動には移さないよ?でも仕方ないよね?特別に親しい女の子が無防備に、しかも制服で寝てるんだよ?意識しない方がおかしいよね?
「(髪キレーだな……写真撮りたい。今ならいくらでも……うーん、涼乃のフォルダでも作って……普通に気持ち悪いな……でも……)」
脳内で勃発する天使と悪魔の戦いを無視し、俺はキッチンに向かった。一時の気の迷いで嫌われでもしたら、死んでも死にきれない気がした。
〜〜〜
「(うし、これで完成)」
30分後。
卵黄でコクを深めたホワイトソースをかけて、オムライスが完成した。これぞ前原特製ホワイトオムライスである。
「涼乃ー、メシだぞー」
返事はない。料理を運んで涼乃の方を見ると、先ほどの体勢から微動だにしていなかった。眠いのは良いが、食事はちゃんと摂らねば困る。
「おーい、夕飯出来たぞ」
「………」
「涼乃の好きなオムライスだぞ。ホワイトソースでチーズ入りのやつ」
「………」
「……冷めちまうぞ。涼乃!」
いつまでも眠る涼乃にしびれを切らし、俺は涼乃の肩を揺さぶる。すると。
――ごん。
「すず――」
――どさっ
「――――………………え?」
土嚢が落ちるような音がした。
涼乃の体が床に転がる。たったそれだけを理解するのに、どれだけ時間がかかっただろう。
「……すず、の?涼乃?おい」
名前を呼ぶが、涼乃はぐったりして動かない。とっさに脈と呼吸を確認するが、それらは時計の針のように規則正しく動いている。
「涼乃。涼乃!!返事しろ!!おい!!」
次いで外傷や瞳孔反射を確認するも、特に異常は無い。とっさにこれらを確認するのは、風紀委員という仕事柄だろう。
怪我が無いことは幸いだが、良かった、とはまったく思わない。状況の認識はできても、理解は何もできない。
「………ふぅー」
長めの深呼吸を繰り返して、思考を無理矢理冷やしていく。不測の事態が起きた時、風紀委員は誰よりも冷静でなくてはならないのだ。
「……ん?」
お姫様抱っこで涼乃を持ち上げ、ひとまずソファーに寝かせる。すると、カランッと、足元に何かが落ちた。
見ると、それは涼乃がいつも付けている、白い髪留めだった。これと言った特徴の無いが、本人は随分と気に入っているようで、毎日欠かさず髪に着けているのを知っている。
「(これ確か、俺があげたんだよな?まったく覚えてないけど)」
いま気にすることじゃない、と割り切って、とりあえず制服のポケットに入れる。まずは状況判断だ。
何が起きた。涼乃が倒れた。
どうして。分からない。
異常な点は。無い。
………。
……………異常な点が、何も無い?
「……まさか」
もう一度脈を確認するが、やはり規則正しい。外傷は無く、持病も無い。涼乃は、まるで眠っているかのように、意識だけを失っていた。
この症状、見覚えがある。昨日と今日、嫌というほど見てきた症状だ。
これは、まさか──
「──幻想御手」