広域社会見学も、気が付けばもう最終日。予定していたプログラムは恙無く終了し、あとは学園都市へ帰るだけとなった。
やってきたのはロンドン・ヒースロー空港。世界有数の規模を誇り、学園都市にも通じる空の窓口である。
「あ゙ー……」
そんな中、泥のような声を上げる者が1人。気を抜いたら地の底に引きずり込まれそうなその少年は、177支部の前原将貴であった。
その制服はぴかぴかだが、その色に応えるように気分はどす黒い。
「(ようやく地獄が終わる……いや、むしろこれからが地獄か……?)」
無気力に天井を見る。ライトが眩しいが、目元を覆う気すら起きない。その背を引くのは、4200万という途方もない額の借金だ。
「辛気臭い顔してるねー。だいじょーぶ?」
にゅっと、視界の隅から見慣れた少女が生えてきた。金糸を編んだようなミディアムヘアに、それを後ろで結んだ深紅のリボン。つり目がちな
松浦奏。
風紀委員における直属の上司にして、俺に借金を負わせた張本人である。
「誰のせいだと思ってんだか……」
「まあまあ。国際問題をお金で解決できたんだから、結果としては上々じゃない?」
にぱー、と奏が笑った。身長は140僅かと小柄ながら、美しさと可愛さが見事に調和した、なんとも不思議な少女である。
こんな少女が飛行機をチャーターしたなど、ぶっ飛んでるとしか思えない。対外的には最良の選択かもしれないが、しわ寄せのレベルが桁違いだ。
「国際問題って言われても、あんま実感ないしな。何か実りはあったのか?」
「キャーリサ様と友達になって、連絡先教えてもらったくらいかなー」
「…………え、連絡先?ホットラインってこと?」
「あはは、私は首脳じゃないよ」
奏は笑うが、事はそんな簡単な話ではない。仮にも学園都市の高位権力者と、イギリス王女が直接対話できるというのだ。この2人が本気になれば、冗談抜きでイギリス転覆が狙えるかもしれない。
「……友好関係の確認とかは?」
「別に正式な条約とか無いじゃん。暗黙の了解に縛られるって面倒くさくない?」
「うーむ……」
奏は自身の立場をよく分かってない……いや、分かったうえで笑っているのだ。古き因習など知ったことか、と。
なんというか、色々とすごいな、こいつは。
「それより、しょーくんは自分の事を気にした方がいいんじゃない?」
「自分の事?」
「借金とか」
薄く開いた蒼い瞳が、俺の体温を一瞬で奪った。いつもと変わらない口調が逆に恐ろしい。
「……いやあの、それは……ホントに請求すんの?」
「当たり前じゃん。経費で落ちると思った?」
「ですよね」
高位能力者への給付金、風紀委員の医療保険など、俺は金銭的には困っていない……が、4200万は厳しすぎる。返済に何十年かかることやら。
「だいじょーぶだって。しょーくんには
「功績って……それで4200万もいくかよ」
道案内、見回り、交通整理……それらを何万回やればいいのだろう。気が遠くなりそうだ。
しかし奏は、今更なに言ってんだとでも言うように眉を顰めた。
「結構いくと思うよ? 例えば
「あんな事件が何度も起きてたまるか」
「そうでもないと思うけどなー。ほら、前も
ビシリと、今度こそ動きが止まった。眼球に刃を突きつけられたような緊張が全身を呑み込む。目の前にいる小さな少女から、明らかに異質な存在感が滲み出した。
「……なに、を」
「後はそうだねー。明菜ちゃんを助ける、とか?」
「なっ……」
……なんだ。どうなってるんだ?
妹達については分かる。助力を求めて電話もしたし、そこから調べたのは理解できる。だが、明菜については何も話していないはずだ。
「……奏」
「んー?」
「……お前は何者だ。どこまで知っているんだ」
奏が不思議そうに首を傾げる。年相応の仕草ではあるが、流麗すぎて逆に周囲から浮いていることに、奏は気付いているのだろうか。
「私は風紀委員の副委員長、松浦奏。それ以上でもそれ以下でもないよ」
「………」
「じゃ、また後でね」
それ以上言うことは無いのか、奏は屈託のない笑みを浮かべて踵を返した。歩く姿すら絵になるのは才能だろうか。
「……はあ」
「えい」
「のわぁっ!?」
ひとまず咎める気は無いらしい、と安堵していると、急に耳を引っ張られた。
想定外すぎる襲撃者の手を掴むと、小さくて温かい感触があった。そのまま振り向くと、ここ数日ですっかり見慣れた顔があった。
「……なんだ、府蘭か」
「なんだとは何ですか。失礼ですよ」
「いきなり耳引っ張っといてそれはないだろ」
ウサミミパーカーのアンテナ少女、烏丸府蘭である。さすがにビキニではないが、ダボダボのTシャツに短パンと、肌の露出は相変わらず多い。
「もしかして見送りに来てくれたのか?」
「ええ、まあ。少しはお世話になりましたし」
「ほほう、意外と優しいじゃん」
「ふふん、もっと褒めるのです」
ふんす、と府蘭が無い胸を張る。隙間から覗く白い肌が強調されるが、攻撃力は全く上がっていない。女性的起伏に乏しいためか、むしろこちらが申し訳なくなる。
「どこ見てんですか、変態」
「いや……なんか、ごめん」
「……何でしょう、急に前原ちゃんをぶん殴りたくなったのです」
「やめて」
後ろのリュックからドライバーを取り出した府蘭をどうにか宥める。というか、空港でそれは普通に不審者だから止めた方がいい。
「それより前原ちゃん、あなたに与えた使命は覚えてるでしょうね?」
「あー、うん。あんだけ言ってくれば流石にな」
「なら良いのです」
ちらりと脇の紙袋を見る。そこには宇宙人のようなウサギ、通称『ウサギグレイ』のストラップが詰め込まれていた。
先日お土産を買った際、『ウサギグレイ』を学園都市中に広めろ、という使命と共に押し付けられた品だったりする。
「なら代わりに、府蘭にはこれをやろう」
「これは……音楽プレーヤーですか?」
「俺が好きなアイドルの曲。良い曲だから聴くといい。広げてくれるともっといい」
俺に趣味を押し付けたのだから、それくらいはやってほしいものだ。それに、ARISAの曲は本当に良いものが多い。聴けば虜になるのも時間の問題だ。
…………と、そんな事を思っていたら、搭乗手続きが開始された、との放送が入った。そろそろ出国の時間である。
「……ん、もう出発か。それじゃあ府蘭、この辺で」
「……あの、前原ちゃん」
「ん?」
「ごめんなさい」
府蘭が急に頭を下げてきた。予想外の行動に、俺も思わず狼狽えてしまう。
「え、え?府蘭?どうした、らしくもない」
「色々と……ごめんなさい」
「いいから頭上げろって。なんか分からんけど、ほら、な?」
ぽふっ、と下げられた府蘭の頭を撫でてやる。驚いて頭を上げた府蘭だが、その瞳はやけに憂いげだ。こんな表情もできたのか、と素直に驚く。
「……女の子の髪に触れるなんてマナー違反なのです」
「そりゃ悪かった。でも撫でやすい頭があるのも悪い」
「なんですかそれ」
くすっ、と府蘭が笑った。初めて見るような自然な笑い方に、俺も思わず笑ってしまう。
後ろ髪を引かれるような事があっては嫌なので、やはり別れ際はこの方がいい。
「それじゃあ前原ちゃん。また会う日まで」
「ああ。またな、府蘭」
互いに手を振って、互いに踵を返した。そして互いに振り返らず、俺は荷物と共に搭乗口へと向かう。
この広域社会見学。魔術やら借金やら色々あったが、それもまた経験だ。
それに、大切な友人が1人できた。それだけで、来る価値は十分あったと言えるだろう。
俺は学園都市の者であり、能力者だ。そう簡単に『外』に出るのは難しいだろう。
だが、それでも──
「──また語らう日がくるといいな。府蘭」
*
「──報告は以上になります」
月が照らす街の片隅に、そんな声が聞こえた。報告を終えた烏丸府蘭の耳に、髪を梳く音が聞こえる。ロンドンという大都市にいながらその音が聞こえるのは、何かしらの魔術が働いているのだろうか。
「そうか。ご苦労なりき」
薄暗い部屋の奥から、妙な喋りの声が聞こえた。現代語としては当然おかしいし、古語としてもズレている。しかし慣れているのか、府蘭も訂正はしなかった。
「して、言ふた通りにしたのだろうな?」
「はい。全て指示通りに」
視線の先で、声の主が顔を上げた。
透き通った白い肌に、宝石のような青い瞳。身長の数倍はありそうな黄金の髪は、どこからか入った月光に当たって淡く輝いていた。
ローラ=スチュアート。
18歳の少女のような見た目をしながら、
本拠地である
「指定のポイントで対象と接触、食事の隙にDNAを採取しました。しかしその後──」
「レイヴィニア=バードウェイと遭遇、追っ手たるステイルと一戦交えた、か。"偶然"といふのは怖きものね」
「………」
わざとらしい強調に、思わず眉を顰める。しかし
「……1つだけ尋ねてもよろしいですか」
「硬き事ね。なに?」
「なぜ前原将貴を追ったのですか?」
髪を梳く手が一瞬だけ止まる。素直に下がらない私が珍しいのか、宝石のような冷たい瞳が私を射抜いた。
「なんだ。かの訳ならとうに言ふたであろう」
「ただ能力を探るだけでしたら、代表団の誰でもよかったはずなのです。しかし
「なんだ、いつになく案ずるではないの。まさか
ここ数日で、すっかり見慣れてしまった少年を思い浮かべる。馴れ馴れしくて、お節介で、口が悪くて……でも強くて、面倒見が良くて、優しい少年だった。
そんな少年を、魔術という『裏』の異能に関わらせたくないのだ。
「……そういう訳ではありません。
「固執などしておらぬ。気になりし所がほんの少しきあるだけよ」
「気になる所、ですか?」
気になる──つまり
「少しき前に起きける
「はい。それが何か?」
「あの時、此の者は異変に気付いておったらしいぞ?」
「……え?」
8月の終わりに起きた、全世界の魂が椅子取りゲームのように他者へ乗り移るという、前代未聞の大魔術だ。それは大天使『
しかし、一般人は外見ではなく『入れ替わった魂』を認識していたため、『入れ替わり』に気付くことはできない……はずだ。例外を挙げるなら、
それはつまり、前原ちゃんには
「まあ世界には70億もの人がおる。偶然気付くのもありしことよ」
「それは……」
「此の者に特別な異能がありしか、確かまほしきだけよ。気にするでない」
「………」
見え透いた建前だ、と思う。
先ほど
そもそもとしておかしいのだ。
バードウェイという大物を相手取るのなら、人員と霊装を惜しみなく使い、どんな犠牲を払ってでも叩き潰すのが道理のはず。
なのに実際は追っ手が1人。それもステイル=マグヌスという『ただの魔術師』だ。後から神裂火織が追いついたものの、こと速さで『聖人』が負けるはずがない。
ただ、目の前にいる
「どうしたの。報告を終えたなら下がるがよい」
「……いえ」
何故バードウェイをみすみす逃がすような真似をしたのか、真意は分からない。
ただ私には、バードウェイを餌に、前原ちゃんと魔術師を戦わせたかったようにしか思え──
「長生きしたくば引き際を弁えることね」
「──っ」
なんとか平静を取り戻すが、既に
「……これで失礼します」
「そうそう、1つ忘れておった」
「なんでしょう」
「ステイルが負わせたる火傷だが、正しき『処置』を施したのだろうな?」
「はい。
「ならよい。下がれ」
再び髪を梳く音が聞こえる。これ以上聞く必要は無い、という事だろう。
ならば私も聞くまい。無理に詮索すれば、今度こそ私の命が危ない。
「……失礼します」
一礼して、静かに部屋を後にする。警備隊に気付かれぬよう抜け出し、上手く人混みに紛れてから、思い出したように立ち止まった。
「せっかくなんで聴いてみますか」
ポケットから小さな機械を取り出す。いつもの無骨な無線機ではなく、シンプルなデザインの音楽プレーヤーだ。
見慣れないそれを耳につけると、まだ幼くも綺麗な歌声が聞こえてくる。あの少年の趣味としては、どうも似合わなく思う。
「……ふふっ」
つい意味もなく笑ってしまった。こうやって1人で笑うのはいつ以来だろう。あの少年と会ってから、柄にもない事が続いている気がする。
ならばもう1つ、柄にもなく願おうじゃないか。
私は魔術師であり、イギリス清教のスパイであり、
けど、それでも許されるなら──
「──また語らう日がくるといいですね。前原ちゃん」