落ち着きを取り戻した鳴護アリサは、前原に連れられて、病院の奥深くへと来ていた。
本当の意味で何も無い、極めて殺風景な廊下だ。細かく区切られたその壁は、病院より研究施設に近いものを感じる。
「ねえ将貴くん、これってどこに続いてるの?そろそろ教えてよ」
「後でな。アリサに危害を加える事は無いから安心しろ」
「それは分かってるけどさ」
困惑するあたしを他所に、将貴くんは迷路のような廊下をずんずん進んでいく。歩調はあたしに合わせるという、変な優しさがむず痒い。
やがて辿り着いたのは、何の変哲もない灰色の壁。その壁に将貴くんが何かをしていると、壁がスライドして部屋が現れる。
「なにここ?」
「まぁ見てな」
将貴くんが躊躇なくその部屋に入っていく。
なんとなくその中を覗いたあたしは、その瞬間に言葉を失った。部屋の真ん中に座っていた1人の少女に、思考の全てを奪い取られた。
「(──綺麗)」
純白の髪は輝くようで、床を撫でるように長い。宝石のような蜂蜜色の瞳は、感情を推し量るには深すぎる。息を呑むほど整った顔立ちは恐ろしいまでの無表情で、職人が丹精込めて作ったビスクドールのように見えた。ただ唯一、首に巻かれた黒いチョーカーとコードが、異物として存在を主張している。
「おはよう、明菜」
「────」
非現実的にも思えるその姿に、あたしは見惚れてしまった。そんなあたしを他所に、将貴くんはその子の隣に座り、頭を撫で始めた。
その表情は、見たこともないほど優しい笑顔だ。手の動きも、赤ん坊を撫でるように繊細だ。
「どうしたアリサ。早く来いよ」
「う、うん」
促されて、あたしも白い少女の隣に座る。その子はあたしを認識すらしていないのか、一切の反応を示さなかった。
見た目といい、距離感が狂いそうなほど色の無い部屋といい、この空間そのものに、驚くほど現実味が薄い。
「この子は入江明菜」
「………」
「俺が、助けると決めた子だ」
その子の頭を撫でながら、将貴くんは確かめるようにそう言った。声は僅かに低く、その目は鋭くなっている。
「(……どうしてあたしに紹介したんだろう?)」
空白になった思考に生まれた、1つの疑問。
そんな思考を見抜いたかのように、将貴くんがあたしと向き合った。
「アリサ。頼みがある」
「え?」
「明菜に、アリサの歌を聴かせてほしい。この子のために歌ってくれないか」
そう言うと、将貴くんは深々と頭を下げた。普段のけらけらした姿とは違う、疑う余地も無いほど真摯な姿だ。
少し困惑したが、答えはすぐに分かった。
あたし──いや、ARISAの歌に宿ると、される『奇蹟』に、将貴くん
そう思うと、あたしの中の何かが、すーっと冷めていくのが分かった。
「──うん。いいよ」
何も考えず、事務的にそう答える。
将貴くんにはお世話になっているし、ここで『お返し』をするのも悪くない。それに、この白い少女に、あたしの歌が助けになるのなら、協力したいと思ったのだ。
「歌はなんでもいいんだよね?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ歌うね。音源は頼んでいい?」
「……?」
将貴くんには目を向けず、さっさと移動する。明菜ちゃんと向き合って待っていると、あたしが歌いたいと思っていた歌のイントロが流れてきた。曲は何も指定してないのに。
本当、こういう時だけは、腹立たしいほどあたしと好みが合うんだから。
「すー……はー……」
呼吸を整えて、脳内で曲のフレーズを反芻する。どんな形にせよ、歌うのであれば、真剣にやるのがあたしのプライドだ。
──どうせ、将貴くんが欲しいのは、『歌』じゃなくて『奇蹟』なんだろうけど。
「──♪」
ふわり、と。体が軽くなった気がした。
高揚もしない。緊張もしない。歌う以外の感情が削り落とされ、手足の余計な力が抜けていき、パフォーマンスが最適化されていく。
ただ笑って、踊って、歌を届ける。どんな状況だろうと、アイドルの役割なんて、それだけだ。
「──♪────♪」
歌声に、さらなる熱が宿る。思考が薄れていき、視界すらも狭まった。見えるのは、目の前のファンだけ。
黒い制服で、いつになく優しい視線を送る将貴くん。それを向けられる白い少女は、深すぎる蜂蜜色の瞳はそのまま、ほんの僅かに、口角を上げていた。
「…………明菜?」
将貴くんが何か呟いたが、あたしには聞こえない。
ただ、歌う。それだけでいい。
そうして1曲歌い終わったあたしは、ゆっくりと目を開けた。そこには、白い少女の肩を掴んだ将貴くんが、震えながら下を向いていた。
「明菜、明菜……!本当に良かった……ッ!」
感極まった将貴くんが、そのまま白い少女を抱き締める。白い少女は細い両腕をゆっくり伸ばして、その抱擁を受け入れた。
その口角は、やはりほんの僅かに上がっている。よく見ないと気付けないほど小さな変化だが、彼女は確実に笑っている。
「──?」
抱擁を止めて、こちらに向き直った将貴くんの顔は、安堵のあまりだらしなく緩んでいた。
あたしには一度だって見せなかったその表情に、無性にイライラする。
「ありがとう、アリサ。本当に……」
「よく分かんないけど、よかったね。お望みの『奇蹟』が見れたみたいで」
「……?」
「もう帰っていい?セレモニーライブの振り付けとか確認したいんだけど」
目を逸らし、さっさと出口へと向かう。今のあたしは、自分でも驚くほど不機嫌だ。
あたしの歌を利用されたことも、だらしない表情を見せる将貴くんも、それが嫌なあたし自身にも。
「待てよ」
「──っ」
部屋を出ようとしたあたしの手が、後ろから将貴くんに掴まれる。ごつごつした手は力強くて、振り払うことはできなかった。
「……離してよ」
「断る」
「離せって言ってるの!」
振り返り、将貴くんを睨みつける。しかし将貴くんは、あたしと目が合った瞬間、ふっと微笑んだ。
「やっとこっち見たな」
「──っ」
「アリサ。俺がお前をここに呼んだのは、明菜に『奇蹟』を届けるためだ。それは間違いない」
「……それが何なのよ」
手を掴んだまま、将貴くんが話し始める。あたしも抵抗を諦め、素直に聞くことにした。
「ならアリサは、今の歌で、明菜に『奇蹟を届けたい』と思ったか?」
目が丸くなった、気がした。
想像もしていなかった問いかけに、もう一度将貴くんを見る。将貴くんはあたしをまっすぐ見たまま、さらにこう続けた。
「アリサは今まで、同じ曲を何回も、何百回も練習したはずだ。だが、その全てで『奇蹟』が起きた訳じゃないだろ」
それは当たり前だ。歌う度に奇蹟が起きるなら、それはもはや奇蹟ではない。だいいち、そんなの気にしたこともない。
奇蹟とは、それを認識して初めて『奇蹟』になる。極端な話、地球に生物が生まれたことも、凄まじい奇蹟の集合なのである。
「なら聞くが、アリサは『奇蹟が起きなかった歌』が、全て無価値だと思うか?失敗作だと、聞く価値も無いと、そう思うのか?」
「……そんな訳、ない」
あたしは努力してきた、つもりだ。
歌もダンスも、笑顔もたくさん練習して、なんとかやってこれた。『奇蹟』が起きるからと言って、それに胡座をかいたことなんて、一度もない。
「アリサの歌に『奇蹟』が宿るかどうか──そんなのは重要じゃない。仮に本当だとしても、アリサの歌は、『奇蹟』だけじゃない」
世間の評判が気持ち悪かったのも、きっとそのせい。『奇蹟』ばかり持ち上げて、あたしの歌は二の次だ。あたしはそれが嫌だった。
そして今は、その『奇蹟』のせいで、将貴くんがたくさん傷付いている。『奇蹟』の代償に、望まない戦いを強いられている。
あたしはただ、『奇蹟』とか関係なく、あたしの歌を聴いてほしかっただけ。
奇蹟を歌うアイドル──『ARISA』ではなく、1人の『鳴護アリサ』を見てほしかっただけなのに。
「『奇蹟』なんてのは、アリサを彩る魅力の1つにすぎない」
あたしの手を握って、あたしをまっすぐ見つめて、将貴くんは続ける。何故かあたしは、それを拒もうとはしなかった。
思考はもはや止まっている。ただ将貴くんの言葉だけが、あたしの全てを呑み込んでいく。
「そんなのが無くても、『奇蹟』を届けたいと願うアリサの歌は、すべて特別だ」
────とくんっ、と。
あたしの心臓が、大きく跳ね上がった。
それを自覚しようとして、脳が拒否する。気のせいだと、何かの間違いだと、そうやって思考を塗り替える。
「…………えっ、あれ?」
「……?どうしたアリサ」
「あっ。えっと」
名前を呼ばれたが、あたしは彼を直視できなかった。それでも、彼に握られた手から流れ込んでくる熱は、あたしの思考を焼くには十分だった。
「…………も、もう帰るね。この後レッスンがあるから」
「……?予定では、今日はもう何もないだろ?」
「帰るって言ってるの!!」
叫びに驚いたのか、将貴くんがあたしの手を離した。その手を胸元に握っていると、あたしの心臓が、服を隔てても分かるくらい速い鼓動を刻んでるのが分かった。
そんなあたしを心配したのか、あたしの顔を、将貴くんが横から覗き込んできた。当然、顔が近い。
「アリサ?」
「〜〜目を瞑ってッ!!」
直後、それはそれは見事なビンタが炸裂した。
帰り道、将貴くんは口を聞いてくれなかった。
*
「んー」
第一学区に位置する風紀委員『本部』。
その一室で1人呟くのは、副委員長である松浦奏だ。金糸を編んだようなセミロングの金髪と、それを後頭部で結ぶ真紅のリボン。平均より遥かに小柄だが、強気につり上がった
「どうしてこう、次から次へと問題を持ってこれるかな。しょーくんって子は」
どかっ、と背もたれに倒れる。常盤台中学の制服である短いプリーツスカートも気にせず、私は椅子の上で胡座をかいた。
はあ、とついた溜息の原因は、私が『所有』する人間の1人──前原将貴である。
木山春生に入江明菜。
そしてイギリスの『魔術師』。
「よくもまぁ、これだけの面倒事に関われるよ」
先日、しょーくんが入院したと連絡が入った。
彼の『所有者』である私は、当然その原因を調べた。その中で、ふと疑問に思った人物が1人。
それが『鳴護アリサ』。
最近、しょーくんと一緒にいる女子高生であり、いま最も勢いに乗る現役アイドルだ。
アイドルと一緒の時点でもうおかしいが、問題は彼女の出自だ。
アイドルの『ARISA』が現れたのは、今から1年前のことだ。そして、『鳴護アリサ』という人間が現れたのも、今から1年前。
学校の入学記録も無いれば、外への出入りも無い。『
「(つまり鳴護アリサは、
『
「しょーくんにも伝えとこうかな」
いずれにせよ、アリサは『何も無い人』ではない。そして、それが良い事ではないのも確かだ。
とりあえず警告はして、後でゆっくり調べるとしよう。私の嫌な予感は、結構当たるのだ。
「誕生日は
ふと目に付いた、鳴護アリサの誕生日。特に珍しい日付ではないのに、どうもそれが気になった。