エンデュミオン上空、展望回廊。
重力の制約から放たれたその空間は、完全なる静寂に包まれていた。静かすぎて、思わず耳が痛くなる。宇宙と地球の途中とはいえ、ここは生身では決して行けぬ世界だ。見る者を圧倒するには十分だろう。
しかし鳴護アリサは、そんな光景には見向きもせず、1人膝を抱えていた。長い鴇色の髪が、無重力のなか静かに揺れている。
「将貴くん」
服装はいつもの私服だ。そこに、『欠片』が入った巾着袋は無い。しかしあたしの中に、それを探すほどの余裕は無かった。
「将貴くん」
数時間後には人類初の宇宙ライブをするが、それも今は考えていない。それよりもずっと重要なことが、あたしの頭を支配していた。
「将貴くん……」
三度名前を呼んで、胸に手を当てる。
服越しでも分かるくらい、それこそライブの時より速い鼓動を感じる。顔は触る必要もないほど熱くなり、唇は小さく震えていた。
その震えた唇で、おそるおそる呟く。
「…………絶対好きだ、これ」
口にした瞬間、涙が出そうなほど恥ずかしくなった。生まれて初めての感覚に、頭がおかしくなりそうだった。
心音はかつてないほど掻き乱され、油断すると口元が緩んでしまう。でもそれ以上に恥ずかしくて、何かを叩こうとしたが何も無く、代わりに体を丸めた結果、鼓動の速さを全身で感じてしまった。
「……ううっ」
なんで、なんで、なんで。
そんな言葉が浮かんで消え、消えては浮かぶ。
なぜ、よりによって将貴くんなのだ。
だって将貴くんは、お金持ちでも、話が面白い訳でも、希少価値を見出すほどのイケメンでもない。秀才でもなければ配慮も無いし、何なら他人のベッドに忍んだりする────最後のは耳が痛い話だが。
とにかく将貴くんは、あたしに対して何も遠慮しない人なのだ。
アイドルだからと特別扱いしないし、遠慮もしないし、格好もつけない。うるさくてイジワルで鬱陶しくて、歌は下手くそで、良いところは意外と褒めてくれて、悪いところはしっかり厳しくて、なのに欲しい言葉をかけてくれる。
『ARISA』も、『鳴護アリサ』も、どちらも見てくれて、どちらも大切にしてくれる。ありのままの姿も、アイドルとしての努力も、どちらも肯定してくれる。
危ない時は必ず駆け付けてくれて、助けると約束してくれた。あたしの歌が『奇蹟』だけじゃないと、そう信じてくれた。
「……あれ?」
好きじゃない理由を並べようとしていたのに、気が付いたら、彼の笑顔ばかりが思い浮かんでいた。どれだけ記憶を辿っても、思い出すのは、彼との何気ない思い出ばかりだ。
そうやって思考の制御がつかないくらいには、頭は沸騰してるらしかった。
「………」
考えてみれば、兆候はあった。
将貴くん以外の人の前で、デスメタを歌おうとは思わない。文句を言ったり、睨みつけたり、涙を見せることもない。
そういった内面を、将貴くんになら預けてもいいと、心のどこかで思ったのだろう。
事故や襲撃という歪な形とはいえ、あたし達は同じ出来事を通して、内面を見せ合った。だからこそ、2人とも素のままでいられて、認め合うことができた。だからこそ、一緒に居るだけで、なぜか笑顔になれたのだ。
そしてなにより、どれだけ酔っ払っていても、将貴くん以外のベッドに侵入なんてする訳がない。
「……ううっ、ううっ!!」
あの時の光景を思い出して、頭がショートする。なんであんな事をしたのか、答えが分かっていても、断じて認めたくはなかった。
でも、だって。
だって、将貴くんが寝ていたから。
いつもと違って、本当に穏やかな顔で、すやすやと眠っていたから。貴重な光景だったから……ちょっとだけイタズラでもしようと思ったから。
寝顔をケータイで撮ったり、ほっぺをつついたりしてたら、楽しくなったから。ちょっと耳に息を吹きかけて遊んでたら……なぜか安心する匂いがしたから。
「なにしてるのあたし……」
その匂いが気に入って、もう一度と思って、首元に寄って…………そのまま寝ちゃったから。
………。
……ホントなにしてるの。
……これじゃ、その……変態みたいじゃん。
「…………あああああっっ!!!」
もうダメだ止めよう。これ以上は恥ずかしくて、頭がおかしくなりそうだ。あれだけ将貴くんを変態と言っておきながら、なんだこれは。
いや違う、あたしは正常だ。あの時はおかしくなっていただけで──!!
「まだ悩んで……なにしてるの?」
そんな思考を掻き消すように、回廊にとある少女が現れた。雇い主であるレディリー社長である。
彼女はあたしの様子に困惑した様子だが、仕切り直して言葉を続けた。
「……まあいいわ。私に見せてくれるのよね?あなたの奇蹟の歌を」
「………」
「嫌なら断ってもいいのよ。その場合、ここにいる招待客全員が死ぬことになるけど」
くすっ、と蛇のように微笑む。冗談には思えない様子に、雇い主という立場以上の圧を感じる。
でもあたしは、不思議と怖くなかった。
「──歌います」
「でもそれは、貴方のためではありません。あたしの歌を、純粋に楽しみにしてくれている皆のため──
その言葉に、レディリー社長は驚いた。
だが、そんな事はどうでもいい。この事をハッキリしないと、あたしが納得できないのだ。
「あたしは、あたしの夢のために歌います」
そう断言することに、躊躇は無かった。それは事実だし、既に納得していたことだからだ。
自分がここまでワガママな人間だったことに、少し驚く。あたしのファンだって、こんな人だとは思わなかっただろう。
「……驚いたわ。道端で歌っていた頃とは似ても似つかないわね。アイドルがそんな自分勝手でいいの?」
「自分勝手じゃない人は、アイドルなんてやりません。皆のことは大切ですが、それ以上に、あたしの歌いたいように歌います」
「貴女はもっと優しい子だと思ったけど、どうやら違ったみたいね」
「構いません。こんなあたしを受け入れてくれる人を、少なくとも1人、知ってるので」
断言できることが嬉しい。ここで悩まなくていいあたしは幸せだと思う。
あたしには歌しかない。驚くくらい、それしかない。
なのに、なにも寂しくない。だって、
「あたしは歌います。貴女が何者だろうと、何を考えていようと、あたしの歌で、それを上回ってみせます」
アイドルの役割は、歌うこと。
ファンを笑顔にすることも、望む笑顔を見せることも、その副産物でしかない。ましてや、その歌が『奇蹟』かどうかなど、歌った後で勝手に判断すればいい。
そういった意味では、今の鳴護アリサは、間違いなくアイドルであった。
*
翌日、セレモニー当日の午前9時。第七学区のとある公園に、上条当麻とインデックス、そして前原将貴はいた。
日中の公園だというのに、周囲には人の影すら無い。『
「……いるんだろ、元春。出てこい」
「あいよー」
前原の声に、軽快な返事があった。少し遅れて、自販機の陰から、金髪アロハの派手な男が姿を現す。
学園都市のスパイにしてイギリス清教の魔術師、そして幼馴染である土御門元春だ。
「この状況で呼んだからには、重要な要件なんだろうな」
「幼馴染だってのに、そんな嫌そうな顔すんなよ。悲しいぜい?」
「……そうかよ」
「ま、結論から言うとだが」
少し顔を上げて、俺と前原の背後を見た。そこには、夜空を突き刺す青い巨塔──エンデュミオンがある。
「先程新たな命令が下った。あれが何か分かるかにゃー?」
「……宇宙エレベーターか?」
「いんにゃ、違う。シュメールのジグラートやバベルの塔を知ってるか?」
「……ああいう合理性を超えた規模の建築物は、そこに存在しただけで、魔術的意味合いを持ってしまうんだよ」
「そゆこと」
土御門の問いに、インデックスが渋々と答える。
魔術的意味合い、という言葉を完全には理解できないが、少なくとも良い話ではなさそうだ。記憶を失ってからの経験がそう言っている。
「問題は、そこに『聖人』を組み込んで、超大規模魔術装置にしようとした輩がいる、ってことだにゃー」
「……それがレディリー=タングルロードってことか?」
「理解が早いな。だからこそ、決着は僕らがつけることにした」
突然の声に振り返ると、赤髪の不良神父、ステイル=マグヌスがいた。なぜか顔に包帯を巻いており、不機嫌そうに前原を睨みつけている。当の前原は興味なさげに、話の続きを促した。
「レディリー=タングルロードは
「それで?」
「彼女は、鳴護アリサを核として、術式を構築しようとしているのさ」
「エンデュミオンを使った、超巨大なやつだにゃー。そんなもんが実行されたら、北半球がまるっと全滅ってクラスのな」
北半球が全滅。規模が大きすぎて、俺も前原も困惑が隠せない。しかし、2人が冗談を言ってるようにも見えない。だいいち、インデックスならともかく、完全な専門外の俺では判断できない。
「とにかく、問題が魔術である以上、これは僕らの両分だ。君たちはひっこんでろ」
「対処できるのか?場所は宇宙ぜよ?」
「核を始末。いよいよとなれば、あの塔ごと破壊する」
ふと聞き捨てならない言葉が混じり、俺は思わず前に出た。インデックスも同じなのか、怒ったように前のめりになる。
「核を始末って、つまりアリサを殺すってことか?」
「……まあ、そうなるね」
「アリサを殺すなら、その前にお前を殺す」
ステイルが認めた瞬間、隣からそんな言葉が聞こえた。驚くほど冷たい声。決して大きな声ではなかったが、場を支配するには十分すぎる圧があった。
隣を見ると、表情を無くした前原が、本当に興味が無いような様子で話し始める。
「勘違いしてるようだが、俺は別に、魔術サイドが何をしようが、知ったことじゃない。魔術にそれほど興味も無いしな」
「……なら君は、なぜ僕たちの邪魔をする?」
「先に邪魔してきたのはお前らだ。アリサに手を出して、ただで済むと思うなよ」
口調も雰囲気も、特に荒い訳じゃない。
ただ、冷たい。ステイルを殺すと断言しことに対し、何の罪悪感も抱いていない。人として見てない気がするほどに、冷たい。
俺だって文句は言いたかった。
アリサはただ夢にまっすぐで、一生懸命努力する普通の女の子だ。断じて北半球を壊す悪者ではない。魔術師なんかが、その夢を壊していい訳がない。
だが、隣の
「……科学と魔術。どちらに任せても、アリサは殺される。なら俺たちで助ける。それでいいな、前原」
「……ああ」
「まさかハラショーが、あの子にここまで入れ込んでるとはにゃー。一応準備はしてたんだが、必要なさそーだ」
「『魔術師のお前』に、頼むことなんざ1つもねぇよ」
前原はケータイを一瞥するなりそう吐き捨て、エンデュミオンに向かった。ひらひらと手を振って見送る土御門を置いて、慌ててインデックスと共に前原の後を追う。
「前原、どうすんだよ。何か手はあるのか?」
「アリサの所に行くしかないだろ。魔術に関しては知らねぇな」
「なら俺とインデックスを連れて行け。
「……分かった」
短く返事をすると、前原のケータイが鳴った。後ろから覗き込むと、地図の上に赤い点が置かれている。
前原は俺やインデックスにも聞きやすいよう、スピーカーで会話を始めた。
『私だ。先ほど送ったポイントに来い。今すぐだ』
「シャットアウラか。いきなり何だ?」
『貴様は私と共に宇宙に来てもらう。悪いが拒否権は無い』
「渡りに舟だよ」
急な申し付けにも関わらず、前原は驚いた様子もなく、不敵に口を歪めた。予想通り、とでも言うように。
「シャットアウラ。搭乗券をもう2枚用意してくれ。付き添いがいる」
『なんだと?そんな余裕──』
「この2人がいれば、レディリーの計画は確実に破壊できるぞ?」
『……分かった』
思考を読んだような前原の言葉に、シャットアウラもも了承するしかない。しかし話が何も見えない俺は、思わず前原に聞き返した。
「前原?宇宙にはどうやって行くつもりなんだ?」
「そりゃお前、宇宙に行くってなったら、手段は1つしかないだろ」
「……まさか」
「エンデュミオンを攻略する」
それはそれは楽しそうに、前原が笑う。何がそんなに面白いのかまったく分からないが、理解したいとも思わない。
「シャットアウラのことだ。外に出れてるってことは、地上は既に、黒鴉部隊がある程度攻略してるはずだ。なら残るは宇宙……そこでレディリーの計画を完全に破壊する。そうだろ?」
『……理解が早いな。誰から聞いた?』
「こっちも色々調べたんだよ。お前が行かないって言っても、俺1人で行くつもりだったからな」
既に前原の中では、ある程度答えは出ているのだろう。
そしていざとなれば、正面突破してでもアリサを迎えに行く、と。そんな覚悟を既に決めていたから、今だって行動できるのだろう。
『……レディリーは、貴様をエンデュミオンに呼ぶなと言った。呼びたくない理由があるのだ。それが何かは分からんがな』
「どんな形にしろ、レディリーの計画は潰す。アリサの歌は誰にも邪魔させない」
『ふん。どうせ『何か』は起こる。そんな中で、あの女が歌えるか見ものだな』
「歌うよ」
シャットアウラの口調は、アリサを否定──厳密には、奇蹟を否定するようなものだ。
だがそれも、前原は迷うことなく否定した。今更そんな事を聞くな、とでも言うように。
「アリサは歌う。レディリーが何者だろうが、何を考えていようが、アリサの歌は、それを上回ってみせるさ」
『……随分と信頼してるのだな』
「信頼じゃねぇよ。ただ『分かる』だけだ」
風紀委員の役割は、公平であること。
弱きを助け、悪しきを挫く。個人に肩入れすることなく、未然に防ぐか、起こった事実を公平に処理すること。戦闘は、それを通すための過程でしかない。
そういった意味では、今の前原将貴は、少なくとも風紀委員のそれではなかった。
*
『今夜は星が綺麗ね だからきっと』
『届く────!!』
そして、ライブが始まった。