学園都市第七学区。外界と完全に遮断され、『窓のないビル』と称される建物に、ある『人間』が浮かんでいた。
男にも女にも、子供にも老人でも、聖人にも囚人にも見える『人間』。肩書は学園都市統括理事長。名をアレイスター=クロウリーといった。
『……結局、なんだったんでありけるのかしら?あの乙女は』
「――そうだね。例えるならば、『願い』というところかな」
通信機越しに問いかけたのはローラ=スチュアート。
18歳の少女のような見た目をしながら、
『願い?』
「――能力者のものでなくとも、人の願いというのは、主観を歪めてしまう。複数の願いが同一の指向を与えられれば、それは因果律にすら干渉しうる力になる」
『それで?』
「――無論、それは容易に起こることではない。しかし人々の『願い』の指向を誘導するものがあったとしたら?」
『それが『歌』だと?』
ローラの指摘に、『人間』は何も言わない。ビーカー型の生命維持装置に逆さまに浮かんだまま、まばたき1つすらしない。
「――呪術的な力を帯びた『歌』と、オリオン号に施されたレディリーの術式――それらの相乗効果で、願いの力は1人の少女の因果律を分断し、2人に別れさせた。その歪みの力で、多くの人々の運命を変えたのが『88の奇蹟』の正体だ」
『では、此度はどうなりけるのかしら?少なくとも、
「――どうかな。1人の人間が代償となった祈りは、因果律を歪めるに足りたのかもしれない」
『人間』にしては珍しい、不確定的な言葉だった。画面越しのローラは眉を顰めるが、それを口にする前に、『人間』は言葉を続けた。
「――レディリーは興味深い実験をしてくれたよ――けだし、死ねないというのは不幸だね」
『あら?あなたがそれを言う?』
「――これからも彼女は夢を見続けるのだろうね。エンデュミオンと共に、遠泳の眠りの中で――」
その言葉を最後に、通信が遮断される。ビルの中は、ビーカー内を上る泡の音以外、何も聞こえなくなった。
そんな中、『人間』の前に映像が現れた。空中に浮かぶ画面の前には、簡素な文言が浮かんでいた。
――――中心点でアイドリングを続けるコアの規定回転数を確認。
――――検体名称『
――――警告。
――――規定回転数の超過を確認。
――――検体名称『
――――学園都市第一位に並び、メインプラン主軸としての力は計画通り稼働中。
「――――」
『人間』が笑う。
軽薄に。慎重に。不遜に。謙抑に。そして喜悦に。
「――
「――
「――
誰に聞かせることもなく、そう問いかける。
そして、あまりに静かに、あまりに致命的で、あまりに決定的なひと言を告げた。
「――これで確定だ」
*
「終わったよ。なにもかも」
『……そっか』
奇蹟のステージを終えた、その日の晩。
自室のベッドに座る前原将貴は、ケータイ片手にそう呟いた。電話先の涼乃は、俺の気持ちを察してか、エンデュミオンでのことを何も言及しなかった。
そして、今日が終わると同時に、やたらと長く、やたらと濃かった1週間のオフも終わる。
「明日から
『うん。明日から忙しくなりそうだもんね』
「明日から?何かあったっけ?」
素直に聞き返すと、涼乃は大きく溜息をついて、呆れたようにこう返した。
『忘れたの?明日から
「……あ」
『まさかホントに忘れてたなんて……』
この瞬間どころか、ここ1週間、一度も脳裏をよぎらなかった。あれほどの行事を忘れるほどアリサのことに集中していたことに、自分でも驚く。
「……悪い。警備体制とか交代時間とか、後で詳しく教えてくれないか?」
『あれ、奏ちゃんから聞いてない?』
「え、なにが?」
『将貴、開催中は本部に応援に行くらしいよ?』
なにそれ聞いてない。しかも開催中の本部とか、嫌な予感しかしない。
俺の意志はどこにいったんだ、と思ったが、俺の『所有権』は奏にあるので、逆らえる立場ではない。文句は言うが。
「ってことは何だ。開催中、俺は涼乃のペア*1じゃなくなるのか?」
『うーん。そうなるのかな?』
「おのれ奏め……」
俺の意思は知ってるだろうに、文句を言わずにはいられない。明日会ったら、形だけでも抗議しようと心に決めた。
「ペア復帰はさらに来週か。はあ……」
『私も。せっかく将貴と過ごせると思ったのに』
「………」
涼乃は無意識でこういうセリフを吐くから困る。俺と涼乃の言葉の温度差に、毎回振り回される身にもなってほしい。
『とりあえず、明日は朝7時に本部に集合だってさ』
「分かった。ありがとう」
『うん。じゃあ明日も早いし、そろそろ』
「……ちょっと待って」
『ん?』
……?なぜ呼び止めた?連絡は終わったし、俺から話すことも特に無い。ならなぜ?まさか何の理由もなく?
こんがらがる頭に、『どうしたの?』と声が響く。涼乃の時間を奪うわけにはいかず、口先がなんとか取り繕うことにした。
「……あー、その。1ついいか?」
『いいよ』
「……もしも、だ。もしも、願いがひとつ叶うとしたら……涼乃は何を願う?」
とっさに出たのは、何の実りも無さそうな、無難極まりない話題だった。しかし取り消すこともできず、俺はただ涼乃の答えを待つことしかできない。
『うーん……すぐには思いつかないかな。でも、今みたいな日常がずっと続いて、みんなが幸せに笑ってるといいな、って思うよ』
「………」
『将貴は?』
……そんな願い、思ってもなかなか言えることじゃない。ましてや、とっさに、かつ無意識にこの願いが出てくる人間が、この世界に何人いるだろうか。
「俺は……」
『うん』
「……俺も、みんなが幸せに笑っていられる世界を願ってるよ」
迷った末に出たのは、何の意志も宿らない、表だけの言葉だった。こんなこと、祈ったことも、実現しようとする決意も無い。
シャットアウラにあれだけ大層な事を言って、俺はこのザマだ。笑わずにはいられない。
「……悪い。変なこと聞いた」
『ううん、言葉にするって大切なことだよ。明日から頑張ろうね』
「ああ。ありがとう。おやすみ、涼乃」
『おやすみ、将貴』
プツンと通話が切れる。無着信の音を少し聞いて、ケータイを耳から離した。
俺はベッドに座ったまま、壁に寄りかかり、意味もなく天井を見上げた。数秒か数分か、それを続けていて、ふと思った。
「(……静かだな)」
つい昨日まで、昼は学校、夜はアリサのレッスンとその送り迎えをしていた。僅か1週間とはいえ、それが普通になるくらいには、繰り返していたのだ。
それが急に無くなると、少し寂しくもなる。
「…………寂しいのか、俺は」
呟いて、視線を天井から壁に移す。そこには、アイドル『ARISA』のポスターが大きく貼られていた。本棚にはCDが並び、ケータイにはMVもすべてダウンロードされている。
しかし、どれも手を出す気になれない。なぜなら、知っているから。
ポスターより綺麗な笑顔も。
CDより楽しそうな歌声も。
MVより美しいステージも。
「(……この1週間こそ、奇蹟だったのかもな)」
憧れのアイドルと知り合って、笑い合って、最高のステージを見届けることを許された。まさに奇蹟。それこそ、もう二度と起こらないほどの。
「……顔、洗うか」
俺は思考を止めて、洗面所に向かった。これ以上考えても、アリサが現れる訳じゃない。だいいち、アリサがどうなったのかすら、俺は理解できてない。
ここは気持ちを切り替えて、明日から始まる大覇星祭に備えた方が有意義だ。
「ふー……」
バシャバシャと荒っぽく顔を洗って、ふと鏡を見る。いつも通り俺の顔が映っているが、そこに見慣れないものが1つ。
「
髪の一部――右目の上あたりに、一筋の金髪がメッシュのように生えている。触っても取れないため、髪であることは確実だが、染めた覚えは無い。というか、今日の朝は無かったはずだ。
「……後で切っとこ」
適当に呟いて、そこにあったタオルで顔を拭く。ある程度拭いたところで、ハサミはどこだろうと、俺は部屋に戻った。
何も考えず、いつも通りドアを開けると――
「…………え」
鳴護アリサが、そこにいた。
「…………は」
「…………え」
互いを認識して、動きが完全に止まる。そしてそのぶん、相手を観察する時間が生まれる。
アリサがいるのは、俺のベッド。タオルケットに包まれて、寝起きに近い姿だった。ただ、気になる点が1つ。タオルケットの隙間から覗く、陶器のように白い肌は何だろう。
すらりと伸びた手足。
惜しげもなく晒した両肩。
妖艶な曲線を描いたくびれ。
健康的で柔らかそうな太もも。
そして、女性の象徴である大きな双丘の側面。
要は、生まれたままの姿を、たった1枚の布で隠しただけアリサが、そこに座っていた。
「………………」
「………………」
アリサは俺を認識して、そして自分の姿を認識した。
顔どころか、耳や首までどんどん赤くなる。アリサはぶるぶると震え、タオルケットを引き千切りそうなほど強く掴んで、ぽつりと呟いた。
「……………………で」
「……………………で?」
「出てけぇぇぇぇぇぇえええええええ!!!!」
〜〜〜
「………」
「………」
20分後。
学生寮の小さな部屋のベッドに、ジャージ姿の現役アイドルが座っていた。俺は少し離れた椅子から、その様子を眺めている。
流石にアリサをそのままにする訳にはいかず、急遽コンビニで買ってきた女性用の下着と肌着、ついでに俺のジャージを渡した。それを着たはいいが、アリサは俯いたまま動かない。
「えーっと……よう、また会ったな」
「………」
苦しすぎる挨拶をするが、当然無視される。
代わりにアリサは、涙を浮かべそうなほど顔を赤くして、思い切り俺を睨みつけてきた。しかし、以前のような冷たさは無い。なんというか、ちょっと可愛い。
「……見た?」
「……何を?」
「言わせる気?」
「……見てねぇよ」
見てないし、見えなかった。
というか、やばい。何がやばいって、憧れのアイドルが、俺の服を着て、俺のベッドに座ってるのがやばい。ジャージのサイズが大きくて、手が指先しか見えない所とか、無防備に見える所とかやばい。見た目の破壊力とか、あと俺の社会的地位とか。
「……本当に、目が覚めたらここにいたの。あたしも何がなんだか」
「……あ、そう」
突拍子も無い話だが、他でもない俺の部屋で、俺の目の前で起きた話だ。信じるしかない。これも『奇蹟』と呼べばいいのだろうか?
「でも、将貴くんの部屋で良かった。懐かしいね、このベッド、も……」
「……1人で自爆すんな。アホか」
「アホって言うな」
始まりとも言える痴態を思い出し、2人とも目を逸らす。話を振るにしても、何故よりによってそれなんだ。
「そ、それにしても、またあたしのグッズ増えた?ほら、このポスターとか!」
「前からあったよ」
「そ、そう……これは?」
強引に話をすり替えたアリサが、本棚の上に封筒を見つける。自分もその中身が思い出せず、考えてるうちに、アリサは勝手に封を切った。
「これって……」
出てきたのは、アリサの宣伝用の写真*2だった。雰囲気に初々しさは無く、カメラの存在を意識させない表情は、アイドルに留まらない才能を感じさせる。
「懐かしいね。この時の将貴くん、いきなり『がっかりした』とか言うんだもん。びっくりしちゃった」
「アリサが言わせたんだろうが」
「いーよ。あたしも息苦しかったし。言ってくれて開き直れたくらい」
アリサは写真を置いて、再びベッドに座った。アリサは自分の隣を叩いて、ここに座れと催促する。
断っても詰めてきそうなので、俺は素直にアリサの隣に座った。ギシリと、ベッドが音をたてて沈む。
「ステージで歌ってる時、ちゃんと分かってたよ。将貴くんが、あたしを信じてくれてるって」
「……アリサなら歌うって、分かってたから」
「……あたしも、将貴くんなら絶対来るって、分かってた。だから歌えたんだよ。あ、でも曲が終わるギリギリに来たことは、まだ怒ってるから」
そう言って、アリサがいたずらっぽく笑う。その笑顔は、ステージで浮かべるそれと同じようで、少し違って見えた。
「ちっ、覚えてたのかよ」
「もちろん。忘れるわけないでしょ」
「……じゃ、何すりゃ許してくれるんだよ。俺にできるなんて、たかが知れてるぞ」
「難しいことじゃないよ」
アリサが俺も見て、覗き込むように顔を近付けてきた。俺は思わず仰け反るが、アリサはすぐ隣に座っているため、すぐ追い詰められる。
そして、呼吸音が聞こえそうな距離になって、ぽつりとアリサが告げた。
「将貴くんのことが知りたい」
「……俺の?」
じっと見つめるアリサの瞳には、俺しか映っていない。逃げも隠れもしないまっすぐなその瞳を、俺は直視できなかった。
「確かにあたしは、将貴くんのことが『分かる』。でもあたしは、将貴くんのことを知らない」
「………」
「だから知りたい。将貴くんに、色んなことを聞きたいの」
……言われてみれば、確かにそうだ。
俺たちは、お互いの好みや考えが『分かる』。
でも、誕生日は知らない。普段のことも、学校のことも、友達のことも知らない。なぜなら、話していないから。
『分かる』と『知る』は似て非なるもの。
俺は今まで、アリサを知ろうとしてなかったのかもしれない。だとすれば、アリサに対して、なんと失礼なことだろうか。
「……なら、アリサのことも聞かせてくれ」
「え?」
「俺だって、アリサのことが知りたい」
今度は俺が、アリサをまっすぐ見つめる。近くに見えるアリサが、驚いたように目を丸くして、そのまま視線を逸らした。自分も同じことを言ったのに、何を恥ずかしがっているのか。
「そ、そう。いいよ、何でも聞いて」
「え、いま?」
急にテンパったアリサが、体を離してこちらを見る。何か聞けということだろう。アリサのことが聞きたいとは言ったが、こういう事じゃないと思う。
あ、でも。
これだけは言おうと思ってたことが、1つあった。
「……あー、その、なんだ」
「んー?」
「また会えて嬉しいよ。アリサ」
ビタリと、アリサの動きが止まった。割とこっ恥ずかしいことを言ったのに、無反応はキツい。
そう思ったから、そう言った。それだけなのに。
「……目を瞑って」
「え」
「いいから。目を瞑って」
「なんでぇ……?」
何が気に食わなかったのか、聞き慣れた
「……分かったよ」
そう呟いて、俺は静かに目を瞑った。
アリサのビンタはかなり痛いが、逃してはくれないし、反射などできない。要は素直に喰らうしかない。理不尽すぎる。
「将貴くん」
狙いを定めたのか、頬に手が添えられる。
数秒後に、俺は顔面から吹っ飛ぶのだろう。断頭台にかけられた罪人は、もしかするとこんな気持ちだったのかもしれない。
しかしビンタはなかなか来なかった。
代わりに、もう片方の頬にも手が添えられる。
「あたしも会いたかったよ」
そう短く聞こえて。
「……ん」
柔らかい何かが、唇に触れた。
ふわりと、包み込むような甘い香りが、信じられないほど近くに感じる。
「…………え」
思わず目を開ける。そこには、耳を真っ赤にしながら玄関に走る、アリサの後ろ姿があった。
パタパタと足音が遠ざかるが、動けない。視線を向けることすら、できない。
「…………え?」
自分の口に手を当てる。そこには何も残ってはいない。しかし、ほんの一瞬だけ刻まれた確かな感触は、ずっとそこにある気がした。