その頃、中村涼乃は本部にいた。服装は普段とは違い、黒とグレーを基調とした、学校指定の体操服である。しかし肩の下まで伸びた薄茶色の髪と、同じ色の瞳、そして白い髪留めは変わらなかった。
私は何をすることもなく、ただ椅子に座っていた。その視線の先には、白皙の少女が1人。
その少女は、名を入江明菜といった。
「―――」
輝くような純白の髪は、床を撫でるほど長い。澄んだ蜂蜜色の瞳は深すぎて、一切の感情を読み取ることができなかった。見たこともないほど整った顔立ちは、取り澄ましたような無表情で、職人が丹精込めて作ったビスクドールのように見える。
その首に巻かれている黒いチョーカーからは、首筋や額まで不自然なコードが伸びていた。人格を否定された明菜ちゃんが、歩いたり食べたりといった、最低限の生活を送るための演算補助デバイスだ。
「………」
見慣れた容姿。見慣れた瞳。普段と違う点は、常盤台中学の体操服を着ている、という点のみ。
それでも、その存在に対する現実感の薄さが無くなるわけじゃない。もう何度も会いに行ってるのに、私はいまだに慣れていないのだから。
「―――」
明菜ちゃんの声なんて、将貴すら聞いたことがない。私とは目が合うことも少なく、私という存在の認識すら、最近まで分からなかったほどだ。
しかしその小さな体には、核兵器をも超える能力が眠っている。実感も湧かないし、正直に言えば、少し怖い。
それでも、『助ける』と決めた少女。
ならば、なんとしても助ける。それだけのこと。
「調子はどーお?」
扉の閉まる音と、聞き慣れた声が聞こえた。
振り返ると、そこには明菜ちゃんより小さな少女がいた。金糸を編んだようなセミロングの金髪と、それを後頭部で結ぶ深紅のリボン。強気につり上がった
常盤台中学の制服を着る少女は、このビルの事実上の支配者、松浦奏だ。
「悪くないよ。明菜ちゃんも楽しそうだし」
「ならよかった。連れてきたかいがあったねー」
にへーっ、と奏ちゃんが笑う。身長も141cmとかなり小柄なため、その笑顔は年相応に可愛らしく見える。
でも、その頭脳に詰まった叡智は、私の理解を遥かに超えたところにあるのだろう。
「しょーくんは?」
「競技に出てるよ。もう少しで帰ってくるんじゃないかな」
「ふーん」
奏ちゃんは興味なさそうに呟き、部屋の隅で紅茶を淹れ始めた。その動きは流麗そのもので、何も言わずとも視線が固定されてしまうほどに魅力的だった。
「――?」
視線を外そうとして、私は明菜ちゃんを見つめる。
いつもの『白い部屋』ではないせいか、明菜ちゃんはゆっくりとだが、部屋全体を眺めていた。外界に対し、興味を持っている証拠だ。
「……明菜ちゃん、これからどうなるのかな」
「それを決めるために、ここにいるんだよ」
紅茶を持ってきた奏ちゃんが、後ろからそう告げた。
ティーセットを持ちながら、物音ひとつ立てないその歩調は、おそらく誰にも真似できないだろう。
奏ちゃんが私の前にティーカップを置いた。ありがたいが、今は気分じゃない。
「……私はいいよ」
「すずのんのために淹れたんだよ。暗い顔してたから、魔法でもかけてあげようかなーって」
「魔法?」
「うん。紅茶には魔法があるからねー」
「??」
私の疑問に答えることなく、奏ちゃんは、やはり淀みのない動きで紅茶を注いだ。
琥珀色の液体は、ティーカップの中で幾重もの層を生み出し、香り高いうえに見た目も美しい。勧められるがままにひと口飲むと、自然と笑顔になるほど安心する味だった。
「やっと笑ったね」
「え?」
「それが紅茶の魔法だよ」
そう言った奏ちゃんの笑顔に、私は呼吸を忘れそうになった。
「でも、明菜ちゃんにはまだ効かなくてさー。それがちょっと悔しかったり」
「……そんなことないよ。アリサちゃんの歌みたいに、いつかきっと笑ってくれるから」
「だと良いけどねー」
そう言って紅茶を飲む奏ちゃんは、額に入れれば絵画になるほど綺麗だった。
明菜ちゃんはそれを真似て、ずずっと紅茶を飲んだ。しかし熱かったのか、すぐに口を離した。
「……奏ちゃんは、どうして明菜ちゃんを受け入れたの?」
「狙われてるって分かったからだよー」
「それだけ?」
「うん」
あっけらかんと、奏ちゃんは言った。
言いたいことは分かるし、同意できる。でも、今回のそれは、相手の種類が明らかに『違う』。
「……明菜ちゃんを狙う人たちが、今までみたいな相手じゃないのは、私でも分かるよ。それを――」
「なら避けて通る?」
「――!」
「言い方を変えるね。避けて通れると、思ってる?」
「明菜ちゃんを外に出した時点で、こうなるのは決まってた。しょーくんも分かってるよ」
「……そのために本部を?」
「1人を助けるために、組織を挙げて動く。それが
そう言われると、私は閉口するしかない。
みんなのために1人の少女に犠牲を強いるなんて、そんなのは嫌だ。ただ、いざ目の前に脅威がくると、どうしようもなく怖いだけ。
「奏ちゃんは、どうしてそこまでしてくれるの?」
「んー?」
「明菜ちゃんも、将貴のことも。なんでそこまで気にかけてくれるの?」
小さな声で問いかける。これは、ずっと気になってたことだった。
こうして目の前にいる奏ちゃんだが、実力や名声、そして叡智は、私のそれとは比較にならない。本来なら、話しかけることも躊躇うような人なのだ。
将貴のような『普通の風紀委員』を気にかけるのも、こうして紅茶を囲むのも、考えてみればおかしい。
「しょーくんは私の『所有物』だから、私にはその責任がある――ってゆーのが、表の理由」
「……裏は?」
「あの子の生き方が気に入らないから」
バッサリと、奏ちゃんは言い切った。
あまりに予想外の言葉に、私の動きが止まる。前を見ると、奏ちゃんは面倒くさそうに眉を歪めていた。
「私は『自身の考えに忠実に生きる』ようにしてる。それで、他の人にもそうあってほしいなーって」
「……?」
「だから私は、他の人の生き方も認めるよー。だから、人の刃が私に届いても、仕方ないって思える。そうやって生きるのが、私の願いだもん」
……また、見惚れそうになった。今度は見た目じゃなくて、その生き方に。あまりに眩しいその在り方に。
奏ちゃんは、なんで
「明菜ちゃんは、考えることすら許されなかった子。そんな子に、運命だから受け入れろ、なんて言いたくない。選択肢の無い生き方なんて、おもしろくないからねー」
「……うん」
「でもしょーくんは、『自身の考え』が無い子。人の真似ばっかり。これもおもしろくない」
ティーカップのスプーンを回しながら、奏ちゃんはつまらなそうに言う。拗ねる子供のような仕草だ。
「でも、『明菜ちゃんを助けたい』っていうのは、しょーくん自身の考え。だから尊重してあげたいんだよー」
「……すごいね。奏ちゃんは」
「んーにゃ、そーでもないよー。私はあくまで、選択肢を示してるだけだし」
思い出したように、奏ちゃんは私を見た。
「前に言ったでしょ?しょーくんの手綱を握れるのは、すずのんだけって。だからお願いねー」
「……なんで私って思ったの?」
「人の『弱さ』を知ってるって、そーゆーことだよー」
相変わらず奏ちゃんは、よく分からない言い方をする。そもそも、意識したことすらない。
将貴の『弱さ』――たとえば、打たれ強く見えて、本当は頼り方も知らないこと。気丈に振る舞って、泣き方すら知らなかったこと。
そんなものは、将貴を彩る魅力の1つでしかないのだから。
「ま、分からなくても出来るから、そんなに心配はしてないけどさー」
「……?」
「しょーくんの手、離さないようにね」
そう言うと、奏ちゃんはすっと席を立った。
それとほぼ同時に、後ろのドアが開く。そこに立っていたのは、話題に挙がっていた将貴その人だ。
「ま、なにはともあれ、この大覇星祭楽しむといーよ」
「うん。ありがとう奏ちゃん」
「じゃーねー」
ひらひらと手を振り、奏ちゃんは席を譲るように扉に向かった。後頭部で結んだ深紅のリボンが、歩調に合わせてぴょこぴょこと跳ねている。
「お疲れ、将貴。競技はどうだった?」
「圧勝。俺がいなくて良かったかもな」
「もう、だからってサボるのはダメだよ?」
「分かってるよ」
そう答えた将貴は、躊躇なく明菜ちゃんの隣に座って、純白の髪を撫で始めた。その姿はあまりに自然体で、まるで仲の良い兄妹に見える。
「どーだ明菜。久々の外は」
「――?」
「楽しいか?なら良かった」
穏やかに笑いかける将貴を、明菜ちゃんは不思議そうに見つめている。深い蜂蜜色の瞳には、将貴以外なにも映ってないように見える。
「……ところで、なんで明菜は体操服なの?しかも常盤台の」
「奏ちゃんが着せたんだよ。雰囲気でるからって」
「まず形からってことか……?」
困惑する将貴だが、いつもの病衣は不便だと思ったのか、すぐに納得した。
私も同意するし、なにより可愛い。せっかくだし、後ろで髪を束ねたら、もっとそれっぽくなる気がする。
「なら、私も明菜ちゃんに魔法をかけてあげるよ」
「……魔法?」
「うん。まあ見てて」
怪訝な表情をする将貴を横目に、私は明菜ちゃんの髪に触れた。将貴のおかげか、会うたびに綺麗になっていく純白の髪に、少し嫉妬しそうになる。
「(来年はもっと綺麗になるんだろうなー)」
今度はきちんと競技に出る明菜ちゃんと、それを応援する私たち。熱を入れすぎて応援する将貴と、それを抑える私。
そんな光景が浮かんで、思わず笑みがこぼれる。
こうして2人で、ゆっくりと明菜ちゃんと過ごす時間が、実は結構好きだったりする。
理由は、まあ、恥ずかしくて言えないけど。
*
天井の高い廊下を、松浦奏は静かに歩く。
大きな窓ガラスから差し込む日射しは、廊下を柔らかく照らしている。高く伸びた植物のカーテンはエアコンの風に揺れ、屋外以上に生き生きとしていた。
「(人の『弱さ』なんて、普通は知らないんだよ)」
呟いて、私は呆れたように笑った。
あの2人の互いへの理解の深さと、相反するようなすれ違いは、いつ見ても同じだ。2人とも(ある意味)純粋なため、こんなことが起きているのだろう。
彼らは一見すると、お似合いのカップルのように見える――事実ではあるのだろう――が、想いの『質』がまるで異なる。
中村涼乃が抱くのは、純粋な『好き』に違いない。
だが、私の勝手な予想で言うなら――
「(……しょーくんは多分、すずのんが『好き』じゃない)」
厳密には、純粋な『好き』ではない。
大切に思ってるのも、守ろうとしているのも、間違いなく事実。でもその本質は、『好き』だからじゃない。
彼女が『憧れ』だと、彼は口にしていた。加えて、好意とは明らかに異なる、煮え切らない態度。にも関わらず、あれほどまでに苛烈な想い。
おそらく
もっと言えば、中村涼乃を真似ることで、前原将貴は自分の『正解』を間接的に証明しているのだ。
「(しょーくんが風紀委員にいるのも、あの時に『必要な人』が、たまたま『正しい人』だったってだけ。仮にすずのんが暗部の人間なら、そのまま堕ちてただろーねー)」
きっかけは八月十日事件。
あの事件を通して、彼は自らを否定した。
大きな間違いを犯したから、自分を信じれなくなった。でも、今度こそ間違えたくないと思った彼は、『正解』を自分ではなく他人に――自分を助けてくれた、中村涼乃に求めることにした。
だから信じる。
だから憧れる。
だから守ろうとする。
だから近くにいたいと願う。
でも、最後の一線だけは絶対に越えない。
だって中村涼乃は、前原将貴の『正解』を示してくれる『鏡』なのだから。
「めんどくさい生き方してるなー、しょーくんは」
鏡に踏み込む人はいない。そして、『自分』を守らない人もいない。たとえそれが、鏡の中であっても。
だからこそ彼は、無意識でも彼女を守れる。中村涼乃に対する苛烈なまでの想いは、要は自分に対するそれと同じ。
そんな歪な関係だから、2人は簡単には離れない。さらにめんどうなことに、しょーくんはその『歪み』を自覚してるから、なにがあっても一線を越えない。
「自分の善性を確信するのも問題だけど、全否定するのも考えものかー」
ローファーを鳴らしながら、私は執務室へ向かう。
そんな歪な関係、いっそ切れてしまえばいいのに。そうすれば次は、より綺麗に、よりシンプルに結べるのに。
『鏡』越しに見るより、自分で見た世界の方が、よほど広くて、美しいののだから。
でも、そこまで口を出す権利は無いし、面倒を見るつもりもない。
まあ要するに、何が言いたいかというと。
「あの2人、さっさとくっつけばいいのにねー」
興味なさげに、小さな支配者は呟いた。