いつものように、酒場の屋根に寝転がって空を見ていた時だ。
視界の端で動くものを捉えて、視線だけそっちに向ける。………と、海賊帽を被ったアゴヒゲの男性が屋根の縁から顔をだし、エミルを見付けて近寄ってきた。
寝転がったままでいたら、どかりと隣に座る気配がする。
「また来たのか」
「よう、エミル。元気だったか?」
「聖隷に元気もなにもないだろう」
「ま、そりゃそうだ」
男性―――アイフリードは豪快に笑う。片手には酒瓶。どうやらそれを持ったまま、壁のはしごを登って来たらしい。
「飲むか?」
「いらん」
「つれねぇなぁ」
アイフリードは一人で勝手に瓶の栓を抜いて、そのまま口をつけてグビグビとやりだした。
その横顔に、薄い、しかし新しい傷があるのを見付けて、エミルは無意識に目を険しくした。そのまま体の方にも視線を向ければ、あちこちに小さな傷がある。
「………また航海に出てたのか?」
アイフリードがにやりとした。
「ああ。今度はクルスニク島、ってとこまで行った。人より猫が多い島でな、あちこち引っ掛かれてそりゃあ大変だった」
アイフリードは楽しそうに語る。
途中で不思議な歌が聞こえる海域を通っただの、そこで嵐に会って船が難波しかけただの、立ち寄った島で鳥を拾っただの。
いつもいつも、航海から帰るとアイフリードはエミルに航海の話を聞かせる。おかげでエミルは海の近くに行ったこともないのに、アイフリードが見てきた異海をありありと思い浮かべることができた。
一通り話した後で、アイフリードは膝を打った。
「―――で、どうだ?」
「どうって?」
「ほら、お前の記憶だよ」
「あぁ………」
エミルは、記憶喪失の聖隷だ。ローグレスの路地裏で怪我だらけで倒れていたところをアイフリードに助けられ、血翅蝶に預けられて今に至る。
自分の名前さえも、自分のものかどうかは定かではない。どこから来たのかも、なぜ怪我だらけで倒れていたのかも覚えていないのだ。
「お前、街の名前も覚えてなかったが、幾つか景色は覚えてたろ?」
例えば、大陸を繋ぐ巨大な橋。例えば、湖の上にある町。砂漠の中のオアシス、学者が集まる町、森の中の村。雪の中の聖堂。
景色だけは覚えているのに、やはりそこの地名は覚えていなかった。
「俺はあちこち旅してるがお前が言うような場所は知らねぇ。で考えたんだが………お前、もしかしたら異大陸から来たんじゃねえかってよ。ほら、お前が覚えてた言葉」
「カーラーンとユグドラシル、か?」
自分の名前さえあやふやなエミルが、はっきりと覚えていた言葉のひとつ。とても大切なものであることは確か。
「そう、それだ。ウチの死神が言うには、そいつは異大陸の古代語らしくてな。どっちも『大いなるもの』とか『命の源』って意味らしい。どこの言葉かまでは知らねぇらしいが」
「………なるほど。だから俺の記憶にある景色も異大陸にあると考えたわけか」
「そーいうこった。で、なんか思い出すことはあったか?」
アイフリードの問いには、エミルは肩をすくめて応えた。
「確かに興味深いとは感じるが、思い出すって感じじゃねぇな」
「ダメか………ま、気長にいくか。世界は広いからな。どっかにはお前の記憶と同じ場所もあるだろ」
アイフリードはまた酒―――心水を煽った。
「おい、ほどほどにしとけよ。俺じゃ酔っ払ったお前を抱えられないんだからな」
「これっくらいで酔っ払わねぇよ! 俺たち船乗りにとっちゃ、心水は水みてぇなもんだし」
実際は、エミルは言うほど心配していない。
アイフリードの心水の強さはよく知っている。酔っても気持ちのいい酔い方をするし、前後不覚になるまでは呑まない。豪快でありながら、常に頭の一部は冷静な男だ。自分で加減はできるだろう。
それでも声をかけたのは―――エミルが『聖隷』だから。
「………」
そう、そうなのだ。
アイフリードに助けられ、血翅蝶に預けられてもう半年。なのに未だに、エミルはアイフリード以外に自分が見える人間に会ったことがない。
目の前に立っても視線が会わない。声をかけようにも聞こえない。こちらから触ることはできるが、気味悪がられるか、警戒される(裏社会に生きる彼らにとっては当然だろう)。
ここにいるのに、いないものとして扱われる。それを嫌だとか悲しいだとか、そんな風には感じない。仕方のないことだし、むしろ当たり前のことだと思う。
存在しないもの、認識できないものを、ヒトは忘れてしまうものだから。
アイフリードのように『視える』方が珍しいのだ。ギリギリ『感じる』人間ならいる。だが『聞こえる』のは半年で二人、『視える』となればアイフリードだけ。
だから嬉しくもあり、戸惑いもある。
会話できることは嬉しい。だが、他人には見えない存在を相手にするのが、他人からどんな目で見られるか。
「………でよ、親鳥は死んじまったんだが、卵の方をウチの若い奴が孵すって言ってな。今船で奮闘してるんだ」
大抵の話は聞き流すのだが、最後のところにだけはエミルも反応した。
「鳥の卵を、人力で? ………止めとけ。鳥は温度に敏感なんだ。適温じゃなきゃ孵らねぇし、もし孵っても人の手で育てたら空に戻れなくなる。自然のままにするのが一番だ」
最後は本当にそう思った。何故か実感を伴って。
あるべき姿で、あるべきままで。世界はそうして巡るべきだ。干渉するべきものではない。少なくとも、自分はそれに、世界の有り様に干渉しては―――。
「あいつも同じようなこと言ってたな。けど、俺はやるだけやってみりゃいいと思ってる。ダメならそんときはそんときだ」
あいつ、というのはアイフリードの船に乗っている聖隷のことだ。会ったこともないし名前も聞いたことはないが、しょっちゅうアイフリードの話に出てくるからある程度の性格は知っている。
そいつが、アイフリードに甘いことも。
「人間だろうが鳥だろうが、一度船に乗って共に海を越えたなら、そいつはもう俺たちの仲間だ。この先何があろうと、仲間だったという事実は消えねぇ。俺は大海賊バン・アイフリードだぞ? それっくらい受け止めてやれねぇでどうするんだ」
「………お前は、本当にバカな奴だな」
しみじみと、そう思った。
運命を認めず自らの道を切り開く強さがあり、同時に現実を受け入れる強さがあり。現実を知りながらそれに立ち向かい、死を受け入れながらも困難に抗う。
本当に変わってる。
己の道を、どんな困難があってもそれさえも面白いと受け入れ、その先の終わりを知りながら、それに向かう道を笑って駆け抜ける。
―――あぁ、なんて眩しい。
「本当に、バカだ」
いくらでも他に道を選べるのに、もっと長く生きられるのに、『それを選ばなければ意味がない』とばかりにわざと困難な道をいく。………だが本当に『それ』を選ばなかった相手は、きっと眩しいと思った相手ではないのだ。
笑って『それ』に立ち向かうヒトをこそ、自分はいとしいと思ったのだから。
「………あぁ、それが『俺』だからな」
分かっているのか、いないのか。
アイフリードはただその一言だけを口にして、エミルのとなりで心水を呑んだ。
――――――
トリップしてから半年ほど。
断片的な記憶はあるが思い出せないのできっと多分かなりモヤモヤしてるはず。
ちなみに血翅蝶の面々は見えない聞こえない。たまに気配を感じられる程度の人がいる。
まだ聖寮は本格的には動いていないため、ローグレスでも霊応力が高いヒトはほとんどいません。
――――――