ロイドを追い掛けてグリンウッドにやって来たエミル(ラタトスク)だが、大量の負―――穢れに弱る。
街や村など人が多い場所ほど汚れが強いため、そういう場所を避けて落ち着ける場所を探す。
そんな中で、出くわしてしまったのは。
「―――っ!」
何だ、こいつは。
凄まじい量と濃度の負を纏う者。その負はその者の姿と有り様まで歪めており、人間であるはずのそいつは獅子の体を持っていた。
このままでは。
いくらラタトスクが魔族と戦える―――負と障気に耐性があるとは言え、これ以上はまずい。これ以上は―――歪む。
せめて。
(エミル、だけは―――)
(ダメだよ! そんなこと)
即座に胸の内から反論があった。
(君は『ラタトスク』なんだ。『ラタトスク』が消えてしまったら、いったい誰があの世界を守るの?)
理を引き直しているあの世界。あと千年経ってマナの切り離しと理の書き換えが終われば、ラタトスクがいなくなってもあの世界は守られる。
だが、今あの世界を支えているのはラタトスクだ。
世界を魔族から守ること。少ないマナでも偏りなく全世界に行き渡らせること。魔物たちを統率すること。全てラタトスクにしか出来ないことで、それが欠ければ世界は数年前に戻ってしまう。
異常気象が頻発し、魔物が人々を襲い、人々の心は荒んで、負を産み―――それはやがて魔族の力となり、ニブルヘイムの魔族たちは封印を破って世界に押し入り、ヒトの世界を滅ぼすだろう。
それだけは避けなくてはならない。そのためには、世界には『精霊ラタトスク』は必要不可欠なのだ。
(安心しろ。俺が消えても、お前がいる。『精霊ラタトスク』は、消えない)
(ラタトスクは君で僕はエミルだ! そんなの―――)
「終わりだ」
眼前に、獅子の爪が。
くらう。………間に合わない。
(お前だけは)
最後の力を振り絞って、ラタトスクはエミルを切り離した。
爪が、その少年を引き裂いた。
と同時、少年から何かが飛び出す。何か―――光の玉は少年から離れた場所で地面を転がり、ヒトの形をとった。
「………ほう?」
それは妙なモノだった。
姿かたちは引き裂き足蹴にしている天族と同じ。だがその少年は、人間だ。………だがただの人間とも思えない。
そんなことが分かることに、災禍の顕主―――ヘルダルフは自嘲する。天族も見えないただの人間であった自分が。
見ていれば、人間はゆっくりと、しかししっかりと立ち上がり、まっすぐにヘルダルフを見た。
そこで、気付く。目の色が違う。天族は紅、この少年は翡翠。
「貴方は、彼をどうするつもりですか?」
「どう、とは」
「彼を利用するつもりなら、」
と剣に手をかけた。それに慌ててサイモンが姿を現す。
「主、お下がりを」
「人間? ………じゃ、ないね」
サイモンをはっきり捉え、幻を一発で見破る。かなりの霊応力の持ち主である証し。だというのにこの穢れのなか、平然としていられるのは、余程の実力者。
「くっ……!」
「そんなことは良いんだ。彼を、返してくれるかな」
ゆらり、少年が一歩踏み出す。
サイモンが杖を振るった。瞬時に実体ある幻が数体現れ、………けれどすぐさま塵に還る。少年の剣の一振りで。
同じく二度、三度。しかしその度にサイモンの幻はかき消され、吹き飛ばされ、消滅させられた。
「『僕』に幻は効かないよ」
凶暴な獣も、ヒトの形を残す憑魔も、そして、ドラゴンでさえも。その少年は臆さず、迷いもせず、全て同じように剣で斬り伏せる。
それどころか、少年が剣を振るう度に―――僅かながら、穢れが浄化されていく。
「………ほう?」
穢れに対抗できるのは導師のみ。しかし導師が表れたという話は聞かない。ましてや導師が浄化の力を持つのは、その力を持つ天族と契約しているからだ。
であるならば。
「コレか」
足下にいる天族の腕を拾い上げる。と。
「ぐっ、あぁぁ!!」
「―――!!?」
ヘルダルフの穢れに侵食されて、天族が悲鳴をあげた。反応して、それまでサイモンを圧倒していた少年が、サイモンから意識を逸らす。戦いの最中にあるまじき行為。
そしてサイモンがその隙を見逃す筈もない。
幻覚で少年の視界を奪い、少年を押し倒すや、幻覚で地面に組伏せる。動けなくなった少年に向けて、憑魔を―――憑魔に首を狙わせて。
「ここまでだ!」
「待て、サイモン」
いかに頭に血が上ろうとも、サイモンはヘルダルフの命には従う。
ヘルダルフは天族を少年に見えるように突き出した。
「お前にとって、これはそんなに大切なものか」
地面に押さえ付けられ、顔だけを上げて、少年は天族を見るや目を見開き―――
「っ、お前………!」
「暴れるな。動けば」
サイモンは杖の先を少年に突きつけている。いつでも刺せるように。
サイモンの誓約を、少年は知らない。知る由もない。だから動けず、しかし目だけには力を込めて、ヘルダルフを睨む。
そんな乱暴に扱うな、と言わんばかりの殺気の籠った目。
「返せ。彼に触れるな………っ!」
「聞くまでもなかったか」
ヘルダルフは天族の腕を放した。天族を地面に落とし、少年に近付く。
「お前は天族か?」
問われて、即答。
「僕は人間だ。―――貴方も、人間だろう」
ヘルダルフはこんなになってもまだ人間だ、と言い切られたことがおかしく思えた。
「………く、ははは! 否! 我は災禍の顕主。この世の全てを黒に染めるもの」
そう、人間ではない。人間などでは、ない。
「僕は人間だ」
リヒターさんやマルタや、他ならぬラタトスクがエミルにそうあれと願ってくれたから。エミルは人間として生きてきた。ラタトスクはエミルの半身であり、兄弟であり、産みの親だ。
「貴方も人間だろう」
エミルは一目で看破する。
人間に近く作られていてもエミルは『精霊ラタトスク』の別人格。その力は持っている。まして、ラタトスクが咄嗟に切り離したときに『精霊ラタトスク』の力の一部を受け取った。
だから見える。歪んではいるけれど、元が人間であること。絶望して苦しんで悩んで、けれどだからこそ人間だと思った。魔族ではない。魔族ならこんな苦しそうな目をしていない。憎しみしかない。
これは、狂った目ではない。全てに絶望した目だ。
「………く、ははは!」
可笑しそうに―――自棄になったように―――かなしそうに―――そのヒトは、嗤う。
「否! 我は災禍の顕主。この世の全てを黒に染めるもの」
「黒に、染める?」
「そうだ。お前も見たことはないか? 他者を疎み己と違うものを受け入れられず、同じ人間でありながら憎しみ争う………それが人間の本性よ」
エミルは反論できない。だって人間もエルフもハーフエルフを。そして同じ人間なのにテセアラとシルヴァラントは。
辛うじて言い返す。
「それが、人間の全てじゃない」
「しかし、人間の本質だ。どのような人間でも身の内に飼っている獣だ」
「………それは」
今度こそ、反論できなかった。本質云々は兎も角どんな人間でも、という辺りは。
どんな人間でも、どんなに清廉な人間でも、それの欠片は垣間見えた。押し隠すなり忘れるなりして表には出さないが、持っていないヒトは一人としていなかった。
どんなに優しいヒトでも、それを知っていたし、理解もしていたし、受け入れていた。それを外には向けないが、変わりに常に己に向け、いつも一人で苦しんでいた。
形はどうあれ、どんなヒトでもそれを持っている。それだけは紛れもない真実だったから。
「それを認めず、抗うから苦しむのだ。何故そんなことをする必要がある? 抗うことは即ち本来の形を否定すること………違うか?」
「っ、違う! 抗い、希望を抱いてそれに向けて歩み続けるからこそ、人間は強く、優しくなれる! 自分の本能と欲望にだけ塗れてしまえば、ただ滅びが待つだけだ!」
「それが本来あるべき姿ならば、それに従うのが摂理というもの。滅びるべき定めならば、滅びた方が良いのだ。己を偽り生きることに何の意味がある」
「―――っ!」
エミルに取っては、黙っていられない言葉だった。
本来あるべき姿をねじ曲げたのがラタトスクだ。介入があったとはいえ、ヒトの為したことで終わりかけた世界を、理を書き換えて長らえさせた。本来関わってはならない人間に、自分を人間と偽り関わった。
『精霊ラタトスク』の立場からしてみれば、人間が為したことの後始末のために、世界を護るための理を書き換えるなんてことはあり得ない行動だ。そのせいで星はマナに守られた永遠から外れ、必ず滅びを待つ世界になった。それがマナが星に降るより以前のあるべき姿だが、マナによる守りを敷いた『精霊ラタトスク』はそれをさせないために星に移り長年世界を守ってきたというのに。
それでもあの時、ラタトスクは世界を守ってくれたのだ。エミルに時間をくれさえした。
分かっている。それがエミルと、ラタトスクが選んだ道だ。そのおかげで世界は救われている。だから意味がないなんてことは絶対にあり得ない。
なのに、反論できないのだ。
救われたのは一時のこと。何十億年も先に、世界は滅ぶ。あるいはまた世界樹が枯れてしまえば、ヒトがマナを使い尽くせば、ヒトの心が荒んで行けば。どれだけラタトスクが力を尽くそうと、世界は滅ぶ。
そしてそれを、精霊たるラタトスクは見届けなければならないのだ。その時、皆は側にいない。ラタトスクを受け入れてくれた人たちが―――ロイドもコレットも、ジーニアスにリフィルやリヒターも、………マルタも。
黙りこんでしまったエミルに、そのヒトが手を差し伸べる。
「ワシと共に来い。世界を本来あるべき真の世界に染めるために。幻想と責務に縛られた哀れな者たちを解放するために」
「………解放する?」
胸の奥底で、ちろりと何かが舌を出す。
あの暗い場所から―――重い使命から―――永遠の孤独から―――助けられる?
「―――聞く耳を、持つな!」
「! ら、」
弾かれたように顔を上げる。地面に倒れながら、周囲の負に苦しみながら、それでもラタトスクが、絞り出すように、叫ぶ。
「そいつの言ってることは、ただの屁理屈だ。そんなもんに、耳を貸すな! お前は―――っぁぁ!!」
腕で支えて上げていた背が、反った。
踏みつけられた痛みと、先程とは比べ物にならない負の侵食を受けて。
「っ?!」
「お前は黙っていろ、天族」
そのヒトが纏う負は、魔族のそれに匹敵する濃度と量。そしてラタトスクにとって、精霊にとって、負とは―――猛毒。
武器を突きつけられていたことも忘れて、エミルは叫んだ。
「止めて! お願いします、止めて下さい! 僕はどうなっても構わないから、彼には手を出さないで!」
悲鳴に近い声だった。泣きそうな声だった。
そのヒトが、ラタトスクから足を離して振り返った。
「………それほどまでに、このものが大切か」
エミルは答えなかった。声が出なくて答えられなかった。だが、目が何よりも雄弁に物語っていた。
獅子の口角が、上がる。
「ならば、取引をしないか?」
「取引………?」
「お前がワシの元に在る限り、ワシはそのものに手を出さぬ。代わりに、お前はワシの元に来い」
好条件だった。むしろ断る理由が見つからないほど。
「………なぜ、僕を?」
「お前には興味があるのでな。安心しろ。ワシと同じことをしろとは言わん」
迷う余地はない。ラタトスクのためなら。けれどそのまま信じるには情報が足りず。嘘を言っているようには見えないが、罠が無いとも限らない。
だとしてもエミルには、他に手段がなかった。
「―――分かった。その言葉に、嘘がないのなら」
そうエミルが答えた瞬間、そのヒトがまた、ニヤリと嗤った。
前回がロイド側の話。
あれから五、六年後の話。