「っはあ……はあ、っ……」
マミが息を切らして立ち止まる。行き止まりだった。入ってすぐの広間ほどではないが、勇ましく剣を構えた戦士像を中心に円形に開かれた場所。魔物が潜んでいる様子はなく、辺りにはマミの呼吸音しか響かない。
振り向くとまだ蝙蝠たちの羽音が聞こえる。振り切れた訳ではない。執拗にマミを追ってきている。ここに辿り着くのも時間の問題だろう。
「首の……後ろ……」
マミが走ってきた道の先を見ていると、像の隣に立つ男性が呟いた。
男性は中心に立つ像を指差している。
「後ろですか?」
何かあるんですか、とマミが像の後ろに回り込む。見ると確かに像の首の後ろには丸型のボタンのようなものがあった。押しても良いのだろうか。押したら、なにがおこるのだろうか。
恐る恐る彼女の指がボタンに触れる。ひんやりとした石の感覚が伝わる。もう少し押し込めそうだ。ぐ、と力を込めてマミはボタンを像の首へと押し込んだ。
「ひゃっ」
ごうん、という何かが大きく動いたような音が聞こえた。次いで、遺跡全体を揺らすような振動。あしもとがふらつき、その拍子に声が出てしまった。
なにが起きたのかはわからないが、このボタンをきっかけとして遺跡に何かが起きたのは確かだ。マミは男性に尋ねようと辺りを見回す。
男性はそこにいた。マミが彼を目にとめると同時に驚いた表情へと変わる。どうして今まで気づかなかったのだろう。
随分と長い間閉ざされていた遺跡に、魔物の中を潜り抜けてくる一般人などそうそういるはずがない。よほどの手練れか、もしくは。
「すでに、死者である方だったのですね」
言うと、男性はわずかに目を細めた。彼に足は生えていなかった。否、正確には青白く透けてしまっており、自らの両の足で立ってはいない。ボタンを押してからというもの、彼の姿はすぅっと、音でもするかのようにだんだん透けてきている。どことなく誰かに面影がある気がしないでもない。どこの誰とも知らない人間のことを後先考えず救う姿に見覚えがあった。
「ーーーーー」
「まってください!成仏しなければ、あなたはもう…!」
男はマミが考えているうちに背景に溶けて消えてしまった。この空間にはマミと像以外残されていない。しつこいほど追ってきていたドラキーたちの羽音も聞こえない。遺跡が振動してから、この階にいたはずの魔物たちは急になりを潜めてしまった。どうしてか。それも気になってはいたが、成仏させることなく消えてしまったあの男性幽霊のほうがマミには気がかりだった。人間は幽霊と化してからいつ悪鬼や魔のものに心を染められてしまうかわからない。なんせ脆く儚い命でつなぎ留められている者たちだ。それ故守護天使の任の一部として幽霊を成仏へと導くことが含まれているというのに。
「…行ってしまった………」
さらさらと、水がゆっくりと流れる音だけが遺跡に響き渡っていた。
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なぜか魔物が全く出てこなくなってしまった遺跡を歩き回ると、初め入った時には見当たらなかったはずの出入り口が大きな広間の橋に生じていた。その出入り口の隣には手入れの施されていない碑文が残されている。
『悪しき魔物の犠牲者を出さぬようにするため、この道を封印する』
遺跡が道として使われなくなってから、この道が使えないように封印が施されていたのだろう。そのカギとしてあの像の首のボタンの仕掛けが施されてあったのだということをマミは悟る。この先を進めば、この階よりもきっと狂暴な魔物が住み着いている。もしかしたら、遺跡の入口でマミを襲ったドラキーたちも、この先の魔物を恐れているのかもしれない、とマミは思った。
人が入ってこない、湿り気も程よく、静かで、暗い。あの大蝙蝠たちにとっては楽園のような場所。自分より強い魔物はこの壁の向こうに封印されており、何物にも介入を許さない。そんな場所に自分は立ち入ってしまったのではないか。彼らから見たら、平和を脅かす敵として自分が一刻も早く消さなければならない人間であったのではないか。
「安全を脅かす者…だったということですか」
出入り口が開いてしまった今、ここで騒ぐことは彼らにとっても本望ではないのだろう。だから、ボタンを押してからぱたりと彼女を追うのをやめてしまった。そう考えると、すべてが納得いくような気がしてきた。
マミは出入り口を抜けようとして立ち止まる。遺跡にいる魔物たちすべてが固唾をのむ音がマミの耳に届く。
そして、彼女は広場へ向かって振り向くと、深々と頭を下げた。
「自分勝手な思いで、あなた方の居場所を踏み荒らしてしまい、申し訳ございませんでした!」
頭を下げた態勢でいると、先ほどドラキーたちに突撃されてきた時の腹部の痛みがよみがえる。殺し合いが、情けをかけて生きていられるほど甘いものではないと痛感した。
ただ、それでも何も考えずに魔物をひた殺していいわけではないとマミは思う。
誰しも守りたいものがあって、剣を、武器を、拳を握るのだ。そしてそれはきっと魔物にとっても同じなのだろう。自分は人間を守り、導くものであるが、彼らと同様の心持である魔物を、どうしても蔑ろにしてよいとは思えないのだ。
これが、私から彼らに向けた精一杯の礼儀なのです。師匠。