第1話 日常の終わり、夢の始まり
アナタにとって『日常』とは何ですか?
腐臭が漂う路地裏から空を眺めながら、そんな言葉を思い出していた。学校の先生が道徳の時間に生徒達に投げた質問だ。
ほとんどが平和の象徴とか、真の幸福だとか似たような内容ばかりだったけど、ボクだけは違った。
『日常』とは死ぬまで終わらない無限ループだ。
『日常』という言葉は本来、その人が繰り返す日々の生活を指すもので、個人によってその内容は大きく異なると言われている。であるならば、その人が何を『日常』と捉えているかによって普段どんな生活を送っているのか、どういう価値観を持っているかある程度推測できる。
「なあ、次はどうする?」
「うーん、腕と指はやったからぁ……脚はどうよ?」
そして。
「お、いいね。どっちからやる?」
「んー、じゃ右足から」
これがボクの『日常』だ。
「はーい、じゃあ右足逝きまーす!!」
「ぁ、ぅ……」
愉しげに嗤いながら、男の足が躊躇なく踏み下ろされる。ボキィッ! と右足から嫌な音と言葉にならない激痛が走る。額からどっと汗が吹き出し、視界がチカチカと点滅する。ズボンの下では腕や指と同じように、右膝の周りが紫色に膨れ上がっていることだろう。
泣き叫びはしなかった。痛みを絶叫で誤魔化す体力なんて、両手の五指をすべて折られた時点で使い果たした。
「ああ? 意識飛ばしてんじゃねーぞゴミ屑がッ!」
「かは……ッ!」
男の爪先が鳩尾を捉え、肺の中の空気を無理矢理吐かされる。素人特有の力任せの蹴りだが、相手は仮にも大人だ。子ども、それも平均より痩せ気味なボクを蹴り飛ばすぐらい造作もない。
サッカーボールの様にごろごろと転がるボクを見ながら、男達がげらげら笑う。
「畜生のぶんざいで俺たち善良な市民サマと同じ道歩いてんじゃねえよ」
「お前みたいな何の価値もないゴミは、こういう掃き溜めがお似合いなんだよ! ぎゃはは!!」
侮蔑と嘲笑、ついでに唾を浴びせてから男共は路地裏から遠ざかっていった。
「……価値がない、か……」
足音が完全に聞こえなくなったのを確認してから、ぼそりと呟く。
無価値。今よりずっと幼い頃から言われ続けた言葉。ボクという存在を端的に示した表現。聞き飽きて聞き慣れたボクの代名詞。久しく自分の名前も呼ばれていない。
……あれ? ボクの名前って、なんだっけ?
痛みに歯を食いしばりながら立ち上がり、折れた片足を引きずるように壁際まで移動する。
薄汚れた壁に背をあずけ、一息吐こうとした瞬間、喉奥から何かがせり上がってきた。
「げほ、ごふ……ッ!? 」
不意打ち気味にこみ上げた吐き気に対処できず、思わず地面にぶちまける。地面に咲いた真っ赤な花。それが自分の血だと気づくのにそう時間は掛からなかった。
口の中が鉄臭くて気持ち悪い。立ちくらみにも似た眩暈に襲われ、受け身もとれずに倒れ込む。
いつのまにか骨折の痛みは消え、呼吸も段々と落ち着いてきた。ただ、どうしてだろう。まるでピントの合わないカメラを覗いてるみたいに景色がぼやけてきた。
「……眠い」
ほんの少しだけ休もう。
瞼を閉じて浅く息を吐く。世界が闇に包まれ、意識が薄れていく。
きっとこのまま意識を手放せば、もう二度と目覚めることはない。だけど恐怖も心残りもなかった。
───ああ、でも。
ぼろぼろな腕で暗闇に手を伸ばす。この行動に意味なんてない。こんな感情に意味なんてない。だって、どうしようもないほど手遅れなんだから。それでも───
もしも"次"があるのなら、ボクは……───
この日、少年のありきたりな日常は終わりを迎えた。
この日、"無価値な少年"は死んだ。
◆◇◆◇
───2023年、日本。
自衛隊は『ガストレア』と呼ばれる異形との戦争で、多大な犠牲を払いながらもなんとか侵攻を食い止めていた。
『ガストレア』とは、ガストレアウイルスに感染し、遺伝子を書き換えられ怪物と化した生物の総称だ。奴らは突如として世界に現れ、瞬く間に人類を殲滅していった。赤く輝く目と動植物を巨大化したような醜悪な外見が特徴で、中には複数の生物を混ぜ合わせたキメラのようなガストレアも存在する。
「本部! 援軍はまだ到着しないのか!?」
『今そちらに向かっている! もう少しだけ踏ん張ってくれ!!』
「簡単に言ってくれる、ねッ!」
喉元に喰らいつこうと飛び掛かってきた蜘蛛と犬を掛け合わせたようなガストレアの口に手榴弾を捻じ込み、そのまま蹴り飛ばす。蹴り飛ばした先に密集していたガストレア共々爆散し、肉片が飛び散る。
戦闘が始まって数時間と経たないうちに、前線に駆り出された自衛隊は彼の部隊を残して全滅した。ガストレアの数はざっと見ただけでも数千体。絶望的な戦力差だった。
「隊長ッ! 設置完了です!!」
部下の声を聞くと、彼は残っている手榴弾をガストレア達にばら撒いてから背後に走る。焼け石に水だが足止めぐらいにはなるだろう。爆風と異形の断末魔を背中で受けながら円状の塹壕に飛び込む。そこには彼の部下達が集まっていた。
「総員、目と耳を塞げッ!!」
隊長が部下達に叫んだ瞬間、凄まじい爆発が塹壕を除いた周辺一帯を吹き飛ばした。
◆◇◆◇
「や、やったか?」
その言葉はこの場にいる誰しもが思っていたことだった。周囲は文字通り焦土と化し、黒煙が視界を完全に閉ざしている。
大量のC4爆薬に物を言わせた物量作戦。戦死した仲間から拝借するのは良心が痛んだが、奴らを一網打尽にする策を他に思いつかなかった。
先の爆発は凄まじい威力だった。殲滅が無理だったとしてもそれなりの数を減らせたはずだ。隊長はそう自分に言い聞かせるが、得体の知れない不安感は拭えなかった。
(どうか杞憂であってくれ……)
焦げ臭い風が頬を撫で、土煙が薄れていく。そして───嫌な予感は的中した。
大気を震わす咆哮が戦場に響き渡り、土煙が完全に晴れる。奴らは───ガストレアは健在だった。
「そんな、馬鹿な……」
悪夢としか言いようのない光景に、部下が一人また一人と膝をつく。
当然だ。弾薬は底をつき、爆発物は作戦で使ったC4が最後だった。残っている武器と言えば、この戦争において最も活躍の機会がないナイフと、己の肉体のみ。
ある者は恐怖に震えた。
ある者は悔しげに拳を握りしめた。
ある者は絶望に濁った瞳でナイフを見つめた。
そしてある者は、覚悟を決めて塹壕を出た。
「た、隊長? どこへ……?」
部隊の中で最も若い男の声に、他の者たちも信じられないものを見るような目を隊長に向ける。いや、本当は分かっている。この状況で塹壕を出るという行為が一体何を意味するのかを。
「俺が可能な限り連中を引きつける。タイミングを見て、6時の方向に全力で走れ。そこが奴らの包囲網の中で最も手薄だ」
「そんな!? それじゃあ隊長は……」
「勘違いするな。心が折れた兵士など、戦場では足手纏いでしかない。未熟者と共倒れなど御免だ」
言葉はどこまでも辛辣なのに、その声は慈しみに満ちていた。せめて自分の部下だけは守ってみせる。隊長は一度大きく息を吐いて、ガストレアの大群を鋭く睨む。
「お断りします」
「なに……?」
まさか拒絶の意志を示すとは思っていなかった隊長は、部下達を振り返り呆気に取られる。
恐怖が消えたわけではない。体は今も震えている。けれどもはや誰一人、その目は死んでいなかった。
自分たちが今なおこうして生きているのは隊長のおかげだ。ならば、その恩を仇で返すなど出来る筈がない。
「……困った部下を持ったもんだな」
隊長は目元を拭うと不敵に笑った。それにつられるように部下たちも笑った。先程までの暗い雰囲気はどこへやら。圧倒的な死を前にして、こんなにも穏やかな気持ちになれるなど思ってもみなかった。
「お前達と戦えたことを、誇りに思う」
その言葉を合図に全員がナイフ抜き、構える。同時にガストレアが全方位から雪崩れ込んでくる。
「おおおぉぉおおッ!!!」
突如地面から飛び出した槍が、先陣を切っていたガストレア数十体を串刺しにした。
「なん、だ……これは……」
それも全ての槍が正確にガストレアの心臓、もしくは脳を貫き絶命に至らしめている。異様な光景を前に数秒ほど思考が停止していると、その間に槍は霧散し、支えを失ったガストレア達の死体は地面に叩きつけられる。
「───遅れて申し訳ありません」
死体に意識を集中していた彼らが顔を上げれば、眼帯のようなマスクを着けた男が黒い外套を
(何者だ? 現れたタイミングからして、原理は分からないがガストレア達を串刺しにしたのは恐らくこの男の仕業だろう。……まさか援軍? いや待て、そもそも───)
コイツらはどうやってここまで来た?
視線は自然と謎の集団の背後に吸い寄せられる。そして、ぎょっとした。
彼らが通ったであろう道には、夥しい数のガストレアがその骸を晒していたからだ。
「生存者の安全を最優先に陣形を組んでください」
「承知」
男の指示に従って白フード達が、唖然としている自衛隊を囲むようにしてガストレアと対峙する。
「作戦はどうされますか?」
直後、肉を突き破る音ともに男の腰から4本の触手が飛び出した。男の露出した左目が、赫く染まる。
「いつも通り───駆逐でお願いします」
生き残った自衛隊のメンバーは後に、そのときの出来事をこう語った。
たった一人で、数千のガストレアを蹂躙するその姿はまるで───『黒い死神』のようだった、と。
初めまして、夢幻読書と申します。まずはこれを読んでくださっているアナタへ心からの感謝を。未熟者ですが、これからも付き合っていただけると幸いです。
ところで皆さんはどのカネキくんがお好きですか?
ちなみに作者は闇カネキが好きです。
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