第10話 孤言
僕には価値がない。
価値の基準が何なのかは知らないけれど、100人中100人が「お前は無価値だ」と断ずるのなら、それは客観的で絶対的な、覆しようのない事実なのだろう。
この世界で目覚めてからずっと考えていた。どうすれば、こんな僕に価値が生まれるのかを。
ただ
前世は誰の記憶にも残らないような
───かっこよく死にたい。
◆◇◆◇
勾田高校からそれほど遠く離れていない場所に位置するとある道場、その裏庭。
柔らかな陽射しを全身に浴びながら、早朝の冷たく澄んだ空気で肺を満たすと、里見蓮太郎は静かに口を開いた。
「……心が折れそうだ」
「安心しろ蓮太郎……妾はとっくに折れてる」
どこに安心できる要素があるんだと、いちいちツッコミを入れる気力もない。芝生の上に仰向けに倒れながら、蓮太郎と彼の相棒である藍原延珠はげっそりとした様子で呻いた。
汗を吸って肌に張り付くシャツの感触が気持ち悪いが、額に浮かぶ汗を拭うことすら億劫で、まるで地面に縫いつけられたように体はピクリとも動かない。
「そう悲観することもないよ。訓練を始めてまだ二ヶ月だけど、僕を相手に
そう言って金木研は、二人の顔に適度に絞った濡れタオルを投げた。ちなみに今のカネキの格好は、灰色の半袖のスポーツウェアに黒のハーフパンツである。
蛭子影胤テロ事件を解決した功績を讃えられ、聖居で受勲式を終えた蓮太郎は、カネキに師事するために真っ直ぐ彼の自宅へと足を運んだ。何でも、菫からカネキと影胤の戦闘映像を見せられたことで、己の弱さを再認識させられたらしい。
『俺は、自分が何者なのか知りたい。IP序列の向上によって得られる"機密情報へのアクセス権"があれば、それが分かる筈なんだ。けどその為には、今のままじゃ駄目なんだ。俺は、もっと強くならなくちゃいけない。頼むカネキ! 俺を鍛えてくれ!!』
特訓はカネキと蓮太郎の予定が合う日に、早朝と放課後から深夜にかけての二回、受勲式の翌日から始まった。ちなみに開始時間を早朝、終了時間を深夜にしたのは「蓮太郎くんって確か学校に行ってもほとんど寝てるだけだって未織ちゃんが言ってたな。なら問題ないだろう」という蓮太郎の学生としての生活を考慮した結果だった。
そんなこんなで始まった蓮太郎の『秘密の特訓』。だがそれは、日も昇らない内から家を出た彼を不審に思った延珠が尾行したことで、始まる前に終わりを迎えた。『秘密の特訓』改め『ただの特訓』誕生の瞬間である。
その際に蓮太郎と延珠の間で一悶着あったのはご愛嬌。
とりあえず、バレてしまったものは仕方がないということで、延珠も特訓に参加することを余儀なくされた。
己の強さに決して小さくない自信を持っていたが故に、どこか遊び感覚で余裕そうな延珠だったが、特訓の内容を聞くと途端に顔色を変えた。
その内容とは、特訓の間はいかなる状況であろうとも能力を使用してはならないというもの。蓮太郎は『機械化兵士』としての能力を、延珠は『呪われた子供たち』としての能力を、だ。
そして、その状態でカネキと手合わせするというものだった。
この特訓の意図には、蓮太郎と延珠の基礎能力を向上させ、実戦でより高いパフォーマンスを可能にさせるという合理的な目的と、延珠の体内侵食率を必要最低限に抑えるという私情が潜んでいる。
余談だが、カネキのイニシエーターである里津はもちろん、晴れて『あんていく』の社員となった夏世、外周区の『子供たち』にもレベルの差はあれ、同様のトレーニングを行っている。
小休止を終え、訓練を再開した蓮太郎と延珠は、喊声を上げながらカネキに肉薄する。だが、
「甘い。追い込まれた途端に動きが単調になるのは君たちの悪い癖だ」
「ごはっ!?」
「ぶッ!?」
二人の拳打と蹴撃が放たれるよりも速く、カネキの蹴りが延珠の脇腹を、裏拳が蓮太郎の顔面にめり込んだ。腹部を押さえて嘔吐する幼女と、血が噴き出す鼻を両手で覆いながら蹲る少年。何も知らない人間が見れば通報待ったなしの光景だ。
そしてそれを、道場の縁側に座って見学していた天童木更は、青ざめた顔で呟いた。
「あ、相変わらず厳しい訓練ね……」
だがそんな木更の意見を、彼女の左隣に座っていた占部里津が否定する。
「あんなのまだ序の口だよ。本番はアイツが赫子を使い始めてからだから。……言っとくけど、赫子を使った訓練はマジで地獄だよ」
瞳からハイライトが消え、虚ろな表情になった里津に対し、木更は引き攣った笑みを浮かべた。
(あれ……もしかして私、地雷踏んだ?)
意図せずしてトラウマを抉ってしまった事実に気づいた木更は、逃げるように自身の右側に座る千寿夏世に話題を振った。
「そ、そういえば、夏世ちゃんはお昼から特訓だったわよね」
「はい。私の相棒はまだ入院中ですので、里見さんたちと違いマンツーマンでトレーニングを行います。ふふふ、泣いてもいいですか?」
「え、あ、その、えーと……」
実に爽やかな笑みを浮かべながら絶望を口にする夏世を見て、木更は目をあちこち泳がせしどろもどろになりながら、何か気の利いた台詞はないかと思考を巡らす。
「……あ」
だが、ふと気づいてしまった。
腎臓の持病のおか……持病のせいで、この場にいる人間の中で唯一カネキとの特訓を回避した自分が何を言ったところで、この子には響かないのでは?
少なくとも、自分が彼女の立場ならカケラも響くとは思えない。
「…………………ごめんなさい」
悔しそうに、己の無力さを嘆くように呟かれたその謝罪は、自身の不用意な発言に対するものなのか、一人だけ特訓を免れた事によって生じた罪悪感の発露なのか、はたまた両方か。真実は木更本人にしか分からない。
重苦しい空気が漂う縁側で、三人は遠い目をしながら揃って溜息を零した。
◆◇◆◇
蓮太郎くんと延珠ちゃん、そして夏世ちゃんとの訓練を終えた僕は、正午から夕方にかけての訓練で疲労困憊だった夏世ちゃんを背負い、なぜか急に不機嫌になった里津ちゃんに困惑しながら帰宅した。気のせいか、背中が少しだけ熱かった。
さりげなく夏世ちゃんをお持ち帰りしてる理由だけど、彼女は将監さんが入院している間だけ我が家に居候することになったのだ。もちろん
夕食の準備を済ませ、軽くシャワーを浴び、普段の戦闘用のコートではなくビジネスコートに身を包んで家を出た。当然、コートの色は黒だ。男の子ってヤツは、いくつになってもこういうものに憧れる生き物だから、仕方ないよね。
出かける直前に「仕事?」と、玄関で尋ねてきた里津ちゃんの問いをやんわりと否定し、依頼人と顔合わせをしてくるだけだと伝えた。
数秒ほど、僕の顔を凝視し続けた彼女はやがて「……本当みたいだね。よし、行っていいよ!」と、モデル・シャーク特有の鋭い歯を見せるように、ニカッと笑って送り出してくれた。……今の僕が、里津ちゃんの中で一体どういう評価なのか窺えるやり取りだった。
そして現在。
ガタンゴトン、という一定のリズムを刻みながら聖居へと走る列車の窓から、僕は眼鏡越しに夕焼けで赤く染まった街を眺めていた。
『聖居』という二文字で大体察してくれたと思うけど、件の依頼人とは聖天子様のことだ。いや、正確には彼女は依頼人ではない。ないのだが、今回僕が受けた依頼を聖天子様が承認しなければ白紙に戻るので、依頼人という表現はあながち間違いではないと思う。
「どうしてこうなった……」
事の発端は一週間前まで遡る。
その日の訓練中にふと、延珠ちゃんが影胤さんの嫌がらせで小学校を退学させられたのを思い出した。
そこで僕がさりげなく、蓮太郎くんに延珠ちゃんを第39区の青空教室に転入させてみては? と提案したところ、とりあえずは見学だけという事で『天童民間警備会社』と将監さんを除いた『あんていく』のメンバー全員で外周区に向かうことになった。
子供たちの底なしの活発さに終始翻弄される蓮太郎くんと木更ちゃんを見ながら、「アルデバラン襲撃までやる事もないし、いっそ長期休暇でもとって蓮太郎くんたちの訓練と青空教室の授業以外は家でごろごろしてようかな〜」なんて考えていた矢先のことだった。あの男から連絡が来たのは。
震える携帯の着信画面を確認して、心臓が止まるかと思った。なんと、連絡をしてきたのは菊之丞さんだったのだ。
たまたま木更ちゃんが傍にいなかったから良かったものの、もしもあの時、彼女が近くに居たらどうなっていたことやら。
話を戻そう。人には月に一回は近況(主に僕や蓮太郎くんたちの)を報告するように言うくせに、自分からは滅多に連絡を寄こさない菊之丞さんが電話をしてきたのには理由があった。
『ケン、お前に聖天子様の護衛を依頼したい』
聖天子様の護衛。
その言葉から僕が脳裏に思い浮かべたのは、『蛭子影胤テロ事件』に続く二つ目のイベント───『聖天子狙撃事件』である。
『聖天子狙撃事件』とは、ざっくり説明すると聖天子様が暗殺者であるティナ・スプラウトに命を狙われ、それを蓮太郎くんが阻止するという話だ。
……告白すれば、僕はこのイベントに極力関わりたくなかった。
忘れているかもしれないが、僕の目的はあくまで"原作死亡キャラの救済"だ。そこで、少し考えてみてほしい。
答えは否である。この世界にしては珍しく、死亡者が出ないシナリオが『聖天子狙撃事件』だ。ならば、僕が物語に介入する必要性はどこにもない。更に言えば、蓮太郎くんは昨日原作通りに聖居で聖天子様から依頼の説明を受け、ついでに聖天子付護衛官たちと一悶着あったらしい。ますます僕が介入する余地がなくなった。
そんなに嫌なら断ればいいのにと思うかもしれないが、悲しいことに僕は「
しかし、僕だって無抵抗で菊之丞さんの頼みを受け入れたわけではない。彼が僕に依頼するのを考え直すように、聖天子付護衛官の存在意義について言及したり、「そもそも僕に頼むくらいなら自分の部下である"彼"に頼んだ方が上手くいくのでは?」とあの人を引き合いに出したり、10年前に天童家で起きた野良ガストレア事件を掘り起こして「いつになったら木更ちゃんたちに真実を話すつもりですか?」などと話題を逸らそうとしたのだ。
まあ、それらが悉く失敗に終わったから、僕はこうして電車の窓から夕日を眺めているんだけど。
聖天子付護衛官については「実戦経験が皆無な点を除けば本当に優秀な人材なんだがな……」と愚痴を聞かされ、あの人に関しては自分の指示で世界中を飛び回っているから無理だと却下された。
そして10年前の事件に至っては……相変わらずだった。あの日の真実を、木更ちゃんたちに伝えるつもりはないと、その一点張りだった。
「不器用な人だな……本当に」
茜色の日差しに目を細めていると、ちょうど列車が聖居前に到着した。やりきれない気持ちを吐き出すように、溜息をつきながら列車を降りる。
10年前、木更ちゃんのご両親は『天童の"闇"』を告発しようとしていた。彼らが一体どういった経緯でそんな結論に至ったのかは不明だが、『天童』を破滅させるその行為を同じ『天童』の人間が許すはずもなかった。
彼女のご両親の計画を知った天童和光、天童
この世界において『天童』は、政財界に多数の重鎮を輩出している名家であり、当主である菊之丞さんは東京エリアの政治経済を真に支配していると言っても過言ではない。
この意味が分かるだろうか。『天童』が終わるということはつまり、東京エリアの経済が、ひいては東京エリアそのものの崩壊と同義なのである。
木更ちゃんには悪いが、彼女のご両親が為そうとしていたことは
もちろん、その事実に気づいていたのは菊之丞さんだけで、残りの4人は自分たちの不正が暴かられるという部分にしか目を向けていなかったみたいだけど。
説得は不可能と判断した『天童』の
自分が彼らを説得する。私が許可するまで決して二人に手を出すな、と。
天童家の人間にとって、天童菊之丞の意志は絶対である。だがほどなくして、何の前触れもなく計画は実行に移された。
菊之丞さんは激怒して4人に詰め寄ったそうだ。なぜ、天童家の現当主である自分の意向を無視したのか。そして、どうしてよりにもよって、まだほんの子供である蓮太郎くんと木更ちゃんを巻き込んだのか、と。
彼らはぽかんとした表情になって互いを見合うと、同時に口を開いたそうだ。
菊之丞さんによれば嘘をついている様子はなかったらしい。いくつか考えられた可能性の中で最も現実的なものは、菊之丞さんになりすました何者かが、木更ちゃんのご両親の抹殺を命じたというものだ。だが、そうなると動機が皆目見当もつかない。内部の人間には天童に逆らう者など存在しないし、外部の人間もまた然り。もっとも、前者は忠誠心によるもので、後者は報復を恐れてのものと意味合いが異なるのだが。
結局、菊之丞さんを騙った何者かの正体はおろか足取り一つすら掴めず、木更ちゃんは菊之丞さんをご両親の仇と思い込み、現在の険悪な関係に至っている。
この事実を知っているのは、菊之丞さんを除けば彼の話を信じた僕だけだ。ちなみに僕が菊之丞さんの話を信じたのは、彼が僕を騙すことで得られるメリットがなかった事と、蓮太郎くんの存在があったからだ。
両親と死別した後に天童家に引き取られた蓮太郎くんは当時、仏師である菊之丞さんの唯一の弟子だった。菊之丞さんは身内である『天童』の人間よりも、血の繋がらない他人であるはずの蓮太郎くんを後継者として選んだのだ。
そんな彼が、本当に蓮太郎くんを殺すような指示をするだろうか?
「おい君、そこで止まりなさい。ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
若い守衛に声をかけられて、初めて自分が聖居の門前まで来ていたことに気づいた。どうやら相当思考に没頭していたらしい。
「民間警備会社『あんていく』の金木研です。天童閣下からの依頼を受けて参りました」
ニコッ、と微笑みながら民警ライセンスと菊之丞さんの名前を出すと、守衛は訝しみながら通信で確認を行う。直後、守衛はぎょっとした表情で謝罪し、慌てた様子で開門してくれた。
それに苦笑いしながら、僕は案内役の守衛に続いて門をくぐった。
願わくば、聖天子様が依頼を断ってくれますようにと、淡い期待を抱きながら。