お父さんが連れていかれたあの日から、少年の世界は一変しました。
今まで親切で優しかった町の人々は少年たちに罵声を浴びせ、通りを歩けば当然のように暴力を振るわれるようになりました。
中には暴力を振るうことに抵抗を抱く人もいたけれど、そういう人たちは少年を避けるか、自分が標的にされないように申し訳なさそうな顔をしながら殴るかの二種類しかいませんでした。
家から学校に向かえば包帯で覆われ、帰る頃には全身に巻いた包帯から血が滲み出る。そんな毎日でした。
そんな苦しみと痛みばかりの日々でしたが、少年は辛くはありませんでした。お父さんは遠くへ行っちゃったけど、お母さんは自分を絶対に置いていったりしない。
そう、信じていたからです。
ある日、いつものようにボロボロになった体を引きずるように家に帰った少年は、違和感を覚えました。
泥棒を警戒して、家にいる時もいない時も鍵が掛けてあるはずの扉が開いていたのです。
少年は、直感します。
なにか、良くないことが起きたんだ。
僅かな音すら聞き逃すまいと、少年は神経を研ぎ澄ませます。息を殺し、ドクンドクンとうるさい胸を押さえつけながらリビングへ向かいます。そして───
それを見た少年は、その場に座り込みました。
乱暴に服を破かれ、肌を大きく露出させたお母さんは、頭から赤いペンキでも被ったみたいに真っ赤に濡れていて。それで。
お母さんは、
長い長い静寂を経て、ようやく現実を受け入れた少年は、笑いました。
感情が決壊した少年は、それはもう大声で笑いました。
笑って笑って、喉が裂けて口の中で血の味がするほど笑って。
───少年は、笑いながら自分の喉を掻き切りました。
◆◇◆◇
「くはははははっ!!」
地下室に先生の哄笑が響き渡る。
彼女には事前に、将監さんを連れて霊安室に行く旨をメールで伝えてはいたものの、理由までは話していなかったので今しがたそれを説明したんだけど、その結果が……
「いーひひっ、ふふは、あはははは!!」
これである。
机をバンバンと手で叩き、笑いすぎて目から涙まで流している。
「あの、何がそんなに面白いんですか?」
笑いすぎで酸欠になりかけている先生に、表面上はあくまで冷静に、けれど内心ではドン引きしながらそう尋ねれば、彼女はビーカーに入っていた残りのコーヒーを一気に飲み干し、机の上に置いた。
「これが笑わずにいられるか。襲撃者が何者かは知らんが、仕事にしろ私事にしろ、君を敵に回すとは運がないにも程がある。まあ、相手が君の正体を知らなければの話だがね。逆に知っていて襲ったのならただの命知らずな阿呆だとも言えるが。君はどう思う?」
「どう、って……僕には顔も合わせていない相手の幸運値を見抜く能力もなければ、襲撃者が第三者からの依頼を受けて僕を狙ったのか、それとも私怨による復讐なのかすらも判断できませんよ。……せめて風貌さえ分かれば
「彼、というのは
いつの間にか下がっていた視線を持ち上げれば、先生がどこか警戒の色を宿した瞳でこちらを見据えていた。
「あまり奴を信用するなよ」
「え、どうしてですか?」
僕の素の疑問に彼女は呆れたような視線を向けてきた。
あれ? 何か可笑しなことを言ったかな。
「君の話によれば、奴が最初にコンタクトを取ってきたのはガストレア戦争が終結してから一年後……ちょうど君が"隻眼の王"と呼ばれ始めた時期だった。そうだな?」
「はい」
「そして、どういうわけか奴は
「……なら、一体何が問題なんですか?」
機密情報が外部に漏れているのは十分問題なのではと思ったけれど、話の腰を折るのも申し訳ないので敢えてそこには触れない。
「問題は大きく分けて二つある。まず一つ目だが、顔無しの素性に関する情報の一切が不明な点だ。君自身、奴と直接会った事はないんだろ? これはあくまで持論だが、自身の正体を隠しながら他人と接触を図ろうとする輩は総じて厄介事を抱えているものだ」
確かに先生の言う通り、僕は顔無しさんと直接会ったことがない。一応声と口調が男性のモノだったから便宜上"彼"と呼んでいるものの、もしかしたら女性が機械で声を変えているだけかもしれない。
先生が顔無しさんのことを徹底して"奴"と呼ぶのは下手な先入観を持って視野を狭めないようにする為だろう。もっとも、顔無しさんの正体に欠片も興味がない僕は深く考えもせず"奴"のことを"彼"と呼んでいるけど。
そんな彼と、僕がどうやって交流を持ったのかといえば、当時僕が活動の拠点にしていた建物に差出人不明の封筒が届いたのだ。
中に入っていたのは『電話をかける機能』以外のすべてを排除した携帯端末で、それも逆探知不可能という特別製だった。
彼のおかげで、呪われた子供たちの保護がかなり捗ったっけ。なにせ電話一本で行方不明になった子供たちの居場所から彼女たちを専門に扱う『商人』、果てはその『消費者』である方々の個人情報まで分かるんだから。
もしも彼の協力が無かったら、連中を
「そして二つ目は、奴の行動原理が全く見えないことだ。奴が一体なにを目的として君に協力しているのか。それがはっきりしない以上、顔無しを不用意に信じるのは危険だ。何をきっかけに裏切るか分からないからな」
先生の懸念はもっともだ。顔無しさんの協力内容が『小さな親切』ぐらいの規模だったなら問題なかったかもしれないが、彼が齎してくれる情報は国家機密からホームレスの前歴まで幅広く、当時の僕が求めていた情報の多くは正規の方法では入手出来ないモノばかりだった。
そして、そんな情報を彼は無償で、何の見返りも求めずに提供してくれた。
少なくとも、
しかしだからと言って、先生に彼の目的を伝えるのは憚られた。
僕という人間がどんな結末を迎えるのかを見届けたい、なんて。
そんなことを言えば、間違いなく先生はその日本一と評された頭脳をフル稼働させ、僕と彼の関係を断とうとするだろう。
目的が不明瞭、つまり協力の動機が善意である可能性と悪意である可能性が半々の状態である今だからこそ『警戒』だけで済んでるけど、ストーキングという事実上の監視宣言があったなどと知られればどうなるか。
「む、コーヒーが切れてしまったか」
空になったビーカーとコーヒーサーバーを見やると、先生は僕らから少し離れた、入口とは正反対の位置にある机に顔を向けた。
つられて僕も顔を向ければ、そこには楽しそうに笑う女性と、その女性の話を欠伸をしながら聞いている将監さんの姿があった。
「おーい、楓くーん。コーヒーが切れたぞー」
「あ、はーい! 今行きまーす!」
彼女は将監さんと二言三言を交わすと、その透明な器を真っ黒に染めたコーヒーサーバーを手にやって来た。
「……反射的に持ってきちゃいましたけど、コレってどう考えても私の仕事じゃないですよね?」
「何事も経験だよ楓くん。君が将来、上の立場の人間になった時に、使われる側の人間の気持ちが分からないような人でなしになってほしくないんだ。その為に私は敢えて心を鬼にして、嫌々ながら、全くもって不本意ではあるが、君にこうして雑用を押し付けているんだ」
「良心が痛むと言うのならせめてそれらしい顔を作ってから言ってください! いくら私でも、そんな嘲りを多分に含んだ表情じゃ何を言われたって騙されませんからね!」
濡羽色のサイドテールを揺らしながらぷんすかと怒る女性は、口では文句を言いながら律儀にビーカーにコーヒーを注ぐ。きっと根が真面目なのだろう。
女性の名前は
ちなみに自己紹介はすでに終えてある。そして、その自己紹介でとんでもない真実が明らかになった。
なんと、学生時代に将監さんが上級生から助けたあの時の少女こそ、目の前にいる志摩吹さんだったのである。
高校で起きた事件以来連絡する手段も機会もなかった二人は、志摩吹さんが偶然この病院に転勤し、将監さんが偶然この病院に入院したことで運命的な再会を果たしたのだ。
これには流石の僕も顔がニヤけてしまった。なにせ、そんな恋愛小説やらエロゲーみたいなシチュエーションになった相手は紛う事なき美女。しかも年齢は将監さんと同じの筈なのに、どう見ても高校生ぐらいにしか見えないときた。
さらに彼女と話してるときの将監さんの表情からして満更でもないご様子。もしも将監さんが彼女とお付き合いするような展開になれば、それはそれは微笑ましい光景が見られること間違いなしだ。
同い年の女性と付き合ってるのに、周囲からあらぬ疑いをかけられあたふたする将監さん。見たくない? 僕は見たい。
「お話は終わったんですか?」
「ああ、一応な。すまないね、君を除け者にするような真似をしてしまって」
「いえ、伊熊く……伊熊さんから理由は聞いていますから。話せないのは一般人の私を巻き込まないため、ですもんね。……昔の私だったら、きっと後先なんて考えずに踏み込んでたんだろうなぁ」
苦笑いを浮かべ、遠い過去に思いを馳せる志摩吹さん。そこに込められた感情は、昔の自分に戻りたいという懐旧の念ではなく、昔の自分を恥じる慚愧。
「困ってる誰かを助けたいって理想ばかりが先行して、周りのことがなんにも見えてなくて。それで、助けてあげたかった人に助けられて、迷惑かけて……なのに、その人に"ありがとう"すら言えなくて」
今もまだ言えてないんですけどね、と彼女は力なく笑う。
「でも、それは"今"だけです。いつかちゃんと、あの時のお礼を言ってみせます」
けれど、それはすぐに消え、再び彼女が浮かべたのは、決して揺らぐことのない想いが宿った力強い笑みだった。
「あ、言い忘れてましたけど、手が借りたい時や人手が必要なときは遠慮なく言ってくださいね。事情は理解しましたけど納得はしてないので」
思わず先生と顔を見合わせて、互いに苦笑いする。どうやら人という生き物は、多少経験を積んでも根っこはそう簡単に変われないらしい。
「それに関しては安心してくれていい。今回みたいなケースは稀だからね。そう頻繁に君が除け者になることはないさ」
「ならいいんです。やっぱり仲間はずれにされるのは寂しいですし。ってあれ、どうして空のビーカーがもう一つ菫先生の所にあるんですか?」
志摩吹さんの言葉に、三人の視線は先生の手元にある空のビーカーに集中する。その隣には、先程志摩吹さんにコーヒーを注がれたビーカーが鎮座している。
「これは……」
「いやぁ、ほら。今日はやけに喉が渇いてしまってね。彼の分もうっかり飲んでしまったんだよ」
「もうっ、うっかりで人様に出したコーヒーを飲まないでくださいよ菫先生。ほら、カネキくんもどうぞ。これでも私、コーヒーにはそこそこ自信あるんだから!」
「えと……すみません、僕は───」
「そうだな。君の分を勝手に飲んでおいてなんだが、彼女のコーヒーはそこらに売ってるインスタントにも引けをとらない。是非飲んでみたまえ」
「菫先生? それって褒めてます? それとも貶してます?」
先生の意図が読めず呆然としていると、いつの間にか志摩吹さんがワクワクとした様子で僕がコーヒーに口をつけるのを待っている。……そうか。これが狙いか。
「それじゃあ、いただきます」
淹れたてのコーヒーなので、舌を火傷しないように慎重に黒い液体を口に含み、風味を楽しむように二、三秒その状態をキープ。そしてゴクン、と喉を鳴らして嚥下する。
ほっ、と一息ついて、瞼を閉じる。まるで、口の中に今も残っているコーヒーの香りを味わうように。
「ど、どうですか?」
恐る恐ると言った様子で尋ねてくる彼女に、僕はニコッとした笑みを作り、無意識に顎に手を触れて答えた。
「すごく美味しかったです」
「やったー! 初めて褒められたー! 菫先生は本当のこと言ってるのか嘘ついてるのか分かんないから信用できないし、伊熊くんはコーヒー苦手だからそもそもコーヒーの良さが分からないしで、『もしかして私、自分で思ってるよりコーヒーを作るの、下手?』って落ち込みかけたけど、ありがとう!! 君のおかげで私は自分の腕に自信が持てたよ! ありがとう! そしてありがとう!!」
「あ、あははは……どういたしまして」
テンションが上がりすぎてなにやらキラキラとした謎物質を振りまき始めた志摩吹さんから僅かに距離を取る。決して彼女の急に上昇したテンションにドン引きしたワケじゃない。これは、あれだ。彼女の発する得体の知れない熱気に気圧されただけだ。断じて引いているわけではない。
「……楓くん、そろそろ将監くんの所に行かなくていいのかい? 今にも寝落ちしそうだよ、彼」
「え? あー伊熊くん! 寝るならソファかベッドで寝ようか! 霊安室は設定温度が低いから毛布着ないと風邪引いちゃうから!」
来たときと同様に、右のサイドテールを揺らしながら僕らの机から離れていく志摩吹さん。
「……悪りぃ、俺もう限界だわ。おやすみぃ」
「わっとと……もう、しょうがないんだから。菫先生、カネキくん、すぐに戻って来ますから」
「いや、今日はもう休んでいい。遅くまですまなかったね」
「……いいえ、これぐらい。ではお言葉に甘えますね。二人とも、お休みなさい」
「おやすみなさい。将監さん、志摩吹さん」
眠そうに目を擦る将監さんの腰に手を回し、彼の左手を自分の肩に乗せるようにして体重を支え、二人は部屋を後にした。
「で? 実際の所どうだったんだい?」
彼らが部屋を出てからしばらくして、先生は唐突に話を切り出した。
「どう、とは?」
「おいおい、いま此処には私と君しかいないんだ。お茶を濁らせる必要はない。
「……いいえ全く。いつも通り、なんの味もしませんでしたよ。気分的にはお湯を飲んでるのと大して変わりません」
すると先生は仕事用のデスクの上に置いてあったボードを取り、そこに何かを書き連ねていく。
先生がわざわざ志摩吹さんを利用して僕にコーヒーを飲ませた理由はただ一つ。あんなやり方でもしなければ、僕が絶対にコーヒーを飲まないからだ。いや、飲まないのはコーヒーだけじゃない。と言うか、基本的に僕は水しか飲まない。最初から味覚がなかったならこうはならなかったかもしれない。しかし、残念ながら昔の僕にはちゃんと味覚があったのだ。
だからこそ、本来なら『こういう味がする』はずのに『その味がしない』というイメージのズレが、どうしようもなく不快だった。僕が水しか飲みたくないのは、どうせ味がしないのなら元から味のしない飲み物の方が違和感が少なくて済むからだ。
「───先生」
「うん?」
「僕の
「……ああ。ガストレアウイルスに感染している以上、君は決して病に伏せることはないし、蛭子影胤との戦闘でただでさえ短い寿命が更に縮んだが、コレに関して言えば老化とは無関係だ」
「だったら、一体なにが原因なんですか?」
「原因不明、としか
「…………っ」
どうやらこの件について、僕に詳細を話す気はないらしい。前に同じことを訊いたときも彼女は「精神的な要因」なんて、医学に詳しくない僕でも分かるような適当な嘘をついて誤魔化した。
だったら、別にいいさ。自分の身体に何が起こっているのか、知りたくないと言えば嘘になるけど、どうしても知りたいかと問われれば僕は首を横に振る。所詮は僕の体だ。目的を達成するまで動くならなんだっていい。
苛立ちを紛らわせるように深く息を吐き出す。
戦闘に味覚は必要ないし、料理をするのだって最初のうちはレシピ通りに作って、徐々に調味料を調整して個々人とっての好みの味に近づければいい。味覚なんかなくても、料理は美味しく作れるのだ。
「……まあその話はもういいです。ところで、どうして志摩吹さんがここに居たんですか?」
ときどき忘れそうになるけど、先生は人間嫌いだ。実際、彼女とまともに交流を続けているものは総じて
呪われた子供たちは言うまでもなく、肉体の一部を機械で代替している機械化兵士、そして喰種。例外と言えば木更ちゃんや■■くんと言った蓮太郎くんの身内くらいのもので……今僕は木更ちゃんの他に誰を思い浮かべた? まあいいか。とにかく、彼ら以外に先生と現在進行形で関係を持つ純粋な人間は存在しない。
だから、これはただの好奇心。人間が嫌いで自分が嫌いな死体愛好家が、無駄なことを是としない先生がどうして志摩吹さんを此処に招き入れたのか。何となく気になったのだ。
「どうして、か」
ボードを元の場所に戻すと、先生は近くの机に腰を下ろし、脚を組んで天井を見上げた。
「君は彼女を見て何も感じなかったかい?」
天井を見上げる態勢はそのままに、視線だけをこちらに向ける先生。所謂シャフ度と言うヤツである。
「特には……」
「だろうな」
まるで最初から僕の答えに期待などしていなかったかのようなバッサリとした反応に、柄にもなくむっとしてしまう。
「……だったら説明してくださいよ。僕にも分かりやすく。先生が彼女に感じた何かってやつを」
語気が思っていたよりも強くなってしまったことに内心で驚きながら、僕は先生を正面から睨み返す。
それ対し先生は不敵に笑い、告げた。
「私は彼女に宿る類稀な才能に気がついたのだよ」
何を思ったのか突然机の上に登り、天井に設置されているチカチカと明滅を繰り返す蛍光灯をバックに、彼女は両手を広げた。
「彼女には───蓮太郎くん以上の弄られやすい才能が秘められていたんだッ!!」
「………………」
「君もさっきその目で見ていたはずだ。彼女の勢いあるあのリアクションを。あの全力のツッコミを」
「……………はぁ?」
「いやー彼女のような逸材を知ってしまったらもう蓮太郎くんでは満足できなくなってしまってねぇ。あ、楓くんとの出会いだが、先輩看護師たちの代わりにここの書類の山を整理しに来てたから、いつもみたいに招かねざる客を追い払うために私が所有する全知識を総動員して、そのメンタルを蓮太郎くんが毎度寄越すガストレアのようにズッタズタにして、夏場に一月以上放置された遺体並みにドロドロに腐敗させてやろうと思っていたんだが、これが思いの外面白い反応をするものだから楽しくなってしまってね。今ではすっかり
それは恐らく、いや間違いなく先生の度重なる言葉の暴力によって心を折られたからだと思うんだけど……なんてことだ。やけに先生の言動に慣れてる節があると思ったら、慣れざるを得ない過酷な体験があったなんて……!
今度、彼女には何か差し入れを持ってこよう。主に心のケアに役立つような、そんな差し入れを。
「そ、それじゃあ僕は近くの拠点で仮眠をとってきますね。明日……じゃなくて今日は早いので」
勾田大学病院から最も近くに位置する拠点を脳内のマップに思い描き、そこから移動時間と仕事の準備にかかる時間を計算する。そして、それらの所要時間と現在の時刻を照らし合わせたところ。
「睡眠可能時間は四時間くらいか」
まあ二年前に比べればマシかな。
志摩吹さんが入れてくれたコーヒーを一気に飲み干し、足早に地下室から立ち去ろうとする。
「───そうだ、忘れるところだった」
その声に振り返ってみれば、指でコインを弾いたような音と共にナニカが飛来してきた。
それを冷静に、右手を水平に振るうようにしてキャッチする。
「……何ですか、コレ」
手のひらに収まる銀色の指輪を見て呟く。
「10年前、君が政府に保護された際に身につけていたものだ。……どうだ、何か思い出したか?」
「……いいえ、何も」
「ッ……そうか」
先生の僅かに息を呑む音を聞きながら、自分と彼女の認識の齟齬を再確認する。
目の前にいる日本最高の名医の診断によれば、僕は両親の死を目の当たりにしたショックに精神が耐えられず、その日以前の記憶を封印し、過去を忘れている状態らしい。
けれど、それは酷い勘違いだ。
思い出せないのではなく、知らない。忘れているのではなく、経験していない。
憑依したばかりのときは驚愕、恐怖、絶望の負の連鎖感情に物の見事にハマってしまい、錯乱。その際に僕が意味不明な発言をした事も相まって勘違いを加速させてしまったんだろう。騙してしまったみたいで申し訳ないとは思うけれど、真実を告げれば心の病院に送られるか、最悪モルモットとして解剖台に乗せられる。個人的には後者の可能性が大だ。
そんな事を考えながら手元の指輪を転がしていると、ふと指輪の内側に文字が刻まれているのに気づいた。
「………KISARA、RENTARO、KEN、SHOMA………?」
「先日、蓮太郎くんが顔を出したときに彼がソレと同じ指輪を首から提げているのを見て思い出したんだ」
木更、蓮太郎、研、そしてSHOMA……というのはまず間違いなく薙沢彰磨を示しているんだろうけど、そうなると憑依する前の僕は彼と何かしらの関係を持っていたと考えるのが道理か。
このまま原作通りに行けば確実に彼とエンカウトしてしまうワケだが……上手く誤魔化せるかな。いざという時は蓮太郎くんと木更ちゃんに任せよう。こう、10年ぶりの再会に距離感を測りかねてます、みたいな雰囲気を出しておけば大丈夫だろう。だぶん。めいびー。
って、それは今は考えてもしょうがないか。
「先生、指輪を返してくれてありがとうございます。それじゃ、おやすみなさい」
僕は指輪をポケットに仕舞うと、今度こそ地下室を後にした。
◆◇◆◇
「彼は行った。もう出てきても問題ないよ───楓くん」
慌ただしく部屋を飛び出したカネキを見送ると、菫は振り向くことなく声をかける。
すると、霊安室の隣の部屋。普段菫が寝泊まりに使っている部屋から気まずそうな顔で楓が出てきた。
「すみません……盗み聞きすつもりはなかったんですけど」
「構わないさ。君にはこれから看護師という激務をこなしながら、私の為に死ぬ気で働いてもらうつもりだからね。好奇心からくる恥ずべき行為を、私は決して責めたりしないよ」
「うっ……本当にすみませんでした。以後気をつけます……。ていうか、菫先生。今の台詞は『私』の為じゃなくて『カネキくん』の為の間違いじゃないんですか?」
「いいや、これは『私』の為だ。数少ない友人を見殺しにしたくない、もう二度と大切な人たちを失いたくない私の、どこまでも自分勝手なワガママだよ。そのために私は、彼の意志を踏みにじるのだから」
志摩吹 楓(シマブキ カエデ)
・30歳(外見年齢は17歳)
・Blood type:A
・Size:160cm/45kg
・Like:笑顔、優しさ、不器用な人
・Hobby:菫の世話
・Hate:下心がまる見えの男性or下心しかない男性